ドナルド・トランプ氏の米大統領選勝利は、現状に対する強烈な拒絶を表している。世界最強の国が、まったく公職経験のない不動産王を大統領に選んだ。強権指導者を自任して同盟国を見下し、市民対話と民主主義のしきたりを軽んじる人物だ。人格が一変しないかぎり、素直に受け止めるならトランプ氏の勝利は西洋の民主主義モデルに対する脅威だ。
トランプ氏は、20世紀の米国のポピュリスト(大衆迎合主義者)、ヒューイ・ロングとジョージ・ウォレスが遠く及ばなかった高みで成功を収めた。ホワイトハウスへの道を突き進んだトランプ氏は、大統領選の戦い方を書き換えた。共和党の主流派に対抗して出馬し、多くが実績を持つ政治家であるライバル候補をすべて追い落とした。そして、政策論議よりも罵りのほうが長かった選挙戦の末、究極のエスタブリッシュメント(既成勢力)候補のヒラリー・クリントン氏に対して大勝利を収めた。
米国民は、大統領夫人、ニューヨーク選出上院議員、国務長官という経歴の持ち主でなく、「米国を再び偉大にする」というシンプルなスローガンを掲げた政治の素人を選んだ。民主党は敗因について、こう総括したい誘惑に駆られるだろう。クリントン氏の選挙運動に人間味が欠けていたことに加え、土壇場で米連邦捜査局(FBI)が私用メールアドレス問題の再捜査に入ったことが致命的打撃になった、と。
この捉え方は、共和党が上下両院選と大統領選のすべてを制したという事実を都合よく無視している。拒絶されたのはクリントン氏だけではない。大統領選終盤の戦いに自らの評価と政治的遺産を懸けたオバマ大統領に対する拒絶でもあったのだ。しかも、敗因の言い訳は世界金融危機によって露呈した米国社会の深い分断も無視している。
■多国間貿易に背を向ければ世界は今より貧しく
トランプ氏の選挙運動は排外主義、孤立主義、保護主義に訴えかけた。移民を非難し、移民が入れないようにメキシコの費用負担で国境に長大な壁を築くと公約した。欧州とアジアの同盟国にも矛先を向け、日本と韓国は中国による安全保障上の脅威に核武装で対抗できると示唆し、数十年来の外交政策の基本方針を否定した。その一方でロシアのプーチン大統領にすり寄り、ロシア政府の代弁者さながらになった。そしてさらに、米国の製造業を保護して雇用を取り戻すために、北米自由貿易協定(NAFTA)や環太平洋経済連携協定(TPP)などの貿易協定を破棄すると公約した。
トランプ氏の大言と衝動的なツイートは、グローバル化で押しのけられたと感じている多数の米国民の間で共鳴した。トランプ氏は、グローバル化と自由貿易は米国の一握りの特権層を潤わせているだけだと論じた。トランプ氏のくくり方にも一片の真理はあり、この点にあまりにも目を向けない中道の指導者が多くなっていた。近年、格差は拡大し、平均所得は停滞または低下している。特に大学を卒業していない人々の間で顕著だ。
米国経済の底力に焦点を置く別の捉え方もある。シリコンバレーが体現しているように、特に技術分野で革新を生み出し、世界を制する製品を開発する能力だ。ところが、クリントン氏は時にロボットのような印象すら与えるほどのよそよそしさで、説得力のある変革のビジョンで対抗することができなかった。
米国の世界に対する開放性についても、もっと正確な捉え方がある。世界の安全保障の秩序は、米国の同盟国に対する明確な関与によって支えられている。欧州における北大西洋条約機構(NATO)、日本との安全保障条約、韓国に対する関与は、いずれも法律と米軍の海外駐留に裏打ちされている。トランプ氏は、このような関与に疑念を引き起こした。世界の大部分で70年にわたり、おおむね平和と安定が維持されてきたことを無謀にも無視する行為に他ならない。
同様に、資本と財、労働力の自由な移動も第2次世界大戦後の偉大な達成の一つだ。グローバル化は、特にアジアを中心に多くの人々を貧困から救い上げた。米国は戦後の多国間貿易体制の主柱だ。だが、TPPはもはや死んだ。トランプ氏が、その言葉通りに世界貿易機関(WTO)とNAFTAに背を向け、世界の貿易相手国と関税戦争を始めれば、世界は全体として今よりも貧しくなる。格差に及ぶ効果は、トランプ氏を支持した労働者層が期待しているものにはならないはずだ。
トランプ氏の世界観の最後の欠点は、米国に生じている変化をすべて悪いものと捉えていることだ。事実はそうではなく、米国の文化と人種構成の変化、それに果たす女性の役割の拡大は深い力の源泉だ。
■民主主義下の政治には「妥協」が必要
では、トランプ大統領の下で何が起こるのか。狭量なイスラム嫌悪の候補もホワイトハウスに入れば変わる、という楽観的な見方もある。そのような変化はありうるが、長続きするものなのか。トランプ氏の気質がそれを許さないかもしれない。トランプ氏は、どれほど乱暴な戦術であろうが、それで選挙に勝ったのだと主張することもできる。共和党全国大会の後、責任ある中道路線に転じる好機だったのだが、トランプ氏はそうしないことを選んだ。
それでもトランプ氏は、大統領選勝利で再び好機が訪れたと考えるかもしれない。まず、チームを立ち上げる必要がある。議会との協力が必須となり、特に嘲笑を浴びせてきたライアン下院議長と協力しなければならない。トランプ氏は「取引のすべ」は心得ていると自負している。政権運営が個人的な確執に左右されてはならないことを認識しなければならない。民主主義における政治で重要なのは「妥協のすべ」だ。
トランプ氏の政策が言葉通りに過激なものになるのかどうか、世界は緊張して見守っている。最初の一歩としては、選挙結果の判明後、より前向きなトーンに変わっている。だが、重大な危険の時であることは変わっていない。英国の国民投票による欧州連合(EU)離脱決定に続くトランプ氏の勝利は、自由主義の国際秩序に対するさらなる重い打撃であるように見える。欧米に計り知れない代償をもたらす大破綻に手を貸すのか否か、トランプ氏は自らの行動と言葉で決めなければならない。
(2016年11月10日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
(c) The Financial Times Limited 2016. All Rights Reserved. The Nikkei Inc. is solely responsible for providing this translated content and The Financial Times Limited does not accept any liability for the accuracy or quality of the translation.