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2016-11-13

「嫌悪感の表明」と「相互理解」の間

最近話題になっていた、セクシュアルマイノリティへの施策をめぐる千葉市長の一連のTweet(わかりやすくするため番号を振った)

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昨夜は5のtweetにはてなブックマークがたくさんついていて、私も最初にそれを読んだ。現状認識はほぼ同意だが、最後の一文がセクシュアルマイノリティに向かって「嫌悪感の表明」をしても良いと言っているように受け取れたので、最初かなり批判的なブコメをつけた。

しかし、後でその前のtweetを読み、セクマイへの偏見や差別を払拭できない人々に対しどう説得的に対応するかで苦慮している風だったり、「行き過ぎたポリコレ」への不満を抱く人々の感情にも寄り添わねばと配慮している感じなど、あちこちに気を使ったあまり説明不足の表現になったみたいだと思い、少し穏健なブコメに書き換えた。6のtweetを読んだのは今朝。さすがに対応が早い(けど、両立しないことを両立させているように見えるので違和感は残る)。


3のtweetも、『セクマイの人々に対して「生理的にダメ」「気持ちが整理できない」というのは、多くの異性愛者にとってはごく普通のことで、それ自体は責められるべきことではない。セクマイの権利を守る施策に反対する人は、まずそういう感覚、感情が自分の中にあると認めよう。そこを無視して、「同性同士の結婚は子どもが作れないからダメ」「少子化を促進する」「家族の形が壊れてしまう」といった非論理的な批判をしても議論にならない』という意味だろう。

要は、「理屈が破綻している点で既にそれが感情的な問題に過ぎないことを示している」という指摘だ(それを柔らかめに、該当者の感情を慮りながら言っている)。*1


大体その通りだと思うが、一方で私は別のことも感じた。

もしセクマイの権利を守る施策に反対する人々が、自分の中の嫌悪感を自覚していて、その上で、というかだからこそ「嫌悪感の表明」をするのはマズいと思っていたらどうだろう。

(「気持ちが整理できない」はまだしも)「生理的にダメ」などと言っては直接セクマイの人々を逆撫でするだろうし、議論の俎上にも上げてもらえない。だからそこは隠して理屈で反対しよう、という”配慮”が彼らの中にあったとしたら? そういう人はいると思う。

そこに、「理屈が破綻している点で既にそれが感情的な問題に過ぎないことを示している」と冷静なツッコミを入れ、そのなけなしの”配慮”もなかったことにして「感情に素直に」に一気に行っちゃうというのは‥‥どうなんだろうか?というのが少しある。


人の感覚や感情は、理屈では制御できない。だが一方で人は社会的な動物である以上、建前というものを作る。表に出しづらい本音を建前で包んでコミュニケーションすることで、互いに不要にぶつかり合って疲弊しないように配慮する。

どうしても「嫌だ」ということを言いたい場合は、その感情が必然であり一定の人々が精神的損害を被るばかりではなく、社会的に悪影響を及ぼす可能性があることなど、きちんと理屈をつけて正当性を主張する。その理屈でより多くの人を、「なるほど確かにそうだ」「そうしたほうが社会的に利があるな」と思わせたほうが勝ち。

もっともすぐさま、「それだとこっちの立場はどうなる?」という文句や批判が来て議論が振り出しに‥‥という可能性はあるが、一応かたちとしては理屈で勝負ということになっている。その手続きを全部すっとばして、「とにかくお前らが気に入らないだけだ」と言ってしまったら終わりだ。あのトランプだって、傍から見れば「それ、個人的に気にいらないだけじゃないか?」と思えることにも、一応理屈はつけている。社会を作り変えていく政治、政策を前提にして考えれば、そう振る舞うしかない。


そこからすると、「下手な建前(理屈)は崩れてるんだから、本音(感情)出せば?」は真逆である。

もちろん千葉市長が、人々の嫌悪感情を頭ごなしに否定しない(それだと逆効果)という作戦を取っているのはわかる。が、普通なら、「人間は感情でできているが社会は理屈で作らねばならないので、セクマイの権利を守る施策に反対する人々は、単なる嫌悪感情ではなく、問題点について説得的な論理を展開してみせてほしい。政策はあくまで理屈で議論しよう」と言うところだ。

ヘイトスピーチをやんわり封じた上で、理屈勝負に持っていって勝つ。それを辛抱強く繰返して、徐々にコンセンサスを得ていく。


問題は、そういう「普通の正統派の言い方」ではもう先に進めない、感情的に反発する人々を包摂できない、むしろ「普通の正統派の言い方」をすればするほど壁に頭を打ちつける、だけでなく、事態を良くないほうに引っ張っていくことになりかねない‥‥ということなのだろう。

かといって、思い切った言い方をすれば、「逆張り」だとか「ガス抜き」だとか誹られる。いろいろ気を遣いどうとでも取れる言い方をすれば、いらん支持やいらん反発が来てしまう。

すべての言葉が何らかの政治に触れてしまう中で、いったいどういう言い方をすればいいのか。どうやったら、あっちとこっちを架け橋し「相互理解」を実現できるのか。‥‥って書いただけで、もはや使い古された「普通の正統派の言い方」感が漂ってくる。誰でもジジェクみたいに語れるわけではないし。

こういう危機感とそれに伴ううっすらとした絶望感は、為政者のみならず、何かものを言わねばと思っている人々の中に広く潜在しているのではないかと思う。

*1:付け加えれば、こうした「嫌悪感」を一律に理屈で教化することは無理であり、個人が出会い個人として知り合う中でしか解消されていかない面はある。映画『メゾン・ド・ヒミコ』はそのあたりの、マジョリティの感情の揺れ動きや変化をよく描いている。講義で使っているが、このような物語を通して、固定的イメージが変化し偏見が和らぎ感情に影響を及ぼす可能性はあると思っている。

m-shitom-shito 2016/11/13 17:11 セクシャルマイノリティについて。

権利推進派「多様性を認めろ。」
反対派「嫌悪感を表現する自由を認めろ。」

私「(両者に対して)ではその存在や表現がどのようにあなたに具体的な損害をもたらしましたか?」

私はどちらの思想信条も個々の自由だと考えますので、実損害を他者にもたらす「言動」そのものを検討対象にすればよいと思います。

どちらか一方の思想信条を否定することには自由を尊重する立場からは反対です。
「私は同性愛だ」と言ったとしても「私は同性愛は嫌いだ」と言ったとしても、それだけで制裁を受ける社会は望みません。

ohnosakikoohnosakiko 2016/11/13 18:13 m-shitoさん
思想信条の自由は保障されていますが、その表現の自由は、公共の福祉(他者の人権を含む)を損なわないものである限りにおいて、とされているのはご存知ですよね。
たとえば学校や職場で、セクマイへの嫌悪感を表現する自由を認めた場合、当事者が周囲から嫌悪感情を投げつけられる精神的苦痛を受けてその場に行くことができなくなり、ひいては社会から引きこもらざるを得なくなる、という非常に大きな「実損害」が起こりえます。
それをセクマイだから仕方がないとすると、一定の属性(それによって誰かに「実損害」をもたらしてはいない)を持つ人々への差別となり、法に定められた基本的人権との齟齬が起きます。

そうした「具体的な損害」があちこちで起きてしまってからでは遅いので、可能性が充分に考えられる件についてはあらかじめ表現の自由を制限するべき、ということになるのはやむを得ないと思います。
これまで長い間、セクマイの人々が実際にそうした嫌悪感や差別に晒されてきて、多くの実害を被っていることは明らかにされています。それに照らし合わせても、そういう「言動」は最初からやめようよ(もちろん「同性愛は嫌いだ」と言っただけで「制裁」を受けるのは行き過ぎでしょうが)ということになってきているのではないでしょうか。

一方、セクマイへの嫌悪感を表現する自由を制限されることで、どのような「実損害」が考えられるのでしょうか。もし「実損害」があったとして、それはセクマイの人が人権を奪われ社会的に抹殺されるという「実損害」より重いものなのでしょうか。

m-shitom-shito 2016/11/13 21:48 私は、挙げられたような実損害をもたらす言動そのものを対象にすることは(先に述べたように)問題ないと思います。
罰するかどうかを実損害との関係から考えて判断していけばよいと思います。

例えば全体主義的な方々からも「公共の福祉を損うような表現の自由を制限するべき」とよく聞きます。
>可能性が充分に考えられる件についてはあらかじめ表現の自由を制限するべき
というお考えにはそのような危惧を感じます。

私はアンチ全体主義ですので「思想、表現の制限」については殊更敏感なことをご理解ください。

ohnosakikoohnosakiko 2016/11/13 22:44 いや私の考えというより、憲法上の話です。表現の自由は、公共の福祉及び人権や尊厳性を損なわない範囲で認められる。「するべき」ではなく、現状そういうことになっています。それを冒した場合は法で裁かれるというだけです。
もちろん公共の福祉の範囲が恣意的に確定される可能性もありますので、常に議論になっていますね。

ただ今回の場合単純に考えて、同性愛者の人がそのセクシュアリティゆえに異性愛者や社会に実害をもたらすわけではないのですし、そもそも相手が異性であろうと同性であろうと愛し合う自由はあります。
そこに、ことさら同性愛者への「嫌悪感を表現する自由を認めろ」と言うのは、自分の気に入らない相手は攻撃し差別してもいいというヘイトスピーチとどう違うのか、私にはよくわかりません。
「私はゴキブリが嫌いだ。世の中から消えてほしい」と言うのとは違うのです。相手は人間です。
好き嫌いの感情は誰しも持っていますが、特定のセクシュアリティの人を許されない存在と見なし嫌悪を公的に表現する、という態度には賛同しかねます。

m-shitom-shito 2016/11/13 23:41 法体系の話でしたら仰るとおり法を犯せば罰せられるというだけですからことさら「認めろ」と言うような必要も特に無いでしょうね。(裁判所が決めるだけ)
ですから私は「考え方」として認められるかどうかについて話をしていきます。
ちなみに私は他人がマイノリティでも自分には関係ない(つまり許容)という立場です。

下段ですが「嫌悪感を表現する自由」を支持するような人でも「自分の気に入らない相手は攻撃し差別してもいい」「許されない存在と見なす」という極端な人は少数派だと思います。

ところでohnosakikoさまは表現を伴わなければ嫌悪思想を持つことは自由として認められますか?
また、同性愛者の人が何らかの実害をもたらす場合があるのならその自由は制限されるべきだとお考えですか?

貴方のお考えにいろいろと考えさせられますのでこのままやりとりしていってもかまいませんか?

ohnosakikoohnosakiko 2016/11/14 00:14 >ところでohnosakikoさまは表現を伴わなければ嫌悪思想を持つことは自由として認められますか?

嫌悪は感情ですので、「嫌悪思想」というのが今一つピンと来ないのですが、ユダヤ人否定思想みたいなことでしょうか。
内心の自由は当然誰にでもあり、表明しない限り傷つく人もいなければ裁くこともできませんので、認める認めない以前のことのように思います。

>また、同性愛者の人が何らかの実害をもたらす場合があるのならその自由は制限されるべきだとお考えですか?

同性愛者でストーカーという場合、非難されるべきはストーカー行為であって同性愛そのものではないですよね。それは異性愛者でも同様です。誰であれ実害を及ぼす危険があれば、その人の自由は制限されるでしょう。
ではなく、「同性愛者であるがゆえに、個人や社会にもたらす実害」について言っていらっしゃるのでしょうか。それはたとえばどういうものなんでしょうか。

>貴方のお考えにいろいろと考えさせられますのでこのままやりとりしていってもかまいませんか?

今は私のほうもお聞きしていることがありますので、どうぞ(ただもう就寝しますので明日以降になります)。

m-shitom-shito 2016/11/14 02:33 >内心の自由は当然誰にでもあり、表明しない限り傷つく人もいなければ裁くこともできません

表現をしないという前提で、
友達がLBGTとわかったらなんとなく自然と嫌いになったのでつきあいを辞めた。
この人の場合どの友達からも続けばさすがに傷つきますよね。
でもそれでも誰を好きになるかという内心の自由を否定することはできませんでしょうね。

>非難されるべきはストーカー行為であって同性愛そのものではないですよね。
同じような言い方なのですが・・
非難されるべきは表現そのものではなくて実害を及ぼしたことですよね。
嫌いと表明して誰も傷つかないとわかっている場合でも自由を制限する必要はありますか?
自由には責任がついて回ります。
表現の自由を認めるがその自由によって他人に実害を及ぼした責任は追求する。というのが私の方法論です。

同性愛者の実害
同性が性的対象となる場合は、例えば一人でサウナに居て後から同性愛者が入ってきて二人きりになることに恐怖を感じることも考えられます。
異性愛において同じようなシチュエーションで女性の立場だったらどうでしょうか。大騒ぎになりますよね。

h-ishiharah-ishihara 2016/11/14 09:59 そもそも、自分自身が持っている考えや感情を表に現わすことは制限されないが、表現するときは、他の者に対して、人としての配慮が必要だと訓えているのではないですか?憲法は。

ohnosakikoohnosakiko 2016/11/14 11:12 >表現をしないという前提で、
友達がLBGTとわかったらなんとなく自然と嫌いになったのでつきあいを辞めた。
この人の場合どの友達からも続けばさすがに傷つきますよね。
でもそれでも誰を好きになるかという内心の自由を否定することはできませんでしょうね。

「内心の自由を否定することはできない」というのは、意に沿わないふるまいをしている際に言われる言葉であって、この場合は自分の意に沿って行動しているのだから、そういう言い方はしません。
また、表現は言葉だけに限りません。あらゆる言動が何かを伝える表現です。
LGBTとわかってから友だちのつきあいをやめるというのは、明確な拒否の表現であり、セクマイへの嫌悪を表に現していることになります。
もちろんそれで罰せられるようなことはありませんが、たとえば職場で、セクマイという理由で同僚たちに無視され孤立させられていた人が、職場環境の改善を怠ったとして雇用主を訴えれば、裁判で雇用主が負ける可能性はあります。

>>非難されるべきはストーカー行為であって同性愛そのものではないですよね。
>同じような言い方なのですが・・
非難されるべきは表現そのものではなくて実害を及ぼしたことですよね。

同じではありません。同性愛は異性愛と同様セクシュアリティの一種であってそれ自体では実害はないですが、ストーカー行為は犯罪なので、まったく別物です。
一方、「嫌悪を表明する」という表現そのものが、セクマイの人に精神的ダメージを与えるという実害を及ぼしています。同性愛者差別の歴史を紐解くまでもなく、これまでも現在も数限りなくあります。

>嫌いと表明して誰も傷つかないとわかっている場合でも自由を制限する必要はありますか?

表明する人が数々のセクマイへのヘイトスピーチや差別行為で有名で、多くの人から批判の対象になっている‥‥そういうような場合を除いては、「誰も傷つかないとわかっている場合」を想定できません。
そして、なぜわざわざそんなレアケースを想定してまで、セクマイへの嫌悪を表明する自由に拘るのかも理解できません。

>同性愛者の実害
同性が性的対象となる場合は、例えば一人でサウナに居て後から同性愛者が入ってきて二人きりになることに恐怖を感じることも考えられます。

なぜその人が同性愛者とわかるのですか? 仮にたまたま知っていたとして、なぜ恐怖を覚えるのですか?
「同性愛者は、サウナなどで他の同性と二人きりになった時、性的に迫ってくる可能性が高い。拒んでも襲われる」と思っていない限り、恐怖など覚えませんよね。
誰かに性的にアプローチしたい時、普通はTPOを考えます。サウナでたまたま知らない人と二人きりになったのをチャンスに‥‥などと考える人はほとんどいません。異性愛者は異性を性的対象としますが、異性なら誰でもいいと考える人もいないでしょう。
なのに、同性愛者はそうするかもしれない、だから同性愛者というだけで実害をもたらすのでは‥‥と考えるのは、同性愛者への著しい偏見です。
だいたい「恐怖を感じる」など、自分が相手に選ばれるような存在だと認識してなければ出てこない言葉ですが、何を根拠にそう思えるのでしょうか。

ちなみに、「異性愛において同じようなシチュエーションで女性の立場だったら‥‥」と書いておられますが、意味がわかりません。男女共用のサウナ(日本ではあまり見かけませんが)で男女がたまたま二人きりだったら、女性が恐怖を覚えるということですか? 人目のない二人きりの場所で男性から女性への痴漢行為やレイプは起きていますので、それを女性が想像することはありえますが、そもそもそんな人は男女が二人きりになる可能性のあるサウナに来ないでしょう。
そういう現実味のない設定をしてまで、「同性愛者は常に同性を襲う機会を狙っているのではないか」という偏見に同意させたいのはなぜですか。

また、このような偏見を記すということは、ここを読んでいるかもしれない同性愛者の人への嫌悪や差別の表明となっていることに、お気づきですか。
私に対して意見を述べていらっしゃいますが、私がセクマイだったり私の身内や友人にセクマイがいるかもしれない、精神的ダメージを与えるかもしれないということは、想像なさいましたか。


いろいろ質問しましたが、別にお答えを求めているわけではありません。
あなたのような発言者をこれまでネットのさまざまなところで見ていますので、最初のコメントから、セクマイへの嫌悪感を自由に表明したいレイシストなんだろうなと感じていました。
直接嫌悪感を書くのは憚られるので、「表現の自由」や「内心の自由」(この二つ全然違いますが)を盾にして、こういうケースはどうかああいうケースは?と尋ね、最終的に私から「セクマイへの嫌悪感の表現は自由と言うしかない」という言葉を引き出したいと思っておられたのでしょうが、失敗でしたね。
このコメント欄では、「セクマイへの嫌悪感の表現の自由を求める人」に、表現の自由を認めるつもりはありませんので、以後コメントしないで下さい。

ohnosakikoohnosakiko 2016/11/14 11:30 h-ishiharaさん
憲法の精神は、おっしゃる通りだと思います。
「人としての配慮」は、たとえば名誉毀損する表現は認められないという形でも条文化されています。これは個人だけでなく、特定の性別、人種、セクシュアリティに対して適応されることもあります。

ohnosakikoohnosakiko 2016/11/14 11:41 自己レスです。
>表明する人が数々のセクマイへのヘイトスピーチや差別行為で有名で、多くの人から批判の対象になっている‥‥そういうような場合を除いては、「誰も傷つかないとわかっている場合」を想定できません。

「あんな奴がどんなことを言っても誰一人相手にしない」「バカの戯れ言」と一笑に付されるような人間を想定していましたが、やっぱりその言葉に深く傷つく人はいるかもしれないので、「嫌いと表明して誰も傷つかない場合」などない、その想定は無意味ということで。

しかし、そんな想定までして「セクマイは嫌いだ」と表明する自由を確保したい、って何なんだろう。

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