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「一箇の人格における生涯にわたる思想構築とこれに基づく行動とは、人間が社会的存在である限り、その背負った社会的個別的諸条件に大きく左右される。しかし一方、個人の主体的選択の余地は、最終的に人間に残された自由意思を前提とし、したがって、選択の結果の責任が個人に帰することも自明である。」(論文・石川力山『内山愚童と武田範之』 「宗学研究」第36号)
故石川力山は、内山愚童の願った仏教社会(それは自由平等平和であるが)の対極として侵略主義仏教者である武田範之を登場させた。死亡年が奇しくもおなじ1911年という同時代の曹洞宗僧侶である。武田は内田良平(黒龍会)の懐刀だった。内山は時代にあがらって仏教者としての筋を通し、武田は時代におもね国家権力に利用されて終いには捨てられた。
時代がどうのこうの、世間がどうのこうの‥こんな言い訳は仏教者には通用しない。なぜなら一仏すなわち釈尊の目指した世界を実現するのが仏弟子である仏教者の義務であるからである。そういう意味で仏教は世俗を超越している。孤高、矜持、不退転、百尺竿頭‥その真意がわからないものは、仏教の命である「大慈悲心」を生涯理解できないだろう。
論者石川は言う。
「ただし筆者は、ここで安易な個人に対する善玉悪玉論の評価を展開しようとは思わない。」
抑制の利いた仏教学者らしい真摯な表現である。しかし、努々(ゆめゆめ)誤解してはならない。石川氏の言わんとするところは、時代という背景の変化によって仏教者が自らの行動を選択できたこと(しかし内山愚童は処刑され、武田範之は時代の寵児となった)、それゆえ、仏教者は重大な「自己責任」を負わされたということにある。また、その構造は今また繰り返されているということにある。即ちある意味で「自由」であるがゆえに、個々の仏教者が(すなわち、あなた)の仏教者としての「責任」が問われているということである。
いま曹洞宗は内山愚童を高く評価している。では、武田範之をどう評価しているのか?まるで聞こえてこないのはどういう訳なのだろう。
ひとつの真実に向かうためには、武田範之を徹底的に批判しなければならない。内山愚童のアンチテーゼである武田を否定し乗り越えることができなければ、曹洞宗がいくら「平和」を唱えてもカラ念仏なのである。体制におもねることの不正を乗り越えないから、今でも宗門内ない「不正」の容認体質があるのではないだろうか。
国家の利益を優先し自他国民を犠牲にしていいのか。曹洞宗の利益を優先し自他仏教者を犠牲にしていいのか。‥曹洞宗はいったい全体、仏教団体なのだろうか‥。そんな根源的(ラジカル)疑問を故石川力山氏は投げかけたものと私は理解する。と同時に、激しく共感するものである。 |
No.593 2008/04/03(Thu) 20:55:45
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