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名和月之介・論文『仏教と軍事援護事業』を読む / 地の声 引用

『仏教と軍事援護事業−日清戦争における西本願寺教団の事業を端緒として−』(四天王寺国際仏教大学紀要 第40号)

明治仏教は廃物毀釈ほか内外の攻勢を受け、課題に答えるために慈善事業をおこない、日清戦争をきっかけとして「軍事援護事業」に取り組むことになったという。

従軍布教については、明治27年(1894)12月27日、各宗派本山惣代天台宗、真言宗、臨済宗妙心寺派が連名で、各宗16名の戦地派遣を申請許可されたことから始まったという。各宗派派遣人員の内訳は、天台宗1名、真言宗4名、臨済宗3名、浄土宗2名、浄土宗西山派1名、曹洞宗2名、日蓮宗3名だった。

では教理の面での齟齬はどう解決したのか。そこに「日本国仏教」の儒教的要素がみごとにあらわれている(あるいは老荘思想も見て取れる)。

「明治27年7月25日『密厳教報』‥僧侶は軍人として働くべきではないことを信じ、僧侶兵役の免除を主張し徴兵令の改正を望んでいる。そして人類史上戦争の跡を断ち、世界各国軍備の廃滅を願うことは仏教徒の理想としている。しかし、国命を奉じ軍職について、あるいは義によって仇敵との対戦はできないことはない。むしろ公戦に勇気をふるうことが仏教の奨導するところであるとしている」(同論文p.15)
「戦争開始後、明治27年10月渥美契縁は‥戦争行為は、いわば世間在俗の人の道徳のレベルの問題であるとする。すなわち道徳とは簡単には止悪作善であるが、善悪は国風民俗または歴史によって標準同じではなく、あるいは同一の事業で善とも悪ともなる。ただ君主に忠愛を尽す良心に出るものであれば、これを罪悪と名づけられず、かえって善といえるとする。」(同論文pp15-16)

後者では、善悪を超える超論理が見られる。これはまさに老荘思想の影響によるものである。仏教が変質し戦争に加担した原因に、「日本国仏教」が元来内蔵していた「儒教」「道教」(あるいは神道)を指摘することができる。問題は、それを今の仏教者がどれほど認識できているかにある。

余談だが、「明治期の開明的思想家である福沢諭吉が明治8年刊行の『文明論之概略』において、仏教は治者の党に入ってその力に依頼しない者はなく、宗教はあっても自立の宗政はなかったとの指摘が想起されるのである。」(同書p.20)という論者の、嘆きともとれる一文に、私も首をうな垂れざるを得ないのである。

同論文はインターネットで公開されている。是非、ご一読。
http://www.shitennoji.ac.jp/ibu/images/toshokan/kiyo2005s-02nawa.pdf

No.636 2008/05/11(Sun) 19:07:42


資料(その3):曹洞宗報国会 / 地の声 引用

○曹洞宗報国会に関する件
(昭和17年刊『曹洞宗宗制』pp655-663)(以下、句読点、現代漢字、読みは地の声)

○曹洞宗報国会結成の件(昭和16年9月15日)

告 諭(秦慧照管長:地の声注)
今次欧州大戦は独ソ開戦を契機として新段階を画し、世界情勢の変転は愈々(いよいよ)複雑となり、邦家内外の事態また頗(すこぶ)る緊迫を加う。我等生を皇国に享け、仏々祖々の命脈を保持して任を教職の重きに負う者、宜しく決意を新にし、其の総力を挙げて時艱(じかん)克服に集中し、率先垂範挺身実践を以て国家報効の誠を竭(けっ)すべきなり。
衲(のう:自分のこと:地の声注)ここに時局の動向を察し、臨戦態勢の機構を整ふるため曹洞宗報国会の結成を命じ宗務役員をして之を企画せしむ。
闔宗(ごうしゅう)の道俗、深く衲の慮を体して遺憾なきを期すべし。

○大詔奉戴の件(昭和16年12月8日)(大詔奉戴−たいしょうほうたい。太平洋戦争が開始された昭和16年12月8日、昭和天皇が公布した「宣戦の詔勅」をありがたく承ること:地の声注)

告 諭(秦慧照管長:地の声注)
性海湛然として常に動揺なしと雖も、時に業風の波浪を激翻することあり。
畏(おそれおお)くも(一字空け)天皇陛下本日宣戦の大詔を渙発せらる。(一字空け)恭しく聖旨を拝し、下情激切の至りに堪へず。
惟(おも)ふに支那事変を完遂し大東亜共栄圏を確立し、以て世界平和に寄与し、人類の福祉に貢献せんとするの大業は、帝国不動の国是たり。然るに米、英両国之を解せず、徒に世界制覇の非望を逞うし、猥(みだり)に與国を藉(か)りて禍乱を助長し、帝国の存在を危殆(きたい)に瀕せしむ。謂つべし、正に皇国の隆替東亜興廃の岐るる秋(とき)なりと。
本宗の緇素(しそ。寺檀すべて:地の声注)宜しく其の総力を挙げて国難に赴き、率先垂範挺身奉公、祖先の遺風を顕彰し、雄渾なる皇謨(こうぼ。天皇の意思:地の声注)を翼賛し、以て皇恩に報い奉らんことを期すべし。
衲ここに虔みて仏祖の照鑑を仰ぎ、敢(あえ)て闔宗に告諭す。

○曹洞宗報国会綱領及規約(昭和16年9月15日告示第38号 昭和17年1月1日告示第1号改正)
綱 領
一 必勝信念の昂揚
二 戦時生活の確立
三 挺身奉公の実践
規 約
第一章 総 則
第一条 時局に即応し宗門の総力を挙げて国家目的に一如せしむる態勢を整備する為曹洞宗興亜局内に曹洞宗報国会を設置する
第二条 本会は前条の目的を達する為左の事項を行う
 一 本宗教師、僧侶及檀徒並びに信徒の錬成
 二 寺院及教会の臨戦態勢の整備
 三 宗門総力の動員計画の実施
 四 其の他必要なる事業
第三条 本会の本部を宗務院に置き地方に支部を置く
第四条 本会は本宗教師、僧侶及檀徒並びに信徒を以て其の構成員とす
第五条 本会は管長を総裁に、貫首を副総裁に推戴す
 総裁は本会を統率し之を代表す
 副総裁は総裁の諮問に応ず
第二章 本部の職制(略)
第三章 本部の機構(略)
第四章 支 部
第十七条 宗務所に道府県支部を、教区事務所に教区支部を、寺院(教会)に寺院(教会)支部を、宗門関係学校に学校支部を置く
 学校支部は之を本部の直轄とす
 第一項に規定するものの外必要ありと認めたる場合は適当の地に支部を置くことを得
第十八条 道府県支部長は宗務所長を、教区支部長は教区長を、寺院(教会)支部長は住職(教会主管者)を、学校支部長は学校長を以て之に充て其の他の支部は之に準ず
第十九条 道府県支部は地方庁其の他の団体との連絡交渉を密にし本部と連繋し管区内の本会の事務を処理す
第二十条 (以下略)
第五章 会 計(略)
第六章 補 足(略)
附 則(略)

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曹洞宗が積極的に戦争協力を行うようになった理由は二つある。ひとつは、その教義の中に「儒教」があり、国家に隷属することに自己矛盾がなかったこと。「大詔奉戴」の管長告諭に「本宗の緇素(しそ。寺檀すべて:地の声注)宜しく其の総力を挙げて国難に赴き、率先垂範挺身奉公、祖先の遺風を顕彰し、雄渾なる皇謨(こうぼ。天皇の意思:地の声注)を翼賛し、以て皇恩に報い奉らんことを期すべし。」とある。仏教の「自燈明 法燈明」の独立精神は失われている。
そのような体質を持っている曹洞宗が戦争を批判することなく無原則に国に追従していくのは当然のことだった。特に、戦況の悪化によって国が宗教団体に要請したものは大きい。

1937年 国家精神総動員体制
1938年 国家総動員法発令
1940年 皇紀2600年
1941年 「言論、出版、結社等取締法」
同年  「治安維持法」改正  国体を否定し又は神宮若は皇室の尊厳を冒涜することの禁止
同年  12/8 太平洋戦に突入(半年後ミッドウエー海戦で敗れ戦局悪化。以後敗戦までこの国は塗炭の苦しみを味わうこととなる。国家予算の8割が戦争遂行に充てられる。それでも足らず「献納」「挺身」「節訳」‥さらには「自決」までが強要され、曹洞宗も無論荷担した)

皇国への忠義と報恩‥「儒教」化し本来の道を見失った曹洞宗の当然の帰結である「戦争責任」は明らかである。私たちはこのような愚行を二度と繰り返してはならない。まさにそのために、曹洞宗に今でも蔓延る「儒教」的要素、あるいは「無原則に上意に従う」非仏教的「誤った」体質を厳しく批判し、切り捨てていかなければならない。

No.634 2008/05/07(Wed) 06:48:33


資料(その2):曹洞宗興亜局規定 / 地の声 引用

曹洞宗興亜局規定(昭和17年刊『曹洞宗宗制』pp651-654)

「興亜」とは東アジア共同体を構築するという思想。樽井藤吉『大東合邦論』(1885年)が知られている。「大東」とは「日韓」共同体を意味する。要するに日本帝国のアジア侵略に理由づけをしたもの。因みに福沢諭吉は韓国・中国は民度が低いから東アジア共同体など不可能とし、「脱亜論」を唱えた。
参考:http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=2&nid=1645439

武田範之はもちろんピカピカの興亜主義者だったし、それを支持した曹洞宗もまたそうだった。国の侵略政策に曹洞宗は宗門をあげて協力した。同規定第一条第一項に、曹洞宗の開教事業、教育事業及公益事業はみな興亜大業(すなわち侵略)のためであると明記している。

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○曹洞宗興亜局規定の件(昭和16年4月1日 令達第2号)

曹洞宗興亜局

第一条 興亜大業の翼賛を期し左の各号の事業を行う為特に宗務院内に曹洞宗興亜局を設置す
 一 満洲国、中華民国、蒙疆、南方諸島等に於ける開教事業、教育事業及公益事業
 二 仏教報国運動等に関する事業
 三 軍人援護に関する事業
 四 前各号の目的達成の為必要なる講習会、講文化講座、教師練成会、文書の刊演会行等に関する事業

 五 留学生及留学委託僧の教育又は其の援助に関する事業
 六 各種団体との共同事業
 七 其の他必要と認めたる事業

第二条 興亜局に左の役員及び職員を置く
 役 員
 局長 一名
 理事 三名 内一名を常務理事とす
 参与 若干名 内一名を常任参与とす
 参務 若干名
 職 員
 幹事 一名
 書記 若干名

第三条 局長は総務を以て之に充つ
 局長は局務を統括し之を代表す
 (以下略)
第四条 理事は部長を以て之に充て常務理事は教学部長たる理事之に充つ
(略)
第五条 局長及理事を以て局議を組織し局長之を主宰して興亜局に関する重要事項を審議す
第六条 参与は宗会議員を以て之に充て常任参与は参与中より局長之を委嘱す
 参務は宗務所長を以て之に充つ
 常任参与、参与及参務は局長の要求に応じて諸般の事務に参画す
第七条 幹事は教学部主事を以て之に充つ
(略)
第八条 書記は六等以上の教師中より管長之を任命す
 書記は稟命待遇とす
第九条 事務の都合に係り興亜局に雇員若干名を置くことを得
(略)
第十条 興亜局の役員及職員は書記を除くの外総て名誉職とす但し実務に応じて若干の手当を支給することあるべし
第十一条 興亜局に要する経費が(ママ)毎年度宗務院の臨時費を以て之を支弁す
第十二条 興亜局は常任参与会に諮り局議の議決を経て之を廃止することを得


(以上)

No.633 2008/05/05(Mon) 21:30:25


資料:戦時下の曹洞宗宗制 / 地の声 引用

宗教団体法
【公布】 昭和一四年四月八日法律第七七号
【沿革】 昭和一五年三月二九日法律第二五号により一部改正
(昭和二〇年一二月二八日勅令第七一八号により廃止)

第一六条
 宗教団体又は教師の行ふ宗教の教義の宣布若は儀式の執行又は宗教上の行事が安寧秩序を妨げ又は臣民たるの義務に背くときは主務大臣は之を制限し若は禁止し、教師の業務を停止し又は宗教団体の設立の認可を取消すことを得

第一七条
1 宗教団体又は其の機関の職に在る者法令又は教規、宗制、教団規則、寺院規則若は教会規則に違反し其の他公益を害すべき行為を為したるときは主務大臣は之を取消し、停止し若は禁止し又は機関の職に在る者の改任を命ずることを得
2 教師法令に違反し其の他公益を害すべき行為を為したるときは主務大臣は其の業務を停止することを得

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国は戦争遂行のために宗教団体を管理する「宗教団体法」を公布。曹洞宗はそれを受けて「宗制」の改正をおこなった。すなわち、「安寧秩序を妨げ又は臣民たるの義務に背く」場合の罰則を設けた。言うまでも無く「臣民たるの義務」とは、天皇を頂点とした日本帝国(侵略)主義に協力することであって、仏教者としての行いは二の次とされたということである。無論、戦争に反対した場合は、新「宗制」によって処分するという明確な姿勢を示したものである。

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【曹洞宗宗制 第四百五十条】
左の各号の一に該当する者は宗内擯斥に処す
一 宗教団体法第十六条の規定に依り寺院又は教会の設立の認可を取消されたる住職又は教会主管者
(以下略)

【曹洞宗宗制 第四百五十一条】
左の各号の一に該当する者は分限褫奪(ちだつ)に処す
一 宗教団体法第十六条又は第十七条の規定に依り業務停止の処分を受けたるもの
(以下略)

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以後二回、当宗制から「日本国仏教」曹洞宗の実態を考えてみる。

No.632 2008/05/04(Sun) 06:56:04


南京毘盧寺覚書 / 地の声 引用

中国寧波天童山は曹洞宗の聖地である。だが、それに関わる中国近代の仏教者のことを、あるいは現代の中国仏教者のことを、今の曹洞宗はどれだけ認識しているのだろうか。

南京に毘盧寺がある。南京最大の仏教寺院である。

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太虚(たいきょ, 光緒15年12月18日(1890年1月8日) - 1947年3月17日)は、中国で中華民国時期を中心に活躍した僧である。南京の毘盧寺の僧である。
1912年、師である天童寺の敬安が、湖広総督の張之洞らを中心とした、「中体西用」思想に基づいた廟産興学運動により、各地の仏教寺院を没収し、学校教育のための施設や費用に充てるという施策の進行に反対し、憤死した。これに発奮した太虚は、仏教界の革新・粛正を企図して『覚社叢書』を発刊、自身の『整理僧伽制度論』を収載した。
また、武昌仏学院を設立して人材育成のための青年僧教育機関の経営に乗り出した。そこからは、印順らの優秀な後継者が出た。更に、世界の仏教徒の協力の必要性を説き、世界仏教連合会を組織、月刊『海潮音』を創刊した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E8%99%9A

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文中に登場する印順は台湾仏教の父と言われる。

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印順(いんじゅん, 1906年3月12日(光緒32年) - 2005年(民国94年)6月4日)は、現代中国の僧であり、仏教学者である。俗名は張鹿芹、浙江省海寧県の出身、農家に生まれる。小学校の教員となるが、1929年、父の死後、出家して法名を印順と称した。
太虚が主導する厦門(福建省)の南普陀寺にある閩南仏学院で修道し、後には教鞭を執るまでになった。1943年、武漢(湖南省)の武昌仏学院の教授となる。日本軍の攻撃が激化したことで、重慶(四川省)の漢蔵教理院に移る。ここで、やはり太虚の弟子でチベット留学経験のある法尊と交流を持つ。その後、四川省の法王仏学院の院長などを歴任し、戦禍を避けて香港を経て台湾へと移った。台湾では、台北の慧日講堂を活動拠点とし、布教活動や講演活動を行い、また、師の太虚の全集の編纂などを行なった。
1971年、大正大学に『中国禅宗史』と題した論文博士を獲得した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E9%A0%86

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私は台湾の慈済会という仏教団体にシンパシーを抱いている。なぜなら、その活発な社会奉仕活動に仏教者として実に多くを学ぶからである。

證厳(台湾の慈済会)‥‥印順(台湾仏教の父)‥‥太虚(南京毘盧寺)‥‥天童寺敬安

今月23日、南京毘盧寺に於いて復興10周年の大法要が営まれるという。道元禅師が学んだ天童山に縁深き南京毘盧寺の法要に曹洞宗は参加するのだろうか?それとも戦争責任の重きに耐えかねて参加できないのだろうか?あるいは「無視」されているのだろうか‥。

ビルマ、チベットのみならず現在進行形で動く世界の仏教界。同じ祖をもつ中国や台湾の仏教者と曹洞宗だが、一方は活発に仏教活動を展開し、他方は不正問題で出口を見失いさまよっている。

No.631 2008/05/02(Fri) 06:02:40


井上右(いのうえ・たすく)『武田範之 興亜風雲譚』を読む / 地の声 引用

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著者、曾(かつ)て朝鮮総督府精神総動員連盟の首脳部の一員にして、現在某興亜団体の幹部に属し、盛に興亜運動の精神をイン(「さんずい」に因)溷(たく)せしめている某名士に向って、洪疇和尚(武田範之:地の声注)の行履の一端を語り、現下の急務(昭和16年勃発対米戦争:地の声注)はかくの如き人物の出現することであり、特に興亜運動に直接たずさわる者は、和尚の精神を体し「千載に湮没して人の知る所偽らざることを期し」地下千尺の捨石たる心構えを以て事に処することの必要である所以を説いた時、某は「それほどの大事に参画した人物ならば、今日自分の如き立場に在る者が、その名声の一端を知らぬ筈はない。名前の聞こえていない所から推せば、いずれ当時の語るに足らぬ浪人の仲間だろう」との言葉を以て著者の熱誠をこめた。称賛の弁を一蹴したことがあった。著者は唖然として、また一言を応酬する勇気も無く、しばしこの立身出世主義時代に人と為った名士の顔を凝視して、朝鮮に於ける精神運動の結果する所を危惧し、同時にまた興亜運動の将来を想って、暗然たらざるを得なかったのである。(同書p.363)

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同書の本質は、この一文にある。昭和16年、対米戦が開始された。海軍が力を発言力を増し「北進派」が追いやられた時勢下、玄洋社あるいは黒竜会シンパの著者のスタンスは「興亜」にあって、そこでまぼろしの武田範之を生まれ還らせることによって自らの主張を世に訴えたのがこの書であろう。ちなみに井上右は武田範之と同郷である。儒教化および道教化した武田範之の「仏教(三教一致)」が随所に引用されていて、それもまた著者が武田範之を評価するところである。

だから、そのバイアスは並大抵ではなく、尊王=皇国史観=八紘一宇といった、例の侵略主義には辟易するものがある。ただし著者は資料を多用し、黒龍会・内田良平のラインに添ってはいるものの極端にでっち上げているわけでもない。そうすると、著者の語る武田範之像もあながち虚構とも思えないのである。

閔妃(みんび)事件のシナリオを描いたこと、日韓併合が決定したとき「和気藹々の間に両国代表によって解決されたが、この席上に列したのは寺内総監、李完用、趙軍応の外(ほか)山縣副総監、国分通訳官、小松外事局長であって、之を知る者は以上の列席者の外、明石警務総長、児玉秘書官位のもので、外部に在って此の密議に初めから参加していたものは、洪疇和尚(武田範之:地の声注)唯一人であったと言われている。(同書p.351)」とあるように、武田範之の存在は実に重い。

日韓併合という露骨な侵略に武田範之が関わったことは否定できない。それが「興亜」であれ三教一致(儒仏道)であれ、結局はひとつの民族を無化し消し去るという、やってはならない暴挙に加担(あるいは主導)した罪は重すぎて、とても取り返しがつかない。さらには石川素童総持寺貫首が病床の範之を見舞い、さらには葬儀で払子を振ったということも罪過許しがたいものがある。範之死後、玄洋社・頭山満が「朝鮮浪人の白眉じゃろうよ。此の間の葬式はまるで、浪人と坊主でやったように見えたが、あれなら和尚も浮かばれよう」と言ったという。武田範之の本質をついたコメントである。

同書は昭和17年に平凡社から刊行された。初版3,000部で再販はなかったらしい。いまの感覚ではマイナーな書だ。明治時代、曹洞宗が何をしていたかを理解するには格好の書である(いまでもその体質を引きずっている)。古書店で入手可能。

「日本の古本屋」
http://www.kosho.or.jp/servlet/top

No.630 2008/05/01(Thu) 10:23:54


資料:昭和12年当時の「曹洞宗宗制」 / 地の声 引用

昭和12年刊『新撰 曹洞宗重要法規集』から特に、国家との関連項目を抽出した。

◎「願うに祖道は恢弘(かいこう)して国祚(こくそ)の長久を禱(いの)り」【曹洞宗宗憲】

◎「寺院は天皇陛下の聖寿牌を奉安し聖寿の無窮なるを祝禱す」【曹洞宗寺院法第一章第二条】「寺院は歴朝天皇の尊牌を奉安祭祀す」【同第三条】

◎「町村役場の請求に依り臨時に兵事衛生教育勧業其の他公益に関する公共の会同を為すこと」【曹洞宗寺院法施行規則第一条二項】

◎「戦地に臨みたる者、沈没したる船舶中に在りたる者、其の他死亡の原因たるべき危難に遭遇したる者の生死が戦争の止みたる後、船舶の沈没したる後、又は其の他の危難の去りたる後三年間分明ならざるとき届出を要すること前条に同じ」【曹洞宗僧籍法第六章僧籍願届第五十条】

◎「左の各号の一に該当する者は二年以上三年以下の分限停止に処す 第五号 政党に加入したる者」【曹洞宗僧侶懲戒法第三章第二十九条】

◎「皇室又は国家に重大慶弔の事あるに際し大赦又は特赦の詔命を発せられたるときは管長は其の赦免せらるゝ比例に照準し懲戒に処したる僧侶を赦免す」【曹洞宗赦免令第一条】

◎「一般寺院住職は布教の目的を貫徹する為め地方の機宜に応じ一寺院又は一地方寺院の共同を以て特に左記各号の事業を挙行すべし 第一号 応徴帰休又は在郷の軍人に対しては衆庶に率先して敬愛の道を尽くし及臨機特に教筵(きょうえん)祚を開き義勇奉公の布教を行うこと」【布教法第五章第三十七条】

「政党に加入すれば分限停止」とは!いまでも「仏教者は政治にかかわってはならん」などと言っている者がいるが、戦前の規則が体質化してしまっているのだろう。時代の変化も理解できない無能暗愚者の弁と言うしかない。ほか興味深いのが【曹洞宗図書出版管理令】。曹洞宗僧侶が宗門に関する本を出版する場合は宗務院教学部長に提出しなければならない。もしも提出しなければ「僧侶懲戒法」によって処分される。また、内容が「宗法に違反し又は宗意を紊す」場合はその僧侶を召喚して尋問し、訂正削除を命じることができる。いわば僧侶の出版と言論の自由を封殺する検閲制度があったのである。昭和十二年は日中戦争勃発の年。近衛内閣が発足し「国体の本義」が出され「国民精神総動員体制」が実行された年だった。南京大虐殺もこの年に起こった。曹洞宗は国権におもねて、仏教の精神を失った。

No.629 2008/04/29(Tue) 06:30:54


道端良秀『仏教と儒教倫理』を読む / 地の声 引用

前スレッドでも触れたが、同書は中国が仏教を受け入れたとき儒教と仏教がどうかかわりあったのかを儒教の根本である「孝」に焦点をあてて論じたものである。根強い儒教攻撃を受けて仏教は「盂蘭盆経」や「父母恩重経」あるいは「梵網経」を作り仏教は「大孝」をめざすものであると反論した。と、同時に仏教の儒教化は避けられなかった。その経緯をこの書で詳細に知ることができる。

仏教が中国文化に批判され、それに対応するためにあらたな理論を作らざるを得なかったのは、なにも「孝」だけではなかった。出家者は本来乞食し手に鍬を持たないことになっている。その代り法を語り人々を導く。だが、中国の教団は自給自足を行うようになる。これも社会からの厳しい批判があったからだという。

「出家者は不生産者で且つ浪費者である‥高等ルンペンであるというのである。‥不生産者・浪費者にして、国家に納税しない者、しかもそれは人々にとって何ら精神的な支柱にもならない、偽僧や傭僧であるとすると、全く有害無益のものとなってくる。ここに中国では、四回にもわたって廃仏整理の大事件が起こった‥。すくなくとも出家のなかには、そうとう早くから課税を遁れるための、いわゆる避徭役僧(ひようえきそう)というものが多かったことは事実である。そしてまた、私度僧(しどそう)・偽濫僧(ぎらんそう)といわれるものも多かった。‥このような大問題を解決したのが、唐の禅僧の百丈懐海であったのである。‥そればかりではなかった。従来の戒律はインドにおける戒律であって、中国の教団における戒律ではない。中国には中国の戒律がなければならない。‥これが「百丈清規」というものである。‥さてこのようにして‥労働することはそれがそのまま、仏道修行の座禅の行であると考えられたのであった。‥こうすれば不耕・不織の汚名をそそげることができたし、寺院そのものも経済生活や、労働面になんらの不安も感じない、一石二鳥の行であったということができる。」(同書pp312-315)

引用が長くなった。しかし、実に説得力のある話ではないか。さらに著者は、漢文の仏典はすべて儒教の影響があるともしている。厳しい批判から中国仏教が社会福祉活動に取り組むようにもなったという。そして「仏教は国を破り家を破る」という非難に立派に答えたとする筆者の論旨に賛意を惜しまない。私は仏教がなすべきことは社会貢献、それも真に仏教的な社会貢献にあると常々思っているものである。ゆめゆめ戦争遂行のお先棒をかつぐような「貢献」などしてはならないのである。長文引用ついでにもう一度。

「社会は士と庶とから成り立っているが、儒教は士のものであり、道教は庶のものであり、仏教は士と庶のものであった‥。‥宗教は、支配者を味方にいれることにおいて、その宗教を宣伝し弘布するに都合がよかったし、一番効果があった。この点で仏教もまた常にこの方法をもちいた。このことは仏教が真の仏教たらずして、しばしば支配者に利用されて、それが御用宗教となって仏教本来の姿をうしなうことがあった。不殺生戒を第一とする仏教にあって、しかも慈悲の宗教といわれる仏教において、僧ということは僧伽で、平和という意味であるほど、和を尊ぶ仏教にあって、人々が互いに殺し合うという戦争に協力し、敵国降伏の祈願をしたり、戦勝のための法会を行ったりしたことは、日本も中国も今も昔も、殆ど同じことであった。」(同書pp316-317)

仏教が「日本国仏教」に変質した最大の要因のひとつが儒教だと考え、いろいろ読書を重ねてきた。そうしたらこの言葉に出会った。正直驚いた。まるっきり逆の方向からアプローチしたのが反戦で著者と一致したのである。

(道端良秀『仏教と儒教倫理 -中国仏教における孝の問題-』 サーラ叢書17 1968 平楽寺書店)

No.628 2008/04/27(Sun) 18:03:42


「礼拝」について / 地の声 引用

「曹洞宗門でいう五体投地の礼拝は「五輪倶屈」の礼拝と「五体投地」の礼法に中国の「三跪九叩」(臣下が皇帝に絶対服従の意を表すための礼法で、三度ひざまずき、九度額で地を叩く礼法)を合わせた礼拝形式」
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/raihai.htm

基本進退である礼拝にすら儒教の影響がある。仏教の作法では「爾時無尽意菩薩 即従座起 偏袒右肩 合掌向仏(観音経)」であったはずだ。

ようやく道端良秀『仏教と儒教倫理』を入手し読んでいる。中国の儒教が外来の宗教である仏教を攻撃する様子、あるいは仏教が儒教に反論しつつ妥協していく様子はドラマチックですらある。

特に、第10章「出家は君親を礼敬せず」は50ページ以上を充て詳細に論じている。儒教の主張は「孝」の精神から、僧は国王・両親に礼拝すべきであるとするが、仏教側は、出家者は世俗を離れたものだから国王・両親に礼拝してはならない(いやむしろ国王・両親こそ僧を礼拝すべきである)とする。この真っ向からのぶつかり合いは幾時代にもわたったという。

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宋の道誠の「釈子要覧」巻上に、「父母拝」の項を設けて、父母がわが子の出家を拝することを述べている。‥「剃髪し終って三宝を礼し、大衆および二師に拝謝して後に末座に坐す。父母一族みな礼拝をなして、その道意を賀し悦ぶ。‥いま人の子が出家して仏に事う、剃髪を礼の始めとなす。父母が拝をなすのは世俗を出たからである。拝をなすのはそもそもの法服と戒体を拝するので、我が子を拝するのではない。これは遠く仏の家風によるのである。」としている。(同書pp212-213)

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そう言えば、宗門の得度式では剃髪の前に父母に向って礼拝するきまりになっている。おそらく出家を認めてくれたことへのお礼の拝だろう。花嫁が挙式の日、この日まで育ててくれた両親に感謝の礼をするのにも似ている。ところがこの引用文のように、戒を受けて「出家者」となった後、父母がわが子を礼拝するという差定は知らない。儒教の五常「仁義礼智信」はみな「孝」を目的とする。「礼」も「孝」が本質である。親に対する「孝」のみが残り、親側の出家者に対する尊敬の念が日本では消えている。

中国仏教の国家迎合は元代の「百丈清規」に見られるという(唐の百丈懐海の清規を元代に重編したもの。道端『仏教と儒教思想』p.216)。「百丈清規」を尊重した日本仏教がさらに儒教化するのは避けられないことだったとも言える。「日本国仏教」と封建的上下関係(すなわち儒教)は切って切れないものである。父母がわが子を礼拝するという、実に仏教的な行為がいまでも行われていれば、あるいは今の僧らも仏教者としての自覚をいささかでも保ってこれほどまで堕落しなかったのかも知れない‥などと、考えてしまうのである。

No.627 2008/04/25(Fri) 06:04:09


資料:日韓併合時の「日本国仏教」寺院 / 地の声 引用

資料:日韓併合時の「日本国仏教」寺院
(青柳南冥『朝鮮宗教史』1911)

1910年、謀略に大韓帝国は日本の植民地となった。武田範之の件は措き、合併当時「日本国仏教」がどの程度韓国に展開していたかが、この書に記されている。青柳南冥は合併以前からソウルに在住し評論活動を行っていたもので仏教僧侶ではない。

「◎我宗教家に告ぐ」(同書p.151〜)に、青柳の主張が端的に吐露されている。日韓併合を見て青柳は感極まり、我を忘れて臆面もなく絶叫する。「吾人は率先半島に入り燃ゆるが如き熱心と屈ぐべからざる忍耐とを以て帝国植民の先駆を為したるものゝ一人なり。十年半島の経営を絶叫したるものゝ一人なり。」「若し殖民政策の先駆者たる桂冠を得るの資格あるものを求むとせば吾人は正しく其一人也」。私の主張を拝聴せよというわけだ。

要約すれば、「日本国仏教」に対して
1)植民移住者の慰安・慰撫・供養のために随伴すべきこと。
2)植民移住者の子弟を教育すべきこと。
3)「いまの宗教家の堕落は実に驚くべき底に落ち天下の大事を語るに足るもの少ない」けれども、ほかに選択肢がないから植民布教に取り組んでもらいたいこと。
4)朝鮮は宗教と言う「動脈」を失って崩壊した国だから、日本仏教が命を吹き込むこと。
5)なぜ仏教かと言うと韓国には仏教が既にあったこと、朝鮮民族の倫理・道徳に日本仏教が合致すること(「日本国仏教」の儒教性:「君臣の分に厳なる所以、父子の情に親しむ所以」p.177)。
しかし、「日本国仏教」は政府の拘束(廃仏毀釈)によって財政難に陥っているから、みんなで浄財を寄付すべきことをつけ加えている。

「征韓」は長年にわたる日本のテーマだった。明治維新(明治軍事クーデター)で「近代化」したこの国はルサンチマンを抱きつつ欧米の列強侵略帝国を模倣し軍備を整え早速韓国侵略に邁進したのだが、「日本国仏教」がいちはやく国の動きに連動し「侵略」していたことを決して忘れてはならない。責任は国政より宗教の方が重いのである。なぜなら‥宗教は人間の心を支配するからである。

日韓併合時(すなわちそれ以前から)韓国に展開していた「日本国仏教」宗派は以下の通りである。

「大谷派本願寺」

明治十年、奥村円心が釜山に出張所を開設。大谷派本願寺のみならず「日本国仏教」韓国進出の嚆矢。別院・布教所数51。

「本派本願寺」

日清戦争後(明治二十八年〜)、開教を開始。明治四十一年監獄教誨開始。別院・布教所数20。学校及び青年会5。

「浄土宗」

明治三十一年布教開始。教会所・布教所数21。朝鮮人を対象とした出張説教所4。

「日蓮宗」

明治十四年布教開始。寺院数11。日語学校1。

「曹洞宗」(特に全文転載pp146-147)

△両大本山別院朝鮮布教管理所(同院内に設立あり)
曹洞宗一等教師伊予松山龍穩寺住職田中道円は明治四十二年十月同宗布教管理として来鮮し爾来宗務管掌の傍(かたわら)熱心布教に従事し居たりしが、昨年四月同宗大本山(永平寺、總持寺)の命を受け別院を京城(ソウル)若草町に創設せり。院内には布教師一人、補員二人従僧二人ありて毎月五日十七日十八日二十八日には説教、毎日曜日には禅学提唱をなし盛に開教せり。目下信徒の数は日本人五百名余、鮮人数十名あり。猶(なお)日々増加しつゝあり。
△朝鮮布教所一覧
(創立年月 所在地 寺院名 信徒数 布教師名 の順)
明治四十年三月    太田   太田寺     五〇〇人   鶴田機雲
明治四十年四月    釜山   總泉寺     一五〇〇人  長田観禅
明治四十二年五月   龍山   瑞龍寺※    八〇〇人   富士洞然
明治四十二年八月   仁川   本山布教所   七〇〇人   磯辺峰仙
明治四十年五月    龍岩浦  龍岩寺     二〇〇人   平山仁鳳
明治四十二年八月   馬山   馬山布教所   二五〇人   富士洞然
明治四十二年六月   群山   群山布教所   三〇〇人   内田仏観
明治四十四年一月   大邱   大邱布教所   未  詳   近藤愚道
(このほか平城及び鎮南浦、目下創設準備中)
明治四十年三月    京城   京城日韓寺(単独)四〇〇〇人 大隆大定
※明治三十六年に富士洞然が建立したものに、武田範之が宗門から五百円を引き出して本堂を造り布教管理所とする。武田範之はここを拠点として活動していた。(注:地の声)

「真言宗」
明治三十九年布教開始。寺院・教会所数3。

「臨済宗」
妙心寺派布教管理所1。教会所1。

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36年後、「日本国仏教」は韓国から跡形もなく消え去った。もしも「日本国仏教」に一片の仏教精神があったなら、こんなことにはならなかったし、今現在、曹洞宗の別院が韓国や中国にあって「市民権」を得ていてもいいはずだ。天童山に遊びに行くのもいい。だが、「日本国仏教」が犯したことの反省を実はアジアは求めており、それが友好親善の原点である。これに気づかない「日本国仏教」者は札びらをひけらかす傲慢以外のなにものでもない。歴史を学ばないこと、それは仏教者としての自己実現を放棄することである。

No.626 2008/04/24(Thu) 06:12:54

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