★ 『植民地期満州の宗教』その11 / 地の声 |
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一九三三年(昭和八)の「浄土教報」第一九八五号は、峯簱(浄土宗僧侶峯簱良允:地の声注)を「元吉林省教育顧問、満洲国民間経済団体補導役(注略)と紹介していおる。 一九四三年(昭和一八)版の『大衆人事録(注略)』には、「日本満洲セメント(株)取締 満洲洋灰有限公司 吉林市大馬路一七九‥‥京都府天充長男明治十四年四月十八日生る同丗八年天津高等学堂校長拝命吉林省教育顧問満鉄嘱託歴任著書に『満洲民族史』『吉林省の産業』『吉会鉄道の水田候補地』」とある。 著書としては、この他に現在見られるものとして『吉林省開発と豆満自由港(注略)』がある。こうした記述から見ると、かつての宗教人としての峯簱ではなく、中国通の産業人としての姿が浮かび上がる。 一九四三年(昭和十八)三月号の浄土宗「宗報」(注略)には、「峯簱氏追悼会」の記事があって次ぎのように記している。
本宗教師で大陸在住三十余年、日華両国の精神的結合に力め、官民の信頼深く隠然たる勢力を持って居た峯簱良允氏は、今春北京の寓居で客死された。‥‥去る二月十六日午後二時から神林周道氏等の発起に依り東京芝妙定院で林大僧正を導師とし厳粛なる法要が営まれ里見宗務長の挨拶、水野梅暁氏、林大僧正の追懐談、神林氏の謝辞等があった。‥‥
「官民の信頼深く隠然たる勢力を持って居た」とは何を意味するのだろうか。たんなる宗教人や産業人というより、他にもう一つ別の姿があるように思える。 曹洞宗の水野梅暁は、かつて南中国で布教に従事したが、外務省記録によれば(外務省記録『水野梅暁清国視察一件』)信者は一人もいなかったという。それでいながら中国各地を旅行していて、現地の領事館は水野の意図に不審な目を向けている。こうした水野と峯簱は、どのような繋がりを持っていたのだろうか。 一介の僧侶である太田(太田覚眠:地の声注)や水野は、外務省の出先機関の監視を受けるほどの力をどこから手に入れたのだろうか。外務省の手が届かない部分があるとすれば、やはり軍部ではないだろうか。峯簱についても、はっきりとした証拠はないが、前述のように軍部との関係を感じさせるものがある。
(pp259-260 槻木瑞生「満洲における日本仏教教団の異民族教育」) |
No.493 2007/11/21(Wed) 18:07:43
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