里山の人形師 coconooです。
こんにちは。
「音楽」つて何だろう?と、思うことがある。
ひとつのコードで、ひとつのメロディーで人は、感情を呼び起こされる。
そこに「匂い」や「味」を感じるように、その感情は経験によって複雑に豊かにはなるのだけれど、もともとの楽しいや悲しいといった、想起される感情の基盤は、生来のもののように感じます。
わたしの直感と仮説なんですが
(これも何処かで誰かが言ったことかも知れませんが…。)
今までまったく聞いたことのない「メロディー」、
それがJ・ポップであろうが、クラシックであろうが
わたしたちは「既に知っている」のではないか?
それは、遺伝子に組み込まれているとか、
メロディーは音符の組み合わせであり無限ではない、
と言う話ではなく
「メロディー」を、わたしたちの脳はその出だしの一音を、聞いた瞬間から、
時間的に先取りして予測しているんじゃないかなぁ。と思うことがあります。
わたしたちの脳は、瞬時にいままで聞いたメロディーや好きな曲の展開を思い浮かべ、先取りして「次の音」を想像している。
そして、優れた「メロディー」というのは、
先取りして思い浮かべた「メロディー」が、裏切られることなんじゃないか?
その落差に驚き、感情が大きく揺さぶられているんじゃないかしら…と。
たとえば「笑い」もそうだ。
なぜ人は笑うのか?
他の感情表現より説明が難しい「笑い」。
「可笑しいから」では、答えにならない。
生物学的にではなく、なにを「可笑しい」としているのか?
この問いも、いまの「メロディー」と一緒で
漫才とか見ていて、掛け合いや話しの展開が、
自分の「先取り」からズレる、ちょっとした逸脱や落差がある。
そのときに、人は笑うのではないかしら…。
そういうと、小説にかぎらず、文章はみんな(ブログも)そんな気がする。
大きな物語の展開に限らず、
次の一行、次の言葉に少しの意外性を見る時
人は夢中になって、のめりこんでゆく気がする。
しかし、いずれもその人にとって、
その、ちょっとした落差や、少しの意外性が
大きすぎると理解を超えてしまう。
話は変わりますが、
皆さんは、麦茶だと思ってめんつゆを飲んだこと、ありませんか?
わたしはあります。(笑)
あの、麦茶とは味が違う、まずいと思って吐き出してしまうのではなく
脳がブレーカーを落としたような衝撃。
人間というのは、五感を総動員して、前もってモノを認識しているんだそうです。
エトムント・フッサールやモーリス・メルロー=ポンティ、エマニュエル・レヴィナスを全然理解できないまま、読んでいました。
たぶん格好をつけたい、バーナード嬢なだけだったかと…。
(わかる人にはわかるはず。アニメもやってますね。)
ただそれは「現象学」の「いかなる先入観、形而上学的独断にも囚われずに存在者に接近する。」態度に近しい。(笑)
また、思い出しました。
これも全然違うハナシ。
昔、忘年会の幹事をやらされたとき
わたしは、あの浜ちゃんと伊東四郎の番組「お前は一流芸能人か?」をまねて
「お前は本物のビール通か?」というのをやりました。
もう、ご想像できたかと思うのですが
アサヒ スーパードライやキリン ラガー、サントリー モルツに発泡酒まで、それぞれ銘柄を隠して飲ませ、当てさせるというものです。
薀蓄を語るビール通ほど、見事に当たらない。
(本当に見事なほど…です。)
それだけ人間は案外いい加減です。
目隠しをしたり、鼻をつまむと、より当たらなくなります。
とても盛り上がりますので、今年の皆様の忘年会でもやってみてください。
何の話でしたっけ?
そうそう「先取り」の話。
あらかじめ「麦茶」だと判断して間違うと、人はそれがなにか?認識できない。
その落差に衝撃を受ける。
だいたい人は、「それ=人 モノ 価値 組織 イデオロギー等世の中のすべての事象」が何か?を前もって認識しようとしながら、したつもりになりながら、生きているような気がします。
「音楽」というのは、
自分の認識や予想といった先取りを、美しく裏切ってゆく、
自分が想像した音楽はそこになく、逸脱と落差の美しさが存在する、
「美しい音楽」はすべて、カタチのない「奇跡」のようだと思います。
本当は書こうと思っていた、どんな音楽が好きか?は
長くなったので、また別の機会に…。
今日も、来てくださって、ありがとうございます。
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