前回のおさらい
こんばんは、秋吉妙香です。
今週も三国志末期を語る時間がやって参りました。
前回は宿敵の諸葛孔明が死んだあとに、
着々と力をつける司馬懿と邪馬台国についての話でした。
また曹丕(そうひ)の息子の曹叡(そうえい)が崩御し、
魏は新たな皇帝が即位するんですが、
傾いた国勢を立て直すことはできなかったんですよ。
曹叡のあとを継いだのはわずか8歳の曹芳でしたが、
彼は魏の皇族ではあったものの、
驚くことに、その出自は判然としてなかったんです。
・曹芳(232-274年)
熾烈な権力争い
魏は初代皇帝の文帝(曹丕)と、二代皇帝の明帝(曹叡)が、
ともに早死にしてしまうという不運に見舞われていました。
曹丕は薄幸の皇妃・ 甄氏(しんし)との間に、
長男の曹叡がいたからことなきを得ましたが、
その曹叡の子供たちはことごとく夭折してしまい、
あとを継がせるべき皇太子がいなかったんです。
そこで皇族から養子(曹芳)を迎えることになりました。
彼は曹操の四男である曹彰(そうしょう)の孫といわれていますが、
不確実な情報が多くて研究が待たれるところです。
いずれにしても、即位した時は幼君だったんですが、
これでは皇帝の求心力がますます弱るばかりです。
そんな状況下ですから、
曹芳の後見を命じられた司馬懿と曹爽(そうそう)は、
どちらが魏の政治の主導権を握るかで、
熾烈な派閥闘争を繰り広げたんですよ。
老獪な司馬懿と血気にはやる曹爽
・司馬懿(179-251年)
・曹爽(?-249年)
この曹爽という人は、
曹操の義理の甥で名将と名高かった曹真の長男です。
司馬懿よりは25歳ほど年下だったんですが、
父が魏の皇族で曹操の代から活躍していたため、
まだ若いうちから数々の役職を歴任しました。
曹叡が亡くなる直前には大将軍の位を賜り、
事実上、魏軍のトップの地位を得ます。
さらに曹芳の即位後は侍中の位を与えられ、
「剣履上殿」・「入朝不趨」・「謁讚不名」という特別待遇を受けたんです。
これは宮中にて剣を帯び、
靴を履いたまま昇殿し、小走りに走らずともよく、
皇帝に目通りする際は実名を呼ばれないという、
まるで曹爽が魏の支配者そのもののような扱いでした。
司馬懿との関係は最初からこじれていたわけではなく、
はじめは父親に対するように接していたといいます。
ところが曹爽の陣営には悪い家来がいて、
彼らは自分たちだけで権力を独占したいと考えたんですよ。
そこで60歳を過ぎていた司馬懿を太傅(たいふ)という、
いにしえの王朝由来の伝統ある官位に推挙します。
これは実権がほとんどない名誉職で、
司馬懿の権力が伸びることを恐れた措置だったんです。
しかし、司馬懿の軍は解散しておらず、
双方の派閥の対立は日に日に激化してゆきました。
曹爽の取り巻きたちは文官あがりの武将ばかりで、
軍事的に認められたことがほとんどありませんでした。
しかも司馬懿は呉との戦いでも大活躍していたため、
彼に差をつけられたくない曹爽は焦りました。
曹爽、総勢10万で蜀に侵攻する
なんとしても手柄を立てたい曹爽は、
244年に大軍を率いて蜀へと攻め込みます。
蜀地方の軍権も司馬懿が握っていたので、
自分が勝てば彼の権力を削ぐことができると考えたんですね。
曹爽は自分のお気に入りの武将を集めて出撃したんですが、
その中には司馬懿の次男・司馬昭(しばしょう)もいました。
・司馬昭(211-265年)
司馬懿と司馬昭の親子は不仲ではないので、
彼が曹爽についた理由はよくわからないんですが、
どちらの派閥が権力を握っても、司馬氏が生き残れるよう、
策を弄したのかも知れませんね。
司馬昭は父の才能をよく受け継いだ人で、
同じように智謀に長けていたんですが、
この戦いでは活躍することができなかったんですよ。
蜀軍は4万あまりの兵力しかなかったものの、
作戦がみごとに的中して、奇跡的な勝利を収めます。
孔明の遺志を受け継ぐ者たち
10万という大軍で攻め込んだ曹爽を迎え撃ったのは、
亡き諸葛孔明にも信頼されていた費禕(ひい)でした。
・費禕(?-253年)
彼は尚書令(しょうしょれい)という文官のトップだったんですが、
蔣琬(しょうえん)の病が重くなった243年には、
大将軍の地位に昇っているんですよ。
ちょうど軍を任された翌年に、
曹爽が攻め込んできたというわけですね。
・王平(?-248年)
首都にいる費禕(ひい)が前線を任せたのは、
王平(おうへい)という百戦錬磨の武将で、
大軍に勝つ方法をよくわかっていました。
彼は曹爽軍を細い山道に追い込む作戦を思いつき、
百里あまりにわたって多数の旗を立てさせました。
大軍で攻めれば勝てると思っていた曹爽は、
陣が伸びきって身動きが取れなくなってしまい、
補給さえ滞るようになったんです。
とうとう長期戦になって兵士が疲れはじめたんですが、
そこへ蜀軍総司令官の費禕(ひい)が駆けつけ、
曹爽軍は万事休すとなりました。
数が多いだけで一枚岩でなかった曹爽軍の内部では、
軍の撤退をめぐって対立する者も出たんですが、
司馬昭だけは負けを認めるよう進言したんです。
皮肉なことに、この敗戦を契機に曹爽の名声は失墜してしまいました。
そして小心者の曹爽は現実逃避をするために、
お気に入りの何晏(かあん)たちと文学談義や酒色にふけり、
政治や軍事のことは考えなくなってしまったんですよ。
・何晏(?-249年)
この人は母親が曹操の側室となったために取り立てられ、
おもに文学方面で非凡な才を見せたんですが、
自己中心的で権力志向が強かったんです。
曹爽は何晏と幼い頃から親しかったため、
彼を自分のブレーンとして重用していました。
しかし、何晏は主君を諌めることができず、
生き残るために必要な「先見の明」を持っていなかったんですよ。
こういった人が側近では、曹爽のその後がどうなったかは、
皆さんもだいたい予想がつくかも知れません。
生まれるのが遅すぎた姜維
さて、孔明没後の三国志で最も有名な武将といえば、
やはり姜維(字は伯約)でしょうね。
・姜維(202-263年)
彼はもともと魏の天水郡の生まれです。
228年に諸葛孔明が天水に攻め込んだので、
姜維は太守(郡の長)とともに、敵軍偵察に赴きました。
ところが、管轄している県が次々と降伏したことを知った太守は、
配下の姜維やその仲間たちが孔明に内通しているのではないかと疑い、
勝手に逃げ出してしまったんです。
姜維たちは急いで太守を追いかけるんですが、
城に入ることを許されませんでした。
このため故郷の冀県(きけん)を頼ることにしますが、
そこでも受け入れてもらえなかったため、
取り残された姜維たちは行き場を失い、孔明の説得で蜀に降伏しました。
孔明は馬謖が失策したために街亭の戦いで敗北していましたが、
制圧した西県の1000余家と姜維たちを引き連れて、
蜀の首都である成都に帰還します。
このため姜維は魏に残った母親と離れ離れになりました。
しかし孔明は姜維の才能を高く評価し、
蜀軍の中での存在感は次第に増して行きました。
姜維の母親はそんな息子に対して、
「魏に戻ってほしい」と手紙を送りましたたが、
姜維は「蜀で立身出世するという望みがあるから戻らない」と、
不退転の決意で言ったそうです。
253年、曹爽軍との戦いで活躍した費禕(ひい)が、
魏の降将に宴会で刺殺されるという事件が起こったんですが、
姜維は彼の跡を受けて大将軍となりました。
かつて自分が属していた国と戦う姜維の心境は、
いまとなってはわかる術もありませんが、
姜維は9度にわたって北伐を行ったんですよ。
しかし、思うような戦果をあげることができなかったため、
蜀の高官たちとの対立を深めてしまい、
宮廷内では孤立を深めるようになってしまったんです。
行き場をなくしていた時に拾ってくれて、
弟子のように温情をかけてくれた孔明を思うゆえの行動でしたが、
姜維には政治力がなかったために、
弱体化した蜀を根本から救うことはできませんでした。
姜維がもう少し早く生まれて、孔明の右腕として活躍していれば、
蜀が中原を回復して、漢王朝を再興させることができたかも知れません。
妙香のまとめ
魏は曹操がいた頃とは、
まったく違う国になってしまった印象です。
仮に君主が幼少であったとしても、
それを支える家臣たちがしっかりしていれば、
国が傾いてしまうことはないんですけどね。
曹爽は魏の皇族ですから、
自分が皇帝になることを目指していたに違いないですし、
司馬懿は腹のうちに野心を隠していて、
機会があれば主家を乗っ取ろうと考えていたでしょう。
そして、三国の均衡はゆるやかに崩れて行きます。
晋(しん)という統一王朝が登場するのは、
そう遠い先のことではありません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回は司馬懿と曹爽による権力闘争の決着と、
呉で起きた内紛について書きたいと思います。