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松木法太郎氏より早瀬道寧の説法を嗤う

 投稿者:管理者  投稿日:2015年 9月16日(水)21時21分50秒
  通報 編集済
  以下は応顕寺の住職である早瀬道寧氏という二枚舌の出家が行った平成二十五年「団結前進の年」における支部総登山・添書登山の登山会における布教講演であり、無責任説法である。
こんなものが貴重な登山の行事として「布教講演」されるのであれば、時間を惜しむ信徒であれば大石寺の墓所に行って歴代の墓参をしたほうがましであろう。
このような凡庸で無智・無能の人物が僧侶としてまた宗会議員、全国布教師であるというのであるから宗門内における人材の払底が目に余るというものである。
もっとも早瀬道寧氏が現代の「槃特尊者」と云うのであれば、それにふさわしい立ち位置というものがあろう。

早瀬道寧氏が云く、
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横浜市神奈川区応顕寺住職 早瀬道寧
皆さん、こんにちは。 本日は、総本山参詣、誠におめでとうございます。総本山の清気・清風に触れ、このあと御開扉を頂き、気持ちも新たに信心修行、折伏に励んで頂きたいと願うものであります。「団結前進の年」の六月は、後半戦のスタートの月でもあります。その意味は、御影堂大改修落慶大法要までに全支部が折伏目標を達成しようということから、十月末日までの達成を目指してと考えると、六月は後半のスタートの月に当たるわけであります。そのことからも、六月からの折伏行になお一層励んで頂きたいと思います。
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初っ端からこの有様である。「六月からの折伏行になお一層励んで頂きたいと思います」とはなにかまるで他人事である。「自分はどうなのだ」と云いたいのである。
そも、日興上人の時代、波木井、松野等の著名な在家信徒は日興上人の折伏弘教の成果である。自ら市井におりて如蓮華在水のごとき修行に邁進し大師範たる日蓮大聖人を供養したその修行は「昔のハナシ」で済む問題ではなかろう。
現在において顕尊が「祖道の恢復」を唱えた意義はここにあるのではないか。他人事のように「なお一層励んで頂きたいと思います」で片づけることに空々しさを感ずるのである。

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[育成の鍵は御講参詣にあり]
さて本日は「折伏と育成・御許参詣」について話をしたいと思います。まず、育成とは折伏した人を育てていく、折伏された人が折伏できるようにする。入信した人に勤行をしっかりと教え、正しく唱えられるようにするということが一つです。もう一つは、各支部講中の掘り起こしがあると思います。特に寺院から足が遠のいている人には、育成は重要であります。その鍵を握るのは、御講参詣であります。大聖人は『新地御書』ち切り、強盛な信心修行に励むことができるのであります。本年「団結前進の年」に当たり、御法主日如上人猊下はに、「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」(御書一四五七)と仰せであり、御講に参詣することにより、僧侶の法話を聴聞し、悪縁を断、「法華講員一同、志を同じくして団結し、折伏をもって、遠くは一天四海本因妙広宣流布達成、近くは来たるべき平成二十七年・三十三年の目標達成へ向かって前進することでありますが、要は、その決意を一人ひとりがしっかりと持ち、いかなる困難・障害にも負けず、お互いが励まし合い、団結して、その結束力をもって、本年度の折伏誓願を早期に達成することが肝要であります」(大日蓮・平成二五年二月号)と御指南されております。
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アンタに云われなくとも当然わかっておるわい。(苦笑)、折伏と育成はセットである。
しかし折伏は信徒個々の修行としても育成には講中と指導教師の関わりが必要である。折伏、折伏と指導教師や講中幹部がお題目のごとく唱えるが、肝心の信徒教育(育成)は寺に行って御講に参加すれば事足りるというものではあるまい。
なによりも御本尊に対する信仰心の育成は、深い人生体験と巧みな方便による誘因が必要であり〝教育〟という技術が要求されるのである。しかも折伏により入信した個々の信徒は一様ではない。対機を把握した適時な指導が要求されるのであり、四箇の格言を唱え、久遠元初を教えて有り難がっているだけでは信徒の育成は成らないのである。
おおよそ信仰に入ろうとするものは千差万別であるが、悩みや苦しみを持つ者には〝唱題〟が先にありきではない。悩みや苦しみを徹底的に聞き、はきださせ、対手の苦しみに同苦して初めて〝ともに唱題〟の行に邁進して抜苦与楽を目指すのである。
それには社会の仕組みや世法に対する達観した知識が求められ〝生・老・病・死〟に対する深い洞察が要求されるのである。それらの深い哲理がなにも感じ取れない早瀬道寧氏のお説法は単なる〝紋切り説法〟に過ぎないものであると指摘しておく。
まあ、云うなれば小学生の優等作文とは云えるが中学校では通用しまい。

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一人ひとりが決意を持つこと、また結束力を高めることができる場が御講だと思います。 御講に参詣しない人を呼び起こし、大聖人への報恩感謝を教えるのであります。「知恩報恩」、恩を知り恩に報いることが大事であります。恩に報いるということは、まず人として決して忘れてはならないことでありますが、大聖人の教えの上でも非常に大事であり、基本中の基本であります。『四恩抄』に、「然るに末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」(御書二六八)と仰せであり、三宝の恩を受けたならば、その恩に対して感謝し、恩を返していくことが大事であります。大聖人は、すべての衆生を一人も残らず平等に救済してくださり、即身成仏へと導いてくださるのです。その大慈悲に対して、我々は、報恩感謝の気持ちをもって御講に参詣させて頂くのです。寺院に参詣することは、大聖人に対し奉り御報恩感謝申しあげる大事な場所でもあります。御法主上人は、「折伏はもちろん、何事を成すのも唱題行を根本にして、弛まぬ努力をしていくことでありまして、この不断の信心を基本として講中の体勢を整え、折伏、御講参加、登山等に取り組んでいくことが、誓願達成の秘訣と言えるのであります」(大日蓮・平成二五年四月号)と御指南であります。
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御講を因として論じておるが〝本末転倒〟の妄論以外のなにものでもなかろう。御講に参加しない信徒は御講に意義を見いだしていないから時間を惜しむのである。それでは信仰心が欠如しているのであると切り捨てるのであれば〝育成〟を論ずる資格はあるまい。
大事なことは、指導教師の説法が「また聞きたい」と信徒が思うほど中味のある内容であることである。紋切り型の定型説法で時間を消化するだけで信徒が満足するわけがないのである。
「それでは信心が無いダメ信者ダ!」と云うのであれば〝育成〟は諦めることである。法を求める信徒の純真さにあぐらをかいて供養を貪るのであれば単なる〝売僧〟であろう。他人のことをとやかく云う前にテメーの信心を考えよ、と云っておく。
十数年前、曹洞宗のさる葬儀に出席したことがある。その坊さんが説法のしめくくりに
「子を思う・親の心にこころして・親に尽くせよ世の中の人」
といううたを詠んだ坊さんがいた。一回で覚えて今も覚えている。この老僧が世間に対して命を絞るが如く叫んだ心である。世間に対して僧侶の身として当然のごとくの心であろうがこのような坊さんこそ〝出家〟の名に値する存在ではないのか。
ろくな内容もない説法で御講・御講と云えば「御講という僧侶の給料日」とかの邪推が生まれかねないのである。そのような心を信徒が持つのも、持たせないのも出家の説法によるのである。
仏道修行に於て精舎は慥に修行の場であろう。しかし三宝に恩があるから「恩を返せ」という指導はなにごとか。これでは〝報復〟の論理ではないか。
我々信徒が三宝に恩を報ずるのは仏祖三宝に対し〝有り難い〟と感ずるから身軽法重の修行と布施行に邁進出来るのである。しかるに仏恩を押し売りするとは何事であるか。それとも応顕寺には仏恩を押し売りしないと供養もしない〝気違ひ信者〟が多いのであるか。

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唱題・折伏・御講参詣・登山全てが重要であり、講中団結の鍵となり、育成が誓願目標達成の大事となることは間違いありません。大聖人は「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」(持妙法華問答抄・御書三○○) と仰せられています。人間に生まれても、なんの目的もなく、惰性に流されて、漠然と一生を過ごすことほど愚かなことはありません。我々は広布の使命に燃え、たとえ、今は困難な道程であっても、歯を食いしばり、身軽法重・死身弘法の精神に立って、自らの信心を確立するとともに、折伏行をもって、世のため人のために尽くしてこそ、最も価値ある人生であると言えるのであります。自分一人が満足すればいいというのではなく、他の人にも信心を教えて折伏・育成を図り、一生の自分の思い出とすることが大事であります。自分だけで満足している信心は、仏の教えに反するのであります。ですから御講参詣にしても、普段、参詣している人が、参詣していない人を誘って行くことが大事でしょう。御講は一人でなく二人で参詣するとか、家庭訪問で必ず御講参詣の話を具体的にしておく、「何日の何時に迎えに行きます」というようにすることが大事であります。「信心即生活」と言いますが、常に信心を中心とした生活が大事であり、一カ月のサイクルも御講を中心に考え、第二日曜日は必ず御講参詣の日とすることが大事であります。育成の鍵は、御講参詣からと一人ひとりが声を掛け合い、組織戦として取り組んでいかなくてはなりません。御法主上人は、 「講中が文字通り『水魚の思ひを成して異体同心』して立ち上がり、一人も漏れず、広布の戦いに馳せ参じていくところに、本年『団結前進の年』と銘打った意義が存しているのであります」(大日蓮・平成二五年三月号)と仰せです。折伏、育成、講中活動と、講中全体で前進することが大事であります。
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私には悪い冗談としか思えない。「異体同心」だとう?。(苦笑)、応顕寺の伝統信者である森常男くんが妙輪寺の黒川氏をネットで攻撃するさい「一度でも詫びたら許してやりなさい」と早瀬道寧氏が指導したことは、森常男から私へのメールにハッキリ残っている。
これは云いかえれば「詫びるまで攻撃してやれ」と同意義の指導である。今般惹起した信徒間闘争は十数年にわたる応顕寺信徒・森常男くんの執拗な溝口浩氏(日蓮宗)攻撃と妙輪寺(日蓮正宗)の黒川氏に対する狂乱とも云うべき誹毀讒謗に起因しているのである。
森常男による十数年にわたるネットじょうの執拗な人身攻撃は常軌を逸した振る舞いでありこれ〝狂気〟以外の何ものでもない。これが応顕寺の伝統的信徒の現証なのである。住職である早瀬道寧氏の指導者責任は免れないものと考えられるのである。
大石寺における出家の質も墜ちたものである。こんな無知蒙昧のデタラメな坊主をいつまで飼っておくつもりであるか。父親が法主でも倅が法主位たるべき資質を持っているものではない。
宗祖、四条抄に云く
「食法餓鬼と申すは、出家となりて仏法を弘むる人、我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて、名聞名利の心を以て人にすぐれんと思ひて今生をわたり、衆生をたすけず、父母をすくふべき心もなき人を、食法がきとて法をくらふがきと申すなり」(御書・469頁)

また佐渡の抄に云く、
「般泥おん経に云はく「当来の世、仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し、懶惰懈怠にして此等の方等契経を誹謗すること有らん。当に知るべし、此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云。此の経文を見ん者自身をはづべし。今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは、是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり」(御書・580頁)
早瀬道寧房が、真に御書を拝することが出来るのであれば、恥ずべし、恥ずべし、速やかに還俗すべし。

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[折伏は理屈ではなく実践]
また、法華講員の一人ひとりが、信心修行の大事として法統相続を心がけていくとき、広宣流布の礎はさらに盤石なものとなります。法統相続は、大聖人の正法正義を子々孫々に伝え、令法久住・広宣流布に向かう異体同心の支部組織を形成するためにも必要不可欠であります。御法主上人猊下は育成について、「要するに、折伏も育成も化他行なのです。つまり人を教えていくという化他行なのです。化他行でありますから、折伏をしても勤行も教えない、折伏も教えない、これでは子供を産みっばなしということと全く同じでありまして、育てなければなりません。ですから、そこに育成の大事があるのです」(同・平成二四年二月号)と御指南されています。折伏と育成ができて講中が強くなり、団結前進ができるのであります。折伏について御書に、「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」(南条兵衛七郎殿御書・御者三二二)とあります。また、「謗法を責めずして成仏を顕はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」(曽谷殿御返事・同一〇四〇)と仰せられています。
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相変わらず〝建前の紋切り説法〟がつづくのう。いくら法統相続というコトバを論じても宗祖の時代にお弟子方に〝五一の相対〟〝方便品の読不読〟等の問題があったがごとく、宗内の問題は一様ではない。富木親子に〝泣き別れの銀杏〟の故事があるごとく本山に功績のあった南条家の不運な衰亡があったがごとく、法統相続のお題目で法華講員の法統相続が出来るわけではない。
謗法折伏と御題目を唱えて謗法退治・折伏弘教がなるのであれば苦労はあるまい。折伏というのは信仰の歓喜によって自然に沸き上がるものである。「謗法を折伏しないと成仏出来ないよ」という〝脅し文句〟を使わないと動かないようでは消極行動いがいの何ものでもなかろう。これでは真の成果などおぼつかないのではないか。
しかも、御法主上人の言をさかんに引用しているが、自分のコトバ自分の意志というものがまったく感じられない低劣な説法にはうんざりせざるを得ないのである。御法主上人もこのような不肖の子息を持ったは不運の極みと云えるのではないか。

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折伏においては、相手の心の中から謗法への執着を取り除くことが大切になります。また、謗法は徹底して破折しなければなりません。謗法破折の為には、自分自身が御本尊を絶対と信じ唱題に励むことであります。そして、その功徳をもって勇気を出し、行動を起こすことであります。いくら頭で考えても、行動に移さなければ折伏にはつながりません。自分自身の勇気と相手の幸福の為に唱題が大切であります。唱題せずに折伏が成就することばありません。必ず唱題をしてから出掛け、誠意を持ち折伏することです。折伏を行なっていくなかでは、すんなりと信心の話を受け入れて入信してくれることもあるでしょう。しかし、ある人はなかなか話を聞く耳を持たず、自分でもうまく話ができずにもどかしい思いを抱くことがあります。そのような壁にぶつかった時にこそ唱題を重ねるのであります。折伏は理屈ではなく実践であります。したがって、座していたのでは折伏にはなりません。折伏は、まず一歩打って出なければなりません。確かに寝ていれば転びもしないし、したがって怪我もしません。立ち上がれば転んで怪我をするかも知れません。しかし、寝ていたのでは永遠に目的地には着きません。自分一人ぐらい折伏をやらなくてもよいなどと言っていたのでは、その人は永遠に成仏の境界を開くことはできません。また、団結前進の意味もなくなってしまいます。「失敗は成功のもと」とよく言います。「当たって砕けろ」であります。大聖人は、「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。仏法の根本は信を以て源とす」(日女御前御返事・同一三八八)と、御本尊に対する揺るぎない信心と、その功徳についてお示しになられています。
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「折伏においては、相手の心の中から謗法への執着を取り除くことが大切になります」と、なんだこれは。大切もなにも折伏するのは謗法という邪法を正法へと導くのであるから大事もクソもあるまい。この程度か?。早瀬道寧氏の脳天気ぶりではこのあたりが限界か?。折伏というのは慈悲行であろう。ならば自然に導けばよいのである。折伏に目標など立てられるわけがない営業行為ではないからだ。
謗法をしゃにむに切ろうとするから摩擦が起きるのであり、対手が敵対するのである。権教の功徳は実教にはいってはじめて生ずるのであることを順々とさとしていけば時間はかかるがねばり強く続けてゆかねばならないのである。これ、現住日如上人が初転法輪のおり御指南された衣座室の三軌における忍辱の衣の意義である。
早瀬道寧氏の云うごとく、折伏を頭だけで考えてる御仁はおそらくおるまい。「彼を折伏しよう」と頭で考えるから折伏という実践にすすむのである。さらに云えば「誠意のある折伏」などと軽く云うものではない。自分の宗教をけなされたらどんな奴でも怒るのが当然だからだ。誠意ある説得、熱意あるおもいやりが対手の心を動かしてゆくのである。
「寝ていれば云云」などの例は小学生低学年向きのおハナシであろう。宗務院の役僧方の一部を除きこんな例言に心を動かされる健全な社会人はおそらくおるまい。ま、応顕寺の信徒のレベルがよくわかる事例ではある。
信心のあついものが同門の法華講員を十数年にわたり正体を隠して誹毀讒謗し誹謗・中傷のタレコミを断行し、訴訟文に書かれた住所・氏名がネットにさらされ、それがもとで商売の不動産屋がネットにさらされ、これに恐れて夜逃げ同然に商売をたたんでトンズラする森常男くんの現証が、応顕寺の信心によるものである。
これが応顕寺の功徳であれば誰も納得しないであろう。

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[勇気は唱題より生まれる]
また、御法主上人猊下は折伏の意義について、「折伏は一切衆生救済の慈悲行であり、自らの過去遠々劫からの罪障を消滅して幸せになるための最高の仏道修行であり、そして仏祖三宝尊に対する最高の報恩行であり、また仏様から与えられた尊い使命であります」(大日蓮・平成一八年四月号)と御指南されています。御本尊への絶対の確信と異体同心の団結があれば、老若男女を問わず折伏・育成は誰でもできますそこには、自分自身の魔との戦いもあります。この魔を打ち破り、折伏・育成、御講参詣の声を掛け合う勇気が大事であります。勇気は唱題から生まれます。唱題は、寺院を中心に行なうことが大切です。今日の世相を見ると、政治、教育、経済から自然現象に至るまで、まさしく末法濁悪の世相そのものを呈しています。現に、至る所で悲惨な戦争や事件が起きています。また、自然現象にも様々な変化をきたしています。こうした世相の混乱、いわば我らを取り巻く環境、それが人為的であれ、天変地夭の如き自然現象であれ、そうした環境が我々に及ぼす影響は、実に計り知れないほど大きいものがあります。我々は、この乱れきった世の中を良くする手段を知っています。それは邪義邪宗の害毒を取り除くことです。つまり折伏であります。さあ、後半戦スタートの六月も半分が過ぎました。法華講衆、一人ひとりが三世にわたる絶対の成仏と、一天四海本囚妙広宣流布を目指しして折伏・育成、御講参詣に立ち上がり、もって真の世界平和と全人類の幸せを実現していきましょう。御書に、「其れに付けても法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」(最蓮房御返事・御書六四二)とあります。この御金言の如くに、いよいよ信心に住し、素晴らしい果報を得、輝きのある境涯を築かれんことを、心からお祈り申し上げるものであります。最後に、本日御参詣の皆様方一人ひとりの、益々のご隆昌と、いよいよの信心倍増を心からお祈り申し上げ、本日の話とさせて頂きます。
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まあ、このあたりまでくればなにも云うことはない。早瀬道寧氏の二枚舌では信徒は誰も動くまい。しかし、それにしても「御講参詣」がしつこく云われている。
まるで御講の成否の責任は信徒にあるような口振りである。
邪宗破折で自然現象を変えられるとはよく云うものである。宗祖の時代には正嘉の大地震をきっかけとして立正安国論は成稿されたが、残念なことに宗祖は自然科学をしらなかった。故に時代に即して指導する血脈相承による教義決判者があるのだろう。
もし、正宗僧侶の中で御題目で地震は止められるし津波を押さえ込む事が出来ると考えている人がいるのであれば、東北の被災地へ行って堂々と述べるべきである。おそらくひとりもいまい。正常な常識的思考を持っていれば、ということであるが。
ただ、仏国土がなればあるいは巨大な災害も止められる可能性はある。私の体験によるものなのだがこれは別問題である。
それにしてもこんなクダラナイ無駄話しを聞かされる信徒の難行苦行は思いやられるものである。わざわざ本山で貴重な時間をとらされて聞く内容ではあるまい。落語の鰍沢でも気の利いたシャレで聞く者を慰めるのである。早瀬道寧氏は出家としては尊い仏飯を無駄食いしているのではないか。?
 
 
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