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中国寧波天童山は曹洞宗の聖地である。だが、それに関わる中国近代の仏教者のことを、あるいは現代の中国仏教者のことを、今の曹洞宗はどれだけ認識しているのだろうか。
南京に毘盧寺がある。南京最大の仏教寺院である。
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太虚(たいきょ, 光緒15年12月18日(1890年1月8日) - 1947年3月17日)は、中国で中華民国時期を中心に活躍した僧である。南京の毘盧寺の僧である。 1912年、師である天童寺の敬安が、湖広総督の張之洞らを中心とした、「中体西用」思想に基づいた廟産興学運動により、各地の仏教寺院を没収し、学校教育のための施設や費用に充てるという施策の進行に反対し、憤死した。これに発奮した太虚は、仏教界の革新・粛正を企図して『覚社叢書』を発刊、自身の『整理僧伽制度論』を収載した。 また、武昌仏学院を設立して人材育成のための青年僧教育機関の経営に乗り出した。そこからは、印順らの優秀な後継者が出た。更に、世界の仏教徒の協力の必要性を説き、世界仏教連合会を組織、月刊『海潮音』を創刊した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E8%99%9A
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文中に登場する印順は台湾仏教の父と言われる。
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印順(いんじゅん, 1906年3月12日(光緒32年) - 2005年(民国94年)6月4日)は、現代中国の僧であり、仏教学者である。俗名は張鹿芹、浙江省海寧県の出身、農家に生まれる。小学校の教員となるが、1929年、父の死後、出家して法名を印順と称した。 太虚が主導する厦門(福建省)の南普陀寺にある閩南仏学院で修道し、後には教鞭を執るまでになった。1943年、武漢(湖南省)の武昌仏学院の教授となる。日本軍の攻撃が激化したことで、重慶(四川省)の漢蔵教理院に移る。ここで、やはり太虚の弟子でチベット留学経験のある法尊と交流を持つ。その後、四川省の法王仏学院の院長などを歴任し、戦禍を避けて香港を経て台湾へと移った。台湾では、台北の慧日講堂を活動拠点とし、布教活動や講演活動を行い、また、師の太虚の全集の編纂などを行なった。 1971年、大正大学に『中国禅宗史』と題した論文博士を獲得した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E9%A0%86
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私は台湾の慈済会という仏教団体にシンパシーを抱いている。なぜなら、その活発な社会奉仕活動に仏教者として実に多くを学ぶからである。
證厳(台湾の慈済会)‥‥印順(台湾仏教の父)‥‥太虚(南京毘盧寺)‥‥天童寺敬安
今月23日、南京毘盧寺に於いて復興10周年の大法要が営まれるという。道元禅師が学んだ天童山に縁深き南京毘盧寺の法要に曹洞宗は参加するのだろうか?それとも戦争責任の重きに耐えかねて参加できないのだろうか?あるいは「無視」されているのだろうか‥。
ビルマ、チベットのみならず現在進行形で動く世界の仏教界。同じ祖をもつ中国や台湾の仏教者と曹洞宗だが、一方は活発に仏教活動を展開し、他方は不正問題で出口を見失いさまよっている。 |
No.631 2008/05/02(Fri) 06:02:40
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