★ 春日佑芳『新釈正法眼蔵』(ぺりかん社1995)を読む / 地の声 |
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禅が老荘思想と密接な関係にあることは論を俟たない。「無心」となって一切存在をあるがままに見ることや、それによって迷いが除かれ自由な生き方を実現することなど(これら禅と老荘思想の比較は『禅の本質と人間の心理』収録の「禅と道家思想」に詳しい)共通する点が多い。だが、禅は老荘思想ではない。あくまでも仏教でなければならない。その分水嶺は菩薩道に生きるか仙人になるかにある。
宗門人は自ら標榜する禅の正体がわからず混迷している。あるいは師匠の言うがまま無原則に受け入れて批判的に見る目を失っている。いまだに意味も識らずに「宇宙と一体になる」だとか、「善悪」を超えたがるのもそのためである。修業道場の責任も甚大である。
道元禅師の『正法眼蔵』も、解説者によってまるで解釈が異なる。だから参学者は混乱し、しまいには「教外別伝 不立文字」「理にかなうもまた悟りにあらず」などとうそぶく始末である。
春日佑芳氏の『新釈正法眼蔵』は、老荘思想に影響された禅の内包する「本覚思想」(華厳、教禅一致)を切り離し、あるいは儒仏道一致を批判して、身心一如の道元禅そのものをわたしたちに見せてくれる。以下、同書冒頭から引用。
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私たちは、ともすると、心と身体を別のように考えたくなる。‥そのため、この心と身体をわけて二元論的にみる考えは、身体と切り離された、内面的な心のみを重視する観念論、あるいは唯心論の哲学を生むことになった。‥道元が生きていた時代にも、そうであった。このような考えは、当時の仏教思想の中にも根強くみられた。それは一般に、本覚思想(非仏教:地の声注)と呼ばれている。‥そこに共通しているのは、心によってものを理解するのであり、行動はその心の理解にともなって、そこからおのずから生ずる結果にすぎないという、身心二元論の考え方なのである。 このように考えられているために、正しい行動をするには、まず心に正しい理解を得ることが先であり、それがすべてだということになる。では、その正しい理解はどのようにして得られるのか、というと、この本覚思想においては、私たちがものごとを正しく理解できないのは、心に曇りがあるからであり、その曇りを除きさえすれば、そのとき正しい理解が得られるのだ、という。 そこにいう心の曇りとは、事物に対する執着のことである。そういった執着をすべて捨て去って無我無心の心になり、いわば明鏡止水の心境になり切ったところに、主客合一、物我一体の世界が見えてくる。そこに事物のありのままの姿が現前し、真実の世界が理解される。(禅と老荘の混合:地の声注)そのときの心が悟りの心であり、仏の心である、というのである。 しかし、このような考え方は間違っている。というのは、そこには、何をもって無我無心になり切ったと言うか、真実の世界と言うか、仏の心と言うか、その規準がないからである。規準がない以上、どれほど無我無心になって悟りの世界を追い求めてみても、いま自分は、ほんとうに悟りの世界を見ているのか、あるいは、ただそう思い込んでいるだけなのかを確かめることはできない。‥これは危険な罠である。‥それはもはや、人間の世界ではない。人間の世界とは、無関心になり切ったときに見る世界などというものでは、けっしてなく、事物に対して意欲をもって行動する、私たちの見ている世界である。‥それと同時に、行動と切り離された心の中に何かを見て、それを実相の世界、仏の心と思うようなことがあっても、それは自己神化の考えを生ずるだけである。もしもそのようなものが悟りであるとすれば、およそ仏法などというものは、各人の思い思いのものとなり、一定の形を失って、どこかに雲散霧消してしまうだろう。
むかし法眼禅師のもとに、則公監院という僧がいた。則公は三年もこの会にいたのに、一度も師に仏法を問うことがなかった。そこで法眼がその理由を尋ねたところ、こう答えた。
則公「私はべつに知ったふりをしているわけではありません。かつて青峰禅師のところ にいたとき、仏法における安楽のところを会得したので、もはや人に問う必要は ないのです」。 法眼「では、どんな言葉によって会得したのか?」 則公「私はかつて青峰に、<学人の自己とは何か>と問うた。それに対し青峰は、<丙 丁童子来求火(来りて火を求む)>と答えました」。 法眼「なるほどいい言葉だ。でもお前にはおそらく、その言葉の意味はわかっていない だろう」。 則公「丙(ひのえ)丁(ひのと)は火に属します。学人の自己とは何かなどと他人に尋 ねるのは、自己が自己を求めることであり、火の神が自分が火の神であることを 忘れて、他に火を探し求めているようなものだと会得しました」。 法眼「これではっきりした。お前にはやはりわかっていないのだ。仏法がもしそんなも のだったら、今日まで伝わることはなかったであろう」(『辨道話』)
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禅が仏教であるためには、菩薩行の実践がなければならないと書いた。すなわち社会性がなければならないのである。「悟り」などという個人的かつ内面的な問題にかかずらわって本来なすべきことを見失えば、それは則公であり、道元禅師の否定するところである。
菩薩行は即ち「人権・平和・環境」問題に取り組むことである。宗門は人権学習をおこなっている。しかし‥全国のおよそ半数近くの教区は「人権学習」を拒否しているという驚くべき現実がある。ここに、宗門の根強い後進性と無知が現れている。
道元禅を理解する好書であるとともに、「心=不可得=修行=菩薩行」とする筆者の基本的スタンスは、社会活動を実践する真の仏教者へのエールでもある。 |
No.644 2008/05/28(Wed) 10:32:48
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☆ Re: 春日佑芳『新釈正法眼蔵』(ぺりかん社1995)を読む / 坐禅修行者 |
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禅と菩薩行がどのように結びつくのか、禅の社会性とは何か、ぜひご教授をいただきたい。一年ほど前にも同じような質問をいたしましたが、ついぞどなたからも書き込みはありませんでした。 |
No.647 2008/06/03(Tue) 16:35:16
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☆ Re: 春日佑芳『新釈正法眼蔵』(ぺりかん社1995)を読む / 地の声 |
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禅と菩薩行が結びつくことをだれも知らないからでしょう。それほど禅は特殊なもので、非仏教的に発展せしめられてきたのだと残念に思います。
禅が仏教から離れて、いったい何の意味があるのでしょうか。禅が仏教であるためには、菩薩行が絶対条件です。そもそも、禅は仏教であるかぎり菩薩行と切り離されるべきものではなかったはずです。自己に徹底する余り、本来の仏教から乖離してきたことは言えると思います。武士の心得とか興禅護国などに利用され本義を失いました。
慈悲に代表される菩薩行は社会性です。禅が見失った菩薩行をもう一度禅に復活させなければなりません。そこに本来の禅があるはずです。さもなくば、禅は仏教たりえません。
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自分の見ている世界を、人間の世界にするのは、人間らしい生である。この生がすべての始まりなのだ。そこに輝きに満ちた世界が現れる。道元禅師はいう。
この発心(発菩提心:地の声注)よりのち、大地を挙すれば(ふれれば:原注)みな黄金となり、大海を(手で)かけばたちまちに甘露となる。(正法眼蔵「発菩提心」の巻)
だからこそ一日は貴重なのだ。
この一日はをしむべき重宝なり。尺壁(一尺もある球)の価値に擬す(くらべる)べからず、驪珠(黒龍のもっているという珠)にかふる(換える)ことなかれ。(正法眼蔵「行持・上」の巻)
菩薩道に生きるこの一日は、宝石よりも貴い、けっして無駄に過ごしてはならない、と語ったのである。
(春日佑芳・曹洞宗ブックレット『華は愛惜に散り、草は棄嫌に生うる』pp5-6)
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「何かのために」という目標を否定し「只管」(これも、「ひたすら」ではなく「ただ」という意味もあります)を強調しすぎて禅(坐禅)は仏教(=菩薩道)を見失い、「何ものにも拘泥しない」という超然主義(=老荘思想)が実は野狐禅となり果てました。禅の「身心脱落」は、菩薩行の実践ためにこそ説かれたものと存じます。
引用した、春日佑芳氏の「人権ブックレット」は曹洞宗宗務庁に問い合わせれば入手できると思います。是非ご一読ください。 |
No.648 2008/06/03(Tue) 20:16:56
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☆ Re: 春日佑芳『新釈正法眼蔵』(ぺりかん社1995)を読む / 地の声 |
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さらに申し添えますが、
「原ぬるに夫れ、道本円通、争か修証を仮らん。」(『普勧坐禅儀』)は、非仏教である本覚思想そのものです。道元禅師のすべてを「神格化」してはなりません。禅師すら時代の制限を免れることはできませんし、また禅師自身も変化していることも事実です。道元禅師無謬論は信仰の上では大切なことですが、智慧を尊ぶ仏教者としては不遜ながらいかがなものかと思います。 |
No.649 2008/06/03(Tue) 20:32:56
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