ツイッターでマクルーハンをオカズにマウンティングしているヤツが居ると聞いて見に逝ったら……うわぁ、なるほど、フムフム、あはは……愉快なことになっている。
マーシャル・マクルーハンは1960年代に一世を風靡したトロント大学の英文学教授です。

彼はテレビ時代の寵児であり、頓智(とんち)の効いた社会学者なのだけれど心理学者でも哲学者でもありません。
マクルーハンの観察によると:
つまりマクルーハンはテレビの出現で人々のライフスタイルや関心事やメディアの消費の仕方が変わってきていることに気が付き、それを探求しようとしたわけです。
そこで彼が援用した手法とは、わけのわからない御呪いみたいなスローガンを読者にぶつけてみて、それに対して世間が「反応する」かどうか試してみたのです。
これは今風に言えば「炎上芸」です。
そういうマクルーハンの「煽り」に対し、それを素晴らしいと感じた人たち(=おもにマジソン街、つまりニューヨークの広告代理店のアドメン)は「ポップカルチャーの高僧」と持ち上げました。
その反面、旧勢力からは「マクルーハンは、たんなるパッパラパーだ」という風に激しくdisられたのです。
高齢者は新しいテクノロジーが登場すると、カリカリ来ます。
そういう僕も高齢者ですから、ハッキリ言って新しいテクノロジーは(もういいよ!)という気になります。
そんな風に、カリカリ来たり、イライラする理由は、新しい技術の使い方がわからなかったり、その良さが皆目、理解できないからでしょう。
ツイッターが最初に登場したとき(ん? なんじゃコレ)という反応が多かったです。みなさん、覚えてます?
そんな風に老人がカリカリ来ているときは、たぶん、古い価値がボコボコにされている……マクルーハンは、そういう仮説をたてたのです。
そして、シニア層を苛立たせる新しい技術を観察し、その新技術の登場が社会や人間のつながりかた、価値観の変化などについて思いを巡らせてみたのです。
マクルーハンが「メディアはメッセージだ」と言った場合、そのような「意味付け」を指します。
マクルーハンは「メディアはマッサージだ」という風にも言いました。
これは言葉遊びであり、読者の注意を惹くための「炎上芸」です。
マクルーハンは読者をPoke、つまり「突っつき」、その読者の反応を見ることで、テクノロジーがどのように受け容れられているかを計測したのです。
だからマクルーハンが彼一流の言葉遊びで読者を煙に巻くのは、試しに色々な弾を撃ち(probe=探り針)、読者がその挑発に乗って来るかを観察する目的でなされたのです。ある意味、シェイクスピア劇を演ずる役者が、わざとセリフをアドリブで自分のものに置換し、聴衆を乗せるのと似ています。
そういう言い方でわからなければ、今風に言えば「トレンド」するか試してみているということです。
1960年代にテレビが普及すると、世の中のみんなが、世界で起こっていることを、まるで自分の身の上に起こった災いやラッキーのように憤ったり、喜んだり、勇気をもらったりしました。
これと似たことが、いまインターネットの登場で再現されています。
だからマクルーハンがこんにちrelevanceを持つ理由は、いま我々の周囲に再び新しい技術がいろいろ溢れ、老人がカリカリ、イライラする場面が多くなっているからに他なりません。
世界でおきていることを、まるで自分の身の上に起こったことのように憤ったり、勇気をもらうさまは、世界がひとつの村、つまりマクルーハンの言う処の「グローバル・ヴィレッジ」になったことの証しであり、我々のアウェアネス(=意識の覚醒)は広がっています。
そんな風に世界を感じることが出来る(触覚が伸びた)、あるいは世界の隅々にまで自分の影響力を、SNSを通じて行き渡らせることが出来る……これがThe Extensions of Man(人間の拡張)というわけです。
それは自己の拡張に他ならないわけであり、そのようなツールを手にした人間は、もう「私は○○株式会社の社員です」とか「私は石川県出身です」とか「私は日本人です」というレッテルには収まりきれなくなります。
そこではしばしば古い価値が破壊され(例:私は一部上場企業に勤めています! ということがもう自慢にならない)、主従関係が逆転することもあるのです。
すると、そういう自己を拡張し、レバレッジすることができるツールにどう接し、使いこなすか? が大事になります。
そしてその利用を通じて社会全体に定着する新しい習慣……これこそが「重大な展開」であり、そこに新しい意味(message)が含まれているとマクルーハンは考えたのです。
マーシャル・マクルーハンは1960年代に一世を風靡したトロント大学の英文学教授です。
彼はテレビ時代の寵児であり、頓智(とんち)の効いた社会学者なのだけれど心理学者でも哲学者でもありません。
マクルーハンの観察によると:
テクノロジーは我々の家族、近所付き合い、職場、学校、社会、政府を変えている。
恋人とのつながり方も変わってきているし、あなた自身すら変わっている。
ところが本人は? といえば、そういう変化に気が付かずにいる。
だから先入観を排し、新しい目で我々の身の回りを見回す必要がある。
私が「メディアはマッサージだ」というフレーズを思いついたのは、そう書けば人々が注目するだろうと計算したからだ。
つまりマクルーハンはテレビの出現で人々のライフスタイルや関心事やメディアの消費の仕方が変わってきていることに気が付き、それを探求しようとしたわけです。
そこで彼が援用した手法とは、わけのわからない御呪いみたいなスローガンを読者にぶつけてみて、それに対して世間が「反応する」かどうか試してみたのです。
これは今風に言えば「炎上芸」です。
そういうマクルーハンの「煽り」に対し、それを素晴らしいと感じた人たち(=おもにマジソン街、つまりニューヨークの広告代理店のアドメン)は「ポップカルチャーの高僧」と持ち上げました。
その反面、旧勢力からは「マクルーハンは、たんなるパッパラパーだ」という風に激しくdisられたのです。
高齢者は新しいテクノロジーが登場すると、カリカリ来ます。
そういう僕も高齢者ですから、ハッキリ言って新しいテクノロジーは(もういいよ!)という気になります。
そんな風に、カリカリ来たり、イライラする理由は、新しい技術の使い方がわからなかったり、その良さが皆目、理解できないからでしょう。
ツイッターが最初に登場したとき(ん? なんじゃコレ)という反応が多かったです。みなさん、覚えてます?
そんな風に老人がカリカリ来ているときは、たぶん、古い価値がボコボコにされている……マクルーハンは、そういう仮説をたてたのです。
そして、シニア層を苛立たせる新しい技術を観察し、その新技術の登場が社会や人間のつながりかた、価値観の変化などについて思いを巡らせてみたのです。
マクルーハンが「メディアはメッセージだ」と言った場合、そのような「意味付け」を指します。
マクルーハンは「メディアはマッサージだ」という風にも言いました。
これは言葉遊びであり、読者の注意を惹くための「炎上芸」です。
マクルーハンは読者をPoke、つまり「突っつき」、その読者の反応を見ることで、テクノロジーがどのように受け容れられているかを計測したのです。
だからマクルーハンが彼一流の言葉遊びで読者を煙に巻くのは、試しに色々な弾を撃ち(probe=探り針)、読者がその挑発に乗って来るかを観察する目的でなされたのです。ある意味、シェイクスピア劇を演ずる役者が、わざとセリフをアドリブで自分のものに置換し、聴衆を乗せるのと似ています。
そういう言い方でわからなければ、今風に言えば「トレンド」するか試してみているということです。
1960年代にテレビが普及すると、世の中のみんなが、世界で起こっていることを、まるで自分の身の上に起こった災いやラッキーのように憤ったり、喜んだり、勇気をもらったりしました。
これと似たことが、いまインターネットの登場で再現されています。
だからマクルーハンがこんにちrelevanceを持つ理由は、いま我々の周囲に再び新しい技術がいろいろ溢れ、老人がカリカリ、イライラする場面が多くなっているからに他なりません。
世界でおきていることを、まるで自分の身の上に起こったことのように憤ったり、勇気をもらうさまは、世界がひとつの村、つまりマクルーハンの言う処の「グローバル・ヴィレッジ」になったことの証しであり、我々のアウェアネス(=意識の覚醒)は広がっています。
そんな風に世界を感じることが出来る(触覚が伸びた)、あるいは世界の隅々にまで自分の影響力を、SNSを通じて行き渡らせることが出来る……これがThe Extensions of Man(人間の拡張)というわけです。
それは自己の拡張に他ならないわけであり、そのようなツールを手にした人間は、もう「私は○○株式会社の社員です」とか「私は石川県出身です」とか「私は日本人です」というレッテルには収まりきれなくなります。
そこではしばしば古い価値が破壊され(例:私は一部上場企業に勤めています! ということがもう自慢にならない)、主従関係が逆転することもあるのです。
すると、そういう自己を拡張し、レバレッジすることができるツールにどう接し、使いこなすか? が大事になります。
そしてその利用を通じて社会全体に定着する新しい習慣……これこそが「重大な展開」であり、そこに新しい意味(message)が含まれているとマクルーハンは考えたのです。