2016シーズンは、名古屋、湘南、福岡の3チームが降格することに決まった。過去、Jリーグのクラブで降格を経験したクラブは数多ある。クラブの降格を番記者たちはどのような想いで見ていたのか。豪華ライター陣による短期オムニバス連載で、J2に降格した時に大事なことを彼らの視点で語ってもらう。
森崎浩司のFKが弾かれた。どよめく広島ビッグアーチ。だがそのボールは、左にひらいたイリアン・ストヤノフの足下におさまる。渾身の想いを込めて、誇り高きブルガリアン・リベロはクロス。待っていたのは槙野智章(現浦和)だ。
バイシクル!キタッ。
J1残留だっ。
2万人を超えるスタジアムのサポーター、いや広島中の気持ちが、そのボールに注ぎ込まれた。その時のシュートの軌道は、まるでスローモーションのように見えた。
コーンッ。
乾いた音を残して、ボールはポストを直撃し、外へ。詰めていた佐藤寿人も李漢宰(現町田)も届かない。後半アディショナルタイムに放たれた最大の決定機は、広島の涙雨の中で沈んだ。2007年12月8日、J1・J2入れ替え戦。広島は京都の軍門に降り、ホームスタジアムでJ2に落ちる屈辱を味わった。
この時、スタジアムは大混乱に陥った。一部のサポーターはクラブを批判する横断幕をいくつも掲げた。だが、「その横断幕は取り下げろ」と抗議するサポーターも。さらに敗軍の将であるミハエル・ペトロヴィッチ(現浦和)が来季も指揮をとることがサポーターに伝わると、さらにブーイングは激しくなった。
「負けた監督にどうして、このチームを託すんだっ」
激しいヤジと怒号。前代未聞とも言える決断を下した久保允誉社長(現会長)がサポーターの前に立って説明しようとしても、その声は届かない。罵声が降り注ぎ、騒然とした雰囲気は収束する気配がなかった。
翌年9月23日、シーズン終了を約2ヶ月も残し、広島は圧倒的な戦績でJ1復帰をホームスタジアムで決めた。誇らしげにスタジアムを周る選手とスタッフに、サポーターからは大きな拍手が贈られた。その時、スタンドからある人物に対して言葉が飛んだ。
「久保さん、あの時は悪かった。申し訳ない」
10ヶ月前、降格に直面した現場で久保会長を罵倒したサポーターからの声だった。
「いやいや、大丈夫。いつも応援してくれて、ありがとう」
会長は笑顔で返す。クラブとサポーターの間に信頼関係が戻った、いやさらに太く、厚くなったというべきだろう。
翌年、J1昇格初年度としては最高順位(当時)の4位に躍進し、2012年から3度の優勝。そんな広島の成功物語は、確かにJ2降格という大試練を抜きにして考えられない。
ただ、そこで考えないといけないのは、広島は2度、J2降格を経験しているという事実だ。しかも、最初の降格の時も1年で復帰したものの、2度目までわずか5年。順位も12位・7位(共に年間)とあげてきたものの優勝争いにはほとんど絡めず、2006年には開幕から公式戦11試合勝ちなしという苦境に陥った。
「僕らには、積み上げがない」
当時、森崎和幸がよく語った言葉である。地方クラブの宿命でもあるが移籍が相次いでメンバーを固定することができず、当時の小野剛監督もフォーメーションを毎年変更せざるをえなかった。4-3-3から3-5-2、4-4-2(ダイヤモンド)、さらに中盤フラット。形も選手も変わる中で、チームは毎年、新しくなった。それが、2006年の苦境につながり、小野監督は事実上解任されてしまう。
ここでまず、第1の転機を迎える。小野監督の後、ワールドカップ・ブレイクまでの4試合までという期間限定で、望月一頼GKコーチを監督に据えた。望月監督は徹底的に守備的な戦術を駆使し、結果として2勝1分1敗と結果を残した。フロントの1部からは「このまま望月監督で」という声もあがったが、強化部長の織田秀和(現社長)と久保社長は妥協しなかった。
「主体的にボールを動かし、主導権を握るサッカー」
理想のコンセプトが表現できる監督をあくまで追い求めた結果、オーストリアでミハイロ・ペトロヴィッチと巡り会う。
彼の改革はドラスティックだった。連日行われた真夏の2部練習。週に2度は行われた2試合のトレーニングマッチでは、ほぼ全選手が常に90分のプレーを強いられた。広島史上最高の密度を誇ったハードトレーニングの結果、それまで主力だったベテランや外国人選手が次々にレギュラーから外され、多くの若手選手が次々に抜擢された。それまでリーグ戦で1試合も使われていなかった青山敏弘と柏木陽介も抜擢組の中に存在し、2人はレギュラーを奪っていく。この大手術が功を奏し、広島は奇跡的に残留を果たした。
2007年は守備がうまくはまらずに失点を重ね、降格を余儀なくされた。だが、ペトロヴィッチ監督は選手から信頼され、慕われ、敗戦が続いてもチームは空中分解しなかった。超攻撃的なコンセプトや若手の積極的な抜擢も、広島というクラブにピタリとはまった。
とはいえ、流石に降格という現実を前に、ペトロヴィッチ監督は辞任の決意を固めた。もし、監督が選手や記者たちの前で「やめる」と言ってしまえば、彼の性格上、絶対に撤回しない。その危機を感じた久保允誉は、急いでロッカールームに向かって打ちひしがれた指揮官に語りかけた。
「あなたを信じている。来季も一緒に戦ってほしい」
そして経営者は、選手たちにむかってスピーチした。
「もう1度、私とミシャを信じて、ついてきてほしい」
後にペトロヴィッチは、こう語った。
「久保会長からこれほどの凄い信頼を突き付けられれば、どうして辞任という選択ができるだろう。辞める方が楽だったかもしれない。だけど、選択肢はもう、続投以外になかった」
降格決定後に広島を去った主力は、ワールドカップ出場が現実味を帯びていた駒野友一だけ。「残せる選手は全員残す」という社長判断もあり、フロントは契約交渉を急いだ。結果、佐藤寿人も森崎兄弟も、柏木や槙野といった有望株も、服部公太や盛田剛平らベテランも、紫のシャツを選択した。その原点は全て、降格決定直後に下した経営者の決断にある。
ただ、これだけならば、失敗の責任を誰も負わないことになり、サポーターやスポンサーの納得を得ることはできない。久保允誉は「全ては自分とフロントの責任」と断じ、自ら代表権のない会長に退き、同時に常任取締役を全員、解任した。そして、かつて広島の事業本部長を務め、ザスパ草津の経営再建に力を尽くした本谷祐一氏を社長に据えた。会長に留まったのは新社長の後ろ盾となると共に、自ら社長を務めるメインスポンサー・エディオンとの関係性を確保するためでもあった。
降格の責任は監督・選手にあらず、フロントにある。
久保允誉の言葉が明解な形になったことで、サポーターの怒りも沈静に向かう。さらに選手たちの頑張りで天皇杯の決勝進出を果たしたことで、「1年でのJ1復帰」に対する期待も高まった。ペトロヴィッチ監督は翌年もずっと続いた自身へのブーイングに耐え抜き、4月29日の対徳島戦で確立させた新しい「広島サッカー」をブラッシュアップさせてJ1に復帰させる。2011年の退任時には、多くのサポーターから感謝と惜別の声が届けられ、名伯楽は感涙にむせんだ。
この歴史を振り返って思うのは、久保允誉という希有な経営者の存在の大きさだろう。たとえば、ペトロヴィッチ監督招聘時、他のクラブと契約していたこともあって就任には多額の資金を必要としていた。日本では全く無名だったこともあり、新監督として契約することに難色を示す声もクラブには存在した。だが久保社長(当時)は織田秀和というGMの眼力を信じ、リスクを承知でペトロヴィッチ招聘へと舵を切った。J2降格時も含め、彼でなくてはできない様々な決断が、今の広島を創り上げたのだ。
J2降格とは、サポーターやクラブにとって惨事である。そこを乗り切るには、ピッチ上だけでは無理。クラブのトップが自信と情熱と愛情をもって事態の収拾にあたり、一刻も早くチームを前に向かせること。喫緊の事態への対応だけでなく、長期的な視野をもって「昇格後」も視野に入れて方向性を固める必要性。広島の歴史が教えてくれる、大切なことである。
文=紫熊倶楽部 編集長/中野和也