イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……
※本作は事実に取材した上で再構成されたフィクションです
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vol. 56
降り出した雨の中、矢口は虻沼と向い合った。
虻沼は、首周りにファーがついた黒いジャンパーを着ていた。
「今さら、裏切れると思ってんの? どこ行く気だよ」
と言う虻沼に、矢口は答えた。
「ちょっと、買い物に……」
「これから買い物行くのに、バッグ持ってくのかよ」
「は、はい」
「中身見せて見ろよ」
「え、ちょっとそれは……」
矢口は焦った。
ここでバッグの中の資料を取られたら、面倒なことになる。
元のデータは保管してあるが、これ以上絡まれていると、今日の報告会には間に合わない。
岩倉に渡したリスク喚起の資料。それを無視するというメール返信。それからサーバから取得したメールログ。それらがあれば、きっとGRシステムの倒産が免れる。
本当はまだ、プロバイダ側のログなども必要だろうが、まずは報告会でぶちまける資料としては、矢口が持っているもので十分だろう。
それを知っているからこそ、浦谷は虻沼を監視役としたのだろう。
虻沼はバッグへ手を伸ばしてきた。きつい整髪料の臭いがした。
矢口はバッグを体の後ろに隠し、震える声で、「嫌です」と言った。
「テメェ、ブッ殺すぞ」
虻沼の手が閃いたと思うと、顔に衝撃が走った。鼻が取れたような気がした。鼻血が出てきた。
「なめてんじゃねェぞ」
虻沼は右手を伸ばし、コートの襟を掴んできた。
矢口は半分パニックになりながら、襟を掴む虻沼の指に噛み付いた。
「ウゲッ、離せやボケェ!」
虻沼は左手で、頭や横顔を殴りつけてきた。
矢口はぶざまな唸り声を上げながら、噛みつき続けた。
虻沼から頭突きを食らったとき、とうとう矢口の顎がゆるんだ。
虻沼は離れた。
そのとき、声がした。
「大丈夫すか、虻沼さん!」
虻沼の舎弟らしき男が駆け寄ってきた。ボウズ頭の筋骨隆々とした若者だ。傷跡だらけの顔に、ピューマの黒いジャージを着ていた。
虻沼は言った。
「そのチビ、拉致るぞ。車に連れてけ」
「はい……」
黒ジャージが迫ってきた。
矢口は駅の方へ走り出した。
アドレナリンのせいか、傷は痛まなかった。
雨と血の冷たさだけがあった。
矢口は川沿いの道を左に曲がった。
川は雨のために増水していた。
川側には白いガードレールが続き、道沿いにはビルや商店や住宅が並んでいた。
角を挟んだ向こうからは、黒ジャージの足音がバタバタと聞こえた。
そこで矢口は、ある古い雑居ビルの1階に入って、登り階段に身を隠した。
入り口付近には郵便受けが並び、その奥から道側に向かって階段が伸びる構造のため、階段が死角になっていた。
ビルには湿ったカビの臭いが充満していた。
黒ジャージの足音が、ビルの近くで止まった。
「どこいった? チクショー」
と、声がした。
矢口はバッグを抱え、ガタガタと震えた。
その音で居場所がバレてしまわないか、心配になるほどだった。
黒ジャージの足音は、となりのビルへと入っていった。
しばらくするととなりのビルを出てきて、足音はビルとビルの隙間へいった。
やがて足音は、矢口が隠れたビルへと近づいてきた。
「おい、チビ、どこだよ」
黒ジャージはそうつぶやいて、歩いてきた。
矢口は息を殺して縮こまった。
目の前に足先が見えた。
そこで、黒ジャージは舌打ちした。
「くそっ、ここじゃねえのか……」
そう言って、黒ジャージはきびすを返した。
矢口は思わず息を吐いた。
早く遠くへ行ってくれ。そう願った。
そのとき、黒ジャージの声がした。
「なんだよこの血……」
そのとき、矢口は気がついた。
鼻血が床に落ちていたのだ。
血は点々と続いていた。
矢口の心臓が高鳴った。
胸が息苦しくなった。
矢口は上の階へ逃げようと思った。しかし、足が動かなかった。
黒ジャージの足音が迫った。
座り込んだ矢口の頭上に、ボウズ頭が現れた。
「見つけたぜ」
矢口は巣穴の鼠のように引っ張り出された。
ビルから離され、川側のガードレールの近くまで連れてこられた。
そこに虻沼がやってきた。
「世話焼かせるんじゃねえ!」
そう言って、蹴りを入れてきた。
矢口は吹き飛ばされ、川沿いのガードレールにぶつかった。
右腕から鈍い音がした。
バッグは地面に落ちた。
矢口は道にうつ伏せで倒れた。
「社長さんから、お金もらえなくなっちゃうだろ。せっかく、いい金蔓を見つけたのに。ボクちゃんが言うこと聞いてくれないと」
そのとき、もう1つの足音が近づいてきた。
また、虻沼の仲間が増えるのだろうか。
矢口は絶望感に襲われた。
しかし、意外な声が聞こえた。
「大丈夫ですか? 矢口さん」
それは、仁科の声だった。
驚いた矢口は顔を上げた。
虻沼は言った。
「誰だよ、てめェ」
仁科は言った。
「止めてください。乱暴は」
「こいつ、シメろや」
と、いう虻沼の声に、黒ジャージは、「はい」と答えて、仁科へ近づいていった。