(今回は原作のネタバレもあります。ご注意を)


公開初日の後、宣言通りササユリカフェに行った。

ほぼ一般のファンのオフ会だったが、久しぶりに萌えとかそんな「動物的」な熱狂抜きの、本当にアニメを愛してしまった人達の語らいに、胸を熱くしてしまった。
そして酔った勢いでオーナーに長々と絡んでしまった・・・すいません・・・。

しかし、その中でちょっと違和感があった。
『この世界の片隅に』に関わった人々、それを観た人々による、何とも言えない、幸福感。
この空気は、ちょっと違うんじゃないかな?と、本能的に思った。
やっぱり一応、この物語は戦争を戦って、そして負けた人達の物語なのだ。

皆さん興行やら勝ち負けやら、作品を通して繋がった絆やら、それぞれ口にしていた。
この状況を分析してちゃんと文章にするのは、非常に難しい。


公開直前、『マイマイ新子と千年の魔法』を観た。 
エモーショナルな演出でクライマックスは情緒の高ぶりも見せ、それだけで満足ではあったが、全体の構成のがさつさがどうも否めない。 
原作通りなのかも知れないが、1000年前の平安期とのカットバックが落ち着きなく、カットバック本来の意味を成していない。高畑勲がやればもっと解りやすいはずだ。 
そう、キャラデザから何から、どうしてもジブリのエピゴーネンというイメージが付きまとう。 
やたらFollowのBG多段引きが多いのもそう。 
というか、全体的にカットワークもカメラワークも、落ち着きがない。 
せっかくの画面設計が生かされていない。 

だから今まで、一部(『名犬ラッシー』など)を除けば、片渕監督の仕事をそう評価することはなかった。 



そして、『この世界の片隅に』の原作を7年ぶりに読んだ。
上巻は初版、2008年2月12日の刊行だ。
ついでに家の書庫をほじくり返したら、こうの文代先生の本が出るわ出るわ・・・。
本当にやりたかった『夕凪の街 桜の国』始め、『街角花だより』『長い道』『ぴっぴら帳』『さんさん録』『こっこさん』
・・・出るわ出るわ・・・。

なるほど、こうだった。
ひとコマひとコマ、しみじみと味わった。

しかし、原作にも、少し不安があった。
日常が、少し生々しすぎるのだ。

キスシーンもある。セックスシーンもある。「三角関係」もある。嫉妬もある。
キスはまだしも、あの絵柄でセックスを描写されても、正直戸惑うばかりだ。
いくら「戦時中の日常を描く」のが大命題だからと言って、エロがダメだとは言わないが、向き不向きがあるだろう、そう思っていた。

あと、すずさんが思った以上に、天真爛漫ではない。
それはちょっと原作のネタバレになるのだが、「白木リン」が深く関わってくるからだ。


そして今日、二回目、観てきた。


なるほど、解った。
簡単に言うと、これは史上もっとも「贅沢な」アニメーション映画だと言える。


「『この世界の片隅に』・評」で挙げた、この作品の「三つの奇跡」を、もう一度まとめよう。


一つ目は、世界観(原作)の「奇跡」。

二つ目は、演出の「奇跡」。

三つ目は、のんの「奇跡」。


すべてはこの作品の「贅沢さ」を証明するものだと言えば、説明がつくだろう。


なぜこの原作の絵柄で、絶えずフリとオチが続く喜劇のフォーマットで、こんなに悲しいのか?
ひとつ例えるなら、「ピカドン」の後、呉から広島へ救護隊が向かうことになり、みんなで熱く溶けた地面対策で草鞋を大急ぎで作るのだが、ここですずと径子の「掛け合い漫才」が入る。
我々の知る史実の状況的にも、作劇的にも、あり得ない箇所に「喜劇」が入っている。
そして観客は、必ずそこで笑うのだ。

ラストですずと周一が広島からみなしごを連れて帰り、原作ではここでいきなり見開きのカラー原稿となりもう涙が止まらないほど感動するのだが、ここでも「シラミまみれ」のオチが待っている。ここでエンドマークなのが、いかにも「らしい」。
往年の吉本新喜劇でさえここまでの起伏は感じさせない。原作から既に、常に大胆な繊細さで、僕達の心をおおいに揺さぶるのだ。

悲劇をも喜劇と変え、そして涙溢れる感動にまで昇華させる。常人ではできない「贅沢さ」である。


二つ目、なぜ、これ程までの情報量なのか?
カット尺を徹底して刈り込み、パンフォーカスですみずみまで見せ、引きの絵主体でボイスオーバーまでさせて情報を詰め込んだのか?
それは原作の通りだから?上映上の都合だから?それもあるかも知れないが、それだけではなかろう。
その証拠は片渕監督の長年の取材だ。

当時の広島や呉を完璧に再現しようと足しげくロケハンに通い、なんと背景の店一つだけでなくそこを営んでいた人々まで再現しようとする、その執念。
パンフォーカスにしなければならない訳だ。作業的には手抜きができない!超大変なのに!

もちろん原作にあるもんぺ作りの図解も、野草料理のレシピも克明に再現されている。

しかも片渕監督は原作の瑕疵にもメスを入れた。
原作で晴美の命を奪った時限爆弾は道端に突き刺さっていただけだったのが、映画では考証を重ねた結果、地中深くに埋まっている。
必ずしも原作通りではないが、この作品は絶対「贅沢」でなければならないという監督の確信が、各カットに充満しているのだ。
その分『マイマイ新子』のような性急なカメラワークはなりを潜め、フィックス主体の慎ましい構図、それから北條家の俯瞰カットの作品全体にわたる同ポジ兼用など、すべての演出が有機的に機能している。
情報量を巧みにコントロールしているのだ。

僕も初回は原作もうろ覚えで行ったので、情報の洪水に戸惑いつつも、いつしかそのテンポ感に酔いしれた。
そして原作を読み直し、初回の記憶もあるので、二回目見た時の画面の、より度の強い眼鏡にかけ変えたかのようなクリアさに圧倒された。

初回観ても二回目観ても新鮮に楽しめる、この「贅沢さ」。


三つ目、なぜ「のん」なのか?
これはもはや愚問だな。
『あまちゃん』の「怪演」を知る者はすべて、この結果を知り得ただろうし、僕が語らずとも他の論者からいろいろな分析が上がっているであろう。
ただ、それにも増して大英断なのが、幼少期のすずものん本人にやらせ、更に幼少期の水原哲も小野大輔にやらせてしまったことだ。
のんへの全幅の信頼も驚きだが、それ以上に小学生の小野D??
もちろん演出的に考えると、この膨大な情報量で哲の成長ぶりを間違えさせさせないようにするには最善の策だと理解するが、しかし僕にこの決断ができるだろうか?あの小野Dだよ??小野Dを知りすぎたせいもあるのかも知れないが・・・。

この作品の「リアリティ」を象徴的に表す例かも知れない。「大きな嘘と小さな嘘」。
徹底的な考証と大胆な嘘。この「贅沢さ」。


史上もっとも「贅沢な」アニメーション映画。
もっとも「貧しかった時代」の、もっとも「世界の片隅」から、もっとも「贅沢な」映画が生まれたのだから、映画とはいつも倒錯的で、こういう裏切りが大好きなのだなぁと、改めて思う。 
いや、カットごとに絶えず人々を裏切り、泣き笑いの大渦に飲み込んでしまう本作だからこそ、意外とこの親和性は当然のものだったのかも知れない。

そして今、異常な程の「贅沢な」大絶賛の渦がますます広がっているのも無理からぬことだ。
今後この「贅沢さ」が、どこまでアニメ界を、映画界を、いや全世界を巻き込むのか、楽しみでしょうがない。


これで日本のアニメ史が、いや日本の「精神史」が一歩進んだと言えよう。
それだけでもこの作品は大きなメルクマールである。


さて原作を読んだ以上はどうしても取り上げなければいけない、「白木リン」問題。

これは次回に宿題としよう。乞うご期待!