2016年11月13日

デジタルは持たぬが閲覧の役に立つ : 「文化資源のデジタルデータ流通に突きつけられた課題--国文学研究資料館のオープンデータ公開と永崎研宣氏による公開から考える」を読んだメモ


 ↓こちらの記事を拝読して、考えたこと、思ったことのメモ。
 メモなんで、いつも通り粗雑な思いつきレベルで、結論も特にないです。過度な期待はしないでください。

・笠間書院 kasamashoin ONLINE:文化資源のデジタルデータ流通に突きつけられた課題 ―国文学研究資料館のオープンデータ公開と永崎研宣氏による公開から考える[後藤 真(国立歴史民俗博物館 研究部准教授)]
 http://kasamashoin.jp/2016/11/post_3796.html

 一読してわかんなかったところは、↓過去の経緯をさかのぼって再読しました。知らぬは一時の恥だが参考文献リンクは役に立つ。

・「電子資料館から公開している画像データのうち、原資料の所蔵先が国文学研究資料館のものについては、「CC BY-SA 4.0 国際ライセンス」の条件で提供しています。」(2016年10月11日)
 国文学研究資料館 日本古典籍総合目録データベース  http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/
・Mirador 2.1 (IIIF対応ビューワ)リリース&日本の古典籍が登載! - digitalnagasakiのブログ
 http://digitalnagasaki.hatenablog.com/entry/2016/09/17/034714
・笠間書院 kasamashoin ONLINE:永ア研宣氏が、国文学研究資料館の館蔵和古書画像19451点の古典籍をIIIF対応に。Mirador 2.1 (IIIF対応ビューワ)をダウンロードして、それで見ると、従来より格段に見やすくなり非常に便利です!!!
 http://kasamashoin.jp/2016/10/post_3782.html

 そしてtwitter界隈のその後の反応がこちらにまとまっているという感じ。

・「文化資源のデジタルデータ流通に突きつけられた課題―国文学研究資料館のオープンデータ公開と永崎研宣氏による公開から考える」(後藤真・国立歴史民俗博物館)に寄せられた関連ツイートまとめ - Togetterまとめ
 http://togetter.com/li/1044603


 以上をふまえて、以下個人的につれづれに考えたこと。 

 一読して、まったくおっしゃる通りです、という感想。
 そして、いままでやってきたこととそんなに変わんないかな、という印象です。

 ごくごく端的にまとめると、
 文化資源「オープンになった!」
→外の人「デジタルは自分で持たぬが閲覧の役に立つブラウザつくった!」
→ユーザ「こっちのが見やすい!」
→所蔵元「あ・・・」
 の、「あ・・・」の部分を社会全体から引きの画で見てどう考えるか、かなっていう。

 ただ、IT(死語?)に弱い自分から見ると、どっちのインタフェースにたどりつくのも使い慣れるのも、結局慣れが必要な感じなので、あんま違いはないかな、という気はしました。気だけなんで、違うのが出ればまたころっと印象かわるんでしょうけど。そういった意味では、ITに弱い人のために所蔵元が、アクセスだけじゃなく閲覧環境も提供する、っていうのはいるよなと。

 で、その「あ・・・」の部分なんですけど、まとめで危惧の声もあってそれもある意味わかるんですけど、このブログは図書館馬鹿のブログなので図書館の話で言うと、紙の本の所蔵と提供についてはすでにそういうことをやってるわけですよね。
 これはどんな種類の図書館であろうとまたは大学共同利用機関であろうと、本・資料を共有してもらうために一時的にお預かりして提供している、という点ではいっしょだと思うんですけど、最終的に共有してもらうのが目的なんで、がんばってそれに専心してるっていうところはありますよね。大学共同利用機関の図書館として言えばそれは”相互利用”・ILLになるんじゃないかな、来館利用もそうなんだけど、やっぱ図書館間貸出の方法のほうが現実的じゃないですかね。うちとこの貸出件数をNACSIS-ILLで見ると、27年度が年間680件で第26位か、京大さん早稲田さんみたいな蔵書は持てないにしても共同利用機関としてはもうちょっとリクエストされたいですね、蔵書は少ないが役に立つって思われたい。うちとこみたいな辺鄙な山奥図書館は直接サービスに不向きなこと極まりない以上、どう共有してもらいますかというとどうしてもそうなります。
 そんな中で、現物貸出ができない古典籍の類については、デジタルでオープンでオンラインでヤフー!な感じにしていきましょうっていう流れなんだったら、じゃあそれは紙の本混じりで考えたらいままでやってたこととそんなに変わんないかなという。(なんでデジタルのあり方のことを紙混じりで考えてんだ、って思われるかもしんないけど、紙かデジタルかのメディアのちがいなんてそれこそ長い目で見れば誤差かなんかでしかないし)

 例えばわざわざよそさんに貸し出すっていうのは、自館に来てもらって自館内の閲覧机で物理的時間的環境的制約がある中でのみ使ってもらうのが不便だし忍びないから、っていうふうに考えたら、デジタルをオープンに公開するのは、自サイト内に来てもらうだけでは不便だし忍びないから、ってことにつながると思うんですけど、でもそれは決して、自館に来てもらうことを投げてるわけでも否定してるわけでもないです、実際、来館して現地で利用した方が都合がいいというような人は、遠隔地からでもわざわざおいでになりますから、それはそれでどうぞ、どうぞどうぞ、という感じです。
 それは普通の図書館さんでも同じだと思います、所蔵図書を、館内で読みたい人は読んでもらう、そのための机も環境もある程度はコストをかけて用意します、場所の維持はお金かかりますけどそれでもだいたいの図書館さんはやってる、でもそれも完全じゃないし、おうちや通勤電車内で読みたい人は借りてってもらったらいい、自宅で好きなようにマッシュアップしてくだすったらいい、それは自館から遠く離れますけど別にいいじゃんという感じで。大学における”図書館内での”ラーニングコモンズの整備なんかは、その逆走にあたる活動なのかなと思うんですけど、結局全学生が全時間ラーニングコモンズ使えるだけのリソースが館内にあるわけでもないので、やっぱり、どうぞ使いやすいところに持ってって使ってください、って資料を放出しているという意味では、永崎さんのやってることといっしょかなって思いました。(ていうか、それが「いっしょ」に見えるくらい遠くからいま見てます)
 例えば、うちとこは創設時に「所内に展示施設を持たず展示活動をおこなわない」方針でいこうってなったそうなんですけど、でも、あちこちに所蔵資料(主に妖怪&春画)をあちこちに貸し渡して展示施設に置いて展示してもらう、っていうことをしてますので、それもものすごくざっくりまとめれば似たようなもんだなと。

 ただ、古典籍資料の類のデジタルでオープンな公開のほうに目を戻したときに、その手の資料って、資料そのものやそのコンテンツだけではなくて、「現在の所在」もその資料の属性情報・来歴情報としてすごく重要で、それによって個体の識別とかをするわけなんで、いくらオープンに公開流通複製ばらまきされるとしたとしても所蔵機関情報はがっつりかつ正確に記されててもらわないとなって思います。後追いができないと意味がないので。
 で、それがちゃんと出てたら、結果として”存在感”はついてくる、かな、どうかな、そう願いたいという感じですが。
 ILL現物貸出でも、資料1点1点を相手一人一人に貸してる時には、それがうちとこ所蔵のものかどうかなんて借りたご本人には何の意味もないだろうし伝わってもないだろうなと思うんですけど、それが、年間でトータルこれだけとか、引きの画で見るたときに、あ、あのなんとかいう山奥図書館さんはこういった類のをちゃんと持っててちゃんと提供してんだね、ってのが可視化されるといいんだけどなあ、どうかなあ。そのあたりは”国文”とか”京都”みたいにキャッチーなワードが機関名に入ってないとなかなかわかりやすい”気付き”は世の中から得られないかもしれない。
 でもだったらその”気付き”がほしいんだったら、別の広報活動なりなんなりで相手の背中バンバン叩いて振り返ってもらうことでやらなきゃしょうがなくて、それは天の岩戸みたいにして気を引くのとはちがいますね。

 ふだんTwitterで「寄席に行く」みたいにしょっちゅう言ってたら「egamidayさんは落語の修行もしてるのか」みたいに問われて慌てて否定したんですけど、要は、司書/司書教諭の科目で教壇に立つコーギ活動を「寄席」って言ってるだけなんですけど、その寄席で、黒板にこういうのを書いて、
 【情報・思想---コンテンツ・著作---本・メディア---図書館---司書---サービス---ユーザ---社会】
 ユーザが必要としてるのは情報・思想やそのコンテンツ・著作のほうであって、図書館やサービスそのものを目的としてるわけじゃないから、「本・メディア」だけじゃなく「図書館--司書--サービス」のとこまでひっくるめてメディア(なかだち)なんだって、そのメディア部分をいかに短縮するか&保証するか、っていう考え方について、その寄席の演目が情報メディアの活用だったんでそういう噺をしたんですけど、そういう意味では、オープンにしたデータだろうがブラウザだろうが結果メディアでしかないし、そのひとつの所蔵機関が評判を得るとか存在感を保つというのも畢竟メディアの一ありさま、メディアとしての本務をまっとうするための一ステップであり、一ステップでしかないと言えばない。
 ないんだけど、ただ、世知辛いというかまあいまどきはそうだよなっていうのが、いまのご時世、時代の趨勢要請でいくと、その一ステップがとてつもなくでかくて否応無しに生殺与奪をあれしてくるみたいになってるので、懸念していかなきゃいけない。ってなったときに、オープンにした"だけ"では「スマッシュヒット」という便利な言葉で得られるくらいのものしか得られないだろうなので、それ以外の棒でも背中バンバン叩いてかなきゃしょうがないな。なんせ、オープンもIIIFもメディアでしかないんだったらそれは唯一解でも絶対解でもない、それ以外の棒を古いのでも新しいのでも振り回してかなきゃな、っていう。

 本当は「その棒とはなんだ」が主問題だと思うんですけど、それはもっともっと長期的な目で探したいなと思うので、とりあえずはそういうところまで考えました、っていうメモです。メモですって言って、逃げます。逃げるは(略)

posted by egamiday3 at 23:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする