■ 中国との戦争を正当化する方法
『戦争論』では、アジア太平洋戦争を「アジアを植民地化していた」「差別主義欧米列強の白人ども」との戦争と位置づけることで旧日本軍の免罪を図っている。しかし、この理屈には大きな欠点がある。中国との戦争が正当化できないのだ。欧米列強の植民地でも何でもない中国に日本が攻め込み、東北部(いわゆる「満州」)を奪い、さらに支配地を広げようと侵略を続けていたのだから当たり前である。
ではどうするか?
小林(に限らないが)が採用したのは、徹底的に中国軍を悪魔化する、という手法だった。中国軍はこんなに卑怯でこんなに残虐だったのだから、それと戦った日本軍は正しい、というわけだ。
■ 『戦争論』が取り上げた典型的なエピソード
中国軍の卑劣さを示す典型的な事例として、『戦争論』ではこんなエピソードを取り上げている[1]。(注:この事例についてはSF作家の山本弘氏が既に詳しい検証をされているのだが、一部情報を補足した上で改めて紹介する。)
知るのだ! 日本人に隠されている事実を!
事実から目をそむけて歴史を語ることはできない!まず第9章でも少し触れたが便衣兵についての事実を紹介しよう
第三師団の先鋒部隊が上海の呉淞ウースン桟橋に上陸したおりであった
桟橋近くには 日本人の婦人団体とおぼしき人々が列をなし
手に手に日の丸の小旗を振っての歓迎で
上陸する将兵たちの顔にも思わず微笑が浮かんだそして隊列が婦人団体のすぐ近くまで来た時であった
突如小旗は捨てられ さっと身をひるがえすと 背後に隠していた数丁の機銃が 猛然と火をふいた
あっという間もない
たちまちのうちに一個中隊はほぼ全滅かろうじて難を逃れた兵士らは ただ無念の涙を飲むばかりであった。
この一事は広く将兵の知るところとなり 中国兵への怒りと憎しみを倍加させたのである大井満『仕組まれた南京大虐殺』からの引用である
よく「女子供の死体まであった」とかいう証言があるが 女子供が便衣兵なら殺されたって仕方がない
■ 虐殺否定本による歪曲引用を鵜呑みにしてマンガ化
さて、この話は本当なのか?
小林はこのエピソードを大井満『仕組まれた南京大虐殺』(1995年)[2]からほぼそのまま引用しているのだが、この話は大井本がオリジナルではなく、元ネタがある。鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』(1973年)だ。こちらから話の文脈がわかるよう前後を含めて引用してみると、次のようになる[3]。
南京攻略戦への道程
ここで、事の順序として、上海から南京にかけて日本軍と中国軍とがどのような戦いを経過したか、またその間において、日本の最高首脳部は、「南京攻略戦」をどのように理解していたかのアウトラインを、まず説明させて頂きたい。
(略)
しかし、ここでは「戦史」を述べることが目的ではなく、あくまで「南京戦」の土台を理解して頂くのが目的であるから、その面での記述に止めたい。そして、すでに公刊されている手許の資料に加えて、新たに、主として第九師団(吉住師団)の人たちの語った「戦った当事者の記録」をつけ加えてお伝えしたいと思う。
第九師団で取材に応じて下さったのは、金沢七連隊(伊佐部隊)の伊佐一男、米林政二、勝田友雄、鯖江三十六連隊(脇坂部隊)の中川清作、森岡喜太郎、敦賀十九連隊(人見部隊)の渡辺昇、安川定義(敬称略)他数名の方々である。
昭和十二年八月九日、第一章にもふれた「大山中尉虐殺事件」が起きたとき、上海にいた日本軍は、四千人余りの「上海陸戦隊」だけであった。十三日、最初の戦端がひらかれたが、翌十四日には国府軍による上海爆撃があり、十五日荒天をついて、日本軍による初の「渡洋爆撃」が上海、南京に対して行なわれ、同日蒋介石を陸海空三軍の総司令官として、中国にも大本営が設置され、全国に総動員令が下されている。はじめの頃、日本の上海陸戦隊は十倍以上の中国軍を相手に苦しい戦いを続けたが、日本軍は直ちに松井大将を総司令官として、第三師団、第十一師団を派遣、八日後の八月二十三日には、応援軍が上海に到着している。
この部隊が上陸の際に、ちょっとしたエピソードが伝えられている。第三師団の先発梯団が本船から呉淞桟橋に上陸しようとしたとき、桟橋の上には、日本の愛国婦人会のような恰好をした多数の女性が、手に手に日の丸の小旗を持って迎えたというのである。兵士たちは安心して、次々に桟橋に降り立ったが、それまで並んでいた女性たちの姿はたちまちにして消え、次に展開されたのは、中国軍による凄まじい一斉射撃であった。不意を衝かれた日本軍の死体は、見る見るうちに山と築かれていった。指揮官の顔は一瞬土気色に変り、口惜しさに唇は噛みしめられて、血をにじませていた。
このことは、日本軍の胸に、中国軍に対する根強い不信の念となって刻みこまれることになった。俗にいえば「畜生、やりやがったな」という感情である。このエピソードは後の部隊にも「教訓」として語り継がれ、長く憎悪の対象となったようである。
一読して明らかなように、元ネタのほうには「機銃」も「一個中隊はほぼ全滅」も出てこないし、そもそも撃ったのは女性たちではなく「中国軍」と明記されている。仮に鈴木が書いたこの「エピソード」が事実だったとしても、女性たちは日本兵を油断させるために使われただけだ。
要するに、まず大井が鈴木の元ネタを歪曲して引用し、次にこれを鵜呑みにした小林が、和服やスカート姿の女たちが機銃を撃ちまくるという、あり得ない絵を描いてしまったわけだ。
■ 鈴木明の元ネタにも根拠はない
では次に、鈴木の書いた元ネタのほうは事実なのか?
山本氏の検証でも書かれているとおり、こんな話は防衛研究所戦史室による『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)』にも出てこないし、偕行社の『南京戦史』にも見当たらない。そもそも戦史叢書によれば、この第三師団による呉淞桟橋上陸時の状況は以下のとおりである[4]。
当時、上海付近の中国軍は、その後逐次兵力を増加し、二十日ころには一四~一五コ師に達したもののようであり、揚子江及び黄浦江沿岸のいたるところに配兵し陣地を構築していた。この地区の地形の特色は、良好な道路が少なく、水濠(クリーク)が縦横に連なり、軍隊の行動は困難であった。ことに住民地(家屋は煉瓦建てで壁厚は約二五糎くらいのものが一般)は水濠をめぐらしたものが多く、これを固守する中国軍の抵抗力を強化した。
両師団は、馬鞍群島に集結中に、上陸時の陸岸接近を容易にするため、大きな艦艇に乗り込んでいた部隊は小艦艇に移乗した。
(略)
第三師団方面においては、上陸掩護隊(第一特別陸戦隊及び歩兵一中隊基幹)は、二十二日夜半までに上海において汽船に分乗し、駆逐艦がこれに先行し、艦砲射撃により敵を制圧して二十三日三時ごろ呉淞鉄道桟橋(呉淞鎮南方約一粁半)付近に強行上陸を敢行し、河岸の敵を駆逐して軍工路の線に進出した。つづいて師団主力がこれに跟随こんずいして上陸し、逐次南西に戦果を拡張して、同日夕までに第一線は呉淞鉄道桟橋西方約一、五〇〇米の水濠(巾約二四米、深さ約四米)から同桟橋南方約五〇〇米にわたる線に進出した。じ後、この線は軍主力の掩護陣地となった。優勢な中国軍は連日逆襲を実施したが、師団はよくこれを撃退して陣地を確保した。
第三師団の先発隊は、まず中国軍陣地を艦砲射撃で叩いたあと、河岸の敵と戦いながら強行上陸したのであって、日の丸の小旗を持った婦人団体に迎えられての上陸などというのんびりした状況ではまったくない。時刻も真夜中である。
だいたい、鈴木は資料にもないこの「エピソード」を誰から聞いたのか。上の引用部分に出てくる第九師団関係者から聞いたのかもしれない(それもはっきりしない)が、仮にそうだとしても彼らはこの上陸作戦の当事者ではない。結局のところ、鈴木はここで、出所も不明な噂話を書いているに過ぎない。
■ 巨大ブーメラン
小林は日本軍性奴隷制被害者(いわゆる「従軍慰安婦」)などの証言を信用できないとして繰り返し否定しているが、ではなぜこちらの「事実」は信用できるのか。そもそも体験当事者による証言ですらなく、兵士たちの間に伝わっていた「噂話」「都市伝説」の類ではないか。
これでよく「事実から目をそむけて歴史を語ることはできない!」などと言えたものである。
[1] 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 幻冬舎 1998年 P.127-128
[2] 大井満 『仕組まれた南京大虐殺』 展転社 1995年 P.206-207
[3] 鈴木明 『「南京大虐殺」のまぼろし』 文藝春秋 1973年 P.154-156
[4] 防衛庁防衛研究所戦史室 『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)』 朝雲新聞社 1975年 P.277