出羽桜的ハワイの歩き方


日本酒の歴史 in HAWAII

 南北アメリカ大陸での酒造りは、大きく二期に分けられる。第一期は太平洋戦争以前。日本人移民に伴う。第二期は戦後。日本の経済成長を反映する。今、アメリカの西海岸を中心に、カルフォルニア米を原料にして造られているのが第二期の酒である。
 さて、もう少し前史をさかのぼる。第一期の酒、つまり日本人移民に伴って造られた酒である。その第一号はホノルル日本酒醸造(後のホノルル酒造)の「宝正宗」だった。1908年(明治41年)のことである。 ハワイ移民の歴史は古い。ハワイ王国との政府間契約に基く「官約移民」が1885年(明治18年)にスタートしました。その後、「私約」「自由渡航」「呼び寄せ」と性格を少しずつ変えてながらつづいていき、1924年(大正13年)、移民が完全に禁止されるまでに合わせて約12万人がハワイに渡った。

「宝正宗」の名は現在も受け継がれている

 人が移動するとき、食文化も移動する。
 日本人移民も、新天地で現地の材料を生かして、自分たちがなじんだ日本食を再現しようと試みた。その結果、みそ、醤油といった基本的な調味料とともに、酒が造られるようになったことは、自然の流れだといっていい。
 そう、この太平洋の真ん中の島に確かに酒造会社があったのである。その名もホノルル酒造。1908年(明治41年)創業の海外では最古の酒造会社だった。1986年(昭和61年)、米国大手酒造メーカーに買収され、その名が消えるまでは。
 当時、ハワイには15万人以上の日本人移民がいた。サトウキビ畑で働く移民にとって、酒は疲れを癒す必需品だった。日本の港から積み出された酒は、1896年(明治29年)には850キロリットルにも達していた。しかし、関税はこの年にそれまでの6倍(二日分の稼ぎに相当)に引き上げられる。この3年前には、日本人に好意的だったハワイ王朝が転覆させられている。徐々に排日機運が起こっていた。関税は2年後に半分に下がったものの、輸入一升瓶の小売価格は2ドル前後という高値。こんなことなら、と現地生産のムードが高まった。
 しかし、スタートは散々だった。経験のない亜熱帯での酒造り。出荷した製品が腐ってしまう。返品の山。会社は窮地に陥る。追い詰められ頭にひらめくものがあった。「日本では厳寒期に酒を造る。同じようにやってみよう。つまり酒蔵全体を冷蔵庫にすればいい」冷房という画期的なアイデアによって問題は解決した。売上は急増した。
 上昇気流に乗ったと思ったら、時代の逆風で暗転する。そして余儀なく「休造」・・・。ホノルル酒造は、そんな不運に二度見舞われ、二度立ち直った。
 最初が1918年の禁酒法である。予期しない事態だった。しかし会社にとって思わぬ助け船になったのが冷房装置だった。製氷業に、活路を見出して15年生き伸びる。
 1933年、ルーズベルト大統領は禁酒法を廃止する。今度こそとの意気込みで、コンクリートの四季醸造蔵による増産体制を整えた。酒造業は黄金時代を迎えた。
 そこへ突然の戦火である。真珠湾を戦火が包む。「主食の節約」のために、酒造は禁止される。また製氷と醤油醸造で細々と食いつなぐ。
 酒造が再会されたのは1947年。戦後は、日本から招いた技術者二瓶孝夫さん(故人)が酒質を立て直す。研究熱心だった二瓶さんの手で「内地に負けない酒」の評価も受け、蔵は三たび活気を取り戻した。
 ホノルル酒造は日本にも刺激を与えた。「泡なし酵母」のことである。1961年にホノルル酒造で見つかった酵母には、発酵中に泡をほとんど出さないという驚くべき特徴があった。従来の酵母は、発酵が進むにつれ、タンクの中でシャボン状の泡を大量に発生させる。この泡のために、タンクの効率も、作業能率も落ちていた。泡なし酵母は、今や全国で使われている。四季醸造もその後、大手メーカーが取り入れた。他にも、麹作りのプロセスを工夫して夜勤をなくし8時間労働を実現したこと、木おけに代えて、パイナップル工場で使っていたステンレスタンクを採用したこと。遠く離れたハワイで開発された新しい手法が、その後日本に逆輸入されたことはあまりしられていない。
 ホノルル酒造の転機は1980年代後半に訪れた。1940年代からだましだまし使っていた設備も、いよいよ古くなる。労働事情も悪化した。労働生産性が低い製造業はバブル時代のころからハワイでは立ち行かなくなった。そんな折に持ち込まれたのが、米国大手酒造メーカーからの買収話だ。
 ホノルルでの仕込みは、買収後もしばらく続いた。しかし、二瓶氏が去り、有能な技術者も去っていった。コスト、設備の問題も解決できず、6年後の1992年、最終的に醸造は打ち切られる。
 1994年、がんのため68歳で亡くなった二瓶孝夫さん。元ホノルル酒造副社長、というより根っからの技術者で、海外日本酒のレベルアップに貢献した人だ。国税庁醸造試験所の職員だった。請われて1954年(昭和29年)にハワイに渡る。まずカルフォルニア米の研究から始め、その特徴に合わせた発酵プロセスを考えた。二年の滞在で見違えるように酒質が上がった。
 帰国して三年目。「酒が腐る。助けてくれ」という要請でUターン。火落ち菌にやられた酒の手当てをした後、帰りそびれて腰を据えることになった。孤軍奮闘しながら、実験的に切り開いた製造、労務ノウハウ。それは後にブラジルやアメリカの日本酒酒造メーカーにも生かされている。
「一途な性格で、酒造りに一生を賭けた人。主人の造った酒をみんなで喜んでくれたし、本当においしかった」と二瓶美佐代夫人は振り返える。

 上記は「海のかなたに蔵元があった」(著者 石田信夫、発行所 時事通信社)より抜粋したものである。

 

(後記)
 弊社の故仲野清次郎(三代目社長)も故二瓶孝夫さんと同じ時代一緒に国税庁醸造試験所で日本酒の技術向上のために日夜研究に勤しんでいた。そのような時代背景もあり、今日弊社の日本酒がハワイを拠点としてアメリカ合衆国へ輸出しているのは何かの縁かもしれない。日本酒に対する熱い情熱と友情が世界をひとつに結んだのかもしれない。
 「21世紀になるとますます国際化が進み、国際化が進めば進むほど、自分の国の文化を知ることは重要になる。世界の国から尊敬され、活力のある日本となるためには、日本酒の美味しさを正しく認識し、正しく語れる日本人が増えることも重要なことではないか。」と東京大学大学院農学生命科学研究科の北本勝ひこ教授は言う。なお、弊社四代目社長仲野益美は同大学で非常勤講師(醗酵醸造学)を拝命している。
 我が国の文化的要素を代表する日本酒の良さを世界中の人々に広く理解していただき、その普及を通じて日本酒というすばらしい文化を世界に啓蒙していきたいと弊社では思っている。 


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