第11回 高垣 健 氏

5. サザンオールスターズとの出会い

高垣 健6−−高垣さんのこれまでの音楽人生のなかで一番のハイライト、サザンとの出会いですね。

高垣:そのときはね、学生でサザンロックなんて生意気な、やれるわけねーじゃん、って思ってね。なんかオールマンみたいな、クラプトンのようなことやってるとか聞いてね。まさか、って気持ちで見に行ったら、おもしろいボーカリストがいた。売れるとは思わないけど、これはおもしろいなって思ってね。趣味の話で原宿の「養老乃瀧」辺りでガンガン飲んで盛り上がって、まぁ、売れるかどうかほんとにわかんないけど、学生時代の記念にレコードでも出してみませんかっていう非常に軽薄なノリで、最初はお付き合いしたような気がしますね。あんまりビジネスライクな話もできなかったし、そういう欲もなかったけど…

−−それの記念のレコードが「勝手にシンドバッド」?

高垣:そうですね。それで実は面白い話があってね、サザンのメンバーが別のレコード会社の人に呼ばれた、って言うわけですよ。呼ばれてどういう話だったのって聞いたら「なんかね、書類見せられてね、サインしろって言われてね、サインしたんですよ」って(笑)。メンバーがね、6人全員サインしたんですよっていう話で(笑)。それはないだろって(笑)。俺は、たしかに半分遊びで付き合ってるけど、でも、なんか、それはマズイかもよみたいなことになって。俺もあんまり契約は意識なかったけど。「サインした」、これはマズイって思って、それでそのレコード会社の人に面識もなかったんだけど、電話してそこのレコード会社まで行ってですね、喫茶店でその人とお会いして。「初めまして。僕は、ビクターでサザンをデビューさせたいと思っていて、もういろんな計画を練ってるし、事務所も実は予定してあります。具体的なことをまだメンバーには言ってなかったんだけど、できたら手を引いてくれくれませんか」って、頭下げたら「わかりました」って言ってくれたんだよ(笑)。俺もう、すごいいい人だと思ったよ。

−−ダメって言われてたら、だいぶ人生が変わってましたよね。それを撤退させたのは最大のポイントですね。

高垣:その話はね、桑田くんが自分の本でね…「ロックの子」かな?今文庫本か何かになってますけど、その中にこの話が書いてありますよ。

でもね、ホント結果論でね…まぁ、今は押しも押されぬナンバーワンアーティストになってるんですけど、こんなに売れるとは夢にも思わなかったですね。僕はね、ほんとに趣味っていうか、僕らが好きなアメリカンロックをちゃんとリスペクトしてやってくれてるっていう所が、すごく愛すべきアーティストではあると思ってたんですよ。むしろ、やっぱりマニアックなバンドだなって。アマチュアの時にいろんな曲作ってて、それを聴かせてもらったり、デモテープにとったりしてたけど…オールマン、リトルフィート、クラプトン、ビートルズ…それらを尊敬してる人が作ったっていう曲だったんだよね。すごくなんかこう、純粋な曲だった。言葉ののせ方もね、今でも日本語の語呂合わせうまいし、言葉の響きを大事にしてる使い方で、まぁ、これはすごくいいけど、決して一般に売れるものではないだろうなと思ってた。

−−玄人ウケの楽曲だったんですか?

高垣:玄人ウケだよね。僕も最初「勝手にシンドバッド」をビクターの中で、営業にプレゼンに歩いたんですよ。そのときになんて言っていいのかわからなくて、あんまりこう…ロックバンドとかライブハウスとかっていうキーワードは当時すごくマイナーなイメージ、アンダーグラウンドな印象を与えるものだったので、そういうのはよくないと思って。で、どうやって営業に話をしようかなって思って、「これは歌謡ロックです」「歌謡曲の新しいスタイルです」みたいな言い方をして歩いたような記憶がありますね。

−−シングル盤のジャケットは最初はメンバーの写真が映ってなくて、イラストだったんですよね。今思うと、相当ぶっ飛んだとんでもないデザインで。

高垣:ていうか、もめたんですよ、最初はね。実はね…なんで知ってるんですか?

−−僕その頃、松崎しげるさんのお宅に飯食いにおじゃましてたりしてたんです。それで「俺より全然歌がうめえヤツがいるんだよ」って言って、なんか、サンプル盤を持ってきて、めちゃくちゃカッコイイんだって言ってかけてくれたんですよ。「だけどこれがジャケットに顔写真も写ってねえんだよ」って、そんな記憶があるんです。そうだったんですか?

高垣:松崎さんが持ってたんですか。当時ビクターの大スターだったですものね。イラストは最初、小島武さんにお願いしたんです。今はもう大イラストレーターだと思うんだけど、ある人に紹介されてアートディレクションをお願いしたんですよね。小島さんが最初作られてきたジャケットとかポスターとかね、すごい何もないのよ。色のグラデーションみたいなのだけで。でね、カッコイイんだけど、なんだか全然わからないわけですよ。それを会社に持って帰ってきてみんなに話したら、こんなのダメだと、なんだかわからないという話になっちゃって(笑)。で、もう一回小島さんとこに行って、申し訳ないけど顔を何とかフューチャーして欲しいと、顔を出したデザインに変更したいんですけどって言って、2回やっていただいたんですよね。それで写真撮り直したのかな。メンバーも慣れない作業だから、なかなか大変だったですね。うまく作業が進まなくて…。

−−サザンと言えばアミューズのプロダクションとしての成功のスタートでもありますよね。

高垣:そうですね。アミューズの大里洋吉さんはその前はナベプロのマネージャーやっておられて、ナベプロやめてアミューズっていう新しいプロダクションをスタートさせたばっかりだったんですよね。その時にたまたま僕もサザンのレコーディングを先にスタートしてたんですよ。で、ブラスを入れたいと思って、新田(一郎/現(株)代官山プロダクション代表)さんにブラスのアレンジをお願いしたんですよね。その時に付いてこられた新田さんのマネージャーが大里さんだったんです。で、大里さんがサザンを聴いてもう大騒ぎになっちゃって。大里さんが騒ぎ出すと、もう、それは、手が付けられなくなりますから。今でもね。それで、ぜひアミューズでやらせてってことになって。僕らもプロダクションがなかったんで。ほんとにいろんなタイミングが良かった、出会いが良かったってことですね…。

−−ホントですね…すばらしい出会いが重なったんですね。でもそれだけ魅力があったってことですよ。松崎さんもね、サンプル盤の段階で家で「勝手にシンドバッド」の歌練習してましたよ。自分のコンサートで歌うって言ってましたからね。

−−レーベル内ではサザンはどういう位置づけだったんですか。

高垣:当時はね、日本のロックポップスがビジネスになり始めた時期だったから、フライングドッグとは別に、もう少し規模の大きなレーベルを作ろうということで、インビテーションっていうレーベルを作ったんですよ。で、そのインビテーション発足直後の新人アーティストがサザンだったんですよね。まだもちろん青山学院の大学生でしたけどね。

−−インビテーションのリーダーはどなただったんでしょう?

高垣:ヘッドは東元晃さん。テイチクの社長になられて、今は引退された東元さん。で、現場のチーフが岩田さん。今ユニバーサルの会長になられた岩田(廣之)さんですね。このレーベルが僕の制作マンとしてのスタートに近いですね。PANTA、サンハウス、鮎川誠、キク…その辺がすごくルーツになってて。
最近でもサンハウスのボーカルのキクさんなんかは、仕事はお付き合いないんだけど、たまに食事したりお茶飲んだりっていうのは続いてるし、鮎川誠氏はね、シーナ&ロケッツで今でも仕事のお付き合いやってるし。当時の「めんたいロック」っていう言葉があてはまるかどうかわかんないけど、九州・博多のロックンロール、それから関西のブルースっていうのが、やっぱり当時のすごくステイタスで、僕の憧れの音楽でもあったんですね。

−−この辺のアーティストのラインナップにポリシーは反映されてるんですよね?

高垣:そうですね…ポリシーっていうんじゃなくて、趣味、嗜好に近いものでしょうかね。

−−泉谷さんもフォーライフから移籍されたんですよね。やっぱり泉谷さんのようなアーティストもお好きだったんですね。

高垣:そうですね。今でも大好きですよ。ああいう毒気に憧れるんですね。だからほんとにいろんな人から紹介されたり、とか、たまたまライブハウスで出会った、とか、そういう人のつながりや出会いが、この仕事のすべてだと思います。