本日、劇場版アニメーション作品「この世界の片隅に」を見てきました。
前評判も非常に高く、自分も原作を読んで非常に感銘を受けた作品だったので、すごく期待して見に行きました。
原作本のレビューはこちらのリンクから合わせてよろしくお願いします。
「この世界の片隅に」原作 感想・考察 【選択肢の先にある「わたし」の居場所】
確かにこれを映像化した価値はあると言わせるだけの仕上がりになっていた。
空襲シーンの描写や大轟音は映画として見ることで視覚と聴覚に強く訴えかけるものに仕上がっていた。また、所々で原作には無かった映画的演出が見られ、効果的に機能していた。
特に、木に引っかかった障子にすずが広島市での生活を思い起こす演出は非常に感激でした。
また劇伴音楽の使い方が素晴らしかった。決して使いすぎることなく、エモーショナルなシーンに絞ってピンポイントで音楽を挿入することで、原作に流れる穏やかな空気感を残しつつ、映画作品としての魅力を引き出した。
ここからは少し原作の内容に絡んでくることなのだが、映画版に感じた最大の不満点を解説していきたい。
それは「リンさん」という重要キャラクターの存在感を映画版でほとんど抹消に近い形で消してしまったことである。
確かに映画版にも白木リンというキャラクターは登場する。すずが闇市に砂糖を買いに行った帰りに道に迷ったところを案内してくれた遊郭の女性である。
このキャラクターは映画版でほとんど登場しないのだが、原作ではキーパーソンの1人であり、終盤にすずが周作に対して言う、「この世界の片隅に私を見つけてくれてありがとう。」というセリフに非常に深く絡んでくるキャラクターなのだ。
みなさんは映画版のクラウドファンディングクレジットの下に登場していたラフ画の意味がわかりましたか?
あれは実は白木リンというキャラクターの生い立ちを描いたものなのである。
多産の家庭に生まれ、貧乏な生活を送った幼少期。小学校にもほとんど行けず、読み書きもままならない。子守りとして売られたが、そこから逃げ出し、放浪する。そして二葉館の遊女として拾われる。周作との出会い。そしてすずとの出会い。
空襲で遊郭は焼けてしまったとの説明があることから、リンはおそらく命を落としてしまっただろう。
そんなリンという1人の女性の生涯があのラフ画の正体なのである。
映画本編でほとんど描かれなかった、リンさん。あんなスケッチが描かれているということは、もしかしたらリンさんを登場させるかさせないか迷っていて、何らかの意図があって最終的に本編に入らなかったのではないかとも思う。
しかし、個人的にだが、どうしてもその決断が受け入れられない。その理由を今から説明していく。
映画版を見ただけだと、周作は自ら望んで、幼い頃に出会って一目惚れした少女すずに求婚したようにすら見える。
しかし、映画版でのすずが嫁にやってきた時の北條家族の反応が少し匂わせている節はあるが、実は周作がすずに求婚したのはファーストチョイスや積極的な決断などでは決してなく、むしろ消極的な決断なのである。
原作に、すずが周作の机の中からとある手紙を見つけるシーンがある。少し推察混じりにはなるが、その手紙は疑いようもない周作の白木リンという女性への好意を表したものだったのだろう。
すずはその手紙を見て、深い動揺を受ける。その動揺という感情が、その後の周作からの愛情への反発の正体なのである。周作からの夜の求めに応じれない姿や、周作の愛情にも関わらず広島に帰りたいと反発するすずの行動原理と心情はすべてこの、白木リンという女性の存在に対する動揺に他ならないのである。
それが明確になるのが、すずの「周作さん・・・うちは何一つリンさんに敵わん気がするよ。」という心情吐露なのである。すずは周作の白木リンという女性に対する思いと彼女と自分を比べることで感じる劣等感に終始苦しめられているのだ。
周作が結婚に踏み切ったのには、足を痛めた母親を安心させてあげたいという思いがあったのは、事実だ。
ここからは推察になるが、周作はリンという女性に好意を寄せながら、遊郭の遊女という立場にある彼女との結婚を家族に認めてもらえなかったのではないだろうか?海軍に務める立場にある周作と遊女のリンではどう考えても釣り合いが取れていない。結婚を反対された結果、妥協案として、周作は幼い頃に出会ったすずの名前を両親に告げて、結婚相手として探してもらったのではなかろうか?
こう考えると、映画を観れなかったあのデートの日の帰り道、橋の上で周作が告げたセリフは一層深みのあるものになるだろう。
「過ぎた事、選ばんかった道、みな、覚めた夢と変わりゃせんな。すずさん、あんたを選んだんは、多分、わしにとって最善の選択じゃ。」
あのセリフは、周作がリンを選ばなかったことをもう後悔していない、今はただすずを愛しているという気持ちを込めた非常に愛に溢れたセリフだったのである。
だが、よく考えてみると、すず自身も思いを寄せていた男性は別にいたわけで。だから、この2人は最初から夫婦になっていたわけではなく、戦争の苦しい時代を生き抜く中で徐々に夫婦になっていったのだ。
そして、終盤、すずから周作に向けて放たれる、「この世界の片隅に、わたしを見つけてくれてありがとう。」のセリフ。
確かに周作の世界の中心にいたのはリンだった。そして、すずは幼い頃一度出会っただけの女性で、いわば周作の世界の片隅にいるような人間だ。
しかし、決して積極的な決断とは言えないまでも、周作は自らの意思ですずを指名した。そしてすず自身も周作をなし崩しながらもパートナーとして選んだ。そんな消極的な決断で結びついた2人が戦争の果てに愛と幸せを見出す。
そんな愛と幸せを与えてくれた、彼の世界の片隅にいた自分を選んでくれた、彼への感謝と愛の告白こそがこのセリフだったのである。
橋の上で周作が告げたセリフ、戦後原爆で焼け野原となった広島ですずが告げたセリフ。この2つの愛の告白は間違いなく呼応している。
この「この世界の片隅に」という作品にはさまざまな見方があるだろう。
私にとってこの作品は紛れもない愛の物語だ。
そんな風にこの原作を捉えていた人から見ると、劇場版で白木リンという女性の存在感が抹消されたことに何か思うところはあるだろう。
白木リンという女性はこの作品のタイトルにも関連する重要なキャラクターであるからだ。
ゆえに私はこの劇場版には大いに不満がある。それは断言させていただく。
しかし、先ほども述べたようにこの作品にはさまざまな見方がある。だからいろいろな感想や考察があっていい。自由だ。
ただ一つ言えるのは、片渕監督自身も仰っているようだが、劇場版だけでなく、こうの史代さんの原作も読んでいただきたいということだけである。
劇場版に不満は残るものの、私が「この世界の片隅に」という作品が大好きであることはこれからも変わりないだろう。
この劇場版を作ってくれたことに感謝を述べつつ、この記事を締めくくらせていただく。
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