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2016シーズンは、名古屋、湘南、福岡の3チームが降格することに決まった。過去、Jリーグのクラブで降格を経験したクラブは数多ある。クラブの降格を番記者たちはどのような想いで見ていたのか。豪華ライター陣による短期オムニバス連載で、J2に降格した時に大事なことを彼らの視点で語ってもらう。

2009年11月28日、NACK5スタジアム。J1第33節の大宮戦に引き分けた柏は、二度目のJ2降格が決まった。

「自分にできることは何なのかを考えて……レイソルを守りたい」

試合後、北嶋秀朗は涙をこらえながら、振り絞るようにして報道陣の取材に対しそう答えた。

降格のショックで茫然自失としていたのか、実は北嶋自身、この言葉を覚えていないという。裏を返せば、彼が無意識のうちに「レイソルを守りたい」という本心を口にしたことを意味する。

柏はその4年前の05年に最初の降格を味わっているが、その時と09年のそれとは大きく意味合いが異なる。05年当時はチーム内の雰囲気も、サポーターとの関係性も決して良好とはいえず、そんな状況に嫌気をさした多くの選手は、シーズン終了後に移籍を決断した。ただ、その降格を機にサポーターとの関係は修復され、現在の圧倒的な雰囲気を持つ日立台へと生まれ変わり、チームも若手中心ながら苦しみつつ1年でのJ1復帰を果たしたのである。

05年にチームの崩壊を目の当たりにした大谷秀和と、06年に清水から柏へ復帰し、降格時のチーム状況を大谷や近藤直也から聞いていた北嶋は、かつての経験を踏まえ「チームがバラバラになることだけは絶対にあってはならない」と09年は苦しい状況下にあるチームを支え続け、その甲斐もあってシーズン終了後にチームを離れたのは契約満了選手のみだった。自分の意思で移籍を選択する者は誰一人としていなかった。

北嶋が降格決定後に選手一人ひとりと対話を持ったのは確かだが、彼は「チームに残れ」と選手に強要したわけではない。むしろ移籍を志願する者がいれば、その意思を尊重するつもりだった。その中で北嶋が伝えたことはただ一つだけ。

「チャンスは1年しかない。1年で絶対にJ1に上がらなければいけない。2010年はレイソルにとってものすごく重要な年になる」

結果的に移籍する選手がいなかったとはいえ、当時、数人の選手には他クラブからのオファーが届いており、「残留か移籍か」で揺れ動いていた選手が全くいなかったとは思えない。そんな狭間で揺れていた選手にとって、北嶋の言葉の重みと「チームを守りたい」という熱き感情は、彼らに残留の意思を固めさせるだけの力を持っていた。

そしてもう一つ重要だったのが、クラブが“変化”ではなく“継続”を選択した英断にある。

09年7月、成績不振で解任された高橋真一郎に替わってネルシーニョが監督に就任する。しかし百戦錬磨の名将といえども、シーズン途中の就任では降格圏に沈むチームを立て直せなかった。

もしクラブがここでネルシーニョに見切りをつけ、新監督の招聘に走っていたなら、現在の柏の姿はなかっただろう。残留争いの真っ只中にあるシーズン中にクラブは覚悟を決め、残留と降格のどちらに転んでもネルシーニョに再建を託し、監督続投を選んだ。

ネルシーニョイズムが姿を現したのは09年のラスト4試合。残留という観点では“時すでに遅し”の感はあった。しかし柏は翌10年のJ2で独走し、さらに11年はJリーグ史上初となる昇格チームの優勝という快挙を達成する。大谷が「09年のラスト4試合で自分たちの戦い方を見つけて、そのイメージを持ったままで翌年以降も継続できたことが大きかった」と述べるように、短期的視野では成果が出なかったと感じたことも、長期的視野に変換すると絶大な結果を導き出した。

降格を機に生まれ変わるクラブもある一方で、全てのクラブが降格を成功の糧にできるわけではない。ただ、降格したときこそ、クラブの方向性と、それを選手・スタッフを含め全体が共有できるかが問われる。降格してもチームをまとめ上げ、“崩壊”させなかった北嶋や大谷の存在、そしてネルシーニョ続投に踏み切ったクラブの決断は、まさにそのベクトルを生んだのだ。

文=鈴木潤(フリーライター)

■オムニバス連載【J2降格時に大事なこと】掲載スケジュール

11月14日(月)広島編「 降格の責任を背負う経営者の決断
11月15日(火)東京V編「 クラブに巣食う病理の正体
11月16日(水)千葉編「無免許医が出す処方箋にご用心
11月17日(木)柏編「北嶋秀朗『チャンスは一年しかない』
11月18日(金)浦和編「“世界一悲しいゴール”のその後」
11月19日(土)G大阪編「腐った土壌に種を撒いても無駄骨」

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