第六十話

 「どうして私が実家に帰らなければいけないというの?」

 息子の王太子就任に歓喜したのもつかの間、エレーナは突然コルドバ家から共についてきて来てくれたはずの侍女たちに囲まれ悲鳴をあげていた。
 ようやくフランコが王太子として次代の王位を担うことが決まったのだ。
 長きにわたってあの女に味わわされてきた屈辱を今こそ見返せる時が来たというのに、国母としてこの国でもっとも尊き者の一人として敬われる日がやってきたというのに。
 全く理解できない身内の裏切りにエレーナは正しく錯乱した。

 「いやよ!絶対にいや!コルドバなんてど田舎は私にはふさわしくないのよ!」

 エレーナの付き人はそのほとんどが父コルドバ公爵が娘に与えたコルドバ出身の者たちである。
 故郷をけなされて愉快な人間はいない。
 そうした人間の機微を読めないことが美しい彼女をして国王の寵愛から遠ざけていたのだということをエレーナが理解することはないのだろう。
 もとよりコルドバ公爵が彼女に求めたいた最大の要求は、国王の息子を産みあわよくば世継ぎになることであって、その目的はすでに達成されている。
 そうである以上、いつ問題を起こすのかわからないエレーナを王宮から遠ざけることは当然の処置であった。
 もちろん、次代の国王が母を敬い、母の影響力が息子に及ぶのであればエレーナが王宮から遠ざけられることはなかったのだが、そのフランコ当人が母の悪行の証拠を握り祖父に幽閉を要請しているのだから、エレーナがなんと言ったところで結果が変わるはずがなかったのである。

 「いったい誰がこんな真似を……あの女、マリアが陛下を唆したの?それともテレサとかいう雌犬が私からフラコを遠ざけようと……」
 「どちらでもありません。貴女を王宮から引き離すのは私の指示です、母上」
 「フランコ!悪い冗談はお止めなさい!お前を産み育てた母に対してなんという振る舞いですか!」
 「実の母ゆえに―――――です。母上」

 フランコは大げさに肩を竦め天を仰いだ。
 非常に困った人間ではあるが、確かにエレーナはフランコにとって母親であり、そこに情がないというわけではないのだ。

 「貴女はペードロとマリア妃殿下の暗殺をギルドに依頼されましたね?それだけで反逆者として処刑されても文句を言えるものではありません。貴女が処刑されずに済んだのは私の母であるからこそなのですよ」
 「そ、そんな――――私は貴方のために!だいたい最初に暗殺者を送り込んだのはあちらの方じゃないの!」
 「私に暗殺者を差し向けたのはペードロでもマリア妃殿下でもなく軍ですよ。まあ、理由に関わりなく証拠を押さえられた以上言い逃れは出来ませんが」
 「私は国母なのですよ!処刑など出来るものですか!」
 「ええ……私がこうして立太子された今、貴女を処刑するような真似はできない……」

 それ見たことか、とエレーナは笑った。
 どうせカルロスの命は長くはない。すぐにフランコが即位して、自分は国王を産んだ国母として不当に失われていた栄光を取り戻すのだ。
 しかしフランコの言葉はエレーナの希望を完全に打ち砕くものでしかなかった。

 「表だって処刑することが出来ない以上、事故に見せかけて城壁から突き落とすか……食事に毒を混ぜて毒殺するか……いずれにしろ心の休まる時間は一瞬たりともなくなるでしょうね。そんな生活がお望みなら止めはしませんが……」

 愚かなことにエレーナは初めて自分が命を狙われる側に立っていることを自覚した。
 これまで一度たりともエレーナは狙われるほうの側へ立ったことはない。。
 マリアを再三にわたって殺そうと画策はしたものの、自分がマリアに殺されるとは考えもしなかった。 
 それが明確な殺意をもって命の危険を実感してみれば、もはや抵抗するだけの強さなどエレーナに残されているはずがなかった。

 「いや……死ぬのはいやよ!どうして私がこんな目に会わなくてはならないの?」

 錯乱する母の肩に優しく手を置きながらも、フランコは一切の妥協を許さぬ声で囁いた。

 「どうか残る余生をお健やかに」




 ホセを迎えたサンタクルズは悄然と肩を落としていた。

 「――――こう言ってはなんだがホッとしているよ」
 「お疲れ様でした。力及ばず閣下までお守りすることができず申し訳ありません」
 「いやいや、君がいなければフランコ殿下も軍に全く罰を与えないというわけにはいかなかっただろう。まさか殿下が海軍に関心があるとは過分にして知らなかったが……おかげで私も処刑されずにベッドの上で死ねそうだよ」

 フランコの立太子に合わせるように、海軍相であったホセの軍務卿就任が発表されていた。
 サンファン王国としては初の平民軍務卿の誕生である。
 ホセは疑心暗鬼になっているサンタクルズを説得するとともに、王都に展開していた陸軍部隊を解散して新たな王太子への忠誠を誓った。
 その手際は鮮やかでサンタクルズに介入の隙を全く与えないものであった。
 さらに軍務省の中枢はホセの腹心によって抑えられ、あれよあれよという間にサンタクルズは過去の人と成り果てていたのである。
 ホセの手腕もさることながら、自分が軍務卿という地位を失った瞬間にすでに勝ち目はなかったことをサンタクルズは承知していた。
 部下たちはあくまでも軍務卿である自分に従っているだけで、サンタクルズ個人の命に従い祖国に剣を向ける気などさらさらなかったからだ。
 だがサンタクルズが本心から恭順を決めたのはバルトロメオによるフランコ暗殺未遂事件を個人的な犯行として内々に処理することを告げられたからであった。

 実のところバルトロメオは割と早い段階で軍の関与をほのめかしていた。
 彼としては生き残る目はなんらかの司法取引によって助命を引き出す以外にはない。
 出来ることならばサンタクルズの手引きで脱獄するのが最善だった。
 だがそのためには早く助けなければ自分の身が危ういとサンタクルズに知ってもらう必要があったのである。
 ことさら軍の関与をほのめかしたのは、そうして捜査の手が軍に及ぶことを狙ったものであった。 
 さらに彼は軍が自分を切り捨てた場合の保険に請け負った任務の細かい内容と資金の使い道についての記録を残していた。
 命令書のような直接的に軍とバルロトメオを結ぶものは何も残されていないが、現地での情報収集や物の調達に軍の出先機関が関わっていることは多く、記録と任務の内容と照らし合わせてみれば十分に間接的な証拠となりうるものであったのである。
 しかしバルトロメオの思惑は失敗した。
 何故ならフランコは軍を排除するどころか、守ろうとしていたからである。

 「―――――そんなわけでお前の証言は不要になった」

 全く当てのはずれたことを聞かされたバルトロメオは、それでもなお傲然と嗤った。
 潔く諦めて改心するなど、この男の生き方にはありえないことであった。

 「もっと早く言ってくれりゃあサンタクルズの爺さんも血迷わなかっただろうにな」

 しかし筋金入りの悪党であるバルトロメオは、その死の瞬間まで生き延びることを諦めなかった。
 死刑の処分が決まってからも、バルトロメオはフランコに打ち明けたい秘密がある、と幾度にもわたって面会を希望している。
 彼の奥歯には毒薬と解毒薬が隠されているとわかったのは、彼が処刑された後のことである。
 万が一面会が叶ったならば、いかなる手段を用いてもフランコに毒を飲ませ、人質にして逃亡することを狙っていたに違いない、と関係者はこの悪党の執念に背筋の寒気を隠せなかったという。
 




 「私は兄上こそ王位に相応しいお方だと思います!」

 フランコの弟であるペードロはフランコの立太子に諸手をあげて賛成した。
 年齢の離れたアブレーゴよりも、年が近く秀麗な美貌と研ぎ澄まされた才覚を持つフランコをペードロは兄として慕っていたのである。
 母であるマリアも権勢欲のない控えめな女性で、息子を国王にしなければならないという気の欠片もなかった。
 彼らを支持していた一部の軍勢力は落胆したが、それもホセとフランコの蜜月が明らかとなるまでで、事実上第三王子派は消滅したと言っても過言ではない。
 しかしフランコに王子が生まれるまでは彼が王位継承権を持つことは変わらず、今後も一定の政治的配慮が必要となるだろう。
 いささかおひとよしのきらいがあるこの弟をフランコはあえて敵に回すつもりはなかった。
 父カルロスの希望通り、ペードロとマリアは毒にも薬にもならぬ権威を与えて静かに生活してもらう予定であった。



 一連の政治的策動の終わったフランコは疲れたように小さな頭をテレサの肩にもたれかからせてため息を漏らしていた。

 「ようやくテレサと二人きりになれたよぅ……」

 褒めて褒めて、と言わんばかりに頬を擦りつけるフランコに苦笑しながら、テレサはフランコの柔らかな髪を撫で上げる。

 「よく頑張ったねフランコ」
 「うん、私頑張ったよテレサ!だから今日は思いきり甘えさせてね」

 瞳をキラキラと輝かせるフランコの表情が可愛らしく、目元を緩ませてテレサはフランコを抱きしめる手に力をこめた。
 マウリシア王国人であり、政治的センスのないテレサにはフランコを精神的に支える以上のことはできない。
 二人の未来を守るためにフランコがどれほど神経をすり減らしてきたかわかっているだけになおさらテレサのフランコに対する愛おしさは募るのであった。
 どちからともなく唇が吸い寄せられるように重なり、互い唾液をすすり合う水音が部屋に響きわたる。
 官能にどこか熱に浮かされたようなフランコがテレサの胸のふくらみに手を這わせると、テレサは思わず鼻にかかった甘い悲鳴をあげた。

 「テレサ―――私もう我慢が……」
 「僕もだよ……僕だけの可愛いお姫様」

 テレサたち一行は明日の祝賀会を最後にマウリシア王国へと帰還する。
 もちろんテレサとの婚約がそれで解消されるわけではないが、正式な輿入れまでほとんど会えない二人にとっては今夜の逢瀬はしばしの別れのひとときである。
 互いの熱がさらに二人の体温を燃え立たせるように、官能の炎に若い二人が身を焦がすのも無理からぬことというほかはあるまい。
 次第にくぐもったような低いうなり声と、すすり泣くような甘い啼泣がきしむベッドの音に混じり始めた。


 「も、もうそろそろ眠らないか?ほら、明日は朝も早いことだし……」
 「気持ちよくなかった?テレサ。もう私に飽きてしまった?」
 「そんなことあるはずないだろう?僕はいつでも君の虜さ」
 「良かった!それじゃもう一回しましょう!」
 「…………ははは…………お手柔らかに頼むよ」


 もしかしたら結婚式前に孕むかもしれない。
 テレサはたらり、とこめかみを一筋の汗が流れおちていくのを自覚するが主人の乳を求める可愛いワンコを突き放す気にはなれないのだった。




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