岡山芸術交流
岡山芸術交流に行ってきました。
今や各地で開催されまくってる国際展に正直もう辟易してますが、この岡山の芸術祭は他と一線を画すものとして外せませんでした。
というのもアーティストディレクターがリアム・ギリックで、出品作家が「今」を代表する作家ばかり!所謂リレーショナルアートと言われる潮流の渦中の作家をこれだけ集中して観られる機会はそうありません。しかも国内で。
当日は晴れ。さすが「晴れの国」岡山。
以下作品の写真をざっくり。
Pierre Hyughe「Zoodram 4」
Pierre Hyughe「Untitled (Human Mask)」
Pierre Hyughe「Untitled」
Rikrit Tiravanija「untitled 2016 (this is A/this is not A/this is both A and not-A/this is neither A nor not-A)」
Ryan Gander「Because Editorial is Costly」
Simon Fujiwara「Joanne」
眞島竜男「281」
荒木悠「WRONG REVISION」
Jose Leon Carrillo「Place occupied by zero (Okayama PANTONE 072,178,3245)
Liam Gillick「Development」
Peter Fischli David Weiss「Untitled (Mobile)」
まずは林原美術館でユイグの「Untitled (Human Mask)」が観れたのはとても嬉しかった。
彼の作品はここで3点展示されてるけれど、どれも人類の文明の醒めた目を感じられる知的な作品群。
特に上記の作品は、無人と化した福島の被曝エリアを撮ったもので、とても鮮烈。
今東京のヴィトンでもユイグの展覧会がやってるから是非観に行きたい。
そして、岡山城下のティラバーニャの茶室。茶会に出てみたかった。
この展覧会唯一と言ってもいいぐらいフォトジェニックだったのがガンダー。
駐車場を破壊して作られたこのインスタレーションのインパクトはすごかった。
よくぞここまでやらせたなぁって感じ。
落下した隕石のようなものは、デ・スティルのジョルジュ・ヴァントンゲルローの作品を元に作られてるらしく、20世紀初頭の作品が時空を超えて岡山に落ちて来たという設定らしい笑
岡山県天神山文化プラザのサイモン・フジワラは、自身の高校時代の女教師を元に制作されたもの。
彼女が新たな自分を築き上げる過程を写真と映像、SNSをも駆使しながら展開。フジワラらしい作品。
そして眞島竜男は今回最も岡山を意識した作品。
駅前にある桃太郎像と1962年に開催された岡山国体時に制作されたというトーテムポールの関係を、粘土の彫刻で現し、その制作過程を映像で見せながら、桃太郎伝説の推移を徹底したリサーチの下で語るという作品。これは結構記憶に残る名作だったと思います。友人曰く「桃太郎が嫌いになった」とのこと笑
今回のメイン会場は旧後楽園天神校舎跡地。会場前にはプルーヴェの学校も。
ここにはディレクターでもあるギリックの作品や、下道さんの「境界」を意識した作品など、印象に残る作品が目白押しですが、その中でも荒木悠の作品は新鮮でした。
荒木さんの作品は横浜美術館で見たけれど、その時はピンとこなかったのが、今回すごく腑に落ちた感じ。
タコにまつわるお話だけれど、それがどこまでが本当でどこからが嘘なのかがわからない。
その曖昧さがとっても美しかった。
タコの干し方がキリストの磔刑に似てるってのは面白かった。
これは中々他の場所で発表しにくいかもしれないけど、とてもいい作品だと思いました。
あとはオリエント美術館のフィシュリヴァイスは相変わらずゆるくてよかった。
ざっくり内容はこんな感じ。
結論を言うと、この芸術祭はとても良かったと言わざるをえません。
大絶賛とまでは言いませんが、いくつかの点で賛辞を送るべき箇所がありました。
まずは規模です。
中には1時間を超える映像作品なんかもありますが、テキトーに端折って観れば1日で十分楽しめます。
実際ジョーン・ジョナスの80分を超える映像や、ドミニク・ゴンザレス=フォースターの映像プログラムなんかは飛ばしちゃいました、すいません。
それでもいつもは端折っちゃうような映像群も僕としては丁寧に観られたし、朝から回って夕方までには観終わることができました。
全てが徒歩圏内にありながら、お城から美術館まで様々な場所を見られるのも良かった。
自分の父が岡山出身なので、岡山は何度も来ていたものの、ここまで丁寧に歩いたことはなかったんですよね。
時間あれば後楽園もと思いましたが、さすがにその余裕はなかった。
今回の国際展には、クロスカンパニーの石原康晴氏の尽力が大きかったでしょう。
彼は現代美術の大コレクターで、今後岡山に私立の現代美術館も建てる計画もあるそうな。
(以前京都で見たケントリッジの巨大インスタレーションも彼の持ち物)
岡山は何気に日本初の美術館を立上げた大原孫三郎氏や、ベネッセの福武總一郎氏など、美術のパトロンとも言える人々の系譜が連綿としてあり、石原氏は次世代にあたります。
今後この岡山芸術交流も存続するのか気になるところですね。
次にキュレーション。
これはギリックの手腕に驚かされました。
「development」という主題は正直よくわからなかったんですが、それでもこれだけ年齢も国籍も様々(25歳から80歳、16カ国)な作家たちを集めて、多様でありながら、一つにうまくまとまっていました。
ほとんどがフォトジェニックな作品ではなく、観客が能動的に考えなければならないので、現代美術初心者には結構難しいかもしれませんが、ファンとしては考えさせられる知的なゲームを本気で楽しむことができました。
そして何と言っても作品のクオリティが高い。
過去の作品ではなく新作が多いというのも見応えがある理由の一つですね。
ギリックはキュレーションはこれで最後と言ってますがもったいないです。
実際キュレーターをやってみて、彼らがどうしてあんなにクレイジーなのかがわかったそうです笑
僕が今回の作家たちに共通して好感を持てたのは、ギリックもインタビューで言ってますが、所謂「自己表現」に終わってない点です。(ギリックの表現で言えば、「一般的な意味での自己というのを作品の前面に押し出すような作家は一切いません」)
みんな自己の向こう側にあるさらに大きな世界に言及した作品が多かったように思えます。
サイモン・フジワラや下道さんのように、自分は入ってるんだけど、決して内向きの自己に向かってない。
その先の新しい地平に向けて、意識を投げてる姿がとてもいいです。
そして、無理をして地域性に焦点を当ててないところ。
ここは微妙なところで、当てなさすぎても「ここでやる意味」が消えちゃうので、そこはバランスよく、例えば眞島さんの桃太郎の作品を入れるなどして、とてもいいバランスでした。
ここ最近の「地域アート」は、どうしても地域に迎合しちゃうところがあるので、そことは違いましたね。
ギリックは実際作家たちに岡山という都市に反応してくれとは一切言わず、普通に来て普通に作品を作ってください、という頼み方をしたそうです。
ギリックはここ数年の作品にまとわりつく「リサーチ」という言葉が免罪符になっているんじゃないかという疑問を持っています。リサーチと言えばちゃんと考えられた作品と見てくれる。でもその「リサーチ」を客観的に精査する人はいない。そういうのって確かにそうだよなぁと思いますね。
ギリックはイギリスのYBA世代ど真ん中にいる作家なのに、そこに回収されず、常に批評的な目を持ってやってきたとてもクレバーな作家なんだなぁと、この展覧会で改めて思い知らされました。
ちなみに冒頭の岡山駅に掲げられた大看板もギリックの作品。
タイトルは「From Yu to You」。
出品作家が羅列されてますが、最初が荒木悠のYuで、最後が観客のYouです。
どうしてメインビジュアルが目なのかという問いにギリックは答えています。
「日本と「目」の関係は深いように思います。私が15年前に初めて来日したとき、他の経験と比べて、日本にはとても独特の視線のかわし方があると感じました。これは今まで体験したことのない風習でした。」
日本人にとってはよくわからないけれど、目配せの仕方は確かにあるかもしれません。
いろんなことに改めて気付かせてくれる、濃密な展覧会でした。11月27日まで。こちら。