正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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清国軍の暴状

◆一方的に国際法を守った日本

日清戦争は、戦争に於ける国際法に対する両国の態度の相違を
際立たせた点で、注目すべきものがある。

我が国は関国維新以来、西欧にならって国内法の近代化に努めた結果、
条約改正も進捗し、
明治27年7月、日清開戦直前に、先づ英国との間で治外法権撤廃に成功した。

だが我が国は国内法のみならず、国際法にも多大の関心を示し、
早くも明治10年西南戦争の折には、ヨーロッパの赤十字を範として、
敵味方の区別なく傷病兵を救護するため博愛社を設立した。

これが後に明治19年6月、赤十字条約に加盟すると共に
日本赤十字社となったのであるが、これについては、
国際社会の仲間入りをする以上、速やかに赤十字条約に加盟しておくように
との明治天皇の思し召しがあったのである。

赤十字条約は正式には
「戦時に於ける傷病兵の救護に関するジュネーブ条約」と謂ふ。
これに加盟した翌明治20年4月、陸軍大臣犬山巌は赤十字条約の註釈を
軍隊に配布して熟読すべきことを命じており、当時の我が陸軍の遵法努力の
一端を見るべきであろう。

なお赤十字加盟と同じ19年10月、我が国は海上国際法に関する
パリ宣言にも加入した。

このやうにすでに日清戦争以前、我が国は国際的な法社会に積極的に
参加しつつあったのであり、この面からも日清戦争は日本が国際法規尊重の
精神を世界に示し、国際信用を高めるべき重大契機でもあった。

であればこそ明治天皇は清国に対する宣戦の詔勅の中で
「いやしくも国際法にもとらざる限り」 一切の手段を尽すべしと仰せられ、
国際法尊重を強く将兵に求められたのである。

天皇の御心は見事なまでに遵奉された。
高陞号事件で我が海軍の戦時国際法厳守の精神が
広く海外で認められたことはすでに述べた。

ところで、国際法の遵守を主張するのは普通、弱国か戦敗国で、
強国や戦勝国は国際法を平然と無視するのが通例だ。

終戦時ソ連の日中立条約侵犯や、
満洲・樺太での日本人に対する暴虐行為の数々は
強者の横暴の典型と云へよう。

しかしながら、日清戦争に於ける我が国は違ってゐた。
日本は終始、圧倒的な戦勝者でありながら国際法を忠実に守ったのであり、
そのことはフランスの国際法学者フォーシーユの
「事実は、日本政府がその採択せる文明の原則を
実行するに堪へることを示した。
日本は日清戦争で敵が国際法の原則を無視したにも拘らず、
自らはこれを尊重した」
といふ絶賛の言葉が雄弁に物語ってくれる。

日清戦争当時、清国は赤十字条約にもパリ宣言にも加盟して居らず、
一切の日本船舶に対して無差別撃沈を命じたり、
日本将兵の首に懸賞金を出したり、
また清国在留の一般邦人を殺害するなど、その行為は野蛮を極めた。

国際法は、交戦国の一方が国際法を無視する時は、
他方に報復する権利を認めてゐる。
だが我が国は敢へて清国に対して報復の権利を行使せず、

例へば開戦直後の8月4日、
勅命を以て在日清国人の身体、財産の保護を命じた。

また愛国心の高揚から、日本各地に義勇兵の志願者が続出したが、
明治天皇は特に詔勅を下され、彼等の愛国の至情は認められた上で
「国に常制あり、民に常業あり・・・
義勇兵の如きは現今その必要なきを認む」
として国民のはやる気持を戒められた。

後に中国が便衣兵といふ国際法違反の無資格交戦者を以て
我が将兵を襲撃したのと比べてみるがよい。

我が国はこの他、私掠、暴行を禁じ、
赤十字精神で傷病兵や俘虜を厚遇する等、
国際法と文明の慣行を尊重実践した事例は枚挙に逞なく、
国際法の第一人者であった有賀長雄博士はこれを評して
「日清戦争の最も重要な特質は、交戦国の一方は戦争の法規慣例を遵守
しなかったにも拘らず、他方はこれを厳守せんと努めたことだ」
とまで論じたが、これは前記フォーシーユの言と見事に合致してゐる。
手前味噌のやうだが、かつての日本の一面を知ってもらふために書いておく。

◆近代残虐史の始り

旧日本車の中国に於ける“残虐”が虚実取り混ぜ、
針小棒大に一部の新聞や反日学者、ジャーナリストによって
喧伝されてきたことは今更申す迄もない。

しかも、中国軍民は、終始、日本軍の蛮行の“被害者”であったと云ふ。
これは神話に過ぎない、と筆者は主張し続けてきた。

この神話のヴェールを一枚づつ剥がしてゆくのが、
本書の一つの狙ひでもあるのだが、
先づ日清戦争をめぐって最初のヴェールを剥ぎ取ることにしよう。

周知のことだが、中国の歴史は古来虐殺の事例にこと欠かない。
処刑は悉く惨殺と云ってよい。

この中国伝統の嗜虐行為を、近代に入って日本人が初めてつぶさに
知ったのは日清戦争に於てであった。

中国側の行為を語る前に、明治28年2月22日付報知新聞に掲載された
フランスのフィガロ紙記者カレスコーと
イリュストラシオン紙記者ラロー両名の従軍記を紹介する。

両名は日本軍の行動を観察するために従軍したのであるが
「大日本帝国軍隊が世界に対して誇るに足る名誉を有する」
ことを観察し報道することを愉快に思ふ、と先づ書き出してゐる。

そして日本軍の栄城湾(山東半島)上陸が「毫末の乱るるなくして」
整然と行なはれたことに感心したと述べた後、
上陸した村外れの某家に「産婦あり。人るべからず」
との掲示がでてゐるのを発見して、
「予想もしなかったこと」であると驚嘆してゐる。

この他、我が軍の敵に対する慈愛の実例をいくつか挙げた後
「余等は日本帝国の如き慈愛心に富める民あるを、
この広大なる地球上に発見し得るかを怪しむなり」とまで称賛し、
続いて中国軍についてはこう書く。
「ひるがへって清軍を見よ。日本軍卒の一度彼等の手に落つるや、
あらゆる残虐の刑罰を以てこれを苦しむるにあらずや。
或は手足を断ち、或は首を切り、睾を抜く。
その無情、実に野蛮人にあらざればよくすべきの業にあらず。
しかして日本はこれあるに拘らず暴に酬ゆるに徳を以てす。
流石に東洋君子国たるに愧ぢずと云ふべし」と―――。

中国側の軍紀は乱れに乱れた。
牙山で我が軍に敗れて平壌に退いた清軍は、
朝鮮人に対して掠奪、強姦、虐殺を欲しいままにし、
清軍の行く所、人民は悉く町や村を捨てて逃避する有様で、
流石の李鴻章も「髪、天を指す」と打電するほど激怒した。

明治27年9月、平壌での敗退を李鴻章が清廷に報告した上奏文によれば、
清軍は日本軍の首を取った者には銀30両の懸賞金までかけてゐたため、
「兵は協力血戦し、生捕り及び首を取れる者200余名、
銃殺者は数計り知れずしとある(王芸生『日支外交六十年史』第二巻)。

賞金をかけて兵を戦はせ、兵また賞金目あてに敵の首級を求める―――
これを支那では古来「殺良冒功」(良民を殺して賞金をむさぼる)
と云ったが、これはもはや近代戦ではない。文明以前の部族間の血闘である。

同じく27年11月18日、旅順北方の土城子に斥候に出た我が将兵11名が、
中国軍に虐殺された様を現認した秋山好古騎兵大隊の
稲垣副官が書いた手紙には
「敵は我軍の屍に向って実に畏怖べからざる恥辱を与へたり。
死者の首を斬り、面皮を剥ぎとり、或は男根を切りとり、
胸部を割きて入るるに石を以てす。この様を見て誰か驚かざらん」
とある。

いづれ詳述するが、稲垣副官の手紙にあるやうな凄惨なまでの殺害方法は、
これ以後、大東亜戦争に至る迄、
無数の日本人に対して実行されたのである。

もう一例を挙げる。
明治28年1月30日、我が軍が威海衛の趙北嘴砲台を抜き、
敵が逃走した後の兵営に人ってみると、藁包みがぶら下げであった。
開いてみると日本人の首級が七つ人って居り、いづれも鈍刀で斬ったらしく、
五、六刀から十数刀を加へたことが斬り口から分かった。
首級は両耳を穿って紐を通し、
或は魚を串刺しにしたやうに口から喉に紐を通し、待ち運び易くしてあった。
これは前日、斥候に出た第六師団歩兵第13連隊所属の
7名の将兵であることが判明した(長谷川伸『日本捕虜志』上。

中国軍隊の余りに残忍な戦闘方法の結果、明治27年9月、
京城に入った山県有朋・第1軍司令官は次の如き布告を
麾下将兵に出さねばならなかった。

「(敵に対しては)軍人といへども降る者は殺すべからず。
然れどもその詐術にかかる勿れ。
かつ敵国は古(いにしえ)より極めて残忍の性を有せり。
誤って生捕りに遇はば、必ず酷虐にして死にまさる苦痛を受け、
遂には野蛮惨毒の所為を以て身命を殺害せらるるは必然なり。
故に決して敵の生捕りする所となるべからず。
むしろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の名誉を全うすべし」

これこそ、捕虜となることを禁じた我が国最初の訓令である。
以後、大車亜戦争終結に至るまで、戦場の日本人は
この精神に殉ずることになる。

中国軍の暴虐が、軍紀森厳な日本軍にいかに深甚な衝撃を与へたかが
分かるだろう。
我が軍をして「生きて虜囚の辱めを受けず」
の悲壮な決意をなさしめた中国軍の蛮行―――
実に建軍以来、最初の本格的な対外戦争で我が軍が経験したものは、
大陸民族のかくの如き惨鼻残虐の行為なのであった。
(註)所謂「旅順口事件」 残虐行為に関して一言すべからざるは、
明治27年11月20日、我が軍が旅順を攻略した際、
多数の支那市民を虐殺したとの誇大報道が世界を走ったことである。
日本軍の“蛮行”については、その後、いわゆる“南京大虐殺”を頂点として
幾多の誇大歪曲報道がばらまかれたが、
これはその第1号として興味深いものがある。

誇大報道をしたのは米国の『ワールド』紙で、
「日本軍は旅順陥落の翌日から四日間、非戦闘員、婦女子、幼児など
約6万人を殺害し、殺戮を免かれた清国人は
旅順全市でわづか36人に過ぎない」と報じた(道村道生『日清戦争』)。

しかし各紙の報道はまちまちで、例へば
英紙『タイムズ』は「日本軍は無差別に200名の中国人を虐殺した」
と書いたが、これに対して同じく英紙『セントラル・ニュース』は
「公正な戦闘以外では1人の中国人も殺されてゐない」と反論してゐる。

またフランス紙は「日本軍は、味方の捕虜が支那兵に四肢を斬り分けられる
などして虐殺されたのを見たために支那兵を皆殺しにしたのだしと書き、
残虐行為は日清双方にあったとした。

オーストリアの各紙も残虐行為は日清共にありと報じた。

ドイツの諸新聞は、日本軍に行過ぎはあったものの、
正当な理由によるものであるとした。

以上は、外務省『日本外交文書』第27巻第2冊に収録されてゐる、
事件をめぐる各国の新聞報道についての駐在公使の報告である。

これらを見ると、『ワールド』紙の「6万人虐殺」の報道の
異常さが分かるであらう。
当時、旅順市街の広さは約0.24平方キロ。
このような狭小な街に6万人が居住できるであらうか。
これだと1平方キロ当りの人口密度は25万人といふ途方もない数字になる。

因に昭和60年、東京23区の人口密度が1平方キロ当り1万4千弱であったことと
比べれば、25万といふ数字の異常さが分かるであらう。
後年、旅順に新市街が出来た後も、新旧両市街合せて在住の満洲人は
1万4、5千に過ぎなかったことを思へば、
日清戦争当時、旧市街に6万人以上の清国人が在住してゐたとは
荒唐無稽も極まったものと云ふ他ない。

このやうなワールド紙の明らかな誇大報道を、
前記『日清戦争』の著者が批判もせずに紹介し、あたかも“6万人虐殺”を
事実の如く扱ってゐるのも甚だ不可解と云はざるを得ない。
読者にこの数字を信ぜよと云ふのであらうか。

今日の中国では“6万人”が“2万人”に修正されてゐるとも聞くが、
誇大であることに変りはない。

では事実はどうか。
我が軍の法律顧問として従軍し、陥落時の旅順市街に自ら入った国際法学者の
有賀長雄博士は、事件を次の如く批評する(『日清戦役国際法論』)。

我が軍が旅順市内に進入した際、戦闘者と非戦闘者を区別せず襲撃したのは
大山第2軍司令官も承認する事実ではあるが、
これには次の如き十分の理由がある。

1.旅順は通商のために自然に発達した市邑ではなく、
軍事目的で建設された港町であり、住民といへども従軍の非戦闘者であって、
交戦時には襲撃の対象になることも止むを得ない場合がある。

2.敵の敗残兵は民家の中から銃撃してきたため、
我が軍が非戦闘者の居る家屋に向って襲撃したのには十分な理由がある。

3.敗残兵は民家に遁入して便衣に着換へた者も多く、
従って兵士と非戦闘者を弁別することが困難であった。

このやうに博士は、我が軍が兵士と非戦闘者を区別なく攻撃したことには
十分な道理があるとした上で、旅順に於て激しい市街戦を行なふ必要が
あったかどうかを問題としてゐる。

しかし、この必要の有無は法律上の問題ではなく、
戦術上の問題であるとして博士は断言することを控へて居るのだ。
更に、強姦を行なったとか、婦女幼児まで殺害したとかの非難に対しては
「事実にあらざること」として取り上げもしてゐない。
博士は「婦女幼児の犠牲は極めて少なく・・・・・
女子は水中に一人及び途上に一人ありしのみ、
いづれも男子の群集に混りて倒れをれり」と明記してゐる(前掲書)。

旅順口事件に関して有賀博士は、
清国は全く戦争法規を遵守しないのであるから、
厳密に云へば、日本も清国に対して全く戦争法規を遵守する必要はなく、
従って「旅順口事件に対し如何なる責を負ぶべき必要もなし」と論じた上で、
しかしながら日本は清国の行動いかんに拘らず、
自ら進んで戦争法規を遵守する決心をしたのであるから
「少なくともその決心に対しては責を負ふべきものなり」と結論する。
これが、博士が旅順口事件を遺憾とする理由なのである。

次にワールド紙の誇大報道による誤解を解くため、
我が外務省が各国駐在公使宛てに送った弁明書(原文英文)
の骨子を紹介しよう。

1.旅順で多分必要以上の血が流されたことは確かであるが、
外国紙、就中、ワールド紙特派員の報道は誇大かつ煽情的である。

2.旅順陥落時、清国兵は軍服を脱いで便衣に着換へ、
一般市民に変装して秘かに武器を携へ民家に入り込み、我が軍に抵抗した。

3.旅順に残ってゐた市民は武器をとって戦ふやう命令された。
だが、戦闘で殺された市民の大部分は実は市民に変装した兵士、
即ち便衣兵であった。
それは遺体検死の結果、彼等が平服の下に軍服を着てゐたことで証明された。

4.ある外国特派員によれば、殺された者の多くが刀傷を負ってゐるので、
銃撃で殺された場合よりも、残酷の観を与へたとのことである。

5.日本兵は、清国側の捕虜になった味方の兵が、四肢を斬り分けられ、
生きながら火焙りにされたり、磔にされたのを目撃して激昂したが、
軍紀を維持した。

6.抵抗せずに投降した者は虐待されることなく、
現に旅順陥落時に捕虜となった355人の清国人は日本側の厚遇を受け、
東京に護送中である。

更に旅順攻略後、同地行政庁の行政官になった鄭永昌の報告書によれば、
日本軍の花園口上陸(10月24日)を聞くや、
旅順道台(市長)は忽ち恐怖の念を起し、
ひそかに家族と共に芝罘へ退去したため、人心は大いに乱れ、
市民はみな財産家族を取りまとめて陸続芝罘へ遁れ、
又は近村に移転する者数を知らず、とある。

更に「支那兵が旅順に駐屯するや、欲しいままに民家に乱入し、
家具を破壊し、財産を掠奪せしもの少なからず、
故に日本軍の進撃せし時は旅順市街すでに空虚なり云々」と、
旅順攻略前後の状況を述べてゐる。

一体、どこから6万人あるいは2万人といった数字が出てくるのであらうか。
市街に残留して我が軍に抵抗した一部の非戦闘者に犠牲者が出たことは、
事実であらう。
だがそれは「戦闘による落命」即ち「戦死」であって
「虐殺」されたのとは違ふ。

虐殺とは文字通り「残虐な殺害」、
或は精々「理由なき大量殺害」の意味である。
それ故にこそ、敵の非戦闘者に犠牲の出たことを遺憾とした有賀博士も、
前出『日清戦役国際法論』の中でこの事件を
「虐殺」事件とは書いてゐないのだ。
要するに旅順に於て戦闘が行なはれ、
戦死者は出たが、「虐殺」はなかったのである。

なおこれに関連して付言すべきは、10年後の日露戦争に於て、
我が国は敵の非戦闘員に再び犠牲を出すことなきよう配慮した一事である。
即ち明治37年8月、我が第3軍は旅順市街を去る1、2里の所まで進み、
敵を完全に基本防禦線内に包囲したが、
この時明治天皇は、要塞内の敵の非戦闘員に兵火の惨害を免れさせたいとの
御意向を乃木軍司令官にお伝へになった。

そこで乃木大将は8月16日、山岡熊治砲兵少佐を軍使として
旅順の敵軍に遣はし、聯合艦隊司令長官・東郷平八郎大将と連署の書面を
敵の司令官ステッセルに送って聖旨を伝へ、かつ開城を勧告した。
だが翌日敵が軍使を通じて我が勧告を拒絶してきたため、
我が軍は旅順総攻撃に踏切ったのである。

我が国は我が国なりに旅順口事件を遺憾とし、その再発を未然に防ぐべく、
日露戦争ではこれだけの誠意と配慮を尽したのであり、
これこそ我が国の公正誠実の一つの証しとして
歴史に留めて然るべきではなからうか。

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『大東亜戦争への道』 中村 粲(あきら)著 (展転社)より抜粋

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ベルギーは歴史的にも現在も大変な親日国家です。
日清戦争で、アメリカが「日本軍が旅順で6万人を大虐殺した」
とプロパガンダ報道をした際、べルギー公使
アルベール・ダネタン男爵は調査をして否定してくれた経緯があります。

国際派日本人養成講座 H11.11.13 Japan On the Globe(113)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog113.html
地球史探訪:日本・ベルギー交流史 ~埋もれた国際交流史を掘り起こす~

■3.虐殺事件の嘘を暴いたべルギー公使■

そもそもべルギーと日本との本格的な交流は、
1866年の日本国白耳義国修好通商及び航海条約の調印に始まるが、
とりわけ明治26年から43年のあいだ日本公使を務めた
アルべール・ダネタンが、
敢然として明治日本の名誉を守った史実も特筆にあたいするものである。 

例えば日清戦争での日本軍による旅順港占領の際に、
無事の住民に対する虐殺が行われたとする記事が
諸外国の新聞に報道されたことがある。
ダネタンは事の真偽を確かめるべく調査に乗り出し、
結局米国記者によって捏造された「虐殺事件」が
まぼろしだったことを突き止め、
べルギー本国政府に対して注意を促す次のような報告書を提出している。

「旅順港において日本軍によって行われたと伝えられる残虐行為は、
新聞報道者、特に二ューヨーク・ワールド紙の記者によって
多分に誇張されたものであった。
私はそこに居合わせたフランス武官ラブリ子爵に会ったが、
彼は私にこう断言した。
殺された者は軍服を脱いだ兵士たちであり、
婦女子が殺されたというのは真実ではないと。
旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難しており、
町には兵士と工廠の職工たちだけであった」
(磯見辰典・黒沢文責・桜井良樹著「日本・べルギー関係史』)

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【軍事情勢】“中国の蛮性”をベルギーは再び看破できるか

2014.4.10 11:34更新、産経新聞
http://www.sankei.com/smp/world/news/140410/wor1404100013-s.html

《パンダ》の語源は、国際世論の誘導も意味する
《プロパガンダ》ではないかとの思い込みを持った。
中国の習近平国家主席(60)が欧州歴訪中の3月末、
ベルギーで見せつけた《パンダ外交》はそう誤解するに十分不気味だった。
事実に基づく情報を源とする“善玉”を《ホワイト・プロパガンダ》、
偽情報を潜ませる“悪玉”を《ブラック・プロパガンダ》と呼ぶ分類が、
余計に黒白のブチが特徴のパンダを想わせる。
日本も経験済みだが、愛くるしいパンダは中国を身近に感じ、
平和的印象を勝手に醸成してしまう。
しかし、ベルギーはブラック・プロパガンダに惑わされなかった
在日特命全権公使アルベール・ダネタン男爵を輩出した国。
今一度、パンダの後ろに隠れ、少数民族を虐殺し、
自国民の自由を奪う中国の蛮性を看破してもらいたい。
人権弾圧に敏感な現代欧州の矜恃が見たい。

ダネタン男爵の慧眼

ダネタン男爵は1893~1910年の長きにわたり日本に滞在した。
その間、日本人の性行・性向を完全に見極め信頼。
日清戦争(1894~95年)中、大日本帝國を国際的孤立の危機に
追い込むブラック・プロパガンダに惑わされぬ慧眼を備えていた。

危機は主に、米紙の捏造記事拡散に因った。旅順軍港占領時
「帝國陸軍が清帝國の非戦闘員・婦女子・幼児ら6万人を虐殺。
逃げられたのは36人のみ」と報じたのだ。
帝國陸軍の軍紀を把握する男爵は、旅順の面積や人口に鑑みても、
6万人という数字に明らかな胡散臭さを直感したに違いない。
調査を始め、本国に報告書を送る。

《日本は傷病者に配慮し、赤十字は皇后陛下の後援のもとで
完璧なまでに仕事を遂行し
(陸戦での傷病者保護を目的に、日本も1886年に加盟した)
ジュネーブ条約は遵守されている》

《その場に居合わせたフランス武官ラブリ子爵より直接聞いたところ、
殺されたのは軍服を脱いだ兵士で、婦女子が殺されたのは真実ではない。
住民は占領前に避難、残っていたのは兵士と工廠の職工だけ。
日本兵は無残に扱われた戦友の死骸を見ながら、
何とか敵を捕虜にするだけにとどめた》

清國軍将兵は帝國陸軍将兵を殺し、遺体を切断して木や軒先に吊した。
確かに、帝國陸軍将兵は陵辱への激昂を引きずりつつ戦を続けた。
一方で、潰走を始めた清國軍将兵は軍服を脱ぎ捨て、
民家に押し入り民間人の服に着替えた。
《便衣兵》である。
便衣兵は脱走の機会をうかがい、民家に籠もり帝國陸軍将兵を狙撃した。
法律顧問として従軍した国際法学者・有賀長雄博士(1860~1921年)
は「清國は全く戦争法規を守らない」と指弾するとともに、
日清戦争時の《万国戦時公報 陸戦条規》の中でも銃殺を合法と断じた。
一部外国紙は、非戦闘員に偽装した便衣兵に対する応射を
「虐殺」と誤報したのだった。

魚釣島に関し大嘘を投稿

日露戦争(1904~05年)前夜にも、欧州各紙が
「日本人の外国人への憎悪が増し、日露が戦うと在日外国人が虐殺される」
と伝えたが、これにも反論を発信した。

《外国人への憎悪や敵意は日本に存在しない。
単身、あるいはメイドを連れただけで、
外国人の婦人が日本各地を旅行している。
在日外国人は仮に戦時下になっても日清戦争同様、全く安全である》

開戦後も、ロシア兵捕虜が虐待されている-
との虚偽報道を是正する報告を発出した。

《海戦で沈没した艦の捕虜601人が日本軍に救出された。
死者2名はロシア正教に従い葬られた。司式は、日本軍がジュネーブ条約に
則り直ちに自由にした艦の従軍司祭が行った》

百有余年後の2012年、在ベルギー中国大使が
ベルギー公用語・仏語の新聞に《魚釣島を中国領というのはなぜか》
なる記事を投稿した。
魚釣島を含め尖閣諸島は日本領土だが、記事は大使が
《仏軍統合参謀本部の大佐が描いた地図を
ブリュッセルのギャラリー・ボルティエ通りの
書店Schwildenで見付けた》ことから始まる。
地図は《中国が15世紀初めには既に魚釣島を発見・管轄していた》
ことを証明。以下延々と、歴史的事実を継ぎ接ぎして大嘘を大展開する。
もちろん《中国人虐殺》や《ヒトラーを祀る●(=鯖の魚が立)國神社》
も登場するお決まりのコース。

ただ、締めの殺し文句
《第二次大戦中、留学中だった中国人女性の感動の逸話》は、
ブラックかホワイトか、プロパガンダの真贋は判然としないが、
極めて効果的な演出だった。
女性が《ドイツ軍高官暗殺の報復として、
ゲシュタポ=秘密警察の人質となった市民97人を、
勇気と知恵を振り絞り救い出した》というストーリーだ。

取り込まれる欧州

斯くして欧州は、中国への人道・安全保障上の警戒感を薄めるべく
自らに言い聞かせ、中国の持つ魅力的な経済・金融力に取り込まれていく。

習氏は“スウェーデン”の自動車メーカー・ボルボのベルギー工場を
視察したが、ボルボは2010年、中国の自動車メーカーが買収。
エアバス70機購入を含む総額2兆5700億円もの売買契約を
フランスと結ぶなど、歴訪各国で新たに大商談もまとめた。
天安門事件(1989年)以降、欧州が続ける対中武器禁輸が、
日本と米国の頭ごなしに解禁となる悪夢は直ぐそこに在る。

後ろめたさの払拭に励む欧州を内心嘲笑しているであろう習氏は、
ベルギーでの講演で「他国の制度はまねしない」と、
国家挙げての非道を正当化。
中国国家主席として初訪問したEU(欧州連合)本部では
「中国とEUという2大文明(?)の協力強化」を呼び掛けた。
だが、EUの「文明」と、中国の「非文明」は相容れない。

1月に催された2013年度ベルギー絵画コンクールで、
中国の気功集団・法輪功の迫害をテーマにした
《不必要な死》が最優秀賞を受けた。
迫害で亡くなった娘を抱く母親の目が、悲痛な気持ちを語る作品。
法輪功には批判もあるが、作者の鋭い批判は紹介しなくてはならない。

「法輪功メンバーが不法逮捕され、殴打、虐待、酷刑を受けている。
その期間は長く残酷。(絵画の背景に描いた)亀裂は、
中国共産党が罪を犯す過程で自滅する将来を象徴する」

画家の気骨に東京・雑司ケ谷霊園に眠るダネタン男爵のDNAを認める。
「自滅」が待ち遠しい。(政治部専門委員 野口裕之)

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日清戦争勃発
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清国軍の暴状
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1894年(明治27年)11月21~22日、いわゆる「旅順虐殺事件」
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日清戦争の意義を理解しない韓国
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三国干渉
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三国干渉の2年後、西洋列強によるあからさまな清国の利権争奪が始まった。
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『竹島が日本の領土である根拠』は下記URLに移動しました。
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2009/08/18 09:00|年表リンク用資料
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