正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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1894年(明治27年)7月25日、日清戦争勃発

朝鮮では甲申政変の後、開国派の金玉均らは日本に亡命したが、
朝鮮政府は刺客を日本に送り込んだ。

そして、1894年(明治17年)、金玉均は甘い言葉に誘われて上海に向かい、
そこで朝鮮人のテロリストに殺されてしまった。
清国は朝鮮王に祝電を送り、金玉均の遺体を軍艦で朝鮮に送り届けた。

朝鮮政府は遺体の首と両手両足を切り取り、全朝鮮にさらした。
金の父親は処刑され、弟は獄死し、母親は悲しみのあまり自殺した。
このような清国や朝鮮の態度に日本の国論は沸騰した。

そうしたとき、「李朝打倒・外国排斥」を掲げる新興宗教・東学党を中心に、
農民たちが朝鮮各地で反乱を起こした(東学党の乱)。
これはもともと農民の小作人騒動みたいなものだった。
そこに朝鮮の政争、さらに公使となって朝鮮にいた清国の袁世凱が
絡んだことから問題が大きくなった。

朝鮮に対するロシアの影響力拡大を快く思わなかった袁世凱は、
軍事力を持ってロシア勢力を抑えようと考えたのだろう。

東学党の乱を鎮圧するために清国は軍隊を出動させた。
日本と清国とで甲申政変の後に結んだ天津条約の規約どおり
清国は日本に出兵を通知したのだが、
そこには「属国を保護するため出兵」ということが書かれていた。

外務大臣・陸奥宗光は
「朝鮮が清国の属国であることを認めるわけにはいかない」として、
日本政府は条約に従って出兵を決意。朝鮮に兵を送り戦争となった。

清国は、壬午政変、甲申政変と二度にわたって朝鮮の内政問題に軍事介入し、
ことごとく日朝の関係を踏みにじってきた。
清国との戦争に日本が踏み切ったのは、当然の選択だった。

この戦争は、「朝鮮は独立国」と主張する日本と、
「朝鮮は清の属国」だと主張する清国の争いだった。
つまり日本にとっては「朝鮮独立支援戦争」だった。
そのことは両者の宣戦布告文の主張を見比べれば明らかである。

◆両国の宣戦布告文の主張

■日本
朝鮮はわが国が誘って列国に加わらせた独立の一国であるのに、
清国は常に朝鮮を自分の属国といって内政に干渉し続けている。

■清国
朝鮮はわが大清国の藩属たること二百年、毎年朝貢している国である。

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これほど決定的な相違があるにもかかわらず、
教科書などでこのことを指摘しているものは皆無に等しい。
日本が一方的に悪いと思わせたいからである。

日本にしてみればずいぶん我慢した戦争だったが、
実際に開戦すると最初の陸戦「成歓の戦い」で清国は簡単に負けてしまった。

以後、日本陸軍は人数だけはやたらと多い清国軍を撃破し続けた。
海軍も圧勝だった。

日本の世論は、挙げて、この日清戦争を
「朝鮮の独立を助ける義戦」と評価した。

福沢諭吉は、恩人・木村芥舟の長男に
「たとえ討ち死にしようとも、ご両親のことは心配なさるな」
と手紙を書いた。
クリスチャン内村鑑三も
「朝鮮を保護国化しようとするシナを挫くために、日本は戦うのだ」
と、世界に伝えようと英文で「日清戦争の義」という文書を発表した。

福沢諭吉、クリスチャンで非戦論者の内村鑑三などの知識層も賛同した。
世間からすると、それまでの日本国政府は、
清国に対してあまりに弱腰だった。

東学党の乱の8年前、清国が4隻もの軍艦を長崎に送って日本を威圧したうえ、
酒に寄った水兵が日本人に暴行を働くという事件(長崎清国水兵事件)
が起きたが、そのときですら日本政府は話し合いで解決しようとしたのだ。

この戦争における特筆すべき点は国際法と捕虜の問題であった。
日本は、国際法を遵守して戦争を行った。支那(清国)は
無差別撃沈を命じたり、清国在住の日本人を殺害したり、
野蛮なことをやり続けた。
その場合には復讐する権利が国際法で認められているが、
日本は復讐をしなかった。

軍規厳しい日本軍にとって初めての対外戦で
経験する支那人の蛮行は衝撃的であった。
日清戦争であまりに支那が残虐で野蛮だったため、
第一軍司令官の山県有朋は「捕虜になるな」という布告を出した。
日本人が捕虜になると、あらゆる残虐な方法で
苦しめられたうえに殺されたからである。

支那人は日本人の手や足を切り、首を切り、睾丸を抜いたり、
男根を切り取り、胸部を割って石を詰めるなどした。
このため山県は「敵の生捕りする所となるべからず、むしろ潔く一死を遂げ、
以って日本男子の名誉を全うすべし」と言わざるを得なかった。
「生きて虜囚の辱めを受けず」とは
単に死ぬまで戦えという意味だけではないのである。

旅順口事件も捕虜になった日本兵が虐殺された事件である。
旅順口では負けた清国の兵隊が民間人の着物を剥ぎ取って着ていたから、
死体はいかにも民衆が殺されたように見え、
日本軍が虐殺したと騒いだ新聞があった。

現在の支那政府(中華人民共和国)の教科書の記述
1894年7月25日、日本海軍が豊島付近で清国の輸送船を突然襲撃し、
商船一艘を沈め、1000人近い清国の兵士が死んだ、と書いている。

また、9月17日、清国の北洋艦隊がアメリカの国旗を掲げた艦隊と遭遇し、
その艦隊は近づいてくると突然日本国旗に代えて攻撃してきた、
と書いている。
日清戦争では、
観戦武官など交戦国以外の国の人が戦場に出て見ているから、
嘘をついたらすぐにばれるのだが、
支那の教科書にはそんなことはお構いなく真っ赤な嘘を載せている。

高陞号(こうしょうごう)事件は、
1894年(明治27年)7月、日本軍艦浪速(艦長:東郷平八郎)が、
清国兵1200人と大砲、弾薬を載せた運送船高陞号を撃沈した戦闘である。

浪速が遭遇したとき、高陞号はイギリスの国旗を掲げていた。
これは戦時国際法違反である。
(中立国の船で戦闘国の兵員や武器を運んではいけない)
東郷は自分の船についてくるよう高陞号に命じた。

しかし、清国の兵隊がイギリス人の船長を脅迫して拒否させたために、
東郷は船から去れという危険・退艦信号を発したのち、攻撃して沈めた。
イギリス船を沈めたことから、イギリスの対日感情が一時悪化したが、
専門家が「ロンドン・タイムズ」に
「東郷の措置は戦時国際法に照らして適法」と書いて
反日世論は立ち消えとなった。

1894年(明治27年)7月25日、豊島沖海戦で最初の火蓋が切られたが、
この海戦は宣戦布告が出る前に起こった海戦である。
日本の軍艦吉野、秋津洲、浪速が清国の軍艦2そうとすれ違った。

日本の軍艦は礼砲交換の用意を整えるが、
清国の軍艦は礼砲ではなく戦闘準備をしていた。
これを見た日本側は戦端が既に開かれたと判断し、
広い海域に出て対峙した。
すると、敵が発砲してきたので応戦し、清国軍艦は敗走した。

続いて、世界最初の汽走監隊の海戦とされた黄海海戦でも勝ち、
14そうの日本艦隊が18そうの北洋艦隊と戦い、
清が世界に誇っていた北洋艦隊が五隻を失い、
さらに日本艦隊は威海衛に逃げ込んだ残存艦隊を攻撃し
北洋艦隊を壊滅させた。

このときに日本艦隊がアメリカ国旗を掲げていた事実はない。
そんなことをしたらアメリカから強い抗議があっただろうし、
観戦武官全員がそれぞれ本国に報告したはずだ。
呆れるような想像力で日本をおとしめる話をでっち上げ、
それを教科書に載せて教えているのが支那政府(中華人民共和国)である。

陸地では成歓駅、平常の戦などで日本軍は連戦連勝。
1894年末には、旅順、大連をはじめ遼東半島全域を占領し、
日清戦争は日本の大勝利で終わった。

1895年(明治28年)4月17日、戦後処理の講和条約、下関条約が結ばれた。

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『日清戦役国際法論』 有賀長雄著 東京偕行社 1911年
(パリにてフランス語で刊行後、後に本人の手で、日本で翻訳出版)

この本への「寄せ書き」
フランスの国際法学者ポール・フォーシーユ (日清戦争を観戦)

日本は独り内部の法制に於いて世界最文明国の班列に達したるに非ず。
国際法の範囲に於いても亦同然たり。
経験は日本政府が能く其の採択する所の
文明の原則を実行するに堪うるを表示せり。
すなわち日本は清国に対する一八九四年の戦争に於いてこの事を証明したり。
この戦役に於いて日本は敵の万国公法を
無視せしに拘らず自ら之を尊敬したり。
日本の軍隊は至仁至愛の思想を体し、常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、
敵の病傷者を見ては未だかつて救護を拒まざりき。
日本は尚未だ一八六八年十二月十一日のセントピータスブルグ宣言に
加盟せずと雖も、無用の苦痛を醸すべき兵器を使用することを避け、
又敢えて敵抗せざる住民の身体財産を保護することに頗る注意を加えたり。
日本はいずれの他の国民も未だかつて為さざる所を為せり。
其の仁愛主義を行うに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民の租税を免じ、
無代価にて之を給養するに至れり。
兵馬倉皇の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、
凡そ生霊を救助するの策は挙げて行わざるなし。
見るべし日本軍隊の通過する所必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを。

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『大東亜共栄圏の精神』 黄文雄 光文社 1995年 173~174頁

日本軍上陸後の二週間の実録については『淡水新政記』という報告書がある。
同報告書を記した福島安正大将は、
かつて陸軍少佐としてドイツ公使館附武官になったことがある。
彼は帰任にあたり、ベルリンからウラジオストクまで
一万六千キロを四百日かけて、単騎で突破し、世界の話題にもなっている。
後に男爵、陸軍大将にまでなった福島安正は、明治二十八年五月に、
大佐として陸軍省から台湾受領に派遣されたのだった。
同報告書によると、敗走した清軍兵士は、
一人につき二円五銭と米二石をもたせて、淡水から船で送り出したとか、
地方の村長を集めて日本の政策を説明し、日当として一人三円渡すと、
みな躍り上がって喜んだとか、当時の台湾接収について克明に書いている。
そういう思いやりの行政は中国社会には絶対、ありえないことだ。
日本は台湾を領有した時期、二年間の猶予期間をもって、
台湾の島民に国籍選択の自由を与えたが、
このようなことも考えられないことだった。

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my日本・佐藤卓
http://sns.mynippon.jp/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c_diary_id=392945

『明治二十七年戦役』

一般的に「日清戦争」の名で知られるこの戦役。
明治27年の8月1日、明治天皇によって清国ニ對スル宣戦ノ詔勅が発せられた。

ちなみに同日、清国の11代皇帝光緒帝(愛新覚羅載活)も
日本に対する宣戦の詔勅
(朝鮮為我大清藩屏二百餘年,歳修職貢,為中外共知~)
を出して宣戦布告している。

既に白人の半植民地で自衛できてない清朝支那が
中華思想冊封体制に基づいて朝鮮を属国にしてることが
日本からしたら脅威でしかなかった。

朝鮮では開化派と守旧派の間で内乱が多発し、
そのたびに日清はにらみ合いをすることに。

済物浦条約で日本は朝鮮に駐軍していた。
東学党が扇動した内乱で朝鮮王国は宗主国に援軍要請、
日本は邦人保護のため両国天津条約に基づいて派兵。

鎮圧の後両軍撤兵せず。
日本は朝鮮内乱多発問題について清と共同で朝鮮改革を提案したが清は拒否。
清は「日本のみの撤兵」の姿勢崩さず。
ロシアも日本軍撤兵要求。

このままだと清軍に制圧されてしまうと危惧した開化派は日本に援助を要請。
高宗は開化派の意向に従う。
開化派は日本軍の協力を得て政権掌握。
新政権(金弘集)は日本に清軍掃討を依頼。
これに基づいて日本は清軍を攻撃。
日清戦争開戦に至る。

これだけ見ると高宗は良さそうな人に見えるが
戦後の反開化派によるクーデターとロシアの圧力に屈し、
ロシア公使館に逃げて朝鮮のロシア属国化をして日本を苦しめることになる。

ちなみに歴史上唯一東京以外で行われた国会が、
この戦役中の第7回帝国議会である。

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日清戦争勃発
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清国軍の暴状
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1894年(明治27年)11月21~22日、いわゆる「旅順虐殺事件」
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日清戦争の意義を理解しない韓国
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三国干渉
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三国干渉の2年後、西洋列強によるあからさまな清国の利権争奪が始まった。
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2010/02/04 06:00|年表リンク用資料
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