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水野梅暁について / 地の声 引用

明治時代日韓関係で暗躍したのは武田範之だが、その後日本の侵略の手が中国に及んだ際大きな役割をはたしたのが水野梅暁(1877-1950)である。

「水野梅暁についてのまとまった伝記はないが、明治一〇年一月広島県深安郡福山町(現福山市)に生まれ、(『追懐録』では明治一一年一月となっている)七歳のときに縁戚にあたる曹洞宗長善寺(『追懐録』では法雲寺)水野桂厳の養子となり、出家した。その後上京し、哲学館(東洋大の前身:地の声注)に一時籍を置いたが、京都の大徳寺高桐院高見祖厚について修行し、ついで根津一の知遇を得て上海にあった東亜同文書院に学んだ。一期生であった。在学中に浙江天童山如浄(道元禅師の師、道元が修行し、その法をつたえた)の墓塔を拝し、住職の敬安に日中仏教との提携を約束したといわれている。卒業後、敬安の勧めにしたがって湖南省長沙に赴き、当地で僧学堂を開き、仏教の研究と、布教活動に従事していた。‥その後大谷光瑞の知るところとなり、彼らは深く交流をはじめた。事実水野梅暁はそれまでの曹洞宗から西本願寺へと僧籍を移している。」(柴田幹夫『水野梅暁と日満文化協会』pp47-48/龍谷大学佛教史研究会「佛教史研究」2001.10)

当初水野梅暁の発心は日中仏教の交流にあった。それは大正14年日中1000人の仏教者がつどった東亜佛教大会を企画実行した際、当時支那時報社々長だった彼が「中央仏教9−10」に寄せた一文からも分かる。

「来る十一月東京に於て東亜佛教大会が開催されることは、既にひろく教界勿論社会一般に問題になっているところであるが、自分はこの大会の催されるに付いて一二の希望を持っているから少し述べて見ようと思う。
第一に日本仏教徒がこの大会を機会に日支親善を期せんとか、或は我が国仏教界多年の懸案たる支那に於ける仏教権を獲得(当時、仏教の布教活動は中国国内で認められていなかった:地の声注)したいなどゝいう考を以て進みつゝあるではなかろうか。若し然りとするならば夫は甚だ良からぬ考で、さうした観念は捨てゝかゝらねばならぬ。‥かうした宗教的会合を以て国家の政治的、外交的方面に利用するなどの考を持つことは甚だ以て見当違いをなしているのもである‥。」(水野梅暁『東亜佛教大会問題批判』心からの融合たらしめよ)

いわゆる満州の宣撫機関である日満文化協会の設立にあたり、三田村泰助は『内藤湖南』で水野梅暁を次のように評している。

「たまたま水野梅暁の経歴の話しあり。かれは大徳寺派の僧にて明治末すでに長沙にありて布教に従事せしが、この地にて排日に会い帰りて大谷光瑞の手下となり、今外務省にありて、なかなかのやり手なりと。」(柴田幹夫同論文p.58)

つまり水野梅暁は国策にからめとられて(あるいは自ら率先して)侵略者の手先となっていく。初発心を忘れて行く。「然らば其の根本問題は、如何にして興亜の聖業を完遂するかと云うに、是は云うまでもなく、我日本を中心とすることは勿論であるが、更に一歩を進めて之を云えば、亜細亜の民族は今日まで、如何なる理念の下に陶冶さられて来たかと云うことを検討し、亜細亜人に即応する理念を確立し、亜細亜人を治るには、亜細亜人の心を以てすると云うことが、この聖業を完遂して今日の事変を処理するの要諦であると云うこと、特に高調する次第である。」(『Pikata』昭和16年1月号 p.3)と、まるで侵略主義者に豹変してしまうのである。

わたしはこの豹変に、この国の仏教者の特質を見るような気がする。権力におもね、へつらう、この国の仏教の限界を見る。その原因は、仏教が生き方に反映されていないこと、つまりこの国の仏教者は状況によって簡単に揺れ動く脆弱なものであって、仏教者の自己実現が実に幼稚なものであることを指摘せずにいられない。また、そのような無責任な行動が、結果としてどれほど多くの犠牲をもたらしたかということに想いを致せない悲しみも感じるものである。これは仏教者のすることではない。

昭和16年、南京・中華門外に兵器廠兵舎を建築し更に稲荷神社建立のために地ならしをしていた高森部隊は地下から偶然にも石柩を発掘した。中には副葬品とともに玄奘三蔵の頂骨が納められていた。水野梅暁は狂喜し、骨の一部を日本に持ち帰った。遺骨は現在埼玉県岩槻市の慈恩寺・玄奘塔に安置されている。中国は返還を求めている。

水野梅暁は玄奘法師をとても敬愛していたのだろう。昭和25年、慈恩寺・玄奘塔に納められるまでは、その遺骨はまさに水野梅暁の所有物であった。まさに「骨まで愛して」いたのである。水野梅暁は期待していたところの玄奘塔の完成前に亡くなったと言われる。

藤本湖温は「仏教思想」(昭和26年12月号)に『水野梅暁老師 晩年の奇行』と題して、水野梅暁がいかに玄奘法師を敬い遺骨を愛していたかを回想している。

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慈恩寺の奥座敷から遥か小高い丘の上に建つ玄奘塔のことを考えていた水野老師は突然
「象に乗って行きたいなあ」
と独り言をいいだした。
名古屋市日泰寺で催される仏舎利五十年祭に参加する老師の考えは印度の象を思い出したので急に象に乗りたくなったらしい。
「何とかならんものかなあ」
思い詰めた老師はまた独り言を繰り返した。名古屋生きのことで二、三の人が集まった時老師は思い詰めたことを話し出した。
「仏舎利と玄奘さんの体面にはなあ、是非象に乗って行きたいと思うんだがどうだろう」
「象ですって!!」
突飛な老師の言葉に一同顔を見合せた。
「先生それは無理ですよ、この敗戦の日本では」
「そうかも知れない、だが玄奘さんならきっと象に乗って行くね」
老師はしきりに象に乗って対面することを考えていた。
「名古屋には象が居るというのだから何とかなりそうに思うがね」
「でも先生それは無理でしょう」
「然し物は相談と言うことがあるから、一度その相談をしてもらいたいね」
「そうですか」
誰も本気になれない返事をしていたが、若し出来たら老師の晩年を飾るもっともふさわしい行事の一つになるに違いないと考え出したので
「とにかくあたってくだけろで相談してみましょう」
老師の心境を知った人たちばかりの集まりであったので話は順調に進められた。
支那服に身をかため名古屋の駅頭に姿をあらわした老師は明るい微笑みの表情で出迎えの人々に嬉しそうな挨拶をした。
玄奘の霊骨を抱いた支那服姿の老師がユラリユラリ動く象の背中に乗って日泰寺へのりこむ姿は敗戦後の朗らかな話題になった。
                 ○
仏舎利との対面を終わった師は帰途沼津の岡野邸に立ち寄った。
奥座敷に案内された老師はじっと富士を眺めていた。
「三国一の富士だ、玄奘さんにも見てもらおう」
といい乍ら床の間に置いた玄奘の霊骨を富士山の見える所へ置いて
「どうです玄奘さん、世界三大霊峰の一という富士山の眺めは又格別なものでしょう」
法悦に浸った老師は何時までも微笑を続けて富士を眺めていた。
慈恩寺前の小高い丘の上にそびえ立つ玄奘塔のことを思いながら。(二六・一一・八)

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日中15年戦争を舞台に仏教者として「活躍」した水野梅暁。彼は玄奘法師からいったい何を学び、どう自分の生き方に反映させてきたのだろう。人類の歴史上稀に見る数多くの悲劇をもたらした日中戦争終戦後間もない頃のことである。この無反省かつ能天気なエピソードにはのけぞらざるを得ない。それは武田範之が李容九を絶望の淵に落としめながら、自らは「神通遊戯第二義門」と手前勝手な抽象世界に遊んだことを連想させる。こんなものが脱俗超然たる禅というものなのであれば、わたしは拒否する。そのような「禅」は唾棄すべきものである。彼が曹洞宗寺院の養子とならなければこのような展開にはならなかったのではないかと思うと憂鬱になる。曹洞宗は水野梅暁を他人事としてはならない。因みに水野梅暁の葬儀は総持寺で行わた(昭24.2.28)。権大教師を贈って高階瓏仙が「行雲流水自由秉炬 日域中華活路通‥」と秉炬法語を唱えている。

No.667 2008/06/26(Thu) 22:42:14


小熊英二『日本という国』を読む / 地の声 引用

著者は『<民主>と<愛国>』で大佛次郎論壇賞を受賞した新進気鋭の研究者(1962年生まれ)である。鶴見俊輔・上野千鶴子との対談集『戦争が遺したもの』(新曜社2006)を読んで、その深く広い知識と的確な分析が群を抜くものであることを知り、『<民主>と<愛国>』を読む前に、この書を手始めに読んだ。

私は学校でこの国の近代史を学んだことがない。小学校、中学校、高校いずれも授業で扱かうのは、まるで申し合わせたように江戸時代まで。時間切れで近代史は省略された。今となって考えてみれば、この国の近代史は教えない方針だったのだと思う。ヘタに授業で取り扱うと、この国に対する信頼を失墜することになるからである。

しかしそれでは、この国に生きるものとして不幸なことである。それはまるで、家の耐震強度がどの程度か知らないままに暮らしているようなもので、なんともおぼつかないことである。

同書は、わたしたちが疎外され続けてきたこの国の近代史を簡明かつ的確にとらえ示してくれる。一般に歴史教科書は出来事の羅列に終始するものだが、筆者はその背景にある「意図」を描くことに重点を置いている。だから、スリリングである。

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幕末から明治のはじめ、日本はヨーロッパやアメリカに植民地にされることをおそれ、独立国になりたいと願った。それじたいは正当なことだと思う。
その手段として、江戸時代の身分制度をやめ、全国民を義務(強迫)教育することをはじめ、西洋の文明をとりいれようとした。これにはいろいろ問題もあったけれど(いま君が学校に行かなくちゃならなくて苦労していることもふくめて)、よい面も悪い面もあった。これにたいする評価は、もっといろいろ学んだうえで考えてほしい。
しかし福沢が「脱亜論」で書いたように、「西洋」の仲間入りをして、「東洋」を侵略する側にまわろうとしたのは、正しいことだったろうか。しかたのないことだったのだろうか。
そして前後の日本は、アメリカの方針にしたがいながら、アジアへの戦後補償を安上がりにすませて経済成長した。そしてアメリカ軍に基地を提供し、自衛隊をつくってアメリカのいうままに海外派遣するまでにいたった。
(同書 pp.183-184)

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実は種明かしをすると、この本は「中学生以上すべての人の よりみちパン!セ」というシリーズの一冊で、中学生でも読めるように平易な文章で書かれている。だから読書が嫌いなお坊さんでも読むことが可能である(笑)。余談だが、例の曹洞宗人権啓発ビデオ『内山愚童』に登場する中尾良信教授は1993年に宗務庁が発行した内山愚童に関するブックレットに関して、「このブックレットは、ある意味で、一冊にまとめられた内山愚童の資料として、きわめてよくできたものであると言っていいと思います。内山愚童とは何者かを、とりあえず知りたいと思う人には、コンパクトで便利な冊子だと思います。もちろん宗門の僧侶向けに作成したものですが、肝心の宗門僧侶がなかなか読んでくれないのです。一般の人たちは、お坊さんは字を読むのが商売だと思っているでしょうが、案外、坊さんは本を読まないのです。暗記したお経は唱えますが、書いてある文章を読むことを、なかなかしてくれないものですから、視覚に訴えようということで、内山愚童を紹介するビデオをつくることになりました。」(『個の自立と他者への眼差し』花園大学人権教育研究センター編 pp97-98)と述べている。同教授の武田範之観はいかがかと思うが、このことについては同意する。

あなたでも読める『日本という国』! この国の近代史を正しく認識しよう。そして、いまだ正しく総括されていない曹洞宗の近代史にも目を向けていただきたい。無知なるものは感情に頼る。そして感情こそが真実だと誤解する。過去から学ばないものに未来はない。そんな負のスパイラルから脱出するためにも是非一読いただきたい好書である。

No.666 2008/06/25(Wed) 18:14:47


「お山の杉の子」 / 地の声 引用

「お山の杉の子」

プレカリアートが社会問題化するなか、「およげたいやき君」がリバイバルヒットしている。NHK「みんなのうた」から生まれた名曲だ。「みんなのうた」はいま「みんなの童謡」となり、いわゆる「唱歌」を主に放送している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%AE%E7%AB%A5%E8%AC%A1

「唱歌」(あるいは文部省唱歌)は戦前の課目で、第二国民と呼ばれた児童に軍国主義を植え付けるものだった。有名な「汽車ぽっぽ」は「兵隊さんの汽車」(1943)が元歌で、「きしゃ きしゃ ポッポ ポッポ シュッポ シュッポ シュッポッポ 兵隊さんを のせて シュッポ シュッポ シュッポッポ 僕らも 手に手に 日の丸の 旗を 振って 送りましょう 万歳 万歳 万歳 兵隊さん 万々歳」といった具合だ。

「お山の杉の子」

一 昔々の その昔 椎の木林の すぐそばに 
  小さなお山が あったとさ あったとさ
  丸々坊主の 禿山は いつでもみんなの 笑いもの
  お日さま にこにこ 声かけた 声かけた
二 一 二 三 四 五 六 七 八日 九日 十日たち
  にょっきり芽が出る 山の上 山の上
  小さな杉の子顔出して 「はいはいお陽さま 今日は」
  これを眺めた椎の木は あっははのあっははと 大笑い 大笑い
三 「こんなチビ助 何になる」 びっくり仰天 杉の子は
  思わずお首を ひっこめた ひっこめた
  ひっこめながらも 考えた「何の負けるか今に見ろ」
  大きくなって 国のため お役に立ってみせまする みせまする
四 ラジオ体操一二三 子供は元気にのびてゆく
  昔々の禿山は 今では立派な杉山だ
  誉の家(戦死者を出した家:地の声注)の子のように 強く 大きく
  逞しく 椎の木見下す大杉だ 大杉だ
五 大きな杉は何になる 兵隊さんを運ぶ船
  傷痍の勇士の寝るお家 お家
  本箱 お机 下駄 足駄 おいしいお弁当食べる箸
  鉛筆 筆入れ そのほかに うれしやまだまだ役にたつ 役に立つ
六 さあさ負けるな杉の木に 勇士の遺児なら なお強い
  体を鍛え 頑張って 頑張って
  今に立派な兵隊さん 忠義孝行ひとすじに
  お日さま 出る国 神の国 この日本を護りましょう 護りましょう

団塊の世代を狙ったのか、あるいは高齢化社会を狙ったのか。孫と一緒に歌って楽しむのもいいが、「唱歌」とはそもそも何なのかを知らないと大きな落とし穴が待っている気がする。NHKの意図は何なのだろう。喉元過ぎれば熱さを忘れる。戦後63年もたったし、戦争の悲惨さも忘れた頃だろう‥と、ひそかに戦争の準備を始めたのではないかと思わずにいられない。

(参考:日本の戦争責任資料センター/ボランティア編集部『Let’s』59号)

No.665 2008/06/23(Mon) 07:07:25


「婦人従軍歌」 / 地の声 引用

この国が明治以降海外侵略に走ったなかで、明治27年(日清戦争)に歌われた「婦人従軍歌」は、「赤十字」をテーマとしている。

一、
火筒(ほづつ)の響き遠ざかる 跡には虫も声たてず 吹きたつ風はなまぐさく
くれない染めし草の色
二、
わきて凄きは敵味方 帽子飛び去り袖ちぎれ 斃(たお)れし人の顔色は
野辺の草葉にさもにたり
三、
やがて十字の旗を立て 天幕(テント)をさして荷(にな)いゆく 天幕に待つは日の本の 仁と愛とに富む婦人
四、
真白に細き手をのべて 流るる血しお洗い去り まくや繃帯白妙(ほうたいしろたえ)の
衣の袖はあけにそみ
五、
味方の兵の上のみか 言(こと)も通わぬあだ迄も いとねんごろに看護する
心のいろは赤十字
六、
あないさましや文明の 母という名を負い持ちて いとねんごろに看護する
こころの色は赤十字

戦争で「斃(たお)れし人」を、敵味方なく「ねんごろに看護」する。その精神は「仁と愛」。そう言えば、「赤十字=仁愛」という等式が戦後生まれの私にもなぜかインプットされていたが、どうも吟味が必要らしい。Wkipediaによれば、「赤十字社(せきじゅうじしゃ)とは、スイス人実業家アンリ・デュナンの提唱により創立された、「人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性」の7原則を掲げて、世界各国に存在する人道的活動団体である。」とあって、7原則に「仁愛」は見当たらないのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%8D%81%E5%AD%97%E7%A4%BE

「婦人従軍歌」は、「仁愛」をさらに「仁」と「愛」に分割する。

「仁」は儒教(すなわち権力思想)のキーワードで、「愛」とは矛盾するものである。ここに儒教化された「日本国仏教」が入りこむ隙があったのではないか‥という話はさておき、「赤十字」が国家に利用されたことは、軍の船に赤い十字マークをつけてカモフラージュしたことなどはよく知られることであって、敗戦直後、日本軍「慰安婦」制度がバレるのを恐れた軍部は、彼女たちを一時的に「看護婦」という身分にすりかえたこと(すなわち「赤十字」を利用したこと)は、林博史教授(関東学院大)の英公文書調査によって明らかになっている。

わたしは、個人的に「赤十字」という組織を信じない。行政協力員を動員して町内会費のように半強制的に行われる集金システム。いまだ見えないその実態。曹洞宗が災害時「赤十字」に寄付するのもどうかと思う。支援はやはり災害現場で汗を流すNGOにこそおこなわれるべきであると思う。

6月13日、脱北女性が「帰還事業」で「騙された」として、朝鮮総連を提訴した。朝鮮総連は日本政府と赤十字がおこなったことと反論している。

「帰還事業」のカラクリは、新資料にもとづいた『北朝鮮へのエクソダス』(テッサ・モーリス-スズキ 朝日新聞社 2007.5.30)であきらかになった。この事業は朝鮮総連が主張するように、棄民策として日本政府が行ったものである。諸般の事情で政府が表にでることができなかったから「赤十字」を使ったものだ。ここでもカモフラージュがおこなわれていることに驚くと共に、「赤十字」という組織の本質が見えるようだ。現社長はこの国を戦争に導いた近衛文麿の孫・近衛忠輝であり、彼の妻は副総裁三笠宮の長女である。ちなみに名誉総裁は皇后である。

「日本赤十字」は国策によって平気で理想を捨てる怪しいカモフラージュ団体である。その体質は明治以降今日に至るまで変わっていない。

No.664 2008/06/21(Sat) 07:14:01


座禅ブームのこと / 地の声 引用

あえて「坐禅」ではなく「座禅」と言う。

新ビジネスとして座禅がおこなわれている。都市部にある「道場」には「本物のお坊さん」が指導してくれるという(笑)。全国各地で、スポーツ関係者、児童、新入社員などを対象に座禅がおこなわれている。趣味や気分転換、あるいは集中力や忍耐力を培うためである。甚だしいのは服従心を養成することを狙ったものもある。

こんなブームに乗って、曹洞宗の僧侶が座禅を指導している。座禅が広まることが僧侶としての社会的認知を得ることにつながり、自己実現をはたせるとでも思っているのだろう。実に情けないことだ。座禅は知っていても、坐禅を知らない者である。

座禅が最も注目されたのは戦時下だった。胆力を鍛え、自己を殺し、国の為に命を捧げる人間を作るためである。当時の一高には座禅堂まで作られ学生たちが無我の境地を目指したし、青年学校でもしばしば座禅実習が行われた。軍や警察官の研修にも採り入れられ、沢木興道らが指導・講演したこともある。いまの、座禅ブームも似たようなものである。その場しのぎの一時的気分転換の場を提供して根本的解決から目を逸らし、あるいは体制に従順する「忍耐強い」人間を座禅によって作ろうとしている。こんな外道の座禅から宗門の僧侶は即刻手を引くべきである。そして真の坐禅に取り組むべきである。

近年おろかなる杜撰(とせん)いはく、「功夫坐禅は、胸襟無事なることを得をはれば、すなはちこれ平穏地なり」。この見解、なほ小乗の学者におよばず、人天乗よりも劣なり。いかでか学仏法の漢といはん。見在大宋国に恁麼の功夫人おほし、祖道の荒蕪かなしむべし。(「坐禅箴」)

道元禅師の時代にも、心が落ち着くとして座禅をしていた者が多かったのだろう。道元禅師の嘆きが聞こえるようだ。

「‥坐禅は日常の修行のひとつだからである。しかもそれは、もっとも大事な修行である。というのも、道元にとって坐禅とは、その中で、証の世界とは、自己の修行の現成であることを確認し、その証を脱落して、自らの修行に立ち帰るためのものだったのだ。」(春日佑芳『新釈 正法眼蔵』p.362)

坐禅は「自らの修行に立ち帰るためのもの」である。すなわち、日々の修行こそが根底になければ坐禅は成立しない。修行とは菩薩行である。日々菩薩行に挺身する者が、坐禅によって修証一如を確認するということだ。さらに言えば、一日の活動時間を16時間とすれば、30分坐ったら、15時間30分の菩薩行を現実社会の中で行じることを目指さなければならない。これが修行というものである。だから、座禅の専門家はあっても、坐禅の専門家など存在しないのである。坐禅するものは、どれだけ菩薩行を実践(修行)しているかが問われているのである。真の師家とは菩薩行に徹する者を言う。これが座禅と坐禅の根本的違いである。坐禅は「人権・平和・環境」に密接に繋がっているのである。

気分転換だの、体制に従順な忍耐力を養うだののために坐禅を用いることは道元禅師の法孫のすることではない。正伝の仏法にほど遠い、外道の座禅である。即刻、真の坐禅に還らなければならない。

No.652 2008/06/06(Fri) 08:01:15

 
Re: 座禅ブームのこと / 坐禅修行者 引用

「修行とは菩薩行」をのぞいておおむね貴殿の意見には賛成です。修行と菩薩行については、解りませんので言及しません。

「気分転換だの、体制に従順な忍耐力を養うだののために坐禅を用いることは道元禅師の法孫のすることではない」について、このようなことを目的とする方々は瞑想やヨガへ行かれたほうがいいでしょう。方法や効果についても検証しつくされているはずです。
実は、これを坐禅だと思ってしまう方にも責任の一端があるのです。最も大きな原因は「只管打坐」がそうかんたんに理解できるものでも実践できることでもないということにあります。ビギナーにいきなり只管打坐や身心脱落を求めることは、その人をタクラマカン砂漠の真ん中に置き去りにし、「さー、インドを目指せ」と言うに等しいのです。これではほとんどの人が途中で途方にくれてしまいます。だからと言って忍耐力を養うため、といっては明らかに道からそれています。

「初心者の坐禅は一休み(を体験すること)」これは南直哉氏の言葉ですが、この一言がなかったら私は在家者としてここまで坐禅が続けられたかどうかわかりません。この一言は私にとって「とりあえず向こうに見えるオアシスにたどり着け」と聞こえました。私は在家者には在家者の坐禅があってしかるべきと考えています。

道元禅師は福井に入って後、どんどん出家至上主義に傾かれました。これは禅師の考えが変わったということではなく、比叡山の抑圧から宗門を守るためであったと考えます。並の禅僧を育てていたのでは宗門は存続できないと考えたのではないでしょうか。これには諸説あるようです。複合的理由があったと仮定しても比叡山は大きな要因であり、在家者に広く易しい教えを説いているときではないと考えていたのではないでしょうか。一個半個とはそこからの出た言葉であり、在家者に向けたものではないと考えています。では在家者をどのように導けばよいのでしょうか。道元禅師はそれを書き残す前に亡くなったと思っています。宗門がこの先も続いていくかどうか、それが気がかりで在家者どころではなかったのではないでしょうか。禅師の書き残した文書の中に、在家の指導の仕方がかかれたものがあるのかどうかは存じませんが、もしあったとしても実践の中で加筆推敲して練り上げたものではないはずです。

在家者の坐禅とは何かを私はずっと考えてきました。禅師は在家者にまで一個半個を求めたのでしょうか。もし禅師があと20年、宗門の存続を確信するまで生きておられたら、道を求める在家者に心を傾ける余裕も生まれたのではないかと思います。

No.658 2008/06/16(Mon) 19:54:46

 
Re: 座禅ブームのこと / 地の声 引用

原点に還って言いますが、仏教の言う「修行」は「行い=カルマ」つまり「業=カルマ」を「修める」ことです。「業」と「縁」を否定すれば、それはもはや仏教ではありません。そして、「業を修める」ことは「慈悲」を実践することであるというのが仏教の基本のキです。このことが曖昧になって仏教が外道と大差なくなっています。自らはさて置き、世のため人のために生きること(すなわち「慈悲」)が仏教をここまで発展させました。古来の祖師もみな、本質は「慈悲」にあったのだと拝察します。法眼禅師と則公監院の間に交わされた問答(スレッドNo.649)はそれを端的に示しています。修業は菩薩行なのです。坐禅が修行かどうか別としても、在家・プロの坊さんに拘わらず仏教者が行う以上「慈悲」の行でなくてはなりません。

>もし禅師があと20年、宗門の存続を確信するまで生きておられたら、道を求める在家者に心を傾ける余裕も生まれたのではないかと

全く同感です。禅師は晩年『正法眼蔵』を書き換えようとしました。いわゆる「12巻本」です。それはまさにその方向を目指していました。道半ばで終わったことが残念でなりません。

No.659 2008/06/16(Mon) 21:06:57

 
Re: 座禅ブームのこと / 坐禅修行者 引用

地の声どの、貴殿は道元禅を大乗仏教だとお考えになりますでしょうか。菩薩行、利他行なくして大乗仏教がありえないことは反論の余地がありません。私ども在家者でも理解のできる書籍が山ほど出版されています。かたや道元禅のキーワードは「身心脱落」です。これなくして道元禅師の坐禅は成立しません。正法眼蔵はその先に広がる世界を書き表したものと考えます。だとすると、この身心脱落を目指すことと菩薩行はどのようにつながるのでしょう。たしかに正法眼蔵には菩薩行に関する記述があることは私も知っています。しかし、もしそれが身心脱落した先に位置づけられているとしたら道元禅は大乗仏教ではないことになります。身心脱落を「目指すこと」の中に利他行がなければならないはずです。私の調べた限りでは道元禅師がそのことに触れた書物はみあたりませんでしたが。

No.660 2008/06/17(Tue) 12:39:50

 
Re: 座禅ブームのこと / 地の声 引用

「大乗仏教」であれ上座部仏教であれ、菩薩行によって善業(カルマ)をなすことが仏教者の目指すところで、道元禅師も12巻本「深信因果」で説くところです。あの時代的制約の中で、道元禅師が老荘思想や儒教に惑わされずに仏教の本質をつかんでいたことは驚異です。

ですから「身心脱落」はどういうことなのかが吟味されなければなりません。「肉体も精神も一切のとらわれをのがれて自在の境地に入ること。この身心のままでさとること。」(中村元「仏教語大辞典」)という解説はにわかには受け入れられません。これでは老荘そのもので、仏教ではありません。

因果を説いた道元禅師が、どういう意味で「身心脱落」と言ったのか‥まさに道元禅の本質にかかわる重大問題です。

ちなみに、ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンは、禅を身心の緊張を解き洞察力を培うものだと言います。この洞察力が智慧と慈悲を意味することは無論のことです。これとても「身心脱落」と言うことが可能ですし、「身」(=修行)は「心」(=証)に脱落する、証は修行の中にあり「不可得」であるという意味で読むことも可能ではないでしょうか。

道元禅師は坐禅を強調し、また同時に菩薩行を強調しています。それをどう結び付けるかは、まさに我々仏教者に投げかけられている問題であると私は考えます。

No.661 2008/06/17(Tue) 16:18:26

 
Re: 座禅ブームのこと / 坐禅修行者 引用

坐禅をしている姿そのものが仏であり悟りであると説かれています。そうすると晩年、床に臥され生涯を坐禅で全うできなかった道元禅師の悟りは失われたのでしょうか。禅師は禅僧らしくたんたんと運命を受け入れたのでしょうか、それとも絶望に直面されたのでしょうか。これは在家で坐禅を行じている我々にも共通するテーマなのです。もしも交通事故などで寝てきりになり座禅ができなくなったら、それでも禅に留まる決意があるかどうか。禅は「行」でこそ伝わるのであり「信」では伝わりません。「只管打坐」がまっすぐ伝わるならビジネスも有りか、とも思わないわけではありません。しかし現代は福祉の時代、ビジネスとして進める方々はいずれこの問題に直面すると私は思います。

No.662 2008/06/18(Wed) 13:22:02

 
Re: 座禅ブームのこと / 地の声 引用

>坐禅をしている姿そのものが仏であり悟りである

修行するとき(菩薩行を行ずるとき)が仏であるという意味では理解できますが、坐禅しているときだけ仏になると考えるとヘンテコなことになってしまいますね。

No.663 2008/06/18(Wed) 16:41:25


学童疎開 / 地の声 引用

昭和18年10月、国は戦時教育体制を強化し、学徒出陣・学徒勤労出陣・学童疎開を実施することを決定した。

戦時下、戦火を逃れて多くの都市部学童は地方の寺院に集団疎開した。私の住持する寺もそうである。「かわいそうだった」「懐かしい」‥そんな思い出を語る人がいまでもいる。そして当時寺院が戦争協力をしたという厳然たる事実を認識できない仏教者がいる。これを「草の根の戦後責任」と呼ぶ。

そもそも学童疎開は戦火から将来兵士たるべき「第二国民」(子ども)を保護することにあり、寺院が手っ取り早い「場」だったのだが、それではこの戦争が負け戦であることを認めることになる。カモフラージュとして別の意義を付け加えなければならない。

草場弘(教学錬成所。1943年文部省直轄)の提言は実に巧妙かつ興味深い。(『大法輪』昭和19年11月号)

「寺院の学童疎開は実は単なる建物施設の利用に過ぎない。若し寺院の宗教的雰囲気が熱烈であるならば、恐らく当局はこの寺院に学童を託さないであろう。蓋(けだ)し宗派的宗教教育は特殊の学校以外は今日も猶(なお)許されていないからである。故に今日当局が平然と各宗派の寺院に学童を疎開宿泊せしめているのは、現今の寺院が最早(もはや)宗教的感化力を有していないことを知っている‥これは寺院にとっては果たして名誉だろうか。‥従って住職は転廃業した旅館の主人、料亭の主人と同様‥」(同書p.15)

これほどまで味噌糞に言われていたことを、疎開学童を受け入れていた寺院住職は知らないだろう。「お国の為」、あるいは若干「世の為」と思い善業をなしたとでも思っていたのではなかろうか。それはさて措き、草場氏の論は、なかなか巧緻である。一旦揺さぶってから本論へ導くのである。聖徳太子を示しつつ、仏教の皇道化の必然とその宗教的感化を説き、疎開児童を受け入れる寺院の心構えを熱く説く。即ち寺院(仏教)の持つ役割である宗教的要素に積極的意味を持たせ、「教育」のために疎開せしめているのだというすり替えが行われたのである。

しかし、寺院にとって学童疎開受け入れは仏教の精神を捨て戦争に協力した以外の何物でもなく、仏教が体制に隷属した象徴的場面だった。

ひとつは大日本戦時宗教報国会の結成(1944.9.30)と相俟って「祖先以来の永きに亙(わた)って我々の生活と密接不離の関係を持ち、人心の奥底を支配して来た宗教の感化力を遺憾なく発揮せしめ、之によって戦力増強の根源に培う」(「戦時宗教教化活動方策要綱」)、すなわち「戦力増強の根源に培う」ために学童を育成することであった。

さらにもうひとつは「八紘為宇の神武天皇の詔(みことのり)と連なり、天壌無窮の神勅と貫いて、宇宙の大御親、天照大御神を天王御中主(あめのみなかぬし)と仰ぐ日本世界の思想なくしては‥仏教は真道にも対立する『四生の終帰万国の極宗』ならぬものとなり、日本をして釈迦の国たらしめる」(草場弘。前掲書p.19)と、仏教の皇道化を強制し、仏教者に「釈迦の国」実現を放棄させるものであった。

仏教者は当事者として、学童疎開を、「かわいそうだった」「懐かしい」‥などと過去の風景にしてはならない。寺院が侵略戦争を支えた事実は重い。反省すべきである。また同じ状況下で現在の仏教者に何ができるか何ができないかを、主体的に考えて日々の行動に実現していくことが大切である。これが仏教者の戦後責任に取り組むことのひとつではないだろうか。

ところで‥可睡斎に日清・日露戦争戦死者を祀る護国塔がある。毎年慰霊祭礼をおこない、にぎやかに「可睡斎奥ノ院不動尊花火大会」を開催している。今年は8月28日が予定されている。曹洞宗は「平和」を標榜しながら、実はいまだに戦争に協力し続けているのではないだろうか。

No.657 2008/06/16(Mon) 06:53:40


曹洞宗総合研究センター(総研)を批判する / 地の声 引用

混迷を極める曹洞宗。ハード面の改革は議会の責務である。一連の不祥事や不適切な対応に、全国の寺院はいいかげん匙を投げているのではないだろうか。そして、曹洞宗というものの実態(組織あって内容なし)がようやく暴かれつつあるのではないだろうか。

例えば、際限なく繰り返される「葬式仏教」という現実と道元禅師のめざしたものとのギャップ。いまだ何も解決されていないことを曹洞宗はどう考えているのだろう。あるいは勢いよく掲げた「人権・平和・環境」にしてもそうだ。寺院の半数が取り組みを拒否していることを曹洞宗はどう考えているのだろうか。

これら、いわばソフト改革を担っているのが宗門のシンクタンク「総研」である。

2005年、曹洞宗は第95回通常宗議会(有田宗務総長)で驚くべき改悪をおこなった。「総研」から学問の自由と主体性を剥奪し、いきなり宗門直結機関としたのである。

有田宗務総長は「総研」を「宗門のシンクタンクであり、教団を擁護し、護教的役割を担う頭脳集団」であるとし、「内局の諮問に関する研究」を第一に掲げ、さらに従来、所長に一部付与されていた役職員や研究員の推薦や任命権を宗門側に移行した。(2005.2.24『仏教タイムス』参照)

この時から「総研」は内局に隷属し、曹洞宗(内局という権力者)に都合のいい御用研究機関になり下がった。いわば、学問がファシズムに組み込まれたのである。批判や建設的意見のないところに発展・向上はない。事実、曹洞宗のソフト面は深まることはなかったし、その結果現在の閉塞状況をきたしているのである。青年僧侶は夢を失い、中堅僧侶は檀務や家庭に閉じこもり、老僧らは風流に逃げている。こんな曹洞宗にだれがしたと言いたい。

「‥一定の政治的見解を裏付けるための学問的研究などというものはナンセンスである。どんな政治家も内心そんな研究者を軽蔑しているのである。もっとも、学者が独立に自由に研究しているからといって、そこからつねになにかがでてくるとはかぎらない。しかし、政治にとって、また民衆にとって、何かがえられるのは、そうした学者の独立の自由な研究のなかからであろう。実践に追従する理論というようなものは、実践にとって必要な理論ではない」(『羽仁五郎戦後著作集』現代史出版会)

羽仁五郎は歴史研究について語っているのだが、これを曹洞宗に置き換えてもまったく同様の指摘ができる。

権力である内局の都合を裏付けるための学問的研究などナンセンスなのである。曹洞宗が発展を期すのであれば、「総研」を縛り付けている縄を解いてやることだ。時間と金はかかるだろうが、学問的自由の保障(学問とは元来自由なものである)と一見無駄にも思える試行錯誤から本当のものが生まれるのである。何年も、あるいは十年以上も基礎研究がおこなわれて、はじめてひとつの薬が誕生する。曹洞宗はいままさに本物のシンクタンクを必要としている。「総研」改革は焦眉の問題であるとともに、それが不可能であれば、新たな研究機関を曹洞宗は設置すべきである。

No.656 2008/06/13(Fri) 07:19:43


佐藤巌栄「第九師団従軍僧見聞記」 / 地の声 引用

同講演録は『近代民衆の記録8 兵士』(新人物往来社)に収録されている。佐藤は日露戦争(1904)に従軍した僧(真宗)であり、「我国建国以来の史上に認むる事の出来ない」旅順要塞戦を経験した。近代の「従軍僧」は日清・日露戦争を嚆矢とする。佐藤は、いわば「従軍僧」の原型である。

この激烈なる攻防戦が行われた背景に、両軍兵士の信仰心すなわち宗教があったと彼は言う。

ロシア軍兵士は「上官の命令も行われざる際にも尚ほ十字架の号令に服従して、惨劇を再びして快く死を決した」(p.357)。「露国では陛下は、神様の代理者となって居る、それ故陛下の命令は神の命令で上官の命令は陛下の御命令と心得よと云ふのであるから畢竟上官の命令は、神の命令である」(同)

では、日本軍兵士はどうだったか。

佐藤は旅順攻略戦に加わった三つの師団を、その宗教的背景から分析し、お守りによって「弾が当たらない」ことを願う信仰を「肉体的信仰」、「宇宙の大精神と一致する」ことによって死をのりこえる信仰を「精神的信仰」とする。

第一師団(編成地東京)管内の信仰=を支配する重なるものは、日蓮宗、成田の不動、水天宮、聖天、摩利支天、稲荷の類。(肉体的信仰)
第九師団(編成地金沢)管内の信仰=を支配する重なるものは、東西両本願寺及び禅。(精神的信仰)
第十一師団(編成地四国)管内の信仰=を支配する重なるものは、金毘羅神社及び弘法大師。(肉体的信仰)(以上、pp358-359要約)

そして、兵士は「精神的信仰」を持たねばならないと主張する。すなわち「宇宙の大精神と一致」せしめ、「決死の精神で戦場に望む」べきであり、同時に「宗教家たるものは自己の所信を以て国家に貢献する様に勉め」なければならない。「国家を天壌と共に無窮に維持」するためには「必ず情意を基礎として成れる宗教の力」が必要であると言う。

佐藤の言う従軍僧の役割は、その後の十五年戦争に於いても基本的に変わらない。無論それは、この国の宗教界が果たした役割である。

特に私の興味を引いたのが「情意を基礎として成れる宗教の力」の「情」である。山折哲雄氏は日本の宗教を「感じる」宗教であるとして、多神論的(あるいは宇宙的)であると指摘している。佐藤の宗教観は、本人が気づいていたかどうかは知らないが、「情意」「大宇宙」と、まさに日本人の宗教感覚を言い当てているようだ。戦時下の禅も同様の脈絡で布教され受容されていったことは論を俟たない。そして‥それが侵略戦争に利用されたのである。

ところで、「露西亜人は愛国心よりも愛妻心が強い」と佐藤は言う。

旅順開城のとき砲台受取に赴いた豊島陸軍少将の副官に、たまたま妻から手紙が届いた。それには「御友達は皆戦死を成されたり、負傷成されるに、あなたは戦死も負傷も成さらないので家内中が案じて居る」とあった。ロシアの将校が「あなたは始終令夫人と喧嘩をして見えるか」と恐る恐る聞いたという。佐藤はこのエピソードを披露して「(ロシアでは)国の命令よりも令夫人の御命令の方が強ひ事が明らかである」(p.356)と結論している。

戦地の夫の安否を心配する妻。国家のために死ねという妻。私はどう考えても前者に与せざるを得ない。仏教者の「慈悲」とはそういうものであろう。国家を超えたところに宗教がある。人権・環境もそうだし、平和に至ってはそのままである。およそ、国家を目標とするものにロクなものはない。まして宗派の利益を考えるものにロクなものはいないのである。ここが、曹洞宗が骨太になれるかどうかの瀬戸際だろう。

No.655 2008/06/11(Wed) 07:07:09


G8に声を届けよう / 地の声 引用

2008年G8サミットNGOフォーラムは「100万人のたんざくアクション」を実施しています。地球を私物化し、破壊を繰り返し貧困を生みだしているG8各国に、仏教者として声を届けませんか↓

http://www.g8ngoforum.org/

No.654 2008/06/09(Mon) 11:28:59


石田義道『平和を目指して』 / 地の声 引用

この国が敗戦後、いとも簡単に民主主義を受け入れた背景に、ラジオという装置が大きな役割を果たしたことは以前述べた。では、戦争協力した曹洞宗は、戦時下の理論をどのように再構築して新憲法に対応したのか?何を反省し何を決意したのか?

新憲法が施行された昭和22年、大本山総持寺布教部は小冊子『平和を目指して』(石田義道)を発行している。その第一講は「天皇奉戴の意義」。石田は新憲法における「天皇」を、

(1)「奉戴」(上にたつ人として敬い戴くこと。戦時中は毎月八日を「大詔奉戴日」とし、詔書奉読や戦勝祈願などが行われた)すべき存在であり、
(2)天皇の「御人格」は「侵略のおぼしめしは寸毫もなく、不義の御心など微塵もない。たゞ平和を愛好し給うお心と、国民を愛し給う慈悲心のみ」(p.12)で、「悲智円満であり、この御聖徳が国政の上に現れ、国民統合象徴に奉戴する事は、全く尊い極み」(p.14)とする。
(3)この度の戦争は天皇の意志に反して軍閥が勝手におこなったものである。「従来の軍閥は、恐れおおくも、聖意に背き聖徳を覆いまつって、如何に人民を欺き、強制して、無謀な不正な侵略戦争をなさしめたか、遂に国民を今日の困窮のどん底に追い込んだではないか。国民はこの醜悪なる軍の正体をつきとめ、この軍を廃止してこそ、聖徳の光と、人民の正義とが発揚するものなりと悟り、戦争放棄こそ、国民の心からなる真剣の要求でもあり、決意でもあった」(p.16)と述べて、戦争責任は軍にあり天皇にはないこと、さらに新憲法の戦争放棄の精神は天皇の「聖徳の光」であると言う。

石田憲法解釈を一読してわかるように、彼は依然として「天皇」の呪縛から解かれることができないでいる。新憲法の掲げる民主主義とて、(天皇を奉戴した)「日本の民主主義」(p.5)を主張する。新憲法成立に至る具体的な事実誤認を述べることは避けるが、戦争が天皇を頂点とした日本的ファシズム(=皇国史観)によって行われたことだけは指摘しておきたい(さらに、天皇が戦争にどう関わったかは、D・バーガミニ『天皇の陰謀』前後編 れおぽーる書房に詳しい)。天皇に最大の戦争責任がある。石田義道はこれを認めようとしなかった。いや、出来なかった。何故ならば、自ら信じて来た仏教が天皇によって裏打ちされたものであったから、天皇を否定することは自らを否定することになり、自己崩壊するからである。

「我が国の宗教は、仏教であって、我等の奉戴する天皇が、これを護持遊ばされ、八千万同胞は、これによって思想を統一善導されて、今日に至った。時の流れに従って、その象徴に変わりはあっても、仏教精神には、寸毫の変りもない。」(p.33)

平和を尊び殺生を禁じる仏教が何故戦争に加担したのか。それは仏教が皇国史観に隷従したためである。

天皇は、神と一体化された現人神、生き神さまであり、絶対的権力をもっていた。そして「すべては天皇陛下のためである」として侵略戦争が行われた事実と責任は、どう言い繕っても決して消すことはできない。余談だが、曹洞宗の「恥」武田範之の如き勤皇主義が侵略戦争に理屈を与えたことを私たちは決して見逃してはならない。「八紘一宇」「大東亜共栄」などもみな、天皇主義であり皇国史観によるものである。これを反省できなかった石田(あるいは曹洞宗)に絶望的な限界を見る思いがする。

石田義道は曹洞宗特派皇軍慰問布教師である。

「臨淮関の兵站部に英霊遺骨安置所があった。私は直ちに旅装を解いて法衣に更め、聖教を誦して戦没英霊の冥福を祈った。‥鳳陽には森田部隊がいた。この部隊こそ近代の科学部隊の最新鋭だ。大場鎮に江湾鎮にその威力を発揮した。無敵皇軍の誇るべき科学部隊だ。森田部隊長は明敏果敢、而かも温厚な君子人である。その下には、矢口、板東、磯田、清野等の何れも武勲赫々(かくかく)たる一騎当千の部隊がある。」(『大法輪』昭和13年6月号)

「聖教を誦して戦没英霊の冥福を祈」る行為は皇国史観に基づく侵略戦争に加担することである。石田が戦争責任は天皇にあらず軍にありというのであれば、自らも軍の一翼を担ったのだから自分自身の戦争責任を免れ得ないのだが、それはさておき、ここに石田が高く評価する「森田部隊」とはどんな部隊かというと、ジュネーブ議定書(1925)によって使用が禁止されていた「毒ガス」部隊である。激戦となった上海戦で使用されたと言われているが、「大場鎮に江湾鎮にその威力を発揮した」という石田レポートはまさにそれを裏付けるものである。また森田部隊が破棄した「毒ガス」兵器は、現在でも中国に深刻な被害を与え続けているのである。
(参考:十勝毎日新聞「毒ガス使用を証言 帯広の山後文雄さん」)
http://www.tokachi.co.jp/WEBNEWS/040830.html

戦争というものの実態を認識せず、その根本原因を極めることなく戦後も軽々に天皇を「奉戴」する石田義道(あるいは曹洞宗)の新憲法解釈にはのけぞるばかりである。曹洞宗がこのような皇国史観を現在でも引きずっているとしたら由々しきことである。高階瓏仙管長はこの小冊子の巻頭に書を寄せている。「舌頭自在 度人天」‥さて、みなさんはこれをどう読まれるだろうか。

No.653 2008/06/08(Sun) 21:25:44

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