ぼくはこんな音楽を聴いて育った

第16話 副島輝人さんのこと

――「日本フリージャズ史」

 もう今から2年前になる。前衛ジャズ評論家であり数多くの前衛ジャズのコンサートを企画してきたオーガナイザーの副島輝人さんが亡くなった。胃癌だった。告知を受けてから2年間、経験したことがないことを経験するのは実に面白いことだと言いながら、これも運命と癌を受け入れ、医者の予測する癌の進行と、自身の体の状況を照らしながら、ひたすら癌の進行具合を楽しまれ、その様子をノートにまでとっていたと聞く。死の直前には、ネットで京都への引っ越しの挨拶までしている。実は京都は副島家の墓のある場所で、死への旅立ちを、引越しに置き換えた遺書だったのだ。ちょっと引用させてもらう。

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 引っ越しをすることになった。諸々の事情があって、あまり人には話していなかったが、もう間もなくのことになるだろう。移転先は決まっている。京都府・宇治市。JR奈良線の快速では、京都から18分、奈良からは30分のところ。宇治駅前からタクシーに乗り、清流宇治川を左手に見ながら、それを遡るように山に入って10分程、なだらかな緑の丘があってそこが天が瀬の公園である。J 区 92番地と云えば、門を守る人が案内してくれるだろう。

 とても小さな家だ。究極の美意識を持った千利休があらゆる無駄を削ぎ落として創った茶室に倣った訳でもないが、極小空間である。この狭い畳敷きの部屋に幅4尺高さ5段の本棚を1基据えて、オーディオアンプと小型スピーカー、諸プレイヤーとモニターがあればそれで十分。それに読み書きするのに小机一卓。後は私と(後始末の為に少し遅れて来る) 女房の布団2枚並べて敷けば、もう余地はない。

 本棚の下2段には、LP, CD, テープ等の諸音源類をいれる。恐らく三分の二はジャズであって、他にクラシック、現代音楽、邦楽、演歌等などだろうけれど、詳細は目下考慮中。上の三段を占めるだろう書籍の選択にも苦労している。一段40冊としてざっと120冊なら、現在の我が家にあるものの八分の一程度。捨てるには惜しいものばかりだ。しかし、厳選してみる。その鍵は、再読、再再読にも新たな対応をしてくれる書籍ということだ。

(中略)

 これらの本を読み返す読書三昧なら結構楽しいだろう。活字に読み疲れたら、当地宇治茶の老舗中村藤吉で仕入れた抹茶を日に二、三服、私の好きな黒楽の茶碗で点てながらフリージャズを聴く。食事は基本的には粗食とするが、時には宇治川での鵜飼いで採れた鮎、京都特有の鱧料理、秋の味覚松茸、更には近江牛のヒレステーキともなれば、取って置きの高級焼酎「森伊蔵」の蓋を開けてチビチビと舐めながらの晩飯となる。

 これは妄想なのか、現実なのか。

 ならば此処に、葛飾北斎の辞世の句に習って書いておこう。

 「人魂で行く気散じは奈良京都」と。

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こうして読むと遺書だってわかるけど、オレだけじゃなく、多くの人は、ネットで発表の当時、それが死への旅立ちを意味するものとは思わずに、本当に京都に引っ越すのだと思っていたのだ。例にもれず、その文章にまんまと騙されたオレは、てっきり老人ホームへの転居だと思い込み、それならばと、KBS京都放送でやっているラジオ番組の準レギュラーになってくれないかってお誘いメールまで出してしまって……。病床の副島さんは、オレの呑気なメールを見て、ゲラゲラ笑っていたそうだ。

 死を前にした副島さんのユーモアというか、遊び心はまだまだつづく。葬儀の席では、霊界からの通信です……と語りかける死者本人の音声まで流れ出して、それは死の直前、副島さんが自分で録音したものだったのだ。斎場に来た人たちに、死んだ本人から直接挨拶がある葬式なんて前代未聞だし、おまけに、その声は悲しいものではなく、笑顔で録音していたのがわかるもので、湿っぽさは皆無、「地獄の閻魔様の前でも自由にやらせてもらう、それが生きるということだ」と締めくくられた霊界通信のあとには割れんばかりの満場の拍手。拍手のある葬儀なんて聞いたことがない。副島さんは本物の前衛だった。そしてとことん粋な人だった。

 副島さんと出会ったのは、浪人しているときだったと思う。ここによく出てくる福島のジャズ喫茶パスタンでのことだった。70年代後半から80年代後半にかけて、副島さんはメールスジャズフェスティバルの8mmフィルムを持って、全国をくまなく回っていたのだ。まだネットなんてない時代だ。新しい音楽の情報は、雑誌、ラジオ、そしてジャズ喫茶やロック喫茶に入ってくる輸入盤のレコードやそこでの口コミしかない時代だった。ましてや、福島のような地方都市に住んでいると、入ってくる情報は本当に少なかった。デレク・ベイリーがなんであんな謎な音楽をやってるのかなんてことの手がかりは、間章や高柳昌行が書く雑誌での文章くらいしかなかったのだ。そんな中、副島さんは、ドイツのメールスで70年代初頭にはじまった前衛ジャズフェス「メールス・インターナショナル・ニュージャズ・フェスティバル」に足繁く通い、その様子を8mmフィルムに収め、それをまとめたものを毎年作っては、その報告会を全国各地のジャズ喫茶でやっていたのだ。念のため言っておくと、当時は簡単に持ち運べるビデオなんてものはなくて、唯一、個人で運べて映像が撮れるのは8mmフィルムしかなかった。映像を8mmで、音をカセットで録音し、それを家で丁寧に編集して1時間強ほどの映像ドキュメントにまとめたものを、副島さんは毎年作り、それを持って全国を回っていたのだ。ビデオが普及する以前、この時代のメールスの映像をアーカイブしていたのは、世界中探しても副島さんしかいなかったと思う。今ならYouubeで、すぐにどこかのライブ映像も見ることができるけど、当時は、実際にコンサートやフェスに行く以外に、ミュージシャンの動いている姿を見る手立てなんてないし、だから8mm上映会は、本当に貴重な情報源だったのだ。

 例によってパスタンの客は一桁だった。その中にはオレだけじゃなく、ジャズ研の後輩のショージくんやイーヅカくんもいたと思う。アンソニー・ブラックストンやハン・ベニンク、デレク・ベイリーにエヴァン・パーカー……レコードと雑誌でしか知らなかった人たちが、8mmの薄暗い映像の向こうで生き生きと、即興演奏している。「即興」という言葉が、まだとても新鮮で、輝いて見えた時代だ。その向こうには自由がある……そんなことを信じることができた時代。でも僕らバカガキどもは「なんじゃ、こりゃ」ってな感じで、きっとあんぐりと口をあけて見ていただけなんだと思う。終わった後の質疑応答でも、副島さんにアホな質問をいっぱいしたんじゃないかな。何を質問したか、何を話したか、まったく覚えてないけど、僕らよりずっとずっと年上の副島さんは、それでも丁寧に、大人に接するのと同じ態度で僕らに答えてくれて、そのことだけがやたら今でも記憶に残っている。これが副島さんとの最初の出会いだった。

 副島さんとの関係がより深くなるのは、それから6年後、オレが東京に出た後の1984年11月のことだ。高柳昌行のソロと副島さんのメールスフィルム上映のカップリングで北海道4カ所をツアーした際に、オレは高柳さんのアシスタント兼運転手として、このツアーに同行したのだ。ここからはじまるさまざまな出来事が、その後の人生を大きく変えていくことになるんだけど、そして、それ以降、副島さんとは長くて深いお付き合いになるのだけど、それについて書くにはまだ早い。

 

 副島さんの葬儀では、もうひとつ書いておかなくてはならないことがある。高柳昌行さんの奥さんの道子さんと、23年ぶりにお会いすることが出来たことだ。このことについても書きだしたら、とても長くなるというか、まるまる一冊本を書かなければいけないくらいの話になってしまうので、ここは大幅にはしょって書くとですね、オレは、ジャズミュージシャンになりたくて、浪人生活の後、東京に出ることになり、そこで高柳さんの門を叩いてですね、何年間か修業のような時代を過ごすわけだけど……ってか、お前、本当に修業なんてしたのかってつっこみ、自分で入れたくなるんだけどね。なにしろ、そこでもオレはダメな生徒だったうえに、やることなすこと挫折続き、どこまでいっても、パッとしない感じで、でも、どういうわけか高柳さんに気に入られ、私生活まで一緒に過ごすような時期を経てですね、でもその後は関係がどんどんこじれてしまって、最終的には大げんかをして飛び出すことになり、そのこじれた関係の中で、高柳さんは1991年他界。その後も、このことはさまざまな場面で大きく引きずることになるんだけど、その時に、陰に陽に手を差し伸べてくれたのが副島さんだったのだ。いやね、関係がこじれたとはいえ、オレは高柳さんが大好きだったことには変わりないんだけど、そして、副島さんはそのことも知っていて、でも、なんというか……この辺のこと、いつかちゃんと書かねば、そう思っているけれど、なかなか、青春期を書くような調子では書けなくて……。

 副島さんが残した『日本フリージャズ史』は、日本のフリージャズの歴史について書かれた唯一の本だ。生前、過去のことを文章に残すよりは今起こってることが面白いんだと言っていた副島輝人さんが、それでもあえて書き残した渾身の本で、実際、副島さん以外には書けない内容だと思う。その執筆の過程で、オレのことだけではなく高柳さんのことでも副島さんから直接何度も何度も取材を受けたのだ。

「大友くんが黙っているのはいいけど、事実は事実なんだから」と、当時高柳さんのことについてはほとんど公言してこなかったわたしの口から様々な事実を聞き出してくれて、実際には副島さんもご存知のことが多かったと思うのだけれど、でも直接本人の口から聞きたかったこともあったのだと思う。高柳さんとオレの関係についての大部分は本に書かれることはなかったけど、それでも高柳さんの項目の音楽的な部分では、オレから聞き出したこともふんだんに書かれているし、なにより、このとき、自分と高柳さんとの関係を、副島さんに語ったこと、オレにはとても大きかったというか、ある種のセラピーのような効果があったのではと思っている。もう自分ではどうにも処理できないと思っていた問題が、このあたりから少しずつ雪解けしだしたのだ。副島さんとの長いおつきあいの中でも最も濃厚な会話がかわされたのはこの時だったと思う。そして、四半世紀ぶりに、高柳さんの奥さんと再会出来たのも、やっぱり、副島さんの導きだったと思うのだ。恥ずかしいけどオレは、この日はもう泣いた。泣くしか出来なかった。

 葬儀の夜、オレはその足で、六本木のスーパーデラックスに向かい、喪服のまま、といってもオレの喪服は、ただ黒い服ってだけだけどね。そのただ黒いだけの喪服で、ターンテーブルのソロをやった。かつて殿山泰司さんが高柳さんの演奏をして「お月様まで飛んでいくくらいの演奏」と評したのを思い出しつつ、副島さんのいるあの世にも届かんばかりに。その時の様子はここで見られる。

https://www.youtube.com/watch?v=wNgPvVPGyf0

 奥さんとの再会がきっかけで、生前、高柳さんが使っていた名器1963年製のエレクトリック・ギター、ギブソンES-175は、現在わたしの手元にある。これも副島さんが仕掛けた粋な計らいだったのかもしれない。