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水田全一著『戦闘機臨済号献納への道』を読む / 地の声 引用

曹洞宗もそうだが、戦争責任を曖昧にしたまま戦後の宗教界は今を生き続けている。無反省からは何も生まれない(懺悔のない決意は無い)。深まりもなければ発展もない。曹洞宗の今議会の信じられない顛末なども、無責任体質の顕現である。

筆者は臨済宗妙心寺派の僧である。敗戦をいともたやすく教団が受け入れ、かつ無反省でいられたことの原因に聖徳太子十七条憲法第三条「承詔必謹」を無原則に受容する宗派の体質があるのではないかと指摘する。

世間一般、あるいは仏教者は聖徳太子を理想的な人物と見る傾向がある。例えば先の一万円札しかりであり、仏教者が第一条「和をもって貴しとなす」だとか第二条「篤く三宝を敬え」などを今日でも引用することが多い。これは十七条憲法の真意を識らないことに由来する。端的に言えば、国を統治(国民を支配)するために仏教を利用しただけのことであり、真に仏教なのではない。例えば第一条は後に「逆らうべかららず」と続いている事実や、第三条の意味するところは絶対服従であることからも伺える。

戦争は国家が起こす犯罪である。仏教が平和を語るときは、国家を相対化し対決するのは当然のことなのである。これをなさざるは怯懦たるものである。カラ元気はあっても仏教者としての真の勇気が欠落している。内山愚童の真骨頂は「天子金もち、大地主。人の血をすう、ダニがおる。」(『無政府共産』)と喝破したところにあることを忘れてはならない。

ほとんどの僧侶はいまでも戦前を引きずっている。さらに、それが若い僧侶に再生産されている。なぜか? 答えは簡単だ。寺院が家庭だからである。師匠が父であり、あるいは祖父であり・・それをけなげに支えた母であり祖母であるからだ。これをネポチズム(身内主義)と言う。仏教が否定したものだ。

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「従軍慰安婦」を一般の娼婦と同じ者としてとらえて発言し、軍の責任はないと公言する。朝鮮の「工作船」追跡のニュースを聞きながら、「撃沈してしまえばええのや」。それに反対する発言に対して「何や共産党みたいなこと言いやがって」と反発する。戦争を知らない、戦後生まれの人の中にも、このような声が出てくる現実がある。(同書 p.126)

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「反日共産主義者」と言われたことがある。私は中道を尊ぶ仏教者であるつもりだが、この国の右傾化した基準からは左翼に見えるのかもしれない。なんとも憂うべき国であり、憂うべき仏教界ではある。

同書は先にpdfファイルで公開されていることをお知らせしたが、どうも読みづらいしメモや付箋が付けられない。ダメもとで出版社(ウインかもがわ)に問い合わせたところ在庫があった。現物を入手できたことは幸運だった。仏教の戦争責任を問う好書。

No.569 2008/03/11(Tue) 17:41:32


資料:昭和12年曹洞宗植民地特別寺院布教所 / 地の声 引用

資料:昭和12年曹洞宗植民地特別寺院布教所

※(支那事変当時の)曹洞宗の海外進出と宣撫の実態がうかがわれる資料として。
一部、「古〜い世界地図」内「都市の地図」で確認できます。
http://keropero888.hp.infoseek.co.jp/

○満洲国
△関東州
大連市天神町38     常安寺
大連市霞町25      常福寺
旅順市青葉町34     龍心寺
△奉天省
瓦房店山手街       昭和寺
營口彌生街162     禅隆寺
遼陽鞍馬町22      興国寺
奉天市富士町7      興禅寺
本渓胡桃月町208    太徳寺
撫順東三番        禅昌寺
鐵嶺松島町4       観音寺
開原東洋街44      開原寺
四平街北五条通27   平安寺
鞍山南三条町28     鞍山布教所
海龍縣山城鎭       山城鎭布教所
△吉林省
公主嶺霞町二丁目2   佛心寺
新京曙町四丁目      大正寺
吉林新開門         日満寺
△安東省
安東掘割南通四丁目1   相音寺
△間島省
龍井村新市街       間島曹洞宗別院
圖們仲秋街        圖們布教所
琿春西門外        琿春布教所
△錦州省
錦州東關大(口偏に堂)街26号 昭徳寺
熱河省
承徳前二道街4号     承徳布教所
△濱江省
吟爾賓モストワヤ街14  禅宗寺
綏化城内132       綏化布教所
牡丹江平安街四丁目7   牡丹江布教所
△龍江省
齋々吟爾永青一胡同4号   日満寺

○中華民国
△江蘇省
上海呉淞路332弄C88号 長徳院
上海呉淞路444弄C20号 観音堂
△山東省
齋南緯二路無泉原      大覚寺
青島市上海路18      青島曹洞宗布教所
淄川縣淄川洪山       洪山曹洞宗布教所
△河北省
天津日本租界伏見街7号   観音寺
△察吟爾省
張家口東安西街       日本曹洞宗支那布教所
△湖北省
漢口日本租界大和街7号   観音寺

テニアン、フィリピン、シンガポール、ハワイ、北米、南米は省く。
文字化けご容赦、誤植そのまま。(昭和12年『曹洞宗寺院名鑑』より)

No.568 2008/03/08(Sat) 12:12:00


人権:どう取り組むか / 地の声 引用

「人権問題に中立はない。現に差別がある社会では、差別をなくする努力をするか、逃避して差別を再生産するか‥そのどちらしかない。」(小森哲郎)

曹洞宗が2000年から現場宗侶用に作成し配布しているのが、「人権啓発ビデオ」である。同ビデオを教材として全教区が人権研修を実施することになっている。今号の宗報「人権フォーラム」によれば、人権研修教区報告書の提出は半数に満たないそうだ。いかに宗門の掲げる「人権・平和・環境」が現場寺院に浸透していないかが分かる。

実施され提出された報告書のなかには「部落問題という視点からのみ続けることは、人権意識の啓発とは逆のアレルギー作用も生みだしている」という声があるという。

もう一度、原点に還って問題を整理したい。

曹洞宗が人権問題に取り組むようになったのは「部落問題」がきっかけである。1979年の町田発言からである。宗門が行っている差別戒名問題、狭山事件、差別図書の回収などはみな「部落差別」がテーマであって、そして大事なのは‥それらがいまだ解決されていないことにある。

曹洞宗が、部落差別問題ひとつ解決できもせずして、どうして人権確立を謳うことができるのだろうか。まして、アレルギー(そもそもこれは差別語である。だれも好き好んでアレルギーとなっているわけでなく、その悲惨さを理解し得ない重大な人権侵害発言・差別発言である)という言葉でテーマを曖昧にする人権確立反動者がいまだ多く宗門内に存在することを考えれば、宗門は、より積極的に部落問題そのものに取り組まなければならない。

人権問題に中立はない。差別戒名問題に中立はない。狭山事件に中立はない・・曹洞宗宗侶は「部落問題」ひとつとってみても仏教者として自分の全存在を賭けて取り組まなければならないほど巨大な問題なのだ。「人権一般論」を展開している暇はないはずだ。これもまた観念論の誹り免れないだろう。

No.567 2008/03/07(Fri) 20:25:14


「従軍僧―その実情と任務」 / 地の声 引用

水田全一師著『戦闘機臨済号献納への道』pp25-32から引用

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「従軍僧―その実情と任務」

従軍僧なる言葉に初めて出あったのは、石川達三の『生きている兵隊』であった。

左の手首に数珠を巻き右手には工兵の持つショベルを握っていた。………「貴様!」とだみ声で叫ぶなり従軍僧はショベルをもって横なぐりに叩きつけた。 ………「貴様!貴様!」次々と叩き殺していく彼の手首では数珠がからからと乾いた音を立てていた。「従軍僧はなかなか勇敢に敵を殺すそうだね」「はあ、そりゃ、殺ります」と彼は兵のように、姿勢を正して答えた。「ふむ、敵の戦死者は一応弔ってやるのかね」「いや、やっている従軍僧もあるようですが自分はやりません」(中央公論社 激動の昭和文学)

明治二十八年一月十八日、清国の旅順郊外で「清国兵戦没者石碑」建立供養の法要が、金州からきた清国人僧六名・日本人僧八名の手によりおこなわれたという。その前年十一月二十一日から二十五日、旅順を占領した日本軍によっておこなわれた万余にのぼる虐殺の犠牲者を弔うものである。石碑の表面には「宝塔は清人の亡魂が苦を離れ楽を得るためなり」、裏面には「大日本帝国真言臨済天台真宗特派僧が建てるなり」(原漢文)とあったという。(井上晴樹『旅順虐殺事件』筑摩書房、参照)

軍隊慰問のため旅順滞在中であった各宗の僧侶が、「敵国」の犠牲者の菩提を弔うために、国境の枠を超えて法要を営んだのである。
従軍僧とは言えないかもしれないが、僧籍にあるものが「軍隊慰問」のために戦地に渡る例といえよう。
さらに日露戦争のときにも「従軍布教某師に寄す」と題した詩偈が某老師の語録に見える。

昭和十二年八月二十八日、大本山妙心寺に須原秀文・平居大道・浅井紹徳・林文道の四師が勢ぞろいし、開山塔に参拝ののち宗務本所にて「従軍慰問使」の辞令を受け取った。宗務総長より訓示を受け、九月一日送別式のあと記念撮影、午後四時十二分花園駅頭で全く出征軍人のそれと変わらない見送りを受けて、勇躍出発した。
その出で立ちはカーキー色の従軍服にヘルメット、水筒・鞄をたすき掛け。
一行は下関より朝鮮を経由して新京で総監山本玄峰老師に相見のうえ指示を受けてのち、天津に赴き、先ず皇軍・在留民の慰問をおこなう。そののち軍の許可を受け従軍僧として隊に配属される予定。(正、十二・九)
九月十七日○部隊(○○)○○付き」の命令を受け「○○より○○に従属してきた」本派本願寺派、浄土宗、臨済宗天竜寺派の三名と合流、泥濘の中を行軍あるいは四隻の舟で両岸を斥候や騎兵に警備されながら進軍する。
野営地に着くと「我軍の英霊」のために諷経・回向する毎日である。遠くに砲声、爆撃の声甚だし。戦場は刻々に近づく。(正、十二・十、本山宛書簡)

また別に妙心寺より命じられた「日支事変慰問使山東省青島妙心寺別院住職細川禅英師の随行」の任務を終えた木下祖瑛師は、直ちに従軍布教使として九月二十一日山岡部隊に「非戦闘員としての従軍することを得る光栄を全身に溢れさせつつ」はせ参じて、その従軍記を『正法輪』十一月号以下に寄せている。

彼もまた激戦のあとに立つと、木の香新しく建つ数十の日本兵戦死者の墓標にぬかずき合掌礼拝し、累々として道側に横たわり腐敗して異臭を放つ敵兵の遺棄死体にも「怨親平等の心」をもって回向したと伝える。

殷殷(いんいん) として響く砲声が聞こえ、戦闘開始がいま一歩という地点まで行軍してきたとき、彼は「僧なれども余も亦此の雰囲気の中に融けこんで大義親を滅する動きをなさん」と昂揚する。

其の他妙心寺派の従軍僧としては細川、小田両師の名が十一月号に見える。

軍隊での待遇は「兵と同じく食物の給与あるのみにて原則としては衣服其の他は全部自分持ち、待遇―居てもよし居なくてもよし食事でも貰いに行けば呉れる行かなければとって置いて呉れると言う事はなし至極あっさりしたもの」である。しかし、兵士と一緒の泥濘の中の強行軍で靴・衣服などの消耗の著しいのは当然。十一月四日の天津妙心寺別院から本山あての通信では「此頃特に軍に願い服上下のみ拝借致し外套も交渉中」という。かくして、姿かたちも階級章こそなかれ「皇軍」の一兵士とはなった。

戦没者への回向の際には、この軍服の上に袈裟をかけて読経したのであろう。しかし、姿かたちが兵士と変わらなくなれば、心もまた変わるものが出てくるのもやむをえない。かの石川達三が目撃し、その著に記した従軍僧はその一人である。また、彼らの中には世渡り上手もいて、終始司令部に入り浸り、第一線の苦労は知らないというものもいたようだ。

各宗派間の事情の違いが、従軍僧個々の間の微妙な感情の齟齬を生み出している様子も、記事の行間から読み取れる。

兵士とちがい特別の訓練を受けていない彼らが、戦史でも有名な強行軍に従事すれば、体調を崩すことはやむをえない。一時野戦病院の世話になったり、トラックや馬で移動をしたものも出ている。脚の豆に悩むことは頻々なれども、「困苦欠乏の間にありて元気よく活動を続け得た」ことを仏天に感謝している。

「北支から中支」へ転戦した従軍僧たちは十二月十三日の南京占領にも立ち会っている。その情景は「午後一時四十分(中山)門の爆破に成功するやワツと喚声挙げて飛び込む、北支以来覆いのしてあった国旗が初めて南京城内広場に颯爽とハタめき物資不足のため全員乾パンと黒砂糖で乾杯ならぬ慶祝の万歳を唱えました」(一月十一日御室小学校での報告演説、正、十三・一・十五)というものであった。

かれらの一部は南京陥落により戦局が一段落したのを受け、一月十一日「殉国将士の遺骨後送のためその先駆として」中間帰国した。その歓迎のありさまは、かつての歓送の時と同様盛大なものであった。

ところで、かれらに期待された任務はどのようなものであったのだろうか。

その第一はすでにかれらの報告に述べられているように、戦死者に対する回向である。戦闘直後の共に戦った仲間に対する追弔の儀礼は、亡き友への哀惜の情とともに敵に対する怒りをいやます効果を強め、復讐のための決意を固める儀式としての役割を果たした。儀式を主宰する僧の心のうちに於いてもそれは同じだった。

戦局が一段落すると、上海・天津など各地に開かれていた各宗派の別院などに仮安置されていた遺骨の後送がおこなわれる。これに付き添い帰国するのもかれらの役目である。

次に期待されたのは、いくつかの従軍記や新聞社主催の現地座談会などにみられるように、生々しい戦場の情景をいち早く伝えることであった。現在のような映像によるリアルタイムの報道手段もなく、現在よりははるかに民衆教化の面で権威のあった僧侶が、自らも第一線の兵士と行動を共にしながら見聞した事柄を伝えるとき、それは想像以上に大きな効果を発揮したであろう。

また、かれらは「支那軍」をすべて「敗残兵」と呼んで侮蔑の念をあからさまにする。

行軍中、果てしなく石一つなく広がる沃野を「黙ってはおれど日本人の開拓を待ち顔にしている土地」(そこに営々として耕作をしている中国の農民がいることは、すでに見えなくなっている)と、この戦争の本質をしっかりと、しかしさりげなく吹き込むのである。

それゆえに、めでたく「凱旋」してきたかれらには、各地での戦場報告会が待っている。自らの言葉で自らの体験として戦争を語るかれらの熱弁は、何にもました「教化報国」の実を挙げたのである。

しかしながら最も期待された従軍の効果は、僧侶の「こころ」を変えることに置かれていたと思われる。

林文道師は語る(正、十二・十一)。

「自分は宗教家としてしばしば戦争と道徳ということについてジレンマに陥ったが結局皇軍の死骸を目撃して以来急に日本人としての意識が旺盛となり、敵軍の屍を見ない日はむしろ淋しく感ずるようになった」と。

木下祖瑛師もまた「護国の英霊よ!感激の涙を流さぬものは日本人にあらずだ。今静かに此の激戦の跡を弔う時、大丈夫転(うたた) 『チャンコロ生意気な』と怒号せざるを得ない」と述べる。

非情な極限の戦場体験による「宗教家」としての意識からの脱却、興禅護国の教化報国に疑いを抱かず邁進する僧侶の育成、それが従軍僧に課せられたもっとも重要な任務であったということだろう。

従軍僧ではなく一兵士として徴兵された僧侶の多くが抱えていた悩み、それは、明治以来の日本仏教がたどった歩みから必然的に生み出された悩みであった。僧侶が近代国家形成の過程で「肉食妻帯自由」とされ、天皇の臣民としての身分に位置付けされている以上、天皇の兵士として出征することはやむをえないことであった。

それを拒むためには明治維新の過程において、幾人かの高僧が努力されたが実を結ばず挫折した、肉食妻帯を拒否し独立不羈の「僧侶」としての身分を要求する道か、あるいはいわゆる良心的兵役拒否の権利を確立する道かのいずれかしかない。いずれにせよそれは自己の良心の要求にもとづいた命がけの厳しい道である。

残念ながらこの険しい道をたどった僧侶をわたしは知らない。

歴史の必然から個々の僧侶に課せられた悩み(林文道師のジレンマ)を、体制の望む方向でいや応なく解決させるひとつの道が従軍僧であったとも言えるのである。『生きている兵隊』のなかの従軍僧はその極限までつきすすんだものと言えよう。幾人の僧籍にあるものがこの道をたどったのであろうか。

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No.564 2008/03/03(Mon) 20:04:52


臨済宗妙心寺派の取り組み その2 / 地の声 引用

記事の中に登場する水田全一師著『戦闘機臨済号献納への道』をネット上で読むことができます。

保護されたpdfのため、プリントはできないようです。

http://www.win-k.co.jp/mizuta/

No.563 2008/03/02(Sun) 17:25:51


遺骨問題 / 地の声 引用

曹洞宗がいま取り組んでいる「遺骨」返還。日本帝国主義のもたらした植民地等の犠牲者が、いま「遺骨」となってこの国を糺している。

横浜の外人墓地と言えば、不謹慎なことだが、どこかロマンチックな響きがあるのだが、そこにも「遺骨」問題があることを知った。三重県紀和町紀州鉱山(石原産業)では多数の朝鮮の方々が死に至る労務に強いられていたことが明らかになっている(「紀州鉱山の真実を明らかにする会」)。

会報(08.2.25)から。

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「横浜の外人墓地で」    斉藤日出治

ことし2月末、横浜の外需院墓地を訪れた。日本軍の捕虜となり、日本の地で亡くなった連合軍の兵士および民間人の遺骨を納めた墓地である。この遺骨を調査している会の二人の方に案内していただいた。

ここはイギリス連邦諸国の兵士・民間人の遺骨が納められており、イギリス人、オーストラリア人、カナダ・ニュージーランド人、インド・パキスタン人という四つの区域に分けられていた。

このイギリス人の墓地の中に、紀州鉱山に捕虜としてマレー半島から連行され労働を強いられたイギリス人で収容中に死亡した16名の兵士の墓があった。

16人の墓はイギリス人墓地のなかに、離れ離れに置かれていた。墓碑には氏名、所属した部隊名、死亡年月日、年齢、遺族の言葉などが刻まれていた。
捕虜の遺骨を調査している会では、この16名の死因についても調査していた。心臓脚気、急性肺炎、マラリア、頭部と脚の骨折などが主な原因であった。

案内していただいた方の話では、この墓地が造成されたのは1948年で、完成したのが1950年であるが、1948年以前にも近くの山手の外人クラブで連合軍捕虜の遺骨を納めていて、遺骨が増えすぎたため現在の墓地に造成を始めたということである。

つまり、遺骨捜索団が戦後まもなく全国を回って、遺骨の収集をはじめ、全国の遺骨を横浜に集める事業を進めていた。遺骨捜索団紀和町にもおそらくこの時期に訪れて、イギリス人の遺骨を集めて、横浜にもってきたものと思われる。

紀和町には1987年に教育委員会が文化財に指定した「史跡 外人墓地」があり、収容中に亡くなった16名のイギリス人兵を慰霊する碑が建てられている。

紀和町と地元の人たちは、その後存命した元イギリス兵を地元に招いて、この「墓地」で追悼祭を催している。イギリス兵の遺骨がもしも横浜の外人墓地に収められているとしたら、紀和町の「史跡 外人墓地」に収められている遺骨はいったいだれのものなのであろうか。

なお、横浜の外人墓地には、オーストラリア人の墓の中に、海南島(地の声注:前掲石原産業が紀和町と同様に捕虜に死に至る労働を強いた中国南東部の島。悲劇の朝鮮村がある。「明らかにする会」は強制労働の実態を明らかにするため調査をしている。現在、リゾート開発計画が進行中)で捕虜として収容され死亡したオーストラリア兵の遺骨があることも教えていただいた。

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曹洞宗が「遺骨返還」という極めて重い問題に取り組む時、その認識の深さと責任の重さも同時に問われていることを忘れてならないだろう。

※海南島で侵略行為をおこなったのは石原産業だけではない。以下海南島侵略日本企業(『写真集 日本の海南島侵略と抗日反日闘争』2007.2.10 発行 紀州鉱山の真実を明らかにする会)

日本窒素・三菱鉱業・石原産業・三井物産・三井農林・三井倉庫・王子製紙・西松組・麻のセメント・トヨタ自動車・明治製糖・日本油脂・台湾銀行・台湾拓殖・横浜正金銀行・日本製鉄・島田合資・大阪商船・東亜海運・三越・資生堂・武田製薬・塩野義製薬・東亜塩業・大阪窯業・木村珈琲・明治屋‥‥

※海南島
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%8D%97%E5%B3%B6

No.562 2008/03/01(Sat) 20:47:18


臨済宗妙心寺派の取り組み / 地の声 引用

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神戸新聞「祈る夏 宗教と戦争」(3)

3.戦争協力、破戒の愚
言い訳をする僧をだれが信用するのか (掲載日:2003/08/10)


 「相当な勇気が必要だった」。神戸市兵庫区の祥福寺僧堂。河野太通老師(73)が静かに振り返った。

 戦後五十年の節目となった一九九五年。老師は花園大(京都市)の学長だった。自ら属する臨済宗妙心寺派の法要行事で「羞(はじ)を識(し)る」と、過去の戦争協力に初めて言及した。

 太平洋戦争。同派は全国の信徒から資金を集め戦闘機を国に奉納した。機名は「花園妙心寺号」。仏は不殺生を説く。時代のすう勢とはいえ、教えを破ったことに変わりはない。言い訳する僧をだれが信用するのか。

 戦中、少年だった老師は「早く大人になり、日本や家族のために命を捨てて戦いたい」と願い、勤労報国の工場勤めに精を出した。終戦となり戻った中学校で教師が言った。「全部間違いだった」

 激しく憤った。「社会に合わせて自分の考えを変える。それで自分の人生といえるのか」。意を決して仏門をたたいた。

 ところが、後に宗派が戦争に協力していたことを知る。過ちを認めなければ、自分の生き様にかかわると思った。

 高砂市の妙心寺派龍澤寺。「『仕方なかった』で終わっていいのか」。水田全一住職(69)が言った。

 高校教師をやめ、父の跡を継いだ。ある日、自宅にあった宗派の機関紙を読んだ。「興禅護国」「宗教報国」。戦争協力と戦闘機献納への道のりがあった。

 二〇〇一年、住職はその過程を一冊の本にまとめ、戦争責任を告発した。(地の声注:『戦闘機臨済号献納への道』)

 同じころ。河野老師のもとにオランダ人女性から手紙が届いた。禅の修行を続けているという彼女は「夫は日本軍の収容所に入れられた。今も精神的に苦しんでいる」と書いていた。「過去の過ちを直視して」と訴えていた。

 〇一年。妙心寺派は過去の戦争協力を反省する声明を発表した。老師の言及から六年が過ぎていた。

 今年夏、老師はオランダ人女性に返事を出した。「あなたのおかげで声明を出すことができた。これまで宗派に自浄能力がなかったことは恥ずかしい限り。二度と過ちを繰り返さない」

 老師は今、難民の自立支援などを目的とするNGO(非政府組織)の会長として、アジア各国を巡る(地の声注: 「アジアの友を支援するRACK」 http://www.saudade.jp/~rack/ )。僧侶たちが法衣を脱がされ、経典が焼かれたカンボジア内戦。「同じ仏教徒として助け合いたい」と思ったのがきっかけだ。

 老師は説く。「言い訳をするな」

http://www.kobe-np.co.jp/rensai/i-natu/03.html

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※曹洞宗は「懺悔文」や「総長談話」を出してはいるものの、宗門として最も重い「声明」すなわち「過去の戦争協力を反省する声明」をいまだ発表していない。

No.561 2008/02/29(Fri) 06:13:37


金珽実・論文『曹洞宗両大本山間島別院星華女学校について』 / 地の声 引用

中国東北部、豆満江を挟んで北朝鮮と向かい合う「間島(カンド)」延吉の近く龍井村に、曹洞宗両大本山間島別院星華女学校があった(1923認可―1944協陰女子師範科に変わる。敗戦により廃校)。当論文は、まぼろしの間島星華女学校の実態を明らかにした貴重な研究である。(日本比較文化学会『比較文化研究』71号に収録)

抗日活動の激しい間島を宣撫するために、永平寺から許可と僧籍をもらった元陸軍主計少尉濱名寛祐(僧名:祖光)が設立し、永平寺が単頭樋口芝巌らを派遣して運営したもので、校名「星華」は、「星」=釈尊の成道、「華」=拈華微笑から採ったものと思われる。

「本校は朝鮮婦女子の為めに初等教育を授くるを以て目的となせども一方日本仏教の精神に基き信仰を主体とする精神教育を施し卒業後は一家の主婦とし良妻且賢母なるは勿論日本婦人たるの面目を継続せしむるを主眼とす。然して入学児童は貧困なる家庭の子女又は向学心はあれども他の正規の学校に入学し能はさる可憐の児童の為めに門を開き社会強化の実を挙げ無智文盲より遠ざけ信仰と教授との完成を計るを以て目的となす」(同書p.111 原文はカナ漢字文)

とは言え、授業料は30銭で、現在に換算すれば4,500円ほどに相当する(1935年=昭和10年頃1円≒15,000円 参考 http://response.jp/feature/2002/0327/iot_yy0327_01_03.html )ので、一概に貧困児童を対象にしたものとも言い切れない。濱名寛祐が出した基本金30,000円(≒4億5千万円)と、曹洞宗から毎年300円(≒450万円)、外務省から毎年600円(≒900万円)の補助により運営された。論者は、濱名寛祐が個人的に出すには金額的に大きすぎる点を捉え、朝鮮総督府が関わっていたのではないかと推察している。

カリキュラムは以下の通り。(1934年7月調査のもの。因みに満州国成立は1932年)

修身(国語を以てする。五六年生は高太祖伝記 釈迦牟尼伝)、国語、会話、鮮語、満語
(翌年から廃止)、算術、書方、綴方、書取(国語と鮮語の両科)、唱歌、地理(五六年のみ)、歴史(五六年のみ)、理科(六年のみ)、裁縫(六年のみ)、手芸(花刺繍、編物)、家事(六年のみ)、衛生(六年のみ)仏教大意(課外)・・・以上計十五科目

民族のアイデンテティーを消し去るために、徹底した日本語教育およびそれに伴う精神教育がおこなわれていたことが伺える。宗教教育の時間が少ないのは、宗教は隠れ蓑で、あくまでも宣撫工作が本来の目的であったからである。1934年の在籍生徒数は第一学級65名、第二学級45名、第三学級36名、第四学級27名、第五学級14名、第六学級7名の合計194名だった。

論文の最後に間島星華女学校歌が載っている。

  世を救いますみ仏の、ふかきめぐみにはごくまれ、
  みなもと遠き曹洞の、きよきながれにゆまみして、
  身も心もうつくしく、智慧もなさけもありあけの、
  月のごとくにまどかなる、人とならばやもろともに。

侵略と宣撫はこのようにして行われるものなのだろう。間島星華女学校で学んだ方はいま70歳を優に越えているはずだ。どんな思い出があるのだろう。そして‥どんな哀しみを胸に秘めておられるのだろう。

No.560 2008/02/28(Thu) 13:37:10


9条ピースウォーク / 地の声 引用

2月24日、9条ピースウォークが、幕張メッセを目指していよいよ広島をスタートしました。みなさんも参加しませんか。

「公式ホームページ」
http://homepage3.nifty.com/peace_walk/Welcome.html

No.559 2008/02/27(Wed) 16:17:47


自己実現「5つのプロセス」 / 地の声 引用

人間にとって最も重要なものは「自己実現」にあると私は考える。たしか、北口末広氏の論文で知ったと思うのだが、それには「5つのプロセス」があるという。「自己認識―自己決定―自己変革―社会参加―社会変革」である。自分がどういう存在なのかを認識できずに自己実現は果たされない。認識しても、自分のどの部分を取り上げるかを決定できなければ前に進むことができない。そのため自己変革が必要になる。人間は社会のなかで生きているのだから、必然的に社会と関わらざるを得ない。自己が属する社会が自己実現にとって不適切なものであれば変革しなければならない。

修証義の展開と「5つのプロセス」がよく似ていることに気がついた。「総序」=「自己認識」、「懺悔滅罪」=「自己決定」、「受戒入位」=「自己変革」、「発願利生」=「社会参加」、見事に一致している。「行事報恩」だけはさすが「社会変革」には結びつかない。明治という時代を反映した曹洞宗の限界だったのだろう。だから結果的に侵略戦争に荷担することになった。いまは違う。仏教者として自己実現するには「社会変革」への取り組みが求められている。

このプロセスは無論、一直線に自己実現が果たされるものではなく、自己認識に何度も立ち返り、自己決定に揺らぎ、社会参加に消極的になったりもするが、常にこの5つのプロセスをわきまえていることが自己実現への道である。曹洞宗流に言えばそれぞれのプロセスが自己実現そのものと言うこともできるかもしれない。

だれでも結論を欲しがり、飛びつきがちである。自己を追及する手間が省け、一番「楽」だからである。だから宗門の僧侶は「仏道をならうというは自己をならうなり。自己をならうというは自己を忘るるなり。自己を忘るるというは万法に証せらるるなり」という決定的結論を無自覚無原則に受け入れ、自分の見出したものと勘違いする。真意が捻じ曲げられる。「仏道を習う・・・」は道元禅師の究極であり道元禅師の自己実現なのであって、至らぬわれわれが安易に拝借すべきものではなかろう。

実は私もそうだった。善悪を「超越」して結局自他の為す悪を容認した。「この世はひとつの蓮華の花であり、それを映す心の鏡が曇っていればそれに気づかない。」くだらない仏教書をままりに数多く読みすぎたせいだろう。本覚思想におぼれるとすべてが解決してしまったような錯覚に陥る。これは麻薬だ。終いには善悪を「超越」して悪を容認してしまう。もはや仏教とは呼べない、まるで異質なものだ。自分の人生の中の、その失われた時間をひたすら悔やむ。

国家や政治に迎合しなければ仏教は存在し得ないと多くの仏教者が考えた時代があった。しかし、仏教はそんなに脆弱なものではない。はっきり言えることは人間社会を離れて仏教は存在しないということである。「社会変革」は仏教者の自己実現に欠くべからざる絶対条件である。曹洞宗はいま修証義を超えなければならない時に至ったのではないだろうか。

「歴史を超える仏法がまずあって、それが歴史をみちびくのだ、という思いあがりを、脚下に照顧するところから、わたくし自身の道がはじまる。」(市川白弦『仏教者の戦争責任』)

No.558 2008/02/26(Tue) 06:55:36

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