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侵略戦争に向けて昭和13年に国家総動員法が発布。翌14年には宗教団体を統制するために「宗教団体法」が公布された。宗教団体を「皇国宗教化」する動きは、もとをたどれば廃仏毀釈から行われてきたことだが、明治43年「大逆事件」で曹洞宗、真宗大谷派、臨済宗妙心寺派の僧侶をみせしめとして裁くことによって宗教界に大きな衝撃を与え、さらには昭和10年大本教弾圧により武力も辞さない姿勢を明らかにした。宗教界は本来の教義を捨てて次々と先を争うように「皇国宗教化」に協力していく。
そこで自発的に生まれたのが「曹洞宗報国会」である。(以下、『歴史地理教育』643号 水田全一・私の研究ノート「太平洋戦争下の仏教教団――曹洞宗報国会」を参考にした)
報国会は、国民を挙げて侵略戦争に与するために産業界のみならず文学界に至るまであらゆる分野で組織された。宗教界では(財)大日本戦時宗教報国会がある。曹洞宗報国会は秦慧照管長告諭により昭和16年に結成を命じられている。他の報国会結成より数年も早く告諭されたことに、曹洞宗がいかに率先して侵略戦争の先棒を担いだかが伺われる。
論者水田全一(みずた・ぜんいつ)氏は、その著書『戦闘機臨済号献納への道』をこのBBSでも紹介したが、臨済宗妙心寺派の僧侶である。平和を希求し仏教の戦争責任を問う良心の僧である。当論文に、曹洞宗報国会の活動のひとつである「練成会」の実態が述べられている。「練成会」とはすなわち曹洞宗々侶を皇国史観に基づいて改造し、アジア・太平洋戦争を遂行する仏教者を育成するものであった。全国で100会場以上、修練者(僧)は13,000人を超えたという。
曹洞宗の練成会で用いられた「皇民練成会中の唱文(成田大兆案)」は以下の通りである。
【食事時の辞】 「夫(そ)れ 食飯は保命の薬餌なりと雖も いま此の食を餐(う)くるは 即是皇運扶翼の臣道なり その来由を憶念(おも)う 濃淡の多少を択(えら)ぶ無し 己が徳業の全欠を省み 道行の成らざるを畏(おそ)る 唯々応供の冥加に感謝し奉る 頂きます」
【食後の辞】 「われここに浄食を餐(う)け畢(おわ)る 願わくは神仏の冥助により この身心を献げて 専ら無極の鴻恩(天皇の恩に報いるための決意を新たにすること:論者)に酬い奉らん 御馳走さま」
【一億一心臣道実践の誓】 「我等は神仏の照鑑を仰ぎて 一切の私心を超(さ)り 大御心(天皇の意志:地の声注)を奉戴して協心戮心(りくしん:「戮」は「殺す」「力をあわせる」の意:地の声注)臣道実践に邁進せん」
【入場の辞】 「われ 今 享け難き人身を得て 比なき 皇国にうまる 天照す 皇輝を仰ぎて 正法を見聞し 至高の境涯に感謝しつつ臣道実践す 規律を守りて言動を慎み 和合を旨として 悠久の大義に生き貫くを喜ばん」
【就寝時の辞】 「ここに終日臣道行じ畢る 皇室の弥栄(いやさか)をことほぎまつりて 唯 感激と感謝あるのみ さらに正邪の念想無し 一切の冥護と恩恵とに依りて 将(まさ)に 静けく 安らかなる眠りに就かん おやすみなさい」
【普回向】 「願わくはこの功徳普く八紘に及び 衆生と我らと皆倶に仏道を成ぜんことを」
【臣神末裔の自覚】 「天皇陛下は現人神なり 我等の祖先は臣神の裔(すえ)なり 我等は 日本臣民なり 我等は 天皇陛下の御為にうまれ 天皇陛下の御為に修し 天皇陛下の御為にのみ 悠久に生き貫くものなり」
【本来佛の自覚】 「我等は 本来佛なり いま皇国(すめらみくに)に 皇民(みたみ)如来(われ)としてうまる。専ら妙行を修し 妙修を行じ 愈々(いよいよ) 皇国(みくに)を荘厳(そうごん)し奉らん」
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当論文の末尾に、曹洞宗が再度軍用機の献納に取り組んでいたことが記されている。今度は最低目標金額を二百五十万円(戦争末期の貨幣価値を今に換算するのは難しいが、おおよそ75億円程度ではないかと思われる)として、前回(昭和17年)とは桁違いの三十機以上を献納するという、とほうもない計画だった。期限が昭和20年9月30日だったため実現しなかった。
ところで・・それまで集められた多額の寄付金はどこへ消えたのだろう。今回の総持寺祖院再建でも言えることだが、曹洞宗は実に安易にトップダウン型の寄付を要請する体質があって、その体質は戦前・戦中から引き継がれたものである。反省のない組織はおよそこのようなものである。 |
No.574 2008/03/15(Sat) 07:12:20
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