左内が眠りから覚めたのは戦人だけが理解できる異臭を嗅ぎ取ったからである。
常人には知覚できない濃厚な死臭――――それが左内の戦人の血を騒がしたのだ。
―――――この世界にも人斬りがいたか。
足止めのために雇われたらしい殺し屋を一刀のものとに斬り捨ててバルトロメオを見た瞬間、彼が生粋の人斬りであることを左内は確信していた。
しかも堕ちた人斬りである。
性質の悪い、己の愉悦のために他人の不幸を食い物とする類の男だ。
左内がもっとも嫌う性質の男である。
戦場を渡り歩くうちに、男たちがそんな人斬りに堕ちていくのを左内は幾度となく目にしていた。
上杉家で同輩となった上泉主水もまた、別の意味で堕ちた男であった。
山形で戦死したこの同輩を、左内は昨日のことのようにありありと思い出すことができる。
戦場以外の場所で剣をとったならば、左内の腕をもってしてもまず勝ち目はないと思えるほどの天才的な剣客だった。
温厚そうな容姿で、政治的にはむしろ穏健派に属したはずの上泉主水だが、その彼がいかに人を斬らずにはいられない剣の鬼であったかを左内は熟知していた。
人斬りには二種類の人間がいる。
ひとつはバルトロメオのように人から命を奪うことでしか生の実感を味わうことのできないタイプである。この手合いは己の生を楽しむために人を殺さずにはいられない。
だが愉悦のために人を殺す男は例外なく品性そのものが劣化して、その劣化は隠しようもなく剣に表れる。
楽しむために振るわれる剣は、人を殺すためだけに振るわれる剣には決して及ばない。
人を殺すためだけに存在する殺人剣。
その真なる使い手こそが恐るべき同輩、上泉主水であった。
上泉主水―――剣聖にして新陰流の創始者上泉信綱の孫と伝えられる人物である。
父とともに後北条氏に仕えていたが、秀吉の小田原征伐で浪人し、関ヶ原の戦いの直前には上杉景勝に仕えた。
このとき時を同じくして仕官したものには車丹波や才道二、北爪大学など錚々たるメンバーが名を連ねているが、上泉主水は中でも別格の存在感を放っていた。
「人を斬らぬ剣になんの価値がありましょうや」
戦国の終わりとともに、人斬りの剣は活人剣の名のもとに、精神性を高めた武士の教養の一部と化していくが、左内の生きた時代はまだ剣が人斬りの道であった最後の時代であったと言ってよい。
これは刃筋というものが人を斬らずには決して理解することが不可能であったからである。
いかに竹刀や木刀で厳しい訓練をしようとも、刀が肉を斬り、骨を断つための刃筋だけは道場では学ぶことはできないのだ。
斬れば斬るほど刃筋は極まる。ならば人を斬る続けることこそわが人生。
そう言い切った上泉主水ほど哀しい天才を左内は知らない。
――――そんな哀しい本物の人斬りを知るからこそ、左内は目の前の卑しい人斬りを許しておくことが出来なかった。
『じゃらけるのもええ加減にしいや。ばっちゃないで?(ふざけるのもいい加減にしないと罰があたるぜ?)』
今の殺気を放ったのがこの少年だというのか?
バルトロメオは自分の目がいまだに信じられずにいた。
これまで無数の命のやりとりを経験してきたバルトロメオですら、同レベルの殺気を感じたことは一度もない。
もっともそれはバルトロメオが弱者や姦計によって本来の力を発揮できない敵ばかりを相手にしてきたからなのだが、バルトロメオにはバルドを強者として知覚することが出来なかったのだ。
「―――――その顔……マウリシアの人間だな。これはサンファンの内政問題だ。余計なことに首を突っ込むと火傷するぞ」
場合によっては国際問題になりかねないぞ、というバルトロメオの脅しは左内に一欠けらの感銘も与えなかった。
先に剣を振り上げておきながら自分から剣を納めて手打ちを狙うという選択肢は戦人にはない。
この後どんな問題が発生しようとそれはそれとして解決すべき問題であって、今こうして剣を向け合う戦いが否定される要因にはなりえないのだった。
『今やら逃ぐるんけ、あっぱくさ(今さら逃げようっていうのか、馬鹿らしい)』
不快そうに左内は吐き捨てる。
一国の王子を狙い、友を傷つけ、自分を手下に襲わせておきながらどうしてこの男は戦おうとしないのか。
逆にバルトロメオは左内が全く理解できない言語を話していることもさることながら、左内がほんのわずかな逡巡もなく生死を賭けた戦いを挑もうとしていることが何より恐ろしかった。
おそらくこの男はバルトロメオの仲間に囲まれ、圧倒的に不利な状況に陥っても眉ひとつ動かさずに戦うだろう。
まるで戦うことそのものが人生であるかのような左内にバルトロメオは正しく恐怖していた。
(逃げるか――――?いや、このままではそれもままならんか)
任務の失敗はそのままバルトロメオの破滅を意味している。
ぬかりなく保険を用意しているバルトロメオではあるが、このままフランコ王子派が勝利すれば結局のところ破滅は避けられないだろう。
出来ればなんとかしてフランコの命を奪って撤収したいが、そのためには左内を実力で排除する必要があった。
今左内に背を向けてフランコに躍りかかれば、さすがのバルトロメオも一撃のもとに斬り伏せられるに違いない。
ならば是が非でも倒さなくてならなかった。
これほどリスクを感じる戦いに身を投じるのは不本意だが、戦う以上勝利するだけの自信がバルトロメオにはある。
「死ね、小僧!」
バルトロメオは瞬時に四本ものナイフを投擲した。
そしてナイフを追うようにして小刀を両手に構えてバルドに向かい突進する。
四本のナイフと双剣による同時飽和攻撃――――いかなる達人にもこの攻撃すべてに対処することは不可能だ。
出来るとすれば精々無様に逃げることだけだが……態勢を崩した敵を追撃するために、バルトロメオの足にはすでに追加の投擲用の針が用意されていた。
もちろんすべてに毒が塗ってあるから、掠っただけでも死は免れない。
まず先手をとり、暗器の手数で圧倒するのがバルトロメオの戦闘スタイルだった。
一対一や集団対集団の訓練には定評のある騎士も、多対一の訓練は滅多に行わない。
想定される状況がひどく限定されているからだ。
だからこそ一対一の対人戦闘においてバルトロメオは絶大な自信を持っていたのだが……。
「何ぃっっ!!」
くだらない手妻だ、と言わんばかりに無造作に左内はナイフを正確にバルトロメオに向かって打ち返した。
相手を攻撃するはずの毒塗りのナイフに襲われることになったバルトロメオは見苦しいほどに慌てて必死でナイフを打ち落とすはめとなったのである。
荒い息とともに全身から冷や汗を噴き出してバルトロメオはまるで化け物でも見るような視線を左内へと向けた。
これほど正確にナイフを打ち返すということは、左内が相当の余裕をもってナイフの軌道を把握していたことを意味する。
そうであるとするならば、ナイフ以上の速度の攻撃手段をもたないバルトロメオはもはや自分が勝利すべき方法を見いだせなかった。
「馬鹿な!そんな馬鹿なことが!」
あまりにもあっけない敗北。
方程式通りに相手を追いつめることに特化していたバルトロメオの必勝法は、それを上回る理不尽によって蹂躙されたとき、もはやほかの手段を取ることを許さなかった。
―――――こんなはずではない。自分が奪われる側に回るなど断じて許容できるはずがない。
混乱の極みに達したバルトロメオは精神の均衡を崩して、わめきちらすように武の理もなく左内に向かって駆け出した。
まるで子供のようなその幼稚な反応に、興味を失ったように左内はバルトロメオの鎖骨を打ち砕いた。
よく考えてみれば見苦しくないこの手の小悪党など見たことがなかった。
「―――――ありがたい。僕に最後の見せ場を残してくれたね」
出血で顔色を蝋のように白くしながらも、不敵な微笑みを浮かべてテレサはバルトロメオの後頭部に剣の腹を叩きつけてその意識を刈り取った。
もう立っているのもやっとであろうに気力だけで放った一撃はバルトロメオを昏倒させるには十分すぎるものであった。
刺客を倒した安心感と虚脱感でがっくりと膝をつくテレサをフランコは慌てて抱きとめる。
身長では勝るフランコなのだが、テレサを心配そうに下から覗き込む様子は性別と年齢が逆転しているようにしか見えなかった。
命がけで大切なものを守り抜いた騎士。そして騎士の想いを受け止めながら守られざるを得なかった可憐な華。
二人が吸い寄せられるように口づけを交わしたのは必然であったのかもしれない。
「愛していますフランコ」
「私も――――あなたを愛していますテレサ」
互いに抱き合い想いを確かめあっているというのに、どこか釈然としないのは何故だろうと左内は首をひねる。
「一目見た時から運命を感じていました。貴方の中に美しい女神の心が宿っていることを確信して…………」
「私はもうこのまま心を偽って生きていくしかないのかと諦めていました……テレサと出会って私は初めて自分の心のままに生きる悦びを知ったのです!」
少女のように着飾り、花を愛で、甘い菓子に舌鼓を打ちたい。そして凛々しい殿方と恋に落ちて甘く危険な誘惑に身を任せる――――そんな妄想を何度思い描いてきたことだろう。
しかしそれは王族の一員として後代に血を残さなくてはならない義務の前には決して叶わぬ望みであった。
まして兄の死とともに王位を継ぐことを求められている自分は、死ぬまで心を偽って生きていかなければならないのだ、と一度は諦めたはずの夢だった。
―――――初めてテレサから熱い視線を向けられた時から、そんな自分の本性を見抜かれている予感がしていた。
そして王子としてではなく、まるで可憐な姫のように扱われてフランコの胸ははちきれんばかりに高鳴っていた。一瞬でも気を抜けば何もかも忘れてテレサの誘惑に身を委ねてしまいそうだった。
そのうえあれほど雄々しく、情熱的に庇護されて感激せぬものがどこにいるだろうか。
フランコは神の配剤を今こそ確信した。
そうでなくて今この場に自分を女として愛してくれる男の魂を持つ女性が存在する奇跡の説明がつかなかった。
ギャラリーがいるのも忘れ、貪欲に唇をむさぼり、舌をからめあう二人をなんと表現するべきだろうか。
その術をもたなかった左内の代わりに雅春がぽつりとこう一言呟いた。
『男の娘と女の漢かよ…………』
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