「被災松燃やしてあげたかった」護摩木、大文字の火床へ(産経)
我が日本国においては、何かの責任を問われる事態が発生したときに、その批判の矢面に立たされる哀れな対象は概ねマスコミによって誘導されてしまう。そしてその多くが善良で弱い市民か、叩きやすい地方自治体の職員である。
陸前高田の松を大文字送り火の火床にという話はまさにこの典型だ。大文字保存会、京都市ひいては京都市民が批判の矢面に立たされている。
読売の取材力のなさは周知の事実とはいえ、これは激しい誤報である。「薪(まき)を燃やすことを計画した」のは大分の人形作家藤原了児ではなかったか?
さらに松を用意したのは後藤有一とかいう福井の元議員が率いる福井県のNPOだ。大文字保存会は、この藤原とかいうトンデモ芸術家の本当に単純な思いつきを6月に受けている。実は6月には大文字の準備は概ね完了していたらしいが、事情が事情だけに断れなかったようだ。ところがこの事態である。善意がアダになった。
本来、保存会には同情が集まっても良いのだが、逆に批判の矢面に立たされる。これは京都市長のおよそ政令市の市長とは思えないような田舎のオッサン臭い不味い立ち回りのおかげもあって、マスコミの格好の餌食になった。それがまた市民にも浸透し、この保存会への批判が増幅している……と言ってもそれも報道の中での話だが。
一方で藤原と後藤はキレイに名前が伏せられて、今や報道もほとんどない。見事な”撤退”である。責任を負うべき人間が逃げてその責任を全うすることなく、責任を負う必要のないに善良な人々が責任を負わされる。原発事故における東電幹部や原発推進派と福島県民の姿に重なって見える。不正のはびこる日本の姿を見せつけられて気分が悪い。
藤原のようなトンデモ芸術家は実はそう珍しい存在ではない。地方都市にはいくらか存在する。『芸術家年鑑』に出ているからといって油断していると迂闊である。『年鑑』に出ていなくても優れた芸術家は多数いるし、トンデモ芸術家は『年鑑』に掲載されている者でも少なからずいる。見分けるポイントは以下のとおり。