被造物に対するエホバ神の最終的な目的は達成される

被造物に対するエホバ神の最終的な目的は達成される
2016.09.03.

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ここで述べる「被造物」とは、すべての人間、そして、天使や悪魔などの霊者を含む、エホバ神と同じ特質を付与された理知ある被造物のことです。

ところで、最近、①すべての人が復活すること、②悪魔を含め、被造物は誰も永遠の滅びを被ることはないことについて説明しました。

https://sites.google.com/site/jwbibleprophesy/fukkatu
https://sites.google.com/site/jwbibleprophesy/fukkatu-1
https://sites.google.com/site/jwbibleprophesy/darehitori

では、これらの論文を踏まえて、エホバ神の最終的なお目的がどのように成し遂げられるのかを考察してみましょう。

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そもそも、エホバ神は、なぜ理知ある被造物をお造りになったのでしょうか。

まず、み子イエスもまだ生まれていなかった頃、エホバ神はお一人で様々な事柄をお考えになりました。事実、私たち人間が思考してきたようなあらゆる分野のあらゆる事柄をすべて網羅されたことでしょう。もちろん、それには、義や知恵や美しさだけでなく、悪や愚かさや汚れなども含まれます。(伝道1:17、12-13)。

そのような私たちの想像をはるかに超えた宇宙的規模の広範囲にわたる深い考察を一通り終えて、エホバ神は、物事には良いものと悪いものとがあるという結論に達したものと思われます。ただし、それは、表面上・見た目の良し悪しではなく、ある物事をどんどん進めて行くとどうなるのかを、ありとあらゆるシミュレーションを重ね、結局、最終的にダメになるものは良くないもの、最終的に良い結果をもたらすものを良いものと結論したということです。(ローマ6:21-22)。

そして、エホバ神は、そのご自分が見出した良いものについて、それらをご自分一人だけのものとせずに、他の者にも分かち合うという素晴らしい事柄をお考えになりました。それで、最初にみ子イエスを、そして、天使や人間たちを造っていかれたのです。

ですから、理知ある被造物をお造りになったのは、彼らがエホバ神と同じように、良いものを良いと結論し、共に喜び合うためなのです。

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そのように、被造物がエホバ神と同じ結論に達するためには、やはり、エホバ神が天地創造以前にご自身お一人でお考えになったのと同じ思考過程を同様に経なければなりません。つまり、被造物は、エホバ神の思考過程を追体験しなければならないのです。それは、生徒たちが先生が受けてきたのと同じ教育過程を経なければならないのと同じです。(ルカ6:40)。

それで、ここで注目していただきたいのは、エホバ神が義や知恵や美しさ(光)だけでなく、悪や愚かさや汚れ(闇)についても一通り考察されたという点です。つまり、そういう考察を経て、物事の良し悪しを評価することができるようになったわけです。(ヨハネ第一1:5-7)。

ということは、被造物もまた、悪や愚かさや汚れ(闇)についても、一通り深く考える機会が与えられる必要があるということです。そして、現在、人類社会で悪が許されている根本的な理由はまさにこれなのです。

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まとめると、エホバ神のお目的は、被造物と共に良いものを分かち合い、喜ぶことです。そのためには、まず、被造物がエホバ神と同じ結論に達するように教育しなくてはなりません。つまり、この6000年間、悪が許されてきた真の理由とは、天使や人間たちを教えるためだったということです。

ただし、その許しは、悪のもたらす有害な影響すべてを、最終的に完全に拭い去ることを前提としてのものです。悪により受けた、心の傷、体の傷、物的損害、そして、それによって奪われた命・・・、それらすべてをエホバ神は拭い去り、まるでなかったかのように完全に元に戻すことがおできになります。(イザヤ65:17-19、啓示21:4)。

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今までの考察からすると、悪が許されるようになったのは必然であったと言えるかもしれません。とはいえ、エホバ神が進んで悪をもたらしたということでは決してありません。そうではなく、エホバ神と同じ特質を持つ私たち人間や天使の思考範囲の中には、悪や愚かさや汚れ(闇)も含まれているゆえに、当初、義や知恵や美しさ(光)のみを教えられていたとしても、いずれ、誰かが、そのような良くないものの領域があることに気付き、思考するようになるのは避けられないことだったのだと思われます。

恐らくケルブであった悪魔サタンは、能力の一際優れた天使の一人でした。彼もまた、エホバ神と同じように、種々様々な広範囲にわたる物事を勉強し、思考したことでしょう。そして、ある時、エホバ神が教えておられるのとは異なる、正反対の物事も存在することに気付いたようです。近視眼的に見ると、それは「良いもの」に思えたのでしょう。もちろん、それは欺きの欲望だったわけですが。

サタンは、そのような自分の考えた事柄について、エホバ神に尋ねたことでしょう。エホバ神は理路整然とお答えになったはずですが、彼は納得できなかったようです。その後、彼と親しい天使たちにも、彼の「新しい理論」を説明していきました。ある者は首をかしげ、別の者は大いに賛同し、こうして、天使たちの間で論争が起きるようになったのです。

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このサタンの「新しい理論」とは、要するに「自分優先・自己本位の精神」のことです。「自分の望む事を望む時に望むだけしてもOK!」というのがそのモットーです。これは、近視眼的に見ると「自由」であるゆえに、「良いもの」と思えたのでしょう。

一方、エホバ神の教えは、あれをせよ、これはダメ、自制、辛抱、忍耐・・・であり、これは「束縛」であって、我々の自由を侵害するものではないのか?というのがサタンの考えです。(創世記3:4-5)。

かなりの数の天使たちが、「自由に生きる」ことで、より幸福になれると勘違いし、サタンのこの新しい理論に賛同したようです。(もっとも、「自由」と「自分勝手」とを履き違えているわけですが・・・)。そして、それを実行に移す良い機会が訪れました。そう、人間の娘たちと同棲するために、地上に降りてきたのです。(創世記6:1-2)。

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エホバ神は、そのように、被造物が「闇」の物事を思考し、その結末を経験することを良しとされました。それは、かつてエホバ神ご自身も光だけでなく闇についても一通り考察されたのと同様に、私たちもまたそのような体験を通して、闇の物事が本当に「良いもの」なのかどうかを判別できるようになるためです。

実際に、多くの心ある人々は、悪の結末を目にし、サタンが推奨するような自分優先・自己本位の精神が間違っていると結論してきました。それは、エホバ神と同じ結論です。たとえ、ある人が一時期、邪悪な業に携わり、悪の道に喜びを見出しているとしても、悪の結末、つまり手痛い代償を支払わされることにより、本心に立ち返るということも少なくありません。(歴代第二33:10-13、詩編119:67、71)。

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と、ここまで考えてきた通り、今、悪が許されているのは、私たちを教育するためだということでした。被造物は、悪の結果生じる痛みや悲しみを経験し、サタンの推奨した「自分優先・自己本位」の生き方が間違っているというエホバ神と同じ結論に達します。そして、かつ、そのような悪によってもたらされた被害すべては、将来、完全に癒されることでしょう。

上記のように考えると、要するに、今の世界は、一種の「教材」だとみなせます。あるいは、家族の中で行なう劇のようなものになぞらえることができるかもしれません。(コリント第一4:9)。例えば、幼い弟が主人公で、お兄ちゃんたちは悪者役です。その劇で、弟は悪者役のお兄ちゃんたちからの攻撃や誘惑を受けながらも、正しい生き方を貫き通さなければなりません。そうする時、お父さんからお褒めの言葉をいただけます。

さて、その家族の中での劇が終わった後、その悪者役のお兄ちゃんはどうなるでしょうか。お父さんから家を追い出されるでしょうか。いいえ、そのようなことはありません。

つまり、今、悪魔や邪悪な人間たちは、いわば「悪者役」になっているわけです。そのようにして、被造物を教育するための「劇」が行なわれています。そして、すべての被造物が、「あ、やっぱり、自己本位な生き方(闇)は間違ってるよね」と、エホバ神と同じ結論に達する時、その劇は終了します。

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被造物に対する最終的なエホバ神のお目的は、被造物すべてがご自分と同じ結論に達し、こうして共に「良いもの」を分かち合って喜ぶことです。そして、上述したように、悪が許されるようになったことは必然だったのであり、誰かを滅ぼすためのものではありません。むしろ、すべての者がそこから教訓を得て、益を得るためのものです。神は悪を仕方なく許しているのではなく、被造物の益になる教材であるゆえに、最終的にプラスになると見込んであえて意図的に許しておられるのです。(ヘブライ12:7-11)。

ですから、偉大な教育者であられるエホバ神は、最終的に、悪魔や悪人を含むすべての被造物を、ご自分と同じ結論に達するように導かれるおつもりです。確かに今は、彼らが悪の欺きの理論に惑わされるまま盲目な状態にして、こうして彼らを悪者役として任じておられますが、まもなくそのような期間も終わり、彼らの目を大きく開かれて、何が真実かが理解できるようにされることでしょう。(テサロニケ第二2:10-12、ローマ11:25-36)。

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ここで、私は声を大にして言いたいと思います。すなわち、「被造物は皆、兄弟である!」と。

確かに、悪魔や悪人たちは、憎むべき酷い事柄を行なっています。しかし、彼らから受けた損害はいずれすべて完全に回復するのですし、何よりも、私たちはこのような「闇」の状況から教訓を得て、かつてエホバ神が天地創造の前にお一人で熟考なさったのと同じ思考過程を追体験できているのです。そして、私たちもエホバ神と同じ結論に達します。そう、すべては私たちの益となるのです。

そして、悪魔や悪人も、「劇」が終われば、目が開かれて、悪行をやめるでしょう。その時、彼らはもはや悪魔でも悪人でもない、エホバ神の是認を受けた、神の子の一人となるのです。このような壮大なエホバ神の教育プランを思う時、確かに、今は敵対している悪魔や悪人であっても、結局は私たちと同じエホバ神の子供なのであり、それゆえに、「被造物は皆、兄弟!」だと言い得るわけです。

もちろん、悪魔や悪人の行なっている「闇」の業には組しませんが、それでも彼らを愛し続けることはできます。それは、会衆から排斥された実の兄弟の行ないに倣わないとしても、引き続き気遣いを示すのと似ています。

エホバ神の目には、すべての被造物が、ご自身の愛する子供なのです。ですから、私たちもそれと同じ見方ができるようになりましょう。(マタイ5:45-48)。そう、被造物は皆、兄弟なのです!


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