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高橋定道『禅僧の戦記』について / 地の声 引用

タイトルにあるように著者高橋定道は「禅僧」(曹洞宗)である。昭和63年永昌院内高橋隊会が発行。定価が表示されていないところを見ると、自費出版で関係者に無料配布されたものかも知れない。仏教者が自らの戦争体験を語る書は極めて少ない。その意味で貴重である。

高橋は明治四十四年岐阜県永昌院に生まれ、豊川妙厳寺専門僧堂を経て入隊。将校試験上級合格。フィリピン戦で中隊長を務め、同地で終戦をむかえている。

彼のスタンスは「英霊を思うや“切” 私は愛する日本の為に身命を賭して戦って亡くなった戦友のことが忘れられない。否忘れてはならないと思っている。日本の栄ある今日を思う時、日本国民はその栄ある日本の礎となった人々のことを忘れてはならない。」(「まえがき」p.7)に明瞭に述べられている。

この認識はよく耳にすることだが、二つの問題を含んでいる。ひとつは戦死者を「英霊」とする見方、もうひとつはいまの日本があるのはかれらの「礎」があったからという見方である。どちらも間違っている。「英霊」に祀り上げたのは靖国思想であって、それは兵士の円滑な補充を狙ったものであるし、今の日本の「栄」は、戦死者の犠牲の上にあるのではなく東西対立を背景にした「朝鮮戦争特需」や「ベトナム戦争特需」によって、この国の経済が膨張した(戦後になってようやく「神風」が吹いたとまで言われた)からである。

同書から「靖国神社の『国家護持と公式参拝』について」を以下引用する。

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(靖国神社の菊の紋を背景に背広絡子姿の著者の写真)私は昭和58年3月、曹洞宗教化部長であり、通常宗議会で3月3日、靖国神社問題で大阪府箕面裁判判決で私見を尋ねられ答弁を拒否した。教化部長執務の正装で3月27日、靖国神社参拝をした。これが私の答えでした。(最高裁では箕面裁判は「憲法違反」でないと裁定された)

靖国神社は宗教団体である神道宗派に属する神社であるので、現行憲法の下では国家護持は出来ないのである。そこで靖国神社を宗教団体から外すことを考えられ「靖国法案」として、議員立法で提案され、七年がかりで保守系政党議員支持により衆議院を通過したが、参議院で時間切れで通過せず廃案となった。
ところがその後この靖国法案に対し、靖国神社自体側より、神社は創立以来神道の儀式により護持奉仕(祟敬)されて来たので、現行神道儀式で奉仕することが認められないならば、創立の意義が無くなり、英霊を冒涜するものではなかろうかの問題が提起され、他方宗教団体側より神道の儀式で護持するならば憲法20条に違反するので靖国法案には絶対反対であると言い、保守系政党を支持している宗教団体の靖国法案に反対が決定的になって来たので、靖国神社の国家護持は憲法を改正しなければ無理であり、ご承知の如く憲法改正はなかなか容易な事ではない。従って靖国神社国家護持問題は戦没者遺族の素朴な悲願であるが、成立は先ずむづかしい問題であることが明らかになった。
歌にまで歌った「靖国神社の下での再会」を心に誓って国の為散って行った英霊に応える道は何かと、心ある国民の感情(良心)に訴えて国民運動を起こすことを考え、日本遺族会が一翼となり多数の志ある国会議員、戦友団体の方々が中心となって「英霊にこたえる会」が組織され、「靖国神社、首相の公式参拝」ということが提案され、内閣総理大臣として靖国神社に公式参拝しても、決して憲法違反にはならないとの結論を得て答申され、中曽根首相が参列されたのである。ところが、この結論に「異議あり」とジャーナリストが大きく取り上げていることは残念である。
国の為に戦死した戦友を祀る靖国神社に参拝することが憲法違反であると言われては、戦死者は踏んだり蹴ったりと言うことになり、それでは余りにも可哀想ではないか。
(1) 私は坊さんであるけれども、日本国民である。私達は国是であると信じ、この戦争に応召し従軍して真面目に努力して戦って来た事を知ってもらいたい。
(2) 敗戦の悲惨な実情を訴えて後代同胞が再び戦争の犠牲になる様な事のないことを念願してやまない。決して軍国主義の復活を希うものでない。
(3) 非業の死を遂げた英霊を国民挙ってその冥福を祈ってほしい。殉国の精神なくして日本の繁栄は砂上の楼閣に等しい。真の平和国家を築くことは出来ないと思う。
(pp.259-260 以下略)

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「特に戦争を知らない若い人や、一部の宗教者の方々が憲法違反と総理の公式参拝に反対していることは誠に残念に思う。@日本の兵隊さんは随分むごいことや、悪いことはしたのではないの?Aお父さんは坊さんでしょう、それなのに人殺しの戦争に行って、何んとも思わずに軍に協力出来たの?平気であって?と。これは私には、手痛いショッキングな質問でありました。又一面現代の教育のあり方に思いやられるものを感じました。」(同書pp.7-8)

思いやられるのはこっちの方だ。町田差別発言によって曹洞宗が人権(無論反戦を含む)に取り組み始めたのが1979年(昭和54年)のことである。この書が出たのはおよそその10年後。なのにまるで反省がない。このような教化部長をいただいていた曹洞宗の体質がよく分かるではないか。つまり、曹洞宗は戦争荷担責任総括を行わないまま戦前とおなじように戦後をむかえたのである。問題は、いまでもそういう体質を捨てきれないことにある。

また、彼は戦犯容疑者として帰国後フィリピンから出頭を命じられている。住民から告発された宛先は高橋中尉。昭和20年の終戦前彼は大尉に昇進していたことを理由に高橋中尉ではないとし、無視して逃げ切っている。同書に住民虐殺は他の隊がやったことと何度も述べられている。そうであるならば身を隠すことなどせず、堂々と裁判に出頭するべきであろう。それこそ禅僧の覚悟というものではないか。酷にすぎるだろうか?

「決して軍国主義の復活を希うものでない」と百回唱えても犠牲者を「英霊」と呼び靖国皇国史観を捨てきれないものには平和を語る資格などない。戦争とは何か、なぜ戦死しなければならなかったのかという根本問題に真摯に取り組み、あらゆる戦争を否定することだけが戦死者を弔う道であり仏教者のとるべき道なのである。同書のタイトル『禅僧の戦記』は実にシンボリックだ。興禅護国思想はしぶとく曹洞宗の中に生き続けてきた。そして、禅僧とはそういう思想を持ったものであるということをいみじくも露呈した。

No.678 2008/07/19(Sat) 06:01:10


安食文雄著『20世紀の仏教メディア発掘』を読む / 地の声 引用

2002年、鳥影社発行。著者は元「中外日報」記者。

明治以降の仏教系雑誌・新聞等を論評したものはこれがはじめてではないだろうか。実に興味深い内容だ。論文とはちがい、時代をそのまま反映したこれらのメディアは、当時の仏教界の実態を知るうえで貴重な資料である。いまだ散逸のままに任せられている仏教系雑誌・新聞等を、いま21世紀に入ったことを一区切りとして、前世紀のこれらのメディアの収集と保存が求められているという著者の意見は正しい。

同書では8〜9章の2章にわたって仏教雑誌の代表格である『大法輪』を論じている。

202ページから208ページでは「四、大谷派の改革派内局に敵対」として、真宗大谷派の改革運動(三十年紛争)をとりあげている。法主派と改革派が真っ向から対立したこの改革運動のことは、聞いてはいたが内容は知らなかった。要するに宗門民主化運動だったわけである。

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‥その同じ年(1969年)の十二月、宗議会議員の総選挙があるのだが、新門は育ちのよさなどかなぐり捨てて、陣頭にたって改革派切りくずしに立ちあがる。
 ちょうとその少し前、前述の訓覇師(改革派リーダー:地の声注)が計画して吹原がこわした横浜別院のことに、根も葉もないことを加えて『大法輪』(1969年9月号)という宗教雑誌が記事にした。『大法輪』は、当時、新門とのつながりが深いとされていた雑誌だが、訓覇師に不正があったような記事になっている。「開申」にいきさつから、吹原の弁護、訓覇退陣要求、新門への期待と、何ページにもわたってのルポを載せたこの『大法輪』は、全国の(真宗大谷派―筆者注)末寺に丁寧にも無料で配布された。
 一万末寺への郵便代だけでもたいへんなものだろう。後に大谷家の借財の使途を聞かれた(大谷―筆者注)暢道師は、改革派対策費だと盛んに弁明しているが、こういう謀略に使われたことをさすのだろうか。『大法輪』のこの記事は、選挙にむけての謀略であることはまちがいない。この記事は内局関係者の厳しい追及に会い、後に編集長と筆者の連名でわび状が出ている。お粗末の一言につきる。(落合誓子氏著『貴族の死滅する日 東本願寺十年戦争の真相』晩聲社、昭和55年刊から著者が引用)

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仏教教団がここまでやるかというとてつもない話だが、いま曹洞宗の不正と、それを隠そうとする僧侶らを見ていると、むべなるかなの感がある。『大法輪』はこれにめげず、三カ月後再度法主派を擁護して「東本願寺問題を解く七章」「人間・大谷光紹」を特集した。後者には山田義道、高田好胤らが光紹新門に対する期待を語っているという。山田義道と言えば、のちの曹洞宗宗務総長である。曹洞宗はわが身に置き換えて改革潰しに協力したのだろう。

三十年紛争は改革派が勝利し真宗大谷派は生まれ変わった。その活発な活動(たとえば平和活動・ハンセン病の取り組みなど)はみなが認めるところである。では‥曹洞宗はどうか。このまま改革が実現しないとすれば、いずれこの国の仏教界からも見捨てられてしまうだろう。

No.677 2008/07/16(Wed) 08:00:48


資料:曹洞宗日曜学校絵入り子供カード / 地の声 引用

キリスト教団体に刺激されて仏教団体も「日曜学校」を開設した。

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 日曜学校が最も盛んであったのは大正から昭和初期である。曹洞宗系の駒沢大学では、1913(大正2)年に学内に少年布教団が誕生する。大正4年には学内に日曜学園協会が発足し、上馬新町で子ども会を実施している。その後、192(昭和4)年には、竹内道説部長のもとに、「児童教育部」と改称し、日曜学校を中心とした子ども会活動を積極的に展開する。昭和7年には、同部所属の日曜学校だけで、14ケ所あったという。花岡仙鳳(昭和年卒)の回顧談を読むと、当時の部員は先輩にしごかれながらも、かなり綿密なカリキュラムで講演童話などの技法を身につけていったことがわかる。夏休み、春休みなども利用して、部員は4〜5人の班を編成して日本各地や、遠く朝鮮、満州を巡回している。これは、部員にとっては楽しい年中行事であり、また、この巡回子ども会が全国各地の寺院に日曜学校や子ども会を普及させていった。もちろん、部員たちの多くは卒業後地元の寺院で日曜学校などを開いたのである。(少年少女集団活動の歴史)
http://www.rikkyo.ne.jp/web/htanaka/98/Shonen-shi.html

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戦前、曹洞宗務院が発行した日曜学校用のカードがある。12枚セットらしいのだが、私が入手したのは11枚しか入っていなかった(^^;;

一、おかあさま 
 わたくしたちは、おかあさまのふとことにねたり、おかあさまのひざのうえであそんだり、おかあさまのおちゝをのんでおおきくなりました。
二、おとなしく
 おとうさまや、おかあさまはどこにいらっしゃるときでも、いつもわたくしたちのことをごしんぱいになります。そしておとなしくしているとたいへんおよろこびになります。

ざっと、こんな調子である。文言の末尾には「組」「姓名」を書き込むようになっていて、下部には「曹洞宗務院」とある。サイズは縦93mm横72mm。紙質は良い。

これらの文言は「仏説父母恩重経」をもとにしてある。

親の恩、子の孝行‥中国で儒教と妥協してつくられた有名な「偽経」だ。戦時下、親の恩を強調することによって最後は天皇の恩にまで展開させるという、まことに都合がよかったお経でもある。八枚目が面白い。「おもしろかったことやよいことは、おとうさまやおかあさまにおはなししましょう。おしいたべものもほとけさまにそなえてから、みんなでいたゞきましょう。」と、なんの変哲もない内容だが、なぜかタイトルは「かみをうやまえ」。日曜学校の僧侶が、このカードを使ってどのような話をしたのか実に興味をそそられることだ。

戦前は、眼蔵家として知られる永久岳水ですら「仏説父母恩重経講話」を出版しているほどだから、曹洞宗はこの経典に重きをなしていたことは明らかである。戦後、女性差別の偽経「血盆経」とともに宗門から消えたことは高く評価したい。

ところで余談だが、台湾仏教界の二大宗派は仏光会と慈済会である。前者は知らないが、慈済会は「仏説父母恩重経」を宗派根本経典のひとつとしていて、いまでも盛んに読誦されるし、教義の中核をなしている。さすが儒教のお国柄だと思う。

No.676 2008/07/13(Sun) 17:26:09


支那事変と曹洞宗 −大本山総持寺貫首の北海道巡錫− / 地の声 引用

1937年(昭和12年)、近衛内閣が発足。「国民精神総動員体制」が布かれ、文部省「国体の本義」によって皇国史観を徹底する。7月7日(奇しくもG8開催日)、日軍中国侵略のきっかけとなる「蘆溝橋事件」が勃発。日中は本格的戦争状態に入る。戦死者は急激に増加。宗教界は「銃後」を固めるために活発に動き出す。

同年、7月13日から8月9日、伊藤道海総持寺貫首は高階瓏仙可睡斎々主を随行長として伴い北海道各地を巡錫した。各地での日程及び法要は以下のとおりである。(可睡斎発行「高階瓏仙禅師伝」1974)

◎7月14日〜20日    札幌市・竜興寺「授戒会」
 戒会中日、後醍醐天皇六百回遠忌法要を行う。
◎7月20日〜22日    岩見沢市・禅洞寺「因脈会」
 戒会2日目、後醍醐天皇六百回遠忌を行う。
◎7月23日〜29日    稚内市・禅徳寺「授戒会」
 戒会中日、後醍醐天皇六百回遠忌法要を行う。竹田住職は「時局非常の今日、なるべく難値勝縁の大法要をして有意義に終始せんものと念願し、国民精神に信念の培養を資助せんがために戒の範囲を拡大し、近隣は勿論地方の青年男女を入戒せしめ」た。(同書p.162)
◎7月30日〜8月5日   北見市・高台寺「授戒会」
 戒会中日、後醍醐天皇六百回遠忌法要および日支事変につき武運長久祈願の大般若会、戦死者追悼会を猊下御親香にて執り行う。
◎8月5日〜6日     北見市・天恵寺「因脈会」
 6日、皇軍武運長久祈願、引続き支那事変戦死者追悼会を行う。
◎8月7日〜9日     網走市・法竜寺「因脈会」
 8日、武運長久祈願。
 9日、後醍醐天皇六百回遠忌法要、支那事変戦死者追悼法要。
※因みに、同年11月には鈴木天山曹洞宗管長は全国各師団の慰問をおこなっている。

まず驚くのが強硬スケジュールであること。そして「後醍醐天皇六百回遠忌法要」と「支那事変戦死者追悼会」がほとんどの寺院でおこなわれていることである。恐らく総持寺あるいは曹洞宗からの指示があったのだろう。

そもそも「授戒会」あるいは「因脈会」は、一六条菩薩戒を参加者である四衆に説き、信受せしめて仏弟子たらしめる曹洞宗の最も重要な行事である。一六条菩薩戒の中、「十重禁戒」の第一は「不殺生戒」である。武運長久祈願とは相容れないものである。いったいどう理屈をつけてこのふたつを結びつけたのか興味もあるが、加行位の仏弟子に戦争を鼓舞するなど決してやってはならないことを、時の曹洞宗のトップが率先して範を垂れたことは極めて重要な意味を持つ。ところで曹洞宗は翌1938年(昭和13年)皇軍慰問・戦跡慰霊のために管長代理高階瓏仙可睡斎々主を二度中国に派遣している。一回目は3月10日から4月7日までで、天津、北京、大同、大原、済南を巡鍚した。二回目は8月14日から9月12日まで。巡鍚先は、青島、済南、徐州、蚌埠、南京、上海である。曹洞宗はまるで何かに憑かれたように積極的に戦争に加担していく。

          ◇

のちに曹洞宗管長(昭和19年〜昭和43年)となる高階瓏仙可睡斎々主はまさにその中心にいた人物であった。管長になる前は、大正13年特選議員。翌年曹洞宗宗務院総務就任。昭和2年公選議員に当選し後に宗議会議長。禅師たるべき登竜門「可睡斎々主」には昭和6年に到達している(そう言えば、故I氏も可睡斎々主だった)。

彼は師、日置黙仙を敬愛していた。還暦祝いの謝辞で、自分がいまあるのは「日置禅師の賜、母の念願」によると語っている(同書p.57)。日置黙仙は日清・日露戦争の兵士を祀る「護国塔」を可睡斎に建設することを発願した。それを完成させたのが高階瓏仙だった。彼は京都宇治に「靖国寺」建立しようと計画していた中井祖門(勤王護国会長、八幡神徳寺住職)と共に日中戦争の兵士の遺骨(土砂)を中国から持ち帰り「護国塔」に納めている。可睡斎では、いまでも毎年夏慰霊祭がおこなわれているという。曹洞宗の戦争責任は、興禅護国を説き、その影響力が大きかっただけに極めて重い。戦時下の「曹洞宗=高階瓏仙」という構造に関して、このことは特記さるべきであろう。

No.675 2008/07/10(Thu) 20:51:26


『大本山総持寺再建の話』と祖門再建寄付について / 地の声 引用

総持寺祖院再建の先行きが不透明になっている。ところで『大本山総持寺再建の話』(今村延雄編集・鴻盟社 明治40年9月発行)という小冊子がある。恐らく全国の檀信徒に配布されたものだと思う。

明治31年4月13日、失火から全焼した総持寺を再建するにあたり、宗議員による「諮詢会」を開き、又総持寺直末130余ヶ寺の評定を経て鶴見移転が決定されたのは明治39年7月のことだったという。この小冊子には、現祖院については「別院として再建」すると軽く触れられているにすぎない。具体的計画など一切説明がない。当時の曹洞宗が祖院をどのように見做していたかが伺えることある。

総持寺移転再建は大本山に関わることとして、その再建費は「再建祠堂金」として全国の檀信徒から募ることとなった。

「さて、その再建費の勧募については、それぞれ御本山の規定もありますが、其内、諸君(みなさま)に御話しておくべきことは、今回の再建費は、総て『再建祠堂金』として募集し、其(その)祠堂の金額により、左の通り御本山で取扱わるゝことであります」(同書p.17)として、

一、特別大日牌  之は百円以上の祠堂金をお納めなされた方の御望みに依り、二霊以下の為に大本山で別に位牌一基をお作りになり、永代、毎日特別の御供養をなして下さるのであります。
但し、祠堂金一口五百円以上のものは特位を設けて其(その)霊牌を安置せられます。

一、大日牌   之は五十円以上をお納めなされた方の御望みに依り二霊以下の為に大本山で別に位牌一基を造り、永代、毎日特別の御供養をなして下さるゝのです。

一、日 牌   之は二十五円以上のお方の御望みに依り二霊以下の為に位牌一基を造られ、毎日通常の御供養をなさるゝのであります。

一、月 牌   之は十円以上のお方の御望みに依り、二霊以下に対して、位牌を造られて、毎月一回御供養をなさるるのであります。

一、合同牌   之は一円五十銭以上のお方の御望みに依り、過去帳に霊位の戒名を載せ置かれて、毎歳二回供養をなさるゝのであります。

とある。(振替貯金送金票も掲載)(貨幣価値:1円=10万円以上)

祠堂金に、実に微細にわたった規定を設けて集金しようとする意図に辟易する。「布施とは何か」などというラジカルな議論など吹っ飛んでしまう。それはさて措き‥、要するに大本山総持寺移転再建は全国の檀信徒の浄財によって行われたことに注目したい。

「さて前に申しました祠堂金を大本山へ御納めになるには、大抵檀信徒のお方々に対しては、各寺院の御住職が勧募委員となっておられますゆえ、それぞれ悉(くわ)しいお話もありましょうから、其御住職の御携(おもち)になった祠堂帖へ金額や姓名等をお付けになり、猶、祠堂戒名帳へ口数に相当の戒名をお付けになるようにせられたいのであります」(同書p.20)

この度の総持寺祖院再建について、「総持寺祖院は大本山総持寺と一体である」という唐突な超論理が宗議会を沈黙させ、法外な再建資金を曹洞宗の年間予算から絞り出した。大本山総持寺と一体であるならば、再建費は全国の檀信徒の浄財によるべきである。これが「教化」というものであろう。

祖院再建委員会は、地方の嶽山会支部や総和会支部あるいは宗務所を通じて、寺院から再建費を集金しようとしている。何故、「八百万」檀信徒を対象にしなかったのだろう。「祖院は総持寺と一体である」と、その趣旨を伝え全国に周知させることを何故しなかったのか?

やや皮肉めくのだが、恐らく檀信徒からの反発を恐れたのではないかと思うのだ。明治時代なら、お寺の言うことは絶対であり、また文字を読み理解して金を出せるのはごく一部の階級の人々であった。しかし今は違う。檀信徒のなかには学者もいれば経済人もいれば、建設業者もいれば弁護士だっている。あるいは「仏教者」だっているかも知れない。これらの人たちに、無謀ともいえる「祖院再建寄付」をどうやって納得してもらえるのか。反対や抵抗が目に見えている。手っ取り早いところ、寺の住職から集めよう。会派やら地域の縛りに弱いから、どうせ金を出すだろう、こう踏んだのではないか‥これは侮辱だ。

祖院再建の「人情話」に酔ってはいけない。宗門護持のために拒否することも正しい選択肢のひとつであろう。



ところで、祖院再建計画の不透明さもさることながら、壮大な伽藍自体が非仏教であると以前書いた。安食文雄著『20世紀の仏教メディア発掘』(鳥影社2002)を読んでいたら次のような文に出会った。

『新仏教』‥第十巻第七号(明治四十三年刊)には「枯骨生」と名乗る同人が「無寺院主義」を発表し、世にはびこる伽藍仏教、土木仏教の非仏教性を衝いている。「枯骨生」は、「奈良仏教の弊は、七堂伽藍より生まれ、平安仏教の害は、三千の僧坊より生まれ出たのである。曹洞宗の敗滅は、鶴見の に大伽藍の聳ゆる時にして、真宗滅亡の芽は、京洛に聳ゆる山門に根ざすのではあるまいか」と痛烈に批判‥この指摘は、今日でも当てはまるものだ。「信は荘厳から」とは言うものの、伽藍の威容と権威で大衆を跪かせる信仰というものはいわば恫喝宗教である。本来の仏教は、そうした世俗的な魔性から目覚めさせるものではないだろうか。(同書p.39)

伽藍を大きくすることが仏教を繁栄させることだと勘違いしてはいないか?儲かるのはゼネコンだけなのだ。

No.674 2008/07/09(Wed) 20:44:06


映画『夕焼けこやけで 〜石の鐘のこだまは・・・〜』を観る / 地の声 引用

映画とは言え、30分少々のドキュメンタリーDVD。

長野にある称名寺(浄土真宗本願寺派)の梵鐘は戦時中応召された。門徒は寺の近くにあった石を代わりに吊るした。戦時中の梵鐘応召は全国の寺院でおこなわれた。金属回収とともに寺が率先して戦争に協力しているというプロパガンダの意味もあった。

当寺の僧・佐々木五七子(79さん)は「平和が保障されない限り梵鐘は吊るさない」と語る。無骨な「石の鐘」は佐々木さんの「意志の鐘」でもある。

交通事故で下半身が不自由な歌手狭間壮氏は、ある日「石の鐘」の存在を知り、それをきっかけに戦争とは何なのかを学ぶ。そして反戦を歌うことが歌手として自己実現をはたすことだと認識するに至る。「一本の鉛筆」という歌がある。美空ひばりの愛唱歌でもあった。

あなたに 聞いてもらいたい あなたに 読んでもらいたい
あなたに 歌ってもらいたい あなたに 信じてもらいたい
 一本の鉛筆が あれば 私はあなたへの 愛を書く
 一本の鉛筆が あれば 戦争はいやだと 私は書く

あなたに 愛をおくりたい あなたに 夢をおくりたい
あなたに 春をおくりたい あなたに 世界をおくりたい
 一枚のザラ紙が あれば 私は子供が 欲しいと書く
 一枚のザラ紙が あれば あなたをかえしてと 私は書く

 一本の鉛筆が あれば 八月六日の 朝と書く
 一本の鉛筆が あれば 人間の命と 私は書く

「あの時代はしょうがなかったのだ」と人は言う。はたしてそうなのか?ただの責任回避なのではないか?「しょうがない」と自己弁護しつつ、結局は人を殺したのではなかったか?終わりのほうに荊冠を刺繍した輪袈裟をかけた僧が登場する。彼は戦争経験のない若い僧であるが、戦争を二度と繰り返してはならないと語る。わたしたち仏教者は戦争責任を自分のものとして受けとめなければならない。

物言わぬ「石の鐘」の存在感は実に大きい。城山三郎「大義の末」に匹敵するほど雄弁である。佐々木さんは「平和が保障」されたときには、新しい梵鐘を下げ、66年前のようにお昼と夕方鐘を撞きたいと希望している。この寺は小高い丘の上にあるので、鐘声は四方によく響いたという。その時が来るかどうかはわからないが、仏教の戦争責任と反戦の象徴としていつまでも吊るしておいていただきたいとわたしは思う。

■映画「夕焼けこやけで 〜石の鐘のこだまは・・・〜」
企画:松嶌澄雄 脚本:和田 登(児童文学者) 監督:江守健治 
製作著作:「夕焼けこやけで製作委員会」  (資)スコブル社
■商品詳細
DVD片面一層 MPEG−2 カラー35分 NTSC 16:9 LB
■価格
本体2000円(税込)+600円(送料・代引)= 合計2,600円
■お支払い方法
・代金引換
■お申込はファクスかメールで
長野県長野市稲葉1978 (資)スコブル社 
TEL・FAX:026-221-0639  Emeil:emori@emori.com

詳細はこちら↓
http://www.emori.com/sukoburu/ishinokane.htm

No.673 2008/07/08(Tue) 06:43:57


G8ピースウォークに参加して / 地の声 引用

7月5日、札幌で開催された市民集会「チャレンジ・ザ・G8サミット 1万人の市民ピースウォーク」に参加した。

そもそもG8とは何かと言えば、世界のGNPの三分の二を占め、CO2の排出量は約半分、エイズを含めた医療特許権は80%、武器輸出90%など、地球をほしいままに独占していて、G8会議はこれらの国が年一回「談合」することにある。例えばCO2 問題で、しおらしく削減目標を提示しようとしているが、元をただせばこれらの国々が利益だけを優先し環境問題をおろそかにしてきたことであり、さらにひどいのはCO2削減計画を新ビジネスとするほど狡猾である。

G8ピースウォークは、G8のあり方を批判し、地球に真の「人権・平和・環境」を実現するよう提言するものである。

警備は異常なほど厳重である。全国の都道府県から応援を頼み、札幌を中心として21000人の警察官が動員されているし、意味がよくわからないが、イージス艦までもが警備にあたっている。戦時中であれば戦艦大和が出動したのと同じだ。空港のみならず周辺の市町村は小路に至るまで24時間の警備態勢が布かれ、抜き打ち検問、職質がおこなわれている。8年前の沖縄サミットでは800億円かかったというが、その9割が警備費だった。今回も似たようなものだろう。なぜこれほどまで警備しなければならないのか‥それは簡単に言えばG8が良からぬことをしているからである。良からぬことと言えば、全国から動員された警察官は公共施設、ホテル、旅館などに宿泊している。某県警は酔っ払って問題をおこし、ホテルから宿の変更を余儀なくさせられたという。女湯を覗いたものもいた。G8を警備する意味がないものだから、仕事に使命感がないのだ。戦時中、兵士が戦争の意味を喪失して略奪や強姦に走った(またそれを容認した)ことを連想させる。

おなじみのワールド・ピース・ナウの虹の旗が揺れている。集会は大通西8丁目公園で開催され、およそ5000人が参加した。人権・環境・平和に取り組むNGOや諸団体が終結した。宗教界からはキリスト教団体が参加していた。仏教系は私を除いて皆無だった。いまだに体制に媚びているのだろう。午後3時からデモ・パレード。「no more G8、自分勝手に決めるなよ!」 大通公園からススキノを経て中島公園までの約2キロを、それぞれのグループや団体がプラカードを掲げたり旗を振りながら練り歩いた。ジュラルミンの盾で固めた機動隊員の眼は緊張あるいは恐怖で血走っていた。なかほどを過ぎたころ、あるグループが警備の機動隊を挑発。混乱を避けるためにわたしはその場から前方に急きょ移動したそのとき、警察の呼子がケタタマしく響いた。あとで聞けば4人が逮捕されたという。

この市民活動が目指す「敵」はG8にある。警備の機動隊員にあるのではない。挑発行為や暴力行為(実際あったかどうかは不明だが)は真の敵が見えない幼稚な行為である。事実、メディアは4人が公務執行妨害で逮捕されたことを大々的に報道し、ピースウォークの主張は陰に隠されてしまった感がある。これでは敵の思う壺である。残念なことだ。

それにしても、この国の仏教者は社会にとって(あるいは世界にとって)まるで役立たずだ。日頃、大自然だ、大宇宙だと偉そうに言っても、実際それを実現しようと世界中の心ある市民たちが立ち上がっているときに、まるで他人事のような態度をとっている。わたしはある護憲集会に参加したとき、「坊さんに対する認識が変わった」と言われたことがある。以前人権関係の活動でご一緒させていただいた方々とピースウォークで偶然出会った。それぞれが、それぞれのテーマに真剣に取り組んでいる人たちである。7月上旬にしては異常な暑さ(30度)の札幌だったが、それにもまして熱い力をいただいた。

参考:『北海道新聞』
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/summit/103231.html

No.672 2008/07/06(Sun) 13:10:45


チャレンジ・ザG8サミット 1万人のピースウォーク / 地の声 引用

☆ 核も戦争もない世界をつくろう
☆ 世界から貧困と差別をなくそう
☆ 子どもたちにみどりの地球を残そう
の共通スローガンで、非暴力を原則に、私たちの主張を世界に向けて発信します。

★ 日時 2008年7月5日(土)午後1時から 集会
午後3時から ピースウォーク
★ 会場 札幌市 大通西8丁目広場
ピースウォークは、札幌中心街をあるきます。

★ プログラム
午後1時 オープニング 「乱拍子」の太鼓演奏
主催者あいさつ
海外ゲストスピーチ(予定者)
グスタヴァ・アッサ(アフリカ市民委員会代表)
ウォールデン・ベロー ( Focus on the Global South )
ミニー・デガワン ( Indigenous Peoples Network for Change)
韓国から
La Via Campesina (農民の道:農民の世界的な組織)から
ビノッド・ライナー (インド)
ほか
国内ゲストスピーチ 各賛同団体から
途中で音楽が入ります。
午後3時 ピースウォークに出発

[詳細]
http://kitay-hokkaido.net/modules/event/index.php?lid=10

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「人権・平和・環境」に取り組む曹洞宗僧侶よ、札幌に結集しよう!幸い「友引」です。お葬式はありませんww
あーだ、こーだと堂々めぐりの議論(あるいは言い訳)より、「行動」こそが曹洞宗僧侶に求められています。

「100万人のたんざくアクション」にもご参加ください。
https://www.g8ngoforum.org/g8ngo_form/

No.671 2008/07/02(Wed) 06:23:26


なんというテイタラク / 地の声 引用

人権啓発ビデオで人権研修を受けた受講者の感想文提出が今回の「内山愚童」ではおこなわれなかった。教区長が報告書を提出することでお茶を濁すという。聞けば、これまで全国から回収した受講者の感想文は読まれないまま山積みにされて、しまいには処分されてきたという。

現場の声を聞かない人権啓発ビデオは一方通行の無意味なものになる。曹洞宗の「人権」啓発など、とてもおぼつかない。

やる気がないなら、元の葬式仏教にさっさと戻った方がいい。そもそも曹洞宗がここまで全国展開したのは、「禅」だの道元禅師さまだのにあるのではない。「重要なことは、日本に伝えられた禅宗葬法は、社会のあらゆる人々を対象とし、比丘としての名である戒名(法名)をあたえ、出家比丘として引導・下火の儀礼を行い、成仏を保証したということなのです」(竹内弘道『葬祭―現代的意義と課題』曹洞宗宗務庁)と、認めている通りだ。

感想文を分析を加えず破棄するような曹洞宗に、人権を語る資格などない。

No.668 2008/06/28(Sat) 07:34:28

 
Re: なんというテイタラク / 坐禅修行者 引用

>「重要なことは、日本に伝えられた禅宗葬法は、社会のあらゆる人々を対象とし、比丘としての名である戒名(法名)をあたえ、出家比丘として引導・下火の儀礼を行い、成仏を保証したということなのです」

地の声どの、この主題はあまりにも重く深い。私は在家者としてこの主題を棚上げすることにしました。そして共に「草の根」の活動をしながら社会に関わっていけるような地域のお寺さんを捜してみようと思っています。「草の根」というのが今、唯一見える答えなのだと私は思います。

No.670 2008/06/30(Mon) 15:52:11


召集令状を破り捨てた従軍僧の抵抗 / 地の声 引用

新人物往来社「知られざる証言者たち」は、太平洋戦争研究会(平塚柾緒)が聞き取りし昭和46年(1971)『週刊アサヒ芸能』が連載したものを、このたび(2007.8)その半数を纏めて出版したものである。

その中に「召集令状を破り捨てた従軍僧の抵抗」(pp.78-92)がある。

釈神仙師には戸籍がない。彼の生家は元旗本で姓は「徳川」。いわゆる上流階級であった。京都大学で法学を学び、高文に合格。専門は公安だった。同級生たちが特高警察の上に立つ公安検事になって行く時、彼は卒業まぎわに出家する。親の反対を押し切って結婚した女性の自殺から仏教に救いを求めたことが出家の直接的動機とある。無論、権力に対する抵抗と親に対する抵抗が出家を決断させたことは想像に難くない。

京都・天竜寺で修行中の昭和11年、現役兵として入隊。満期除隊(陸軍歩兵少尉)後、天竜寺に戻る。日中戦争たけなわの昭和13年、彼に召集令状が下る。彼は赤紙を、京都市役所の吏員の目の前で破り捨てる。まもなく駆けつけた憲兵を殴って山門の外に放り出したという。この頃、僧侶とて例外はなく、つぎつぎに召集令状がきて多数の僧侶が出征したことを思えば、彼の行動は特記すべきである。

赤紙を破り捨てた神仙師は、翌日午前三時、四十人の憲兵隊を相手に警策を持って抵抗するが逮捕され留置される。そこで一年にわたり「兵役拒否」「皇軍侮辱」「公務執行妨害」「傷害罪」「不敬罪」などで取り調べを受けた。殴打、海老攻め、宙吊り、水攻め、電気攻め、音攻め‥召集に応ずるために彼はあらゆる拷問を加えられた。しかし「わしは坊主じゃ。人殺しはせん」「中国みたいなところに飛び込んで自滅するだけの戦争じゃないか」と、彼は絶対に屈しなかった。

それを見かねた親は、コネのある憲兵分隊長を通じて戸籍除外とともに「従軍僧」として妥協することを提案する。「行きます。望みどおり死んであげます」と、彼はそれを受け入れ戦地へ赴く。しかし昭和14年、脱走。終戦の日に割腹自殺を図るが幸い一命を取り留める。

15年戦時下、身を呈して戦争に反対した仏教者は稀である。仏教者は権力に弱いのである。だが、数は少ないけれど釈神仙師のような人はいたはずだ。それを発掘し評価することを、この国の仏教界は怠ってきたのではないだろうか。曹洞宗が内山愚童を顕彰することは無論だが、戦争に反対し仏教者として懸命に生きようとした草の根の僧侶こそが(その限界はあれ)評価されるべきではないだろうか。戦前に「仏教は平等主義である。カースト制度のインドに民主主義が広まれば、インドは仏教国になる」と言いながら、戦中は「一殺多生」「皇国史観」「護国興禅」「国家神道は米、仏教はおかず」を熱弁し‥戦後は臆面もなく「平和」を提唱した某宗派の管長など顕彰してはならない。こんな欺瞞を赦しているから仏教の戦争責任は無化され、仏教者が何をなすべきか、あるいは何をなしてはならないかという基本的な問題がいまだ解決されないまま今日に至っているのである。

     ◇

「ひそかにし吾が控えいる英霊帳に十九歳安積節郎と言うがあり」(昭和12年)
「傷兵を送り還すと来し駅は夕ぐれの風いたく冷々し」(同)
「軍服に輪袈裟をつけし吾来り幾たびめかの遺骨を送る」(昭和13年)
「堂内に木魚を打ちて我のをれば支那僧一人出で来りぬ」(同)
「湖を巡りて出づる門のへに眼(まなこ)清らけき少女に逢いぬ」(同)
「相ならび寝ねたる兵の足のへに暗き光は斜に射せり」(同)
(雨宮熊太郎『従軍僧の歌―横浜の歌人森快逸―』/文化書房博文社「良寛を考える」1979)

No.669 2008/06/30(Mon) 06:25:47

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