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明治時代日韓関係で暗躍したのは武田範之だが、その後日本の侵略の手が中国に及んだ際大きな役割をはたしたのが水野梅暁(1877-1950)である。
「水野梅暁についてのまとまった伝記はないが、明治一〇年一月広島県深安郡福山町(現福山市)に生まれ、(『追懐録』では明治一一年一月となっている)七歳のときに縁戚にあたる曹洞宗長善寺(『追懐録』では法雲寺)水野桂厳の養子となり、出家した。その後上京し、哲学館(東洋大の前身:地の声注)に一時籍を置いたが、京都の大徳寺高桐院高見祖厚について修行し、ついで根津一の知遇を得て上海にあった東亜同文書院に学んだ。一期生であった。在学中に浙江天童山如浄(道元禅師の師、道元が修行し、その法をつたえた)の墓塔を拝し、住職の敬安に日中仏教との提携を約束したといわれている。卒業後、敬安の勧めにしたがって湖南省長沙に赴き、当地で僧学堂を開き、仏教の研究と、布教活動に従事していた。‥その後大谷光瑞の知るところとなり、彼らは深く交流をはじめた。事実水野梅暁はそれまでの曹洞宗から西本願寺へと僧籍を移している。」(柴田幹夫『水野梅暁と日満文化協会』pp47-48/龍谷大学佛教史研究会「佛教史研究」2001.10)
当初水野梅暁の発心は日中仏教の交流にあった。それは大正14年日中1000人の仏教者がつどった東亜佛教大会を企画実行した際、当時支那時報社々長だった彼が「中央仏教9−10」に寄せた一文からも分かる。
「来る十一月東京に於て東亜佛教大会が開催されることは、既にひろく教界勿論社会一般に問題になっているところであるが、自分はこの大会の催されるに付いて一二の希望を持っているから少し述べて見ようと思う。 第一に日本仏教徒がこの大会を機会に日支親善を期せんとか、或は我が国仏教界多年の懸案たる支那に於ける仏教権を獲得(当時、仏教の布教活動は中国国内で認められていなかった:地の声注)したいなどゝいう考を以て進みつゝあるではなかろうか。若し然りとするならば夫は甚だ良からぬ考で、さうした観念は捨てゝかゝらねばならぬ。‥かうした宗教的会合を以て国家の政治的、外交的方面に利用するなどの考を持つことは甚だ以て見当違いをなしているのもである‥。」(水野梅暁『東亜佛教大会問題批判』心からの融合たらしめよ)
いわゆる満州の宣撫機関である日満文化協会の設立にあたり、三田村泰助は『内藤湖南』で水野梅暁を次のように評している。
「たまたま水野梅暁の経歴の話しあり。かれは大徳寺派の僧にて明治末すでに長沙にありて布教に従事せしが、この地にて排日に会い帰りて大谷光瑞の手下となり、今外務省にありて、なかなかのやり手なりと。」(柴田幹夫同論文p.58)
つまり水野梅暁は国策にからめとられて(あるいは自ら率先して)侵略者の手先となっていく。初発心を忘れて行く。「然らば其の根本問題は、如何にして興亜の聖業を完遂するかと云うに、是は云うまでもなく、我日本を中心とすることは勿論であるが、更に一歩を進めて之を云えば、亜細亜の民族は今日まで、如何なる理念の下に陶冶さられて来たかと云うことを検討し、亜細亜人に即応する理念を確立し、亜細亜人を治るには、亜細亜人の心を以てすると云うことが、この聖業を完遂して今日の事変を処理するの要諦であると云うこと、特に高調する次第である。」(『Pikata』昭和16年1月号 p.3)と、まるで侵略主義者に豹変してしまうのである。
わたしはこの豹変に、この国の仏教者の特質を見るような気がする。権力におもね、へつらう、この国の仏教の限界を見る。その原因は、仏教が生き方に反映されていないこと、つまりこの国の仏教者は状況によって簡単に揺れ動く脆弱なものであって、仏教者の自己実現が実に幼稚なものであることを指摘せずにいられない。また、そのような無責任な行動が、結果としてどれほど多くの犠牲をもたらしたかということに想いを致せない悲しみも感じるものである。これは仏教者のすることではない。
昭和16年、南京・中華門外に兵器廠兵舎を建築し更に稲荷神社建立のために地ならしをしていた高森部隊は地下から偶然にも石柩を発掘した。中には副葬品とともに玄奘三蔵の頂骨が納められていた。水野梅暁は狂喜し、骨の一部を日本に持ち帰った。遺骨は現在埼玉県岩槻市の慈恩寺・玄奘塔に安置されている。中国は返還を求めている。
水野梅暁は玄奘法師をとても敬愛していたのだろう。昭和25年、慈恩寺・玄奘塔に納められるまでは、その遺骨はまさに水野梅暁の所有物であった。まさに「骨まで愛して」いたのである。水野梅暁は期待していたところの玄奘塔の完成前に亡くなったと言われる。
藤本湖温は「仏教思想」(昭和26年12月号)に『水野梅暁老師 晩年の奇行』と題して、水野梅暁がいかに玄奘法師を敬い遺骨を愛していたかを回想している。
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慈恩寺の奥座敷から遥か小高い丘の上に建つ玄奘塔のことを考えていた水野老師は突然 「象に乗って行きたいなあ」 と独り言をいいだした。 名古屋市日泰寺で催される仏舎利五十年祭に参加する老師の考えは印度の象を思い出したので急に象に乗りたくなったらしい。 「何とかならんものかなあ」 思い詰めた老師はまた独り言を繰り返した。名古屋生きのことで二、三の人が集まった時老師は思い詰めたことを話し出した。 「仏舎利と玄奘さんの体面にはなあ、是非象に乗って行きたいと思うんだがどうだろう」 「象ですって!!」 突飛な老師の言葉に一同顔を見合せた。 「先生それは無理ですよ、この敗戦の日本では」 「そうかも知れない、だが玄奘さんならきっと象に乗って行くね」 老師はしきりに象に乗って対面することを考えていた。 「名古屋には象が居るというのだから何とかなりそうに思うがね」 「でも先生それは無理でしょう」 「然し物は相談と言うことがあるから、一度その相談をしてもらいたいね」 「そうですか」 誰も本気になれない返事をしていたが、若し出来たら老師の晩年を飾るもっともふさわしい行事の一つになるに違いないと考え出したので 「とにかくあたってくだけろで相談してみましょう」 老師の心境を知った人たちばかりの集まりであったので話は順調に進められた。 支那服に身をかため名古屋の駅頭に姿をあらわした老師は明るい微笑みの表情で出迎えの人々に嬉しそうな挨拶をした。 玄奘の霊骨を抱いた支那服姿の老師がユラリユラリ動く象の背中に乗って日泰寺へのりこむ姿は敗戦後の朗らかな話題になった。 ○ 仏舎利との対面を終わった師は帰途沼津の岡野邸に立ち寄った。 奥座敷に案内された老師はじっと富士を眺めていた。 「三国一の富士だ、玄奘さんにも見てもらおう」 といい乍ら床の間に置いた玄奘の霊骨を富士山の見える所へ置いて 「どうです玄奘さん、世界三大霊峰の一という富士山の眺めは又格別なものでしょう」 法悦に浸った老師は何時までも微笑を続けて富士を眺めていた。 慈恩寺前の小高い丘の上にそびえ立つ玄奘塔のことを思いながら。(二六・一一・八)
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日中15年戦争を舞台に仏教者として「活躍」した水野梅暁。彼は玄奘法師からいったい何を学び、どう自分の生き方に反映させてきたのだろう。人類の歴史上稀に見る数多くの悲劇をもたらした日中戦争終戦後間もない頃のことである。この無反省かつ能天気なエピソードにはのけぞらざるを得ない。それは武田範之が李容九を絶望の淵に落としめながら、自らは「神通遊戯第二義門」と手前勝手な抽象世界に遊んだことを連想させる。こんなものが脱俗超然たる禅というものなのであれば、わたしは拒否する。そのような「禅」は唾棄すべきものである。彼が曹洞宗寺院の養子とならなければこのような展開にはならなかったのではないかと思うと憂鬱になる。曹洞宗は水野梅暁を他人事としてはならない。因みに水野梅暁の葬儀は総持寺で行わた(昭24.2.28)。権大教師を贈って高階瓏仙が「行雲流水自由秉炬 日域中華活路通‥」と秉炬法語を唱えている。 |
No.667 2008/06/26(Thu) 22:42:14
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