アイドルグループの衣装がナチスの制服に類似していたという騒動に関連して、妙な論争が起こっている。
ニセ科学批判で有名な人物が(俺はこの人物の行動力に敬意を表するが、支持できない点も多い)、この騒動を軽視するような発言を繰り返しているため、ニセ科学批判批判派(定義の曖昧な粗雑な表現だが)が「ニセ科学批判派はナチスを容認している」「ニセ科学批判派はニセ科学である優生学を批判しない」と言い出しているのだ。この問題に関して俺の考えを述べてみたい。
俺は「優生学は完全にニセ科学とは言えない。科学的に正しい部分もある」と考えている。ここで「ニセ科学とは何か」「科学的に正しいとは何か」という科学哲学上の概念の定義を厳密に行うことは俺の能力を超えるし、そもそも分厚い専門書になるくらいの問題なので、簡単に述べるに留める。
俺は「科学的に正しい(ニセ科学ではない)」とは、「実際に効果がある・機能する」ことだと考えている。永久機関は作動しないからニセ科学だ。原発は発電しているからニセ科学ではない。原発の安全性や経済性の評価に関して科学的に不正確な部分が多いことは事実だが、だからといって「原発はニセ科学だ」とはならない。
つまり科学的に正しいかどうかは「正誤」の問題であり、「善悪」の問題ではないということだ。科学は自然現象を説明する道具なので、善悪などあるはずがない。道具に善悪はない。善悪は使う人間にある。包丁は料理にも殺人にも使える。科学は道徳や倫理を追求する営みではない。自然現象の原理を追求する営みだ。「科学と工学(技術)の違い」みたいな話はややこしいので避ける。
優生学は核兵器や毒ガスと同じで、科学的には正しい。ただし、優生学には民族や人種と血液型の関係のような変てこなものも多いので、全てとは言わない。これらは「間違った(正しくない)科学」ではなく、「悪の科学」だと見なすべきだと思う。
そもそも俺が優生学を「科学的に正しい(部分もある)」と考える理由は、優生学が進化学、遺伝学、育種学(品種改良)に基づいているからだ。優生学は究極的には人類の進化(遺伝的改良)を目的としている。これはそのまま人間の品種改良だ。進化学、遺伝学、育種学、統計学の大家であったロナルド・フィッシャーが優生学者であったことがいい説明になると思う。品種改良は紛れもなく科学だからね。まさか「品種改良はニセ科学だ」なんて言い出す人間はいないよね。遺伝学の契機となったメンデルの実験だって背景にはエンドウ豆の品種の多様性が背景にあったわけだから。同じく進化学の元祖であるダーウィンも鳩の品種の多様性に着目していたわけだし。
血統書付きの犬猫と機動戦士ガンダムZZのプルシリーズはどう違うの、というお話。人間の品種改良は理論的、技術的に可能だ。絶対にすべきではないけど。でも希望する人間は必ず現れるだろうね。機動戦士ガンダムガンダムSEEDシリーズのコーディネイターみたいに。現代でも胎児の出生前診断が問題になるわけだし。
もっとも、言うまでもないことだが、上に述べたように優生学の理論には科学的にデタラメな部分が多い。その意味でニセ科学だとも言える。ただし、全てが間違っていたわけではない。優生学が科学的に正しいかどうかは個別に論じるべき問題だと思う。優生学だから無条件にニセ科学に違いないと断じるのは、それこそ科学的な態度ではない。
結論を強調しておくと、優生学は科学的に正しい面もあるので、完全にニセ科学とは断言できない。しかし、完全に否定すべき科学である。その理由は「科学的に正しくないから」ではなく、「倫理的に正しくないから」である。
慎重な表現を心掛けているのでどうにも歯切れが悪いな。
ちなみに言うと、上に書いたこととは少し反するが、人間という生物は根本的に品種改良に適していない。その意味でも優生学は科学的にあまり妥当ではない。その理由は以下の通りだ。
現代では品種改良の技術が向上し(受精卵操作とか遺伝子組換えとか)、ピンポイントで作物や家畜に目的とする遺伝子を導入できるが、つい最近まで、場合によっては今でも、育種は選抜と交配による。優れた特徴を持つ個体同士を交配させ、生まれた子供を更に選抜し、交配させる。これの繰り返しだ。要は博打で「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」なわけで、ここでの要点は「短期間で多数の子供を得られること」だ。人間はこの点であまりに効率が悪い。
子供が生まれてから交配するまで、およそ20年もかかる。犬猫ならわずか1年だ。妊娠期間は280日もある。犬猫ならわずか2・3か月だ。出産間隔は2年ほどもある。犬猫ならば年2回の出産も可能だ。
一度に生まれる子供の数は、1体だけだ。犬猫ならば5体は可能だ。
さらに人間以外の生物の品種改良では、ごく限られた特定の特徴のみを伸ばすことを目的としている。「あちらを立てればこちらが立たず」式にある特徴を向上させたら別の特徴が低下した、みたいな場合でも許容されることはある。犬猫の中には遺伝的に病気に弱い品種があったりするが、他に優れた特徴があれば淘汰されない。肉用に改良された家畜はすぐに成長して肉にされるので、早死にでも何の問題もない。ところが人間の場合は、ありとあらゆる能力を伸ばさねば優れた人間とは認められない。「遺伝子操作の結果、知能が向上しましたが病弱になりました」みたいなことになったら大失敗だ。人間誰しも多少は不利な遺伝子を抱えているものだから。進化学的かつ遺伝学的には遺伝子の多様性こそが種の存続に有利だと言えるわけだし。ただし、生命科学の進歩により遺伝子操作や受精卵操作の技術が向上して、理想のデザインドベイビーを生み出せるようになる可能性も否定できないけどね。人間は科学的に可能なことは何でもする生き物だから。
人間は品種改良に向かない。その意味で優生学は科学的に非常に難しい。でも科学的に完全に間違っているわけではない。倫理的には完全に間違っている。