★ 金珽実・論文『曹洞宗両大本山間島別院星華女学校について』 / 地の声 |
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中国東北部、豆満江を挟んで北朝鮮と向かい合う「間島(カンド)」延吉の近く龍井村に、曹洞宗両大本山間島別院星華女学校があった(1923認可―1944協陰女子師範科に変わる。敗戦により廃校)。当論文は、まぼろしの間島星華女学校の実態を明らかにした貴重な研究である。(日本比較文化学会『比較文化研究』71号に収録)
抗日活動の激しい間島を宣撫するために、永平寺から許可と僧籍をもらった元陸軍主計少尉濱名寛祐(僧名:祖光)が設立し、永平寺が単頭樋口芝巌らを派遣して運営したもので、校名「星華」は、「星」=釈尊の成道、「華」=拈華微笑から採ったものと思われる。
「本校は朝鮮婦女子の為めに初等教育を授くるを以て目的となせども一方日本仏教の精神に基き信仰を主体とする精神教育を施し卒業後は一家の主婦とし良妻且賢母なるは勿論日本婦人たるの面目を継続せしむるを主眼とす。然して入学児童は貧困なる家庭の子女又は向学心はあれども他の正規の学校に入学し能はさる可憐の児童の為めに門を開き社会強化の実を挙げ無智文盲より遠ざけ信仰と教授との完成を計るを以て目的となす」(同書p.111 原文はカナ漢字文)
とは言え、授業料は30銭で、現在に換算すれば4,500円ほどに相当する(1935年=昭和10年頃1円≒15,000円 参考 http://response.jp/feature/2002/0327/iot_yy0327_01_03.html )ので、一概に貧困児童を対象にしたものとも言い切れない。濱名寛祐が出した基本金30,000円(≒4億5千万円)と、曹洞宗から毎年300円(≒450万円)、外務省から毎年600円(≒900万円)の補助により運営された。論者は、濱名寛祐が個人的に出すには金額的に大きすぎる点を捉え、朝鮮総督府が関わっていたのではないかと推察している。
カリキュラムは以下の通り。(1934年7月調査のもの。因みに満州国成立は1932年)
修身(国語を以てする。五六年生は高太祖伝記 釈迦牟尼伝)、国語、会話、鮮語、満語 (翌年から廃止)、算術、書方、綴方、書取(国語と鮮語の両科)、唱歌、地理(五六年のみ)、歴史(五六年のみ)、理科(六年のみ)、裁縫(六年のみ)、手芸(花刺繍、編物)、家事(六年のみ)、衛生(六年のみ)仏教大意(課外)・・・以上計十五科目
民族のアイデンテティーを消し去るために、徹底した日本語教育およびそれに伴う精神教育がおこなわれていたことが伺える。宗教教育の時間が少ないのは、宗教は隠れ蓑で、あくまでも宣撫工作が本来の目的であったからである。1934年の在籍生徒数は第一学級65名、第二学級45名、第三学級36名、第四学級27名、第五学級14名、第六学級7名の合計194名だった。
論文の最後に間島星華女学校歌が載っている。
世を救いますみ仏の、ふかきめぐみにはごくまれ、 みなもと遠き曹洞の、きよきながれにゆまみして、 身も心もうつくしく、智慧もなさけもありあけの、 月のごとくにまどかなる、人とならばやもろともに。
侵略と宣撫はこのようにして行われるものなのだろう。間島星華女学校で学んだ方はいま70歳を優に越えているはずだ。どんな思い出があるのだろう。そして‥どんな哀しみを胸に秘めておられるのだろう。 |
No.560 2008/02/28(Thu) 13:37:10
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