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必見!日本テレビ「ドキュメント‘08」兵士たちが記録した南京大虐殺 / 地の声 引用

日本テレビ「ドキュメント‘08」
兵士たちが記録した 南京大虐殺
2008年4月6日(日)24:55〜/55分枠
http://www.ntv.co.jp/document/

「十二月十六日 晴  定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於いて朝日新聞記者横田氏に逢い一般情報を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しIに於いて射殺す。‥‥
十二月十七日 晴  幕府山頂警備の為午前七時兵九名差出す、南京入場式参加の為十三Dを代表Rより兵を堵列せしめらる、午前八時より小隊より十名と共に出発和平門より入城、中央軍官学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く、途中野戦郵便局を開設記念スタンプを押捺し居るを見、端書ににて×子、関に便りを送る、帰舎午後五時三十分、宿舎より式場迄三里あり疲労す、夜捕虜残余一万人余処刑の為兵五名差出す、‥‥
十二月十八日  午前維一時処刑不完全の為生存捕虜あり整理の為出動を命ぜられ刑場に赴く、寒風吹き募り同三時頃より吹雪となり骨まで凍え夜明の待遠しさ言語に絶す、同八時三十分完了、風稍々治り天候恢復、幕府山警備兵帰舎‥‥午後二時より同七時三十分まで処刑場死体壱万有余取片付の為兵二十五名出勤せしむ。」(小野賢二・藤原彰・本田勝一編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』pp.219-220)

仙台13師団は南京攻略にあたり本隊は揚子江対岸に進み、特設山田支隊(山田栴檀二少将)を歩兵65連隊(若松)と山砲兵19連隊(高田)により臨時編成して、南京城北西部下関(シャーカン)に向かわせた。退路を断たれた多くの中国兵が挹江門(ゆうこうもん)から下関に殺到したため大虐殺が引き起こされた。著者小野賢二氏の粘り強い調査によって、山田支隊所属兵士の「陣中日記」が多数発見された。引用はそのなかの一部、[遠藤高明]陣中日記。

「陣中日記」によって明らかになった、捕虜虐殺の経緯は以下の通り。

12月14日   幕府山で15000人を捕虜にする。
12月15日   さらに数千人を捕虜にする。
12月16日   三分の一を射殺。
12月17、18日 さらに射殺。
12月18、19日 死体かたづけ。

※揚子江での捕虜射殺は12月25日ころまで続いていたという。無論、捕虜射殺はハーグ陸戦条約違反であり戦争犯罪である。

本日、日本テレビ系で「陣中日記」によって明らかになった南京での戦争犯罪が放送される。ひとりでも多くの方に見ていただき、歴史的事実を直視していただきたい。と同時に、南京攻略戦には従軍僧や多くの兵僧が含まれていたことも忘れてはならない。

No.596 2008/04/06(Sun) 07:27:22


オンライン署名 / 地の声 引用

VOICES ON THE CRISIS OF TIBET(チベット危機に関する声)が、チベット問題の平和的解決を求めるオンライン署名を呼びかけています。

こころある仏教者のご協力をお願いいたします。

http://www.tibetsupport.net/

No.595 2008/04/05(Sat) 06:45:30


武田範之を批判する / 地の声 引用

「一箇の人格における生涯にわたる思想構築とこれに基づく行動とは、人間が社会的存在である限り、その背負った社会的個別的諸条件に大きく左右される。しかし一方、個人の主体的選択の余地は、最終的に人間に残された自由意思を前提とし、したがって、選択の結果の責任が個人に帰することも自明である。」(論文・石川力山『内山愚童と武田範之』 「宗学研究」第36号)

故石川力山は、内山愚童の願った仏教社会(それは自由平等平和であるが)の対極として侵略主義仏教者である武田範之を登場させた。死亡年が奇しくもおなじ1911年という同時代の曹洞宗僧侶である。武田は内田良平(黒龍会)の懐刀だった。内山は時代にあがらって仏教者としての筋を通し、武田は時代におもね国家権力に利用されて終いには捨てられた。

時代がどうのこうの、世間がどうのこうの‥こんな言い訳は仏教者には通用しない。なぜなら一仏すなわち釈尊の目指した世界を実現するのが仏弟子である仏教者の義務であるからである。そういう意味で仏教は世俗を超越している。孤高、矜持、不退転、百尺竿頭‥その真意がわからないものは、仏教の命である「大慈悲心」を生涯理解できないだろう。

論者石川は言う。

「ただし筆者は、ここで安易な個人に対する善玉悪玉論の評価を展開しようとは思わない。」

抑制の利いた仏教学者らしい真摯な表現である。しかし、努々(ゆめゆめ)誤解してはならない。石川氏の言わんとするところは、時代という背景の変化によって仏教者が自らの行動を選択できたこと(しかし内山愚童は処刑され、武田範之は時代の寵児となった)、それゆえ、仏教者は重大な「自己責任」を負わされたということにある。また、その構造は今また繰り返されているということにある。即ちある意味で「自由」であるがゆえに、個々の仏教者が(すなわち、あなた)の仏教者としての「責任」が問われているということである。

いま曹洞宗は内山愚童を高く評価している。では、武田範之をどう評価しているのか?まるで聞こえてこないのはどういう訳なのだろう。

ひとつの真実に向かうためには、武田範之を徹底的に批判しなければならない。内山愚童のアンチテーゼである武田を否定し乗り越えることができなければ、曹洞宗がいくら「平和」を唱えてもカラ念仏なのである。体制におもねることの不正を乗り越えないから、今でも宗門内ない「不正」の容認体質があるのではないだろうか。

国家の利益を優先し自他国民を犠牲にしていいのか。曹洞宗の利益を優先し自他仏教者を犠牲にしていいのか。‥曹洞宗はいったい全体、仏教団体なのだろうか‥。そんな根源的(ラジカル)疑問を故石川力山氏は投げかけたものと私は理解する。と同時に、激しく共感するものである。

No.593 2008/04/03(Thu) 20:55:45


許されない右翼妨害 / 地の声 引用

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問題作『靖国 YASUKUNI』次々と上映中止で東京公開断念に
(シネマトゥデイ映画ニュース)080331

 「靖国神社」の現実と精神構造に、『味』の李纓(リー・イン)監督が挑んだドキュメンタリー映画『靖国 YASUKUNI』の上映を自粛する映画館が相次ぎ、当初の公開日4月12日をやむなく中止にすると配給元のアルゴ・ ピクチャーズが発表した。自粛を決めた劇場は、新宿バルト9に続いて銀座シネパトス、渋谷Q-AXcinema、シネマート六本木、シネマート心斎橋(配給会社の発表による)。

 同作は先日の香港国際映画祭では最優秀ドキュメンタリー賞を受賞し、李纓(リー・イン)監督も日本での公開を切に望んでいた。配給元は、「このような事態に陥ったことを大変遺憾に思いますし、日本社会における言論の自由、表現の自由への危機を感じております」とコメントを発表した。

 また、配給元のアルゴ・ピクチャーズでは今後も上映に向けて働きかけていくとコメントしているが、今のところ上映の見通しはたっていない。今後のことについては緊急の記者会見を設けるとのこと。

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右翼の妨害をおそれてグランドプリンスホテル新高輪は日教組主催の教研集会を拒否した。ついこのあいだのことだ。思想信条の自由が侵されたと思ったら、こんどは表現の自由が侵害された。この国は確実に右傾化している。いずれ白色テロルも起こるかもしれない。

映画『靖国 YASUKUNI』は、国家神道主義者たちにとってみればなんとかして上映を阻止したいところだろう。この映画によって靖国の実態が明らかにされれば、彼等の生命とも言える「皇国史観」は世論によって否定されるのが明らかだからである。無知蒙昧な国民を再生産しつづけるのが彼ら右翼の仕事だ。「南京大虐殺」はなかったことにしなければならない。「沖縄集団自決」に軍の関与があってはならない・・これを歴史修正主義という。

わたしたちにとって大切なのは、自分の都合で歴史を作りかえるのではなく、歴史を直視してそこから学ぶことである。

今回上映中止のやむなきに至った背景には、警察(国家)が右翼妨害を黙認していることにある。わたしも何度も経験したことだが、市民運動の集会には必ずといっていいほど右翼街宣車がやってくるし、大音量で軍歌を流し集会を妨害する。デモ参加者を暴力攻撃するものもいる。警察はしらんぷり。まるでお仲間のようだ。

ところで、曹洞宗は靖国神社をどうとらえているのだろう。靖国を認めることは侵略戦争を正当化することに他ならない。小泉が首相任期の最後っ屁として放った8.15靖国公式参拝には、当時の全日仏は批判表明をしたと記憶する。その脈絡からいけば、曹洞宗は靖国反対の立場であろうと思うのだが、明確な公式表明はなされていない。こんな曖昧な態度で「平和」を標榜していていいのだろうか。

いつまでもくだらない権力争いを続け内部消耗していないで、仏教団体としていまなすべきことがあるのではないだろうか。いや、曹洞宗の孕む不正権力構造を変えない限りそれもできないのかも知れない。いずれにしろ「貧困なる曹洞宗」である。

No.592 2008/04/01(Tue) 08:26:46


資料:戦病者慰問プログラム / 地の声 引用

日中戦争時、某仏教青年会が病院を訪れ戦病者を慰問した。挨拶文は一日も早く全快することを願っているが、しかしそれは兵士を一日も早く戦地にむかわせることを意味した。音楽は人心をコントロールする。軍歌、戦時童謡の戦争遂行に果たした役割は大きい。

【プログラム】

一、開会挨拶

一、斉唱 イ、婦人愛国の歌(主婦の友社送定)
            〇○女専合唱団 指揮 〇○○○氏
       ロ、太平洋行進曲(大阪朝日新聞社送定)

一、独唱 イ、人の世(梁田貞曲)
       ロ、静寂(藤井制心曲)
       ハ、婦人愛国の歌(古関裕而曲)

一、独唱 イ、数え唄(京都古謡)
       ロ、今夜のお月様

一、合唱 イ、礼讃歌(藤井制心曲)
       ロ、勝利の合唱(ヴェルデイー)
       ハ、法悦(クニッケン曲)

一、合唱 イ、白衣の勇士を讃ふ(弘田龍太郎曲)
       ロ、愛国行進曲(内閣情報部送定)

人形芝居 乃木将軍 〇○大学 〇○○○君

No.591 2008/03/31(Mon) 09:10:08


坂本慎一著『ラジオの戦争責任』(PHP新書)を読む / 地の声 引用

戦時中、国民をマインドコントロールしたラジオ。その威力は絶大だった。国民は「大本営発表」のみを聞かされた。敗戦色漂う15戦争末期には「一億総玉砕」が叫ばれ、また国民はこれを信じた。

同書第五章「玉音放送の仕掛け人 下村宏」は圧巻である。全国民の意識を一瞬にして玉砕から敗戦の受容へと180度逆転させたのもラジオの力だった。さらに言えばGHQマッカーサーに結婚を迫るラブレターが殺到したというのだから、そのドラマチックな豹変ぶりは信じられないほどである。この国が「民主主義」を何故いとも簡単に受け入れた(受け入れることができた)のかという長年の疑問が氷解する思いがした。

同書第二章では友松円諦を取り上げている。彼は戦前「真理運動」を主催し、戦後神田寺を創立したことで知られており、いまでも賛同者が多い。その彼が戦時中戦争遂行協力者として大きな役割をはたしていたこと、それによって公職を追放されたことを知る人は少ない。彼は太平洋戦争を礼賛し、ラジオの伝える勝利のニュースに万歳を叫んでいたという。

‥‥きょうは生きていたが明日は死ぬんじゃないか、とビクビクした気持ちを持っていれば、この事変は長くなると思います。みなが生還を期しない。必ず死ぬのだという気持ちになれば、空襲は少しも恐れるに足らない。三度、五度、決まったように空襲でもあれば、「きょうも来そうですね。早く来てくれないと、何だか気になって、三越へ買い物に行けませんわ」というようになってきます。また「きょうの飛行機のケチなこと。先だっての方が、よほど景気が良かった」というような時が必ず来ます。空襲も二度、三度となるとだんだん手がわかってくる。人間はそれでだんだん大きくなり、肝ができる。そうして未曾有を曾有に移行して行く。未だ曾てあらざる驚きを、何でもないという普通の認識判断の中に吸収するようになる。日本文化の建設のために、空襲の五回や十回、この世の土産に経験をして驚くのも良いじゃないかと思う。
(『真理』一九四二年二月号 同書 p.110)

仏教者友松円諦の戦争責任はどのように解決されたのだろうか。

もうひとつ。曹洞宗宗議会はこのたび曹洞宗新聞のようなものを発刊することを決議したと聞く。いったい何のために多額の宗費をつぎ込まなければならないのか。どんなプロパガンダをしようとしているのか。宗門の「利益」とそれに相反する仏教者の本来のありかたが厳しく問われている曹洞宗。こんな計画は即座に中止してもらいたいものだ。百害あって一利なしである。

No.590 2008/03/30(Sun) 06:16:06


「沖縄ノート」訴訟で大江側勝訴! / 地の声 引用

沖縄戦の集団自決に軍がかかわったかどうかが争点となった「沖縄ノート」訴訟で、大阪地裁は「集団自決に旧日本軍が深くかかわったと認められる」として名誉棄損を訴えていた原告の請求を棄却した。当然といえば当然の判決だ。

南京攻略時、向井、野田が競い合ったという「百人斬り」の訴訟は、最高裁が遺族側の上告を棄却(2006.2.22)した。先の沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への日本軍の強制を削除した教科書検定問題も、沖縄県民の訴えの前に記述の復活がおこなわれた。


日本軍「慰安婦」問題に対して、政府の誠実な対応を求める意見書

2007年7月30日、アメリカ下院議会は全会一致で、「日本軍が女性を強制的に性奴隷にした」ことを「公式に認め」「謝罪する」よう日本政府に求める決議を採択しました。
当時の安倍心晋三首相は7月31日、この決議採択を「残念なことだ」と評し、生存する犠牲者に日本政府は公式謝罪しないことを強くほのめかしました。
これは、1993年の河野洋平官房長官の談話と矛盾する態度です。このような態度をとっていては、これまでに日本政府が口にしてきた「謝罪」が、本心とかけ離れた、口先だけのものであると受け取られても仕方ありません。また、村山首相のお詫びの手紙と共に一部の被害者に届けられた「女性のためのアジア平和国民基金」は、国際社会の批判をかわすための欺瞞であったのではないかと言われても仕方ないでしょう。
日本政府に謝罪と賠償、歴史教育などを求める決議案は、アメリカの議会決議に続いて、11月にオランダとカナダで、12月13日にはヨーロッパ議会で、採択されました。
日本政府が、日本軍「慰安婦」の被害にあった女性達に対して、いまだに公式の謝罪もせず、補償もせず、真相究明や責任者処罰をしないばかりか、教科書からもその記述を消し去って、無かったことにしようとしていることに対して、世界各国で批判の声が高まっているのです。
今、世界中で、日本軍「慰安婦」問題を解決するための運動が広がりを見せています。
しかし、これらの世界の動きは日本では必ずしも十分には報道されていません。
政府においては、1993年の河野洋平官房長官の談話の上、さらに日本軍の「慰安婦」問題の真相究明を行い、被害者の尊厳回復に努め誠実な対応をされるよう求めるものである。

以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出します。
平成20年3月25日

衆議院議長   河野洋平 殿
参議院議長   江田五月 殿
内閣総理大臣  福田康夫殿 あて

      宝塚市議会議長  小山哲史


この3月25日、宝塚市は全国にさきがけて日本軍「慰安婦」問題に関する意見書を提出した。全国に波及することを期待する。

このような流れを見ていると、この国にもいくらか希望が持てる。ハーグ陸戦条約に違反し残虐行為を繰り返したこの国は、戦後、慌てふためいてドキュメントを焼き尽くし証拠を隠ぺいした(書類を燃やした煙は東京の空を数日間にわたって暗くしたという)。だが、世界中の被害者が声をあげようやくその実態が明らかになってきた。それをこころよく思わない「貧困なる精神」をもったものもあいかわらず多いが、わたしたち仏教者は真実のみを見て正しい行動をとらなければならない。いやしくも平和を語る仏教界が戦争責任を糊塗する側に立つなど論外で、逆に先頭に立って世論を正しい方向に導く役割を担わなければならない。

No.589 2008/03/29(Sat) 07:56:46


散華 / 地の声 引用

戦時中国民の批判を逸らすため「全滅」を「玉砕」に、「敗退」を「転戦」に、「戦死」を「散華」と言い換えた。

「散華」と言えば、わたしどもは浄道場のさい撒き散らす紙の華を連想する。戦時中某仏教団体は戦時用の「散華しおり」を作成して配布したことがあった。「大詔奉戴興亜報国運動  ゆるがぬ国土にほろびぬ御法」「同 仰げば大詔進め臣道」「同 身を粉に勤労笑顔で貯金」といった具合である。

わたしの所属する「アーユス」(アーユスは、仏教の精神に基づいて、世界の様々な現実に目を開き、貧困や不公正、環境破壊など平和と人権に関する問題に足元から取り組んでいくために、1993年に発足した国際協力NGOです。超宗派の、つまり宗派に関係なく仏教者が集まり、NGOを支援することによって国際協力を行うユニークな団体。http://www.ayus.org/organization.html)は独自の「散華」を制作している。表には花の絵、裏面には六波羅密がプリントされている。

「布施」・・財施 法施 無畏施 いつくしみの心
「持戒」・・戒めをたもち つつしむ心
「忍辱」・・耐えて忍び いからぬ心
「精進」・・悪を断ち善をなす いそしみの心
「禅定」・・安定したゆたかな心
「智慧」・・真理をみきわめる力

同じ「散華」でもこれだけの違いがある。この国の仏教は、精神がゆらげば実に脆弱であることの証左である。

ちなみに私は六波羅密を次のように読み替えている。みなさまも自分の納得のゆく解釈をされ、努力目標に掲げてはいかがだろうか。さもなければ行動に結びつくことは永遠に無いし、流れに巻かれて仏教を見失うことにもなりかねない。

「布施」・・人権尊重社会の実現をめざそう
「持戒」・・常に正義と良心を行動の基準としよう
「忍辱」・・粘り強く、しぶとく事に取り組もう
「精進」・・継続は力なり
「禅定」・・激しい怒りの中にも冷静な判断を
「智慧」・・社会を正しく認識し、正しく行動しよう

No.588 2008/03/28(Fri) 07:36:42


立命館大学国際平和ミュージアム / 地の声 引用

京都は金閣寺の近くに立命館大学があり、そこに国内では唯一の15戦争批判博物館がある。テーマは「みて・かんじて・かんがえて・その一歩をふみだそう」。充実した内容はピース大阪を数段上回る。

同大は元勲西園寺公望が儒教の精神を基に開学したもので、戦時中はペンを銃に持ち替えて戦争に協力した。

「一五年戦争が始まると、政府は大学などの自由をうばい、締めつけを強めました。戦争が激しくなると、学生は授業をやめ軍需工場に動員され、戦争末期には卒業をまたずに軍隊にとられました。立命館大学では早くから国家主義的な教育がおこなわれ、すでに1928年、昭和天皇即位の「御大典」のときに、御所などの警備のために立命館禁衛隊が組織されました。1943年には立命館禁衛隊学園決戦体制がつくられました。戦時下の立命館は軍事色の強い学園でした。」(ミュージアム・ガイドp.4)

このミュージアムがすぐれているのは、戦争加害責任を真っ向から明らかにしていることである。例えば「南京大虐殺」「石井731部隊」「日本軍慰安婦」「沖縄集団自決」など、埼玉では上田知事による妨害があったが、ここではしっかり展示されていること。また、戦時下戦争に反対した正木ひろしら勇気ある人々の独立したコーナーを設けてあること。その原点は自ら犯した戦争責任を深く反省していることにある。だから説得力が違う。

ボランティアガイドが子どもたちに解説していた。30人ほどの外国からの高校生グループの見学もあった。京都は仏都と言われる。曹洞宗のみならず仏教界が戦時協力責任を十分反省せず、いまだに確かな歩みを踏み出していない現実を思うとき、観光客でにぎわう神社仏閣の底浅さを感じざるを得ない。私は京都が大嫌いだったのだが、立命館大学国際平和ミュージアムの存在を知ってから、京都がちょっとだけ好きになった。

同館一階ロビーに「ムッちゃん」の像がある。結核をわずらっていた12歳の少女は、大分市の防空壕にひとり残され終戦も知らずに亡くなった。三つ編みの髪に左手をそっと触れている彼女は眼を床に落としている。生きようとする力と絶望‥‥底深い悲しみにやりきれなくなる。そして、見る者に「その一歩をふみださせる」。仏教者として必見のミュージアムだ。

No.587 2008/03/27(Thu) 07:42:49


藤井忠俊著『国防婦人会−日の丸とカッポウ着−』を読む / 地の声 引用

兵士の見送りに必ず登場する「国防婦人会」。カッポウ着にタスキ掛けの日本ならではの独特なスタイルは実に印象深く、先の戦争の一局面を象徴する。

「白エプロンにたすきがけ、やかんを下げ、あるいは小旗をふって出征兵士の見送りに、帰還兵士の出迎えにくり出した婦人たち。昭和七年(満州事変の翌年:地の声注)、わずか四十人で発足した一つの組織が十年後には一千万にふくれ上がり、日中戦争下の銃後体制を支える要の一つとなる。」(同書帯)

はじめは自分の子どものような若い兵士が戦地に赴くのを哀れと思い、お茶を入れてあげた婦人たちだったが、その活動が注目をあびるに連れ陸軍が介入する。しまいには戦争遂行の民間装置に変容させられていく。内地の緊張度が高まるにつれ銃後の婦人の役割が変化し、それに伴ってシンボルはエプロンからモンペに代わって会は消滅する。

一九三二年大阪国防婦人会から端を発した「国防婦人会」は、一九四二年大日本婦人会に統合されて消滅する。その十年を語る著者の筆はマニアックとも言えるほど微細を極め、かつドラマチックですらある。著者は「一介の民衆史研究者にすぎない」と謙遜するが、この書が読者を引きつけて離さない原点はおそらく著者自らの戦争体験にあるのだろうと私は想像する。その体験から戦争を絶対に許さないのだという固い決意にあるのだろうと私は想像する。「戦時中の少年時代、たまたま母と二人でいた時、私は兄戦死の公報に接した」と筆者はさりげなく語る。「母は、近郷では立派な『靖国の妻』であり、『軍国の母』であったが、顔を見合わせるや電報をにぎりしめて慟哭した。私には言葉もなかった。旬日を経ずして、私が軍の学校へ入ることになった。母はさめざめと泣いた。私は深く母の心を知った。」(同書 p.166)

戦争は超法規的行動(ナンデモアリ)であるがゆえに、人間が長い時間をかけてこつこつと築き上げてきたすべての文化(正義、良心を含む)を一気に崩壊してしまう。同書pp.171−172に、「粟まき」という衝撃的な項がある。

「岩手県で村の国婦分会長兼愛婦分会長になった伊藤まつをは、その回想『石ころのはるかな道』のなかで、銃後のことは引受けたといいながら、出征軍人の妻にまつわる問題、とくに「粟まき」の事実と深刻さに婦人会長の無力さをしみじみと述べている。このあたりでは、舅親父が息子の嫁を犯すことを「粟まき」といい、現実に少なくなかった。前線の兵士から婦人会長を頼りに心配して寄こした手紙には「妻はあってももう自分の妻ではない。今はなにをか望もう」と書いてあった。村では当の若妻が泣きながら「会長さん。私なじょすれば(どうすれば)よがすべ。お父さんのいうことをきかなければ、あの家におられないがす」という。‥」

戦病死で父を失い、母を祖父に習慣的に犯されつづけた歌人岸上大作(昭和14年生まれ、昭和35年自殺)。「装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている」「口つけて水道の水飲みおりぬ母への手紙長かりし夜は」(『意思表示』)。60年代安保闘争を駆け抜けて死んだ岸上大作の深い悲しみを思う。今でもこの国で(無論、朝鮮・台湾・中国ほかこの国が侵略した国々でも)大勢の人たちが「粟まき」によって言葉にできない苦しみを背負わされながら生きている。ムラ社会からの排除と差別を恐れて声をあげられず沈黙しながら耐えている。日本軍「慰安婦」問題では、金学順氏が差別を恐れず勇気を振り絞って声をあげた。「粟まき」は、決して過去のことではないのだ。戦争被害者は声をあげなければならない。戦争加害者は懺悔し、事実を語らなければならない。それが平和な社会をつくることに繋がる。そして‥仏教者こそがその先頭に立つべきであると私は信じる。話が大きく逸れてしまったが、著者は私が同質のルサンチマンを共有するがゆえに必ずや同意してくれるはずである。

(岩波新書・黄版298 1985年発行)

No.586 2008/03/24(Mon) 20:34:26

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