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遠くて行けないけれど / かものはし 引用

念仏者九条の会「平和を願うつどい」
永六輔×無着成恭「いのち・憲法・わたし」
と き4月19日(土)17:30開演

ところ築地本願寺本堂

会 費1500円(定員500名)

問合せ事務局 赤川浄友 TEL03-5340-6882/090-4533-5090

主 催念仏者九条の会

No.612 2008/04/17(Thu) 17:58:56


曹洞宗の三大潮流 / 地の声 引用

ひとくちに曹洞宗僧侶と言っても、顔がみな違うように中身も千差万別である。それでも行動パターンから大別できるのではないだろうか。それは「儒教派」「良寛派」「生活派」の三つであろうと私は考える。

「儒教派」

上下関係を大切にする。寺格や僧階にこだわり「偉く」なることを目指す。上に媚び下を見下す。官僚派といってもいい。策謀、裏切り、嘘をつくことが多い。武田範之は家禄五百石の武士の家に生まれ儒教を学んだ(「其学問に至っては仏典は固より論無く、博く経史及諸子百家の書を読破」@ )。これが彼を「日本国仏教者」A たらしめた決定的要因となった。「儒教派」は同じく儒教に基づく国家体制と仲がよく、いわゆる体制派である。

「良寛派」

仏教精神特に慈悲を尊重する。共に涙を流す。良寛が道元禅師の「愛語」に深く感銘を受け、あるいは『月のうさぎ』を語ったのも、仏教とは慈悲であると認識していたからである。ただ時代的制約は逃れられず、「散る桜 残る桜も散るさくら」といった諦念感が漂う。良寛の限界を超え、慈悲を実践したのが内山愚童である。「良寛派」は社会の矛盾に目を向けるため体制に排除される。

「生活派」

前者の二派はそれなりの信念を持っているが、「生活派」には思想はない。だから圧倒的多数派でもある。生活のために坊さんとなっている人たちである。仏教精神などどうでもいい。生活が成り立てばそれでいい。生活が苦しいときはひたすらぼやき、楽になると遊び呆ける。「生活派」は無原則で権力に弱いため「儒教派」に協力してきた経緯がある。

さて‥あなたはどの派に属しているのか。

______________________________

@ 川上善兵衛原著、市井三郎・滝沢誠編『武田範之伝―興亜前提史―』p.719
A スレッドNo.607参照

No.609 2008/04/17(Thu) 06:38:37


「9条世界会議」まであと18日(転送) / 地の声 引用

「9条世界会議」2008年5月4〜6日
 幕張メッセ


9条世界会議まであと18日。(Text by Ookuni)
UAのメッセージ映像は→ http://whynot9.jp

『Cafe9[nine]』NEWS ★☆★☆

★9条世界会議 チケット好評発売中(^.^)
☆5月4日(日)全体会・音楽ライブ(イベントホール)前売り券1,000円/
当日券1,500円(中学生以下無料)
※UAらの音楽ライブもこのチケットで見られます(*^^)v

☆5月5日(月)分科会(国際会議場)前売り券1,000円/当日券1,500円 (中学生以下無料)

※チケットは、あなたの町のローソンでお求めください♪
ローソン(店内Loppi)にて発売 <Lコード33580>0570-084-003
(24時間予約受付・Lコード必要 ※関東・甲信越専用)
http://l-tike.com/(インターネット予約・会員登録必要)

★「9条世界会議」当日ボランティア説明会、お待ちしてま〜す(*^^)v

5月4日〜6日、幕張メッセにて行われる「9条世界会議」開催にともない、当日のボランティアを希望する方対象に、説明会を行います。当会議には、全世界から多くの方が参加します。「9条世界会議」は、市民のみなさんとつくる国際イベントです。ぜひご参加ください。

☆開催日時・場所
4月19日(土)18時〜 @青山学院大学 総研ビル10階18会議室

☆お申し込み方法
下記事項を記入の上、e-mailまたはFAXにてお申し込みください。
お名前、ご住所、電話番号、e-mailアドレス
ボランティア希望日(複数可) 5月3日 / 5月4日 / 5月5日 / 5月6日

☆申込先
e-mail: massun@whynot9.jp / FAX:03-3363-7562(担当:松村)

No.608 2008/04/16(Wed) 19:41:10


善光寺辞退か / 地の声 引用

オリンピック聖火リレーの出発式(4月26日)が行われる善光寺が、混乱を恐れて辞退する可能性を明らかにした。予定されていたイベント類はすでに中止が決定されているし、当日の境内立ち入りも禁止されている。

善光寺がチベット問題に真摯に取り組み、ダライラマの主張する「対話」「平和的解決」を世界にアピールすれば混乱は回避され、さすが仏教寺院という展開になるのだが、善光寺にはそんな考えは毛頭ない。国権に従属する一方で仏教精神など持ち合わせていない。ただの観光スポットあるいはテーマパークにすぎない。さらには、「英霊」を250万柱まつる第二の靖国であり、戦争賛美寺院ですらある。13日、チベット騒乱の犠牲者を悼む追悼式が行われたという。お経をあげればそれで事足るというレベルの問題ではない。精神を行動に現さなければただの欺瞞である。

善光寺は辞退すべきである。オリンピック精神に反するし、仏教精神にも馴染まない。

No.606 2008/04/15(Tue) 06:28:33


武田範之メモ / 地の声 引用

第一期 生い立ち〜顕聖寺
1863年、久留米藩士沢之高(さわしこう)の三男として生まれる。名は半治。勤皇派。明治政府転覆事件「明四事件」で沢家は没落。1873年(11歳)父之高の友人で勤皇派シンパの医師武田貞祐の養子となる。勉学一筋の恵まれた環境に。1878年沢家は久留米開墾社(郡山)に移住。1881年(19歳)養家を出奔(原因は仕途を範之が拒否したこと)。各地を放浪。1884年(22歳)新潟の顕聖寺に弟子入りする。

第二期 運命的出会い
1885年(23歳)春、久留米藩士の先輩で関東自由党の関常吉が顕聖寺を訪れ武田範之に東アジア問題を語る。これが生涯にわたり勤皇主義による朝鮮合邦運動に取り組むきっかけとなる。1889年(27歳)関常吉にオルグされ寺を出る。放浪(しかし顕聖寺との関係は維持)。

第三期 玄洋社との交際
1892年(30歳)釜山に渡り、金鰲島(クムオド、全羅南道麗水市)で李周会(閔妃暗殺事件で韓国側首謀者のひとりとされる)と漁業事業に従事するが、失敗。その間、釜山で政治結社玄洋社(頭山満)と交際がはじまる。いわゆる「朝鮮浪人」となる。玄洋社の意を受けた天佑教(内田良平)に参加。李朝にルサンチマンを抱く東学の反乱に協力する。興亜主義というオプテミズム。

第四期 閔妃暗殺事件
1895年(33歳)スレッドNo.597参照。「朝鮮浪人」武田範之、日本政府の消耗品たることも知らず日帝韓国侵略の先鋒となる。

第五期 曹洞宗内の地位確立と李容九との交流
1901年(39歳) 八月、先輩を差し置き顕聖寺住職となる。曹洞宗内の地位を確立する。内田良平の「黒竜会」同人となり1907年(45歳)東学親日派韓国一進会代表(宋秉oは日本にいて不在)李容九と出会う。日韓合邦をめざす一進会。精神面で李容九と武田範之は結びつき、政治面で宋秉oと内田良平が結びつく。同年、皇太子(のちの大正天皇)訪韓にあたり、武田範之、勤皇主義を露呈。一進会抵抗する。武田範之激怒。1908年(46歳)一進会師賓、曹洞宗韓国布教管理職に就任。韓国宗務院設立に参画。韓国の全仏教寺院を曹洞宗の配下に置こうとするが韓国仏教徒の激しい反対で失敗。統監府(後の総督府)がこれを仕切ることになる。

第六期 日韓併合
1908年頃から一切の公職を辞し日韓合邦運動(いわゆる「日韓連邦制」。法律面では同じだが、民族の主体性は維持される)に取り組む。ナイーブな李容九、状況によって態度を変える(サラリーマンタイプ:滝沢誠『武田範之とその時代』p.5)武田範之。一方日本政府は韓国を植民地化する「対韓大方針」を閣議決定(1909年)。同年、10/29伊藤博文暗殺。日本で「韓国植民地化」の声高まる。一進会李容九名で武田範之「合邦声明文」作成、発表。韓国国民から激しい非難を受ける。日本政府の強い圧力により1910年(48歳)8/29日韓併合公布。(「韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完全永久に、日本国皇帝陛下に譲与す」韓国日韓併合条約)

第七期 蘇る武田範之
武田範之の「尊皇思想」と「曹洞宗の韓国宗教侵略」は彼の真骨頂だが、結局国権右派に利用され実現することはなかった。また一進会李容九の願いも踏みつぶされた。総括すれば、内田良平の影に日本政府がいて、武田範之と一進会李容九は使い捨ての駒だった。内田良平すら合併成立にあたって巡査並みの功労章しか与えられなかった(あくまで表向きか。武田範之は寺内総督から3,000円の恩賜金をもらっている)。1911年6/23逝去(49歳)。総持寺貫首石川素堂、秉炬す。その後、この国は満州・中国と侵略を繰り返し遂に日米開戦へ。翌1942年ミッドウエー海戦から敗戦色濃し。同年、井上右著『興亜風雲譚』発刊(平凡社)。死後30年経過し武田範之蘇る。武田範之=勤皇思想=皇国史観の脈絡上にあり、同書冒頭には近衛文麿・頭山満・井上日召らの寄せ書きがある。戦争を鼓舞推進。1945年「15年戦争」終わる。武田範之、再び表舞台から消える。


【武田範之のキャラクター】
身長は150cmほど。サラリーマン的。議論昂じて相手を錐で刺し、女中の髪の毛をひっぱり引きずり回すという癇癪持ち。大酒飲み(毎日1〜2升飲む)。漢文・漢詩を得意とす。筆談を得意とするが口べた。先輩を差し置いて顕聖寺住職となったり、一進会解散時、日本から出された「解散分配金」の処理を担当し1000円(今の金額で5千万円)を自分が受け取るという如才なさも。黒竜会・内田良平の腹心(「武田和尚の人物は、何処までも創始的でなくて、仕事をする人を助成する向の人である」内田評)。勤皇一筋。「組織人としての冷酷さ」(滝沢誠)。

【武田範之は何をなしたか?】
内田良平の子分として、民族自立を願う「一進会」李容九を結果的に騙した。そして、日韓合併ならぬ世界史上例を見ない国家の譲与という「日韓併合」のお先棒を担いだ。曹洞宗のバックアップもその責を免れまい。

No.604 2008/04/14(Mon) 06:35:32

 
補足 / 地の声 引用

武田範之の遺言に従い資料を保管した川上善兵衛は、範之死後「武田範之伝」を上梓しようとした。依頼した先が、なんと森鴎外である。鴎外は伝記執筆にとりかかったが未完のまま亡くなったという。

森鴎外の文壇上の地位を考えるとき、「武田範之伝」が完成していれば、武田範之の曹洞宗内での位置づけは相当なものになったに違いない。特に戦時下では「大東亜主義」を実践した先駆として、宗門人の鑑として、必ずや武田範之は宗門の「広告塔」として利用されたはずである。

まぼろしの鴎外版「武田範之伝」‥個人的には残念でならない。消すに消せない戦争責任を曹洞宗が負えば、もう少し真剣に「平和」すなわち「反戦」に取り組むことになったのではなかろうかと思うからである。

No.605 2008/04/14(Mon) 19:13:02


武田範之の経歴 / 地の声 引用

同時代で内山愚童と対極にいた武田範之だが、その実態は現在忘れ去られている。これではいけない。宗門が「反省」し内山愚童を正しく評価するために、当時の宗門を代表する武田範之とはどんな人物だったのか、そして何をしたのかが明らかにされなければならない。曹洞宗のタブーとも言える「武田範之」。彼は、宗門が真に「平和」に取り組めるかどうかのキーパーソンである。

「伊藤公(伊藤博文:地の声注)の如きも屡々僕(宋秉o。日韓併合を謀った「韓国一進会」組織者:地の声注)に向かって武田のことを話され且つこんな事をいはれた事がある。内田(内田良平。黒龍会主催者:地の声注)という奴は面白い奴で、途方も無い坊主まで内に置いているぢやないか。あの坊主は学問もあり文章なんかも稀に見る程のものぢやが、一体どんな経歴の男か今まで聞かぬ妙な人物と思っていた所が、此頃森田悟由(永平寺第六十四世貫主:地の声注)に聞いてみると彼は洞門の僧徒中稀に見る学僧で、悟由も石川素堂(曹洞宗八代管長。総持寺四世:地の声注)も大いに信用し尊敬している者ださうだね。こういう風だから韓国でも和尚がいかに重く見られて居たかゞ判る。又侍天教(李容九が主宰した親日派:地の声注)の経典を書くやら之を助けるやらしたため益々韓人中で有名になりその名を知らぬ者は稀な位鳴り響いて居た。」(井上右著『武田範之伝 興亜風雲譚』p.11)

かの侵略者伊藤博文をしてかく語らしめ、当時の曹洞宗を代表する森田悟由と石川素堂の尊敬を集めていた武田範之。その経歴は石川力山『内山愚童と武田範之』(宗学研究第36号)を基にした。

1863年(0) 11月23日 久留米藩士沢之高の三男として誕生。
1871年(9) 父之高、明四事件(明治政府転覆計画)に連座し逮捕される。
1873年(11) 医師武田貞祐の養子となる。
1879年(17) 江崎巽庵(1845〜1926 久留米地方の教育者:地の声注)の北汭塾に学ぶ。
1881年(19) 義父の仕途(就職:地の声注)の勧めに逆らい故郷を出奔し、熊本・大阪・郡山を放浪した後、芝増上寺住職神原精二主宰共慣議塾に学ぶ(神原精二に関しては吉田祐倫著『勤皇僧・神原精二伝』がある:地の声注)。
1882年(20) 共慣議塾山岡鉄舟と知合い問答。塾を辞して放浪し、飛騨山・赤城山を経て、新潟宝海寺で仏書を読む。
1883年(21) 新潟県顕聖寺根松玄道のもとで出家して仏書に親しむ。人、範之の精進に驚く。
1885年(23) 春、関東自由党関常吉(同郷久留米出身の政治家:地の声注)来寺、朝鮮の状況を聞かせ上京を示唆、上京する。天津条約(対清不平等条約の基幹:地の声注)を知り、一旦帰寺、その後福島県で巡査となる。
1888年(26) 柏崎曹洞宗専門支校に入学し、生徒と不受講同盟を結成。この年、長老(曹洞宗の僧侶の階級。低い方から上座、長老、和尚、法幢師(ほうどうし)などがある:地の声注)となる。
1889年(27) 顕聖寺を去り各地に放浪する。
1892年(30) 釜山に渡り漁業事業に従事するが、失敗。朝鮮浪人の政治結社玄洋社と交際、日清戦争開戦を推進。
※玄洋社(げんようしゃ、1881年 - 1946年)は、頭山満ら旧福岡藩士を中心によって、1881(明治14)年に結成された政治団体。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E6%B4%8B%E7%A4%BE を参照。(地の声注)
1894年(32) 七月、日清戦争、宣戦布告、範之従軍するも、病に罹り釜山に潜伏、後帰国し寺に帰る。
1895年(33) 十月、再び渡韓、閔妃暗殺事件に関係して逮捕、広島監獄に収監され、後出獄する。
1896年(34) 一月、予審免訴となる。
1897年(35) 総持寺で転衣、五月帰山、同県東林寺住職となり亡命者を収容し、また閔妃の三回忌を修する。
1900年(38) 五月、顕聖寺道牛示寂し、遺命により後住となる。孫文のため革命檄を草す。
1901年(39) 八月、顕聖寺に普山する。内田良平の黒竜会同人となる。
1904年(42) 曹洞宗朝鮮布教教師に任ぜられ、また宗会議員となる。
(同年、内山愚童31歳、『平民新聞』に「予は如何にして社会主義者となりし乎」を寄稿。二月、日露戦争、宣戦布告。)
1905年(43) 一月、旅順陥落詩をつくる。(同年二月伊藤博文、朝鮮総監に就任)
 「天鑱ニ嬰(よ)リ天鑱陥ル。我兵神武天ノ監スル所、敵ハ曰フ三歳尚何カ為(せ)ント。十旬淪滅亦太ダあやま(貝偏に廉)ル、憶フ昨三千伉億ノ初二当テ、我民惴々恐レテ余リ無シ。国金纔(わずか)二有リ七千万、餓エ二万蒿蘆(こうりょ。「よもぎ」「芦」を食すこと:地の声注)二迷フ。乃波艦ノ蘇士(スエズ)を超ユル二至ツテ、更二恐ル洪濤ノ霊時ヲ襄(はら)ハンコトヲ。獝狂戦悪ク数窮ラント欲ス。艨艟(いくさのこと:地の声注)外二待ツテ内恃(たのみ)ミ無シ、月正ニ三朝捷聞ヲ伝フ。内帑或ハ得ン幾歳ノ寛。天鑱ニ嬰(よ)リ天鑱陥ル。我兵神武天ノ監スル所、骨山血河因循スルコト莫シ。覇ヲ東洋ニ称スルハ始メテ今春。」(川上善兵衛著、市井三郎・滝沢誠編『興亜前提史 武田範之伝』p.192:引用は地の声)
1906年(44) 内田良平の招きで渡韓する。
1907年(45) 一月、一進会会長李容九と会見、相談役となり、後、円宗宗務院の顧問となる。同年十二月、曹洞宗「曹洞宗韓国開教規定(ママ)」を発布。(円宗と武田範之に関しては、小柴直樹「武田範之の思想と行動 −円宗と日韓合邦運動−」がある:地の声注)(曹洞宗「曹洞宗韓国開教規程」に関しては工藤英勝『曹洞宗の朝鮮布教概史』宗教研究第315号を参照されたい:地の声注)
1908年(46) 渡韓、曹洞宗朝鮮布教監理に就任する。(愚童、紙爆弾『入獄記念無政府共産』を出版)
1910年(48) 朝鮮仏教研究会会長李晦光と謀り曹洞宗管長石川素童(ママ)と交渉、朝鮮朝鮮円宗と日本曹洞宗の合併(円宗の曹洞宗への隷属化)を目指すも、連合条約露見、反対運動起こる。帰国、妹と安代温泉に休養する。
1911年(49) 療養のため上京するも、六月二十三日遷化。

内山愚童も同年一月二十四日処刑された。武田範之が愚童と共通したのは、亡くなった年と小柄だったこと。無論、曹洞宗の宗侶であったが、このことは共通項とは言えない。曹洞宗が内山愚堂を顕彰するという。では武田範之をどう扱うのか?彼を支持した森田悟由や石川素堂はどうなのか。武田範之は尊皇主義者だったことは明らかであり「侵略者」だった。では、今の曹洞宗は天皇および天皇制、それを掲げる団体とどう付き合おうとしているのか。

武田範之については、今後さらに情報を提供する予定である。曹洞宗の本質を共に考えましょう。

No.594 2008/04/04(Fri) 21:14:21

 
Re: 武田範之の経歴 / 地の声 引用

以下訂正致しました。

(曹洞宗「曹洞宗韓国開教規定」に関しては工藤英勝『曹洞宗の朝鮮布教概史』宗学研究第315号を参照されたい)の部分

「規定」は「規程」に、
「宗学研究」は「宗教研究」に

訂正致します。御指摘ありがとうございます。

地の声 拝

No.603 2008/04/12(Sat) 21:15:41


仏教者よ、バリアフリーたれ / 地の声 引用

理想的仏教僧とは何か? あえて、こんな話をして見たい。

「法堂に立った時、ありがたさが滲み出る僧」。これはうまい表現だ。なるほどと感心する。内面は形に現れるという。「仏教者は紳士たるべし」と言った人もいた。仏教の目指すところを人格の完成とし、ジェントルマンと表現したものだ。これもいい。

わたしは、「優しさ」と言う。人間苦を共有できる勇気ある人と言ってもいい。傍から見て、情けないほど優しい人。太宰治は言った。「優しさとは人を憂うと書く」と。

お釈迦様は苦しむ人々と同じ目線に立ち、自らも裸足に粗末な衣服で法を説き続けた。人気のある弟子が大旦那から招待され、回された車に乗って彼の邸宅に出掛けるとき、「貧しき人々の住む街を通るときは車から降りて歩け」とお釈迦様は言った。

そんな仏教の精神を、ダライラマに見たような気がした。「私は悪魔ではありません。角が生えてますか?」と両人差し指を頭に立てておどけて見せた。世界中が注目しているチベット問題の渦中にあって、苦しむ人々と共に歩んでいる自負と自信があるからこそ出来た、肩肘張らないごく自然な発言だった。体制にこびる日本仏教では考えられないことだが、もしも同じような状況で、日本仏教諸派の貫首やら管長がこのように行動できるだろうか。とても考えられない。難しい表情で言うのが関の山だろう。但し、そんな状況になる前に、体制におもねてしまうだろうから可能性すらない。

日本仏教は中国からもたらされたことは言うまでもない。だが、その意味を認識している日本仏教者は少ない。中国の精神「儒教」がどれほど仏教を歪曲したか。またその歪曲された仏教を誤解したまま受容してきたか。それは特に「禅」系に顕著である。いわば、お釈迦様本来の仏教から遠ざかってしまったのである。「礼は禅門にあり」と言う。「礼」とは儒教の根幹をなす思想である。徹底した上下関係、「分」をわきまえること‥儒教なのか仏教なのか、禅門の特色と言われるもののほとんどが実は儒教によるものであることを知らなければならない。そして、儒教は権力を支える思想であることを知らなければならない。これはお釈迦様の説いた仏教と、本質的に異なるものなのだ。

いまでも、「禅は当たり前のことを、当たり前にすること」とノタもう「高僧」がいることに驚く。当たり前のこととは一体なにを意味するのか。わたしなどは、裸足で歩くことと思うのだが、どうも違うようだ。なにも考えず「飯を食う時は、ひたすら飯を食う」ことらしい。笑止。そんなものが仏教であるわけがない。上から言われたとき、下が無原則に従うことが仏教であるとすれば、お釈迦さまのサンガすら否定することになる。「当たり前のこと」とは、共に悩み苦しむことであり、「当たり前にする」ことは「同苦」が議論以前の当然のことと認識し行動することである。体制への迎合を前提として、苦しい言い訳をしてはならない。中国と日本にとって、儒教は、「言い訳」を提供してくれた実に利用価値が高い思想だったとも言える。

禅から儒教を取り去れ。その結果、ひょっとしたら、なにも残らなくなるかも知れないが、それならそれでしかたないだろう。

話を元に戻す。理想的仏教僧とは何か?

優しさの滲み出る僧と言おう。権力的要素の一切ない僧と言おう。上下関係を否定する僧と言おう。仏教は本来優しさの宗教である。「仏教は花の宗教」と呼ばれる所以である。いまの仏教僧を見てみれば、金ぴかギラギラの衣服を纏い、なにやら難しそうな表情で、他を寄せ付けない雰囲気がある。中身がないから、バリアを周囲に張って身をまもっているだけなのである。「偉く」なればなるほどその傾向が強まる。傍から見ると滑稽極まりない。田舎芝居でもかくはあるまい。

仏教者はバリアフリーたれ。

No.602 2008/04/12(Sat) 07:03:17


草の根の戦争責任と仏教者 / 地の声 引用

この国や仏教者が戦争責任を受け入れることができないのには大きな訳がある。あまりにもその責任が重すぎて背負いきれないのである。逆に言えば「おくびょう」だからだ。「やむを得なかった」だとか「戦争とはそういうものだ」という逃げ口上や弁解は聞きたくない。臆病者のいいわけなどに耳をかす気は毛頭ない。

戦時中、戦争を「歓迎」したのは軍部だけではなかった。「草の根」の戦争責任‥実は国民も歓迎したのである。なぜなら金になったからである。息子たちは徴兵されると、家のきびしい生活を心配して戦地から給料を家に送金した。これは大きな支えだったし期待もした。

先日、葬儀後の斎事で、お隣の席のご老人から、「○○家のお婆さんは、元は家(うち)の嫁だった。旦那が戦死したので他家に嫁いだ」と聞いた。何も知らなければ、戦争悲劇の一コマと受け止められるエピソードだ。しかし、その背景を考えれば、実はなんともやりきれないことなのだ。戦死すると多くの嫁が離縁されたという事実を今の人たちは知らない。当事者が口を閉ざして語らないからだ。戦死者弔慰金を親が受け取るために嫁を離縁したのである。

岩手県には「粟まき」という隠語があった。

‥岩手県で村の国婦分会長兼愛婦分会長になった伊藤まつをは、その回想『石ころのはるかな道』のなかで、銃後のことは引受けたといいながら、出征軍人の妻にまつわる問題、とくに「粟(あわ)まき」の事実と深刻さに婦人会長の無力さをしみじみと述べている。このあたりでは、舅親父が息子の嫁を犯すことを「粟まき」といい、現実に少なくなかった。前線の兵士から婦人会長を頼りに心配して寄こした手紙には「妻はあってももう自分の妻ではない。今はなにをか望もう」と書いてあった。村では当の若妻が泣きながら「会長さん。私はなじょすれば(どうすれば)よがすべ。お父さんのいうことをきかなければ、あの家におられながす」という。
(藤井忠俊『国防婦人会』 pp.171-172)

「粟まき」は岩手県に限ったことではない。恐らく全国でなかば公然と行われていたのだろう。当時、寺院住職は地域の指導的立場にあった。「粟まき」を知らなかったはずはない。それを黙認した仏教者としての責任は万死に値する。今は亡き老僧から「戦時中、戦死した夫の法事の読経のあと、お布施が払えないからといって後家さんが自分のお尻をお盆にのせてきた」という(少々出来すぎた)「武勇談」も聞いたことがある。「粟まき」とおなじ脈絡にある。このとほうもなく重い責任を堕落した仏教者たちに負わせること自体、無理な注文なのだろう。

名のある仏教者たちは「一殺多生」や「興禅護国」を唱えて戦争を鼓舞・指導し、草の根の仏教者たちは檀家の苦悩を見て見ぬふりをして戦争に協力し利用した。日本仏教のそんな負の遺産を継承することはまっぴらごめんである。いまこの国の仏教者に求められているのは「つくろう」ことでなく「つぐなう」こと、即ち仏教(のみならず、あらゆる宗教)の原点である懺悔することである。真摯な懺悔なきがゆえ、日本仏教はむなしいものになってしまったのである。人々の「美しい誤解」によって、かろうじて維持されている日本仏教が、その正体がばれて崩壊する日は近い。

No.601 2008/04/11(Fri) 06:30:35


映画『靖国 YASUKUNI』に自民議員が介入 / 地の声 引用

自民議員が出演者聴取 “靖国”監督が反発
2008年4月10日 00:59 カテゴリー:社会
西日本新聞 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/15320

映画「靖国 YASUKUNI」の中心的出演者で刀匠の刈谷直治さん(90)夫妻=高知県在住=から有村治子参院議員(自民、比例)が事情を聴き「刈谷さんらは出演シーンの削除を希望している」と主張していることが分かった。李纓監督(44)は9日、共同通信のインタビューで「出演を納得してくれていた夫妻を変心させた。許せない介入だ」と訴えた。(因みに、有村治子議員の父・有村國宏(元滋賀県議会議員)は学習院大学出身で島村宜伸と共に今上天皇(当時は皇太子)の学友。政治信条は「フェア(公正)であること」「誠実・堅実・実直であること」「勇気を持って行動すること」を掲げ、「これからもまっすぐに命・家族・国家の尊厳を守りたい」とする。まっすぐどころか卑劣な手段で上映を妨害しようとする厚顔無恥な行動の背景には「国家の尊厳」の維持でもあるのだろう。そんなことだから、この国はいつまでも精神的後進国と呼ばれるのである。:地の声注)

 映画は「靖国刀」を作り続ける刈谷さんの姿と靖国神社をめぐる動きを描いたドキュメンタリーで、上映中止が相次いだ。シーンの削除になれば作品の成立自体を左右しそうだ。
 有村議員は9日夜「(監督の主張を)刈谷さんに電話で確かめたが、わたしの話で気持ちが変わったことはないということだった。監督の話は事実無根だ」と反論した。
 有村議員によると、「刈谷さんが困惑している」との情報があったため、3月25日、刈谷さん夫妻と電話で話し、削除希望を聞いたという。
 これに対し李監督は「(削除希望は)信じられない。どうして政治家がそこまで介入するのか」と反発している。

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試写会で観たひとたちの意見では、監督が在日中国人ということから靖国批判がテーマだろうと先入観があったが、「むしろ、これを中国で上映した場合、この監督は長年日本に住んで日本に同情的になり過ぎている、と批判されるのではないかと思えるほどである。」(映画評論家・佐藤忠男)という。中立的視点から靖国を描いた映画である。

なぜ、国会議員まで上映阻止に動くのか?他の民主国家では考えられない異常な行動だ。

似たようなことが、先日判決のあった「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」でもあった。

原告側証人喚問の際、原告梅澤は「沖縄ノート」を「提訴後に読んだ」、原告赤松の親族は「難しくて飛ばし読みした」と証言。原告は訴訟の対象物を読まないまま提訴したことが明らかになり、原告の支援団体などが主導して訴訟が起こされたのではないかとの物議を醸した。(wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E%E3%83%BB%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%9B%B8%E5%BA%97%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6%E8%A3%81%E5%88%A4

靖国の実態が明らかにされると、大きな不利益をこうむるものたちがいまだにこの国に大勢いるのだろう。中立は真ん中になければならない。右や左に片寄ってはならない。

難産を強いられている映画『靖国』だが、あまり悲観的にならなくてもいいだろう。世に出がたい赤ん坊ほど大きく逞しく育つものである。逆に全国から上映依頼が殺到しているという。わたしも観る。

ところで、靖国神社はいちおう宗教法人である。これほど注目を集めているいまや社会問題を、当事者である宗教界が沈黙しているのはおかしい。たとえば全日仏などは早急に抗議しなければならないはずだ。「平和」を掲げる曹洞宗もしかりである。こんなときに、宗教界の正体がバレるものである。この国の仏教は、国家神道や皇国史観をいまでも容認していると言われても反論できないだろう。

No.599 2008/04/10(Thu) 07:05:49

 
コメント / 地の声 引用

◎著名人コメント

田原総一朗(ジャーナリスト)

これほど靖国追及に勢力を注ぎ込んだ映画はない。観るのは辛いが目を背けるわけにはいかない。凄まじい作品である。

土本典昭(記録映画作家)

李纓氏の最新作『靖国』は敗戦記念日のその一日を凝視する。既成の見方、アングルは排除され、初めてその日を見るように新しい。九十歳の刀鍛冶とその日本刀を物そのものとしてとらえ乍ら、軍人の“魂”とされ、神社の“神体”とされた歴史を天皇と軍人の寫眞と交錯させ、この“神体”が戦争へのよみがえりにつながっていることを見事につたえている。
“私たちは日本人ではない”と叫ぶ東アジア人の“英霊”の声は戦後六十年の虚構をあばいている。これは“考える映画”の秀作である。

森達也(映画監督/ドキュメンタリー作家)

観終えてつくづく思う。不思議な場所だ。奇妙な磁場だ。引き寄せられる何かと、遠ざけられる何か。
スクリーンに浮かびあがるその一つひとつの要素を凝視することで、この国のもうひとつのアウトラインが、きっとあなたの中に形作られる。

鈴木邦男(一水会・顧問)

靖国神社を通し、<日本>を考える。「戦争と平和」を考える。何も知らなかった自分が恥ずかしい。厳しいが、愛がある。これは「愛日映画」だ!

アレクサンドル・ソクーロフ(『エルミタージュ幻想』『太陽』監督)

映画監督・李纓は唯一無二という意味でユニークなタイプのプロフェショナルな映画人だ。多くの作品を創ってきているが、今回もこの『靖国』を見て、高度な完成度、明快さと簡潔さに驚かされた。彼は非の打ち所なくモンタージュを行い、自分なりに映画の時間を感覚し、この感覚したこと全てを現実の映画に絶妙に変容させる。
李纓は輝かしいばかりのドキュメンタリー技術を身につけており、彼のドキュメンタリー映画は一定のプロセスを踏査した結実であるばかりか、揺れ動く感情の物語である。これはまさに文学の巨匠ができることである。
『靖国』は、ドキュメントであり歴史でもある物語を芸術作品に変容する李纓の能力を遺憾なく発揮しており、私にとっても極めて重要な作品となった。彼のこの能力に感嘆させられる。私はすべての映画プロデューサーに、何らかの力を持つすべての人々に呼びかける。この才能豊かな監督を助けてください。支えてください。作品を見てください。彼の才能を大事に、大事にしてください。

スティーブン・オカザキ(『ヒロシマナガサキ』監督)

これは今ままで作られた日本のナショナリズムに関する映画の中で、最も重要で優れた作品だ。
挑発的でありながら、熟慮されていて、作為的なところがなく誠実である。
この映画のすべてのフレームに「真実」が宿っている。

野中章弘(ジャーナリスト、アジアプレス・インターナショナル代表)

私はいつも「国家」を疑っている。靖国思想は「日本」という国と「日本人」という人々の作り出した「物語」のひとつである。この映画はそのような物語を信じてきた「日本人」の思想のあり方を問うている。

古居みずえ(『ガーダ パレスチナの詩』監督)

「天皇陛下万歳」と叫ぶ男性。「生きているときも自由を奪われ、今は魂さえも閉じ込められている」という台湾からきた遺族の女性の訴え。「中国人か、中国へ帰れ」と罵声を浴びせられながら、追悼集会に反対して暴行を受ける若者。靖国で繰り広げられる様々な映像が、叫ぶ人々の生の言葉が、激しく私たちに迫る。一方で対照的に、靖国の刀作りを再現する刈谷刀匠と監督の静かな時間が流れる。「当時のことを覚えていますか?」「靖国をどう思いますか?」という監督の核心の質問に口ごもる刈谷刀匠。決して問い詰めるのではなく、会話が続く。動と静が絡まった見事な映像が、私たちに戦争とは、靖国とはと問いかけてくる。

綿井健陽(フリージャーナリスト、『Little Birds』監督)

「靖国神社」に行ったことがある人も、「靖国神社」に行ったことのない人も、実は「靖国」のことは何も知らないのかもしれない。 映画『靖国』が映し出す光景から、もう一度考え直しだ。

小橋めぐみ(女優)

政治的な問題に隠れてしまっていた一人ひとりの熱い想い。
正か否かを問う前に、まず観るべき映画だと思う。
特に戦争を知らない世代の私たちは。

佐藤忠男(映画評論家)

中国人の李纓監督が日本人を理解しようと真剣に努力している姿に打たれました。

倉本美津留(放送作家)

あとから反芻できるいい作品だと思いました。

大場正明(映画評論家)

この映画の靖国からは、戦争だけではなく、出発点が曖昧にされているために出口を見出せない近代が浮かび上がってくるのだ。

川村夕祈子(キネマ旬報編集部)

タイトルに惑わされないでほしい。
冷静な視点で捉えた、いわゆる普通のドキュメンタリーである。
ただし、最も観る価値のある映画だ。

松江哲明(ドキュメンタリー監督)

被写体を「追っかける」ドキュメンタリーは散々見て来たけど、被写体がカメラに「向かってくる」のなんて初めて。それも体当たり寸前で。
さすが靖国、ヒトビトを極端にさせる舞台としては最強の場。

梅山景央(「Quick Japan」編集部)

とにかくカメラが近い。レンズに唾がかかりそうな、いまにもカメラをはたかれそうな、 抜き差しならない距離感がいい。いちいちちょっかい出してる感じがいい。

唐沢俊一(評論家)

後味の決していい映画ではないが、しかしどう反応するにしろ、われわれに何か答えを求める映画ではあった。まずは観るべし。

藤木TDC(フリーライター)

帝都の霊廟より地湧する近現代の百鬼夜行。戦後はまだ、終わっていなかったのだ!

吉村紗矢香(CUT編集部)

このあまりにストレートなタイトルに、強烈な写真のイメージ怯んでしまった人にこそ観てほしい、力強くも繊細な作品。

有田芳生(ジャーナリスト)

復古主義の反時代。これが二一世紀の日本かと驚かされた。石原慎太郎さんに取材したときの言葉が蘇ってきた。 「戦前の日本はいまの北朝鮮みたいなものだよ」。この作品に反対するも賛同するも、まずは自分の眼で見てからの判断だ。

インリン・オブ・ジョイトイ(タレント)

「靖国神社という場所…何故、中国や韓国などの人々から靖国参拝を反対されるのか?理由はこの映画に詰まっている。今こそ日本の若者に伝えなければいけない真実やメッセージはここにある。戦争のない平和な世界に近付く為に、知らなければならない真実〜。

◎映画評

李纓の「靖国」は、第二次世界大戦で亡くなった“英雄たちの霊”を祀った論争の多い日本の神社をあらゆる視点からメスを入れる。この問題はアジアで高い関心があるのはいうまでもないが、それ以上に、刀や菊といった国家の象徴がもつ意味を探りながら戦中及び平和な時代における日本の歴史を考え深く紐解く李纓の切り口は、慎み深く巧妙だ。観客から熱い反応を得た映画となった。

(2007年釜山国際映画祭The Daily 10月11日号より)

李纓監督の「靖国」は、議論の多いこの神社の問題に取り組んだ初めてのドキュメンタリーだ。日本で十年もの間、取材した結果、映画は靖国神社を巡り対比する様々な意見を描写する──過去の栄光な日々に思いこがれる右翼の活動家たち、それに反対する者たち、そして戦争の被害者たち。「靖国」は単純にこれらの異なる視点を並べるに留まらず、刀や天皇が象徴する意味を紐解きながら、日本人の無意識における靖国神社の意味を詳細に吟味する。(KIM Byeongcheol)

(2007年釜山国際映画祭カタログより)

この挑戦的で観察力に富んだ映画の中で、真実のインタビューや、生きている最高齢刀鍛冶が神社のために最後の刀を製作するといった素晴らしい記録的な映像を交えながら、最も日本的な神社を巡る戦争、信義、命、そして死の意味を追求する。

(2008年サンダンス映画祭カタログより)

◎「アジアと日本人を語りたい」

歴史論争とは、視点の問題である。何が事実でどこまでが事実なのか、歴史は互いに異なる立場において、それぞれ異なって潤色される。戦争や対立の激しい事件においては、なおさらである。互いに異なる事実が乱舞し、一方に偏った主張が、事実とは関係なく強要される。東アジア地域におけるもっとも熱い問題である靖国神社も、またそうである。日本の総理の靖国参拝は、毎回、論争を呼び、中国と日本、韓国と日本の外交は、靖国の前で足止めされる。

中国のリ・イン監督が靖国神社についてのドキュメンタリー「靖国神社」をひっさげて釜山へやってきた。1989年から日本に住んでいる彼は、中国では知らなかった日本人の歴史意識、靖国についての考え方に衝撃を受け、映画を撮り始めた。「南京虐殺についてのセミナーで、日本人が(日の丸を?)国旗として意識し、拍手を送る姿」は、日本文化に慣れ親しんだ彼にとっても違和感のある光景であった。偶然、靖国で日本刀を作っていた職人の話を聞き、彼はその老人の生き様を靖国問題の解決の糸口に据えた。

 「靖国神社」は日本に存在する多様で複雑な軋轢を見せてくれる。アメリカ人に対する日本人の立場と靖国参拝に対する支持と反対。「都合のいい歴史だけを記憶し、都合の悪い歴史は削除する」という日本人の姿が、現在の靖国神社が置かれている位置を浮かび上がらせる。「靖国の霊魂、その総体的、象徴的な意味」として提示された日本刀を作る職人の姿も、そこに同時に重なる。彼は、「ある意味では、沈黙のほうがやかましい論争よりもはるかに問題の核心を伝える」といい、老人の沈黙をそのままに映し出す。それとともにこのやり方は、「中国、日本、韓国、台湾が歴史についてじっくり考えることのできるきっかけ」のためでもあるという。

 「靖国神社」は今年、日本と中国で公開される。リ・イン監督は「韓国でも同様の時期に公開されて歴史的な責任問題をともに語り会うことができれば嬉しい」という。10年にわたって撮影され、「やはり膨大な量の勉強」をもとにして完成されたリ・イン監督の歴史的対話。彼は「そろそろ韓国も植民地後百年になるではないか」といい、ともに対話に参加しようではないかと語った。

(文・チョンジェヒョク ピープル誌より)

http://www.yasukuni-movie.com/contents/comment.html

No.600 2008/04/10(Thu) 21:13:48


閔妃暗殺事件と武田範之 / 地の声 引用

ロシアと結び日本侵略に抵抗した閔妃(みんび)の暗殺事件は、歴史の流れを大きく変え、その後の日韓併合にむけての足掛かりとなった。この事件に武田範之はどうかかわったのか?(滝沢誠『武田範之とその時代』を参考にした)

閔妃暗殺事件の当事者らの記述には、武田範之の名前は出てこないという。しかし金鰲島(クムオド、全羅南道麗水市)でともに漁業事業に取り組んだ李周会が当事件の首謀者であることを考えると、武田範之がまるで傍観的立場にあったと想像するのは難しい。

閔妃暗殺事件に関係した壮士らは退韓命令により堂々と日本の便船で帰国しているが、武田範之は事件関係者千葉子諒を事件後長崎の知人に秘かにかくまってもらったという。千葉は閔妃を直接手にかけた「二壮漢」のひとりである可能性があり、そうすれば武田範之は閔妃暗殺事件の中核人物ということになる。

武田範之が広島監獄収監中弟にあてた手紙がある。

「‥‥此度は東海散士(三浦梧桜公使顧問柴四郎:地の声注)も同じく入獄、同じく謀殺とか凶徒嘯聚とか恐ろしき名にて御座候。然れども、われわれに限り、さる事のあるべきに非ず、殊に散士も私も其頃病気にてうち臥し、私は見物にとも参りたる位に御座候故、去る事の有りとするも、大体無関係に御座候間、不日放免と相成る可きは必定に御座候‥‥」(前掲書 P.104)

監獄から出した手紙だけに割り引いて考えなければいけないが、病気を押して韓国まで出掛けたことの不自然さに川上善兵衛(武田範之の弟子。資料集『武田範之伝』著者:地の声注)および滝沢誠は首をかしげている。

閔妃暗殺事件と武田範之。いまだに謎に包まれているが、これがきっかけとなって朝鮮浪人武田範之は日韓併合という舞台で大きな働きをすることになる。

No.597 2008/04/07(Mon) 12:39:02

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