★ 戦時下宗教界の「献納機」(補足:軍用飛行機「曹洞号」の献納について) / 地の声 |
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「集団ヒステリー」一語でかたづけられるものではない。なぜか戦時下この国の人々はまるで競うように軍用機を献納した。「愛国第31号」は全国の幼稚園と小学生が一人一銭を献金して献納した軽飛行機である。こんな異常な状況をつくりあげた背景には宗教の果たした役割が大である。いわゆる「精神」をつくる(マインドコントロールする)のは教育であり宗教であったからだ。「集団ヒステリー」でなく「マインドコントロール」がおこなわれたのである。
思うのだが、侵略戦争が国民運動化されたのは1937年を嚆矢とするのではなかろうか。6月9日に近衛内閣が発足し、7月7日日中戦争開始、8月「国民精神総動員体制」発令、「国体の本義」が出され南京大虐殺がおこなわれたのが1937年、昭和12年である。ごく少数の良心的平和主義者を除き、宗教界は諸手をあげて侵略戦争に協力した。いや、リードしたと言っていい。その象徴が献納運動であったと言えるだろう。梵鐘、燭台、仏具までを献納し、軍用機を献納した。宗教界が率先して範を示すことによって、なんと子どもたちまでが侵略戦争に有無を言わさずに組み込まれたのである。
いまだ軍用機の献納については詳細が明らかにされていない。『陸軍愛国号献納機調査報告』(http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html)だけが総合的に情報を入手できる唯一の場である。しかし、管理者の言うように(そのマニアックな情報収集力にもかかわらず)未だ不完全である。「補足」として、宗教界の献納実態をそれから抜き出して記す。 (金光教、曹洞宗、キリスト教団体は既出のため省いた。管理者によれば5,000機以上の献納があったが、献納者が明らかになったのは1,643件。以下の献納数は最少であって、実際はそれ以上献納された可能性が高い)。
注:献納日が9月20日が多いのは1940(昭和15)年に制定された「航空の日」にちなむか らだろう。日本で最初の飛行に成功したのは、1910(明治43)年12月19日に東京・代々木 錬兵場で徳川大尉が行った飛行実験だった。しかし12月では気候的に「航空日」の行事に 適さないため、帝都上空一周飛行が行われた9月20日を「航空日」とした。(「今日は何の日」http://www.nnh.to/09/20.html)
◎西本願寺・・・・3機 昭和17年9月20日 「鹿宮綾本願寺号」(献納番号1255) 但し、鹿児島県、宮崎県の両本願寺門徒の献納 昭和18年9月20日 「西本願寺北海道号」(献納番号1353) 昭和18年 「西本願寺号」(献納番号1471) ◎日蓮宗・・・・3機 昭和18年9月20日 「立正報告号1〜3」(献納番号1384〜1386) ◎成田山新勝寺・・・・1機 昭和13年5月30日 「新勝号」(献納番号275) ◎密教護国団(高野山僧侶)・・・・1機 昭和9年6月15日 「偏照号」(献納番号115) ◎その他、中外日報の献納1機(2機か?) 昭和19年9月27日 「第二中外日報号」(献納番号4981)
『日本昭和航空史 日本陸軍愛国号献納機』(モデルアート2001)に、興味深い献納命名式の写真が載っている。「写真上と右の3葉は、一風変わった献納式で、昭和14年2月4日、立川飛行場で行われた愛国313号相撲号の献納命名式の模様。大日本相撲協会が献納したのは九七式戦闘機で、この式典では、横綱双葉山以下取締役など150名が参列、玉串奉奠に当り双葉山、男女ノ川両横綱による土俵入りが行われた」と解説されている。なんとも異様な不思議な光景だ。献納機に向かって土俵入りをしているのである・・この国の文化・伝統の正体を見た思いだ。
曹洞宗は推定10億円(現在価値)を集め3機を献納したが、献納命名式はさぞや賑々しくおこなわれたに違いない。おそらく羽田空港が会場となったと思われる。曹洞宗のトップらが参列し(玉串奉奠があったかどうかは分からないが)、必勝祈願法要くらいは営まれたに違いない。誰がどんな香語を語り、何を読経し、回向文はどんな内容だったのか・・。
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※さらに補足として
No.549で曹洞宗の献金額と実際に献納された軍用機の数に疑問を呈したが、9機献納した金光教の献金総額は157万円だった(換算すれば40億円近い)という。ここでも献金と軍用機数の間に大きな乖離がある。『日本昭和航空史 日本陸軍愛国号献納機』に、山下汽船会長の山下徳太郎は航空機研究開発のためとして100万円を寄付、政府は陸海軍にそれぞれ50万円ずつ分配し、陸軍は「陸軍学芸技術奨励規定」を設けて、他の寄付金も併せて研究開発および機材購入にあてたとある。また大戦末期に現れた毒ガスなどの研究開発なども行ったとある。(同書p.2) 731部隊長石井四郎は部隊の年間予算は東北6県の一年分の予算に匹敵すると豪語していたそうだが、その豊富な資金はいったいどこからでていたのだろうか?献納運動によって集められた金の一部が流れ込んでいたと考えるのは無理だろうか? |
No.555 2008/02/23(Sat) 06:29:31
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