軍務卿サンタクルズはバルトロメオの捕縛の報告を聞いて以来眠れぬ夜を過ごしていた。
たった数日の間に目は落ちくぼみ、肌は血色を失ってまるで病人のような有様である。
彼の焦燥は王都において陸兵一個連隊を緊急稼働状態に置いたことでも明らかであった。
表向きは王子暗殺未遂に対する王都の治安維持であったが、サンタクルズは万が一自分が犯人として訴追されるようなことがあれば武力クーデターを起こして第三王子を即位させるつもりでいた。
しかし第二王子が即位するというのならばともかく、国王カルロスが健在な状態でクーデターを実行することはあまりにも分の悪い賭けであることもサンタクルズは承知していた。
いかに自分が軍務卿として軍部の最高責任者であるとしても、その軍務卿の任免権は国王にあり、軍の兵士も大半は国王に対して忠誠を誓っているからである。
バルトロメオとサンタクルズの間に暗殺の命令を証明する物証は何もない。
サンタクルズはそうした証拠が残らぬよう細心の注意を払ってきたつもりだった。
唯一、バルトロメオが生きて捕まった以上その証言だけは阻止することができなかった。
「――――いずれにしろ奴はもはや死を免れぬ。はたしてどこまで私に義理立てしてくれるものか…………」
万が一捕まった場合にはバルトロメオにはマウリシア王国とサンファン王国の接近を阻むためトリストヴィー公国に雇われたと証言するように指示はしているが、どこまでバルトロメオが従うものかサンタクルズには自信が持てなかった。
バルトロメオが自分の利のためには悪魔にも魂を売る男であるということを知っているから余計にである。
出来うるならば早くあの男を殺してしまいたい。
余計なことをしゃべる前に殺すことが出来れば自分とバルトロメオを繋ぐ情報は何一つ残されていないはずだ。
寿命が十年は縮む思いを耐えながら、サンタクルズはバルトロメオの収監先を求めて部下の報告を待ち続けていた。
「やれやれ、あんなんで軍(うち)は大丈夫かねえ……」
ぼやき顔で冷えたブドウ水で喉を潤しながら、海軍相ホセ・リベリアーノは暗鬱たる思いを隠せなかった。
まだ四十代の半ばであるが風貌は若々しく、三十代前半にしか思えないほどであるが、海の男という割には色が白くて優男と言っていい容姿である。
軍人というよりは学者であると言われたほうが納得が出来る印象だが、艦隊を率いらせれば同じ軍内にも右にでるものはいない。
マルマラ海を縄張りにする海賊たちにはレパントの悪魔として畏れられた彼は、なまじ有能であるがために現在の政治的危機について危惧を抱かずにはいられなかったのである。
軍の中枢にいるものならば、当然軍務卿の思惑はある程度は承知している。
第三王子の擁立と政権における影響力の保持という戦略自体は問題なかったが、それが第二王子の暗殺、そして軍事クーデターにまで大きくなると、失敗したときの軍に与える影響は壊滅的なものになるだろう。
そうしたリスクを考えればサンタクルズの過剰反応は軍の長としていかがなものか、とホセには思えてしまうのだった。
彼がそうした本音を表に出さないのは、彼が政治家であるより軍人であろうとしていることのほかに、彼自身が平民出身であるため軍内部での主流派閥からはずれているからである。彼が海軍の頂点に立てたのは、まず彼が優秀な指揮官であり軍政家であることもあるが、派閥抗争のバランスを取るための一時的な繋ぎである、という事情が大きい。
そんな偶然で現在のような苦境に立たされたホセとしてはたまったものではなかった。
「閣下、面会の要請が来ておりますがどうなさいますか?」
「――――軍務卿ではなく、私にかい?いったい誰かな、その物好きは」
「第二王子の紹介状を所持しておるようですが…………」
「なんだって?」
断るべきか、とホセは躊躇した。
公表されてはいないが、おそらく第二王子を襲撃したのは軍務卿直属の非正規戦部隊だろう。そうでなくてはあれほど軍務卿が怯える理由がない。
下手をすれば使者はその問題について軍を詰問に来た可能性があった。
だからといってここで面会を拒絶することも問題である。
内容も聞きもせずに使者を追い返した場合、疑惑は軍にあることを認めるようなものであるからだ。
「――――仕方ない。私のところまで通してくれ。ただし通すのは一人だけだ。護衛の同行は認めない」
「かしこまりました」
どうしてよりにもよって自分のところにやってくるんだ。どうせなら軍務卿のところに行ってくれればいいのに。
ホセは全く思いも寄れぬ貧乏くじに、人知れず眉を顰めた。
「突然の訪問をお詫びいたします。ホセ海軍相閣下。私はバルド・セヴァーン・コルネリアス男爵と申す者。お見知りおき頂きたい」
これはとんだ厄モノがやってきたものだ。
ホセは自分の運の悪さに神を呪いたい思いであった。
よりにもよって軍務卿がやらかした暗殺犯を逮捕した張本人ではないか。
「マウリシア王国のお使者である男爵がなぜ第二王子の紹介状を?」
「ご存じのように殿下が妻に望まれている女性はマウリシアの騎士であると同時に私の幼馴染でもありまして。殿下におかれては先日の事件でいささかなりとお役に立てた私を頼りにしていただいております」
―――――余計な手を出さずに第二王子が殺されていてくれたほうが問題は少なくて済んだと思うがね。
本音ではそう思ったホセではあるが、バルドの前では表情を変えずに楽しそうに微笑するだけにとどめた。この程度の腹芸が出来ずにさすがに海軍相は務まらない。
「本日参った理由はほかでもありません。軍のフランコ殿下に対する誤解を解いておきたかったからです」
「―――――誤解……ですか?」
「いかさま。フランコ殿下はコルドバ公爵をはじめとする宮廷貴族を代表して国家予算の主導権を軍から取り戻そうとしている、と巷では噂されているようですがこれは大きな間違いです」
「初めて聞くお話ですな。もしも事実であれば驚くべきことですが―――なぜそれを私に?」
フランコがマウリシア貴族の娘に入れあげて貴族の支持を失いかけているという話はホセも承知していた。ゆえに、逆に軍に媚を売ることもありうる話である。
だがその話を自分に持ってくる理由がわからなかった。
「――――殿下が貴族の支持を失ったために軍に鞍替えしようとしているとお考えで?」
「まさか、そんな不遜な考えは一切ございません。しかしフランコ殿下が貴族の支持を失いつつあることは事実でありましょう」
「ところがどうしてそうではありません。コルドバ公爵をはじめとして大貴族のほとんどは変わらずフランコ殿下を支持しておられます。大貴族が支持を変えぬ以上その下の貴族もまたそれに倣うでしょう」
ここで初めてホセは不審に顔を曇らせた。
バルドの意図するところがわからなかったからである。
貴族の支持があるのならば、軍に媚を売るような真似は逆効果だ。
確かに貴族と軍の双方の支持を取り付けることが出来れば第二王子の立太子は確実であろうが、両者の利害を調整することなど、おそらく国王にすら出来はしないだろう。
「余計にわからなくなりましたな。ますます私などに声をかける必要はありますまい」
どこか他人事のように政治を見ているホセでも、軍に愛着を持ち、その利益を代弁する気持ちに変わりはない。もし軍務卿を裏切り軍の一部を第二王子派に取り込みたいというのならば飛んだ見込み違いとしか言いようがなかった。
「それでは軍務卿閣下が私の言うことを素直に聞いてくれるとお思いですか?」
「…………もちろん歓迎をいたしましょうとも」
表向きはともかくとして、素直に受け入れるのは不可能であろうな、とホセは思う。
しかしそれは軍務卿が第二王子暗殺を企んだという事実があればこそであり、そうでなければ一応第二王子の提言を聞く程度の余裕はあってしかるべきだ。
ここでバルドの言葉を認めるということは第二王子の暗殺の背後にいるのが軍部であると自白するのに等しかった。
「残念ながら一目会うどころか親書を渡すことさえ出来なかったのですがね」
軍務卿、貴方は何をやっているんだ、とホセは心の中でののしり声をあげた。
少なくとも状況的に疑われている側の人間のすることではない。
むしろ探られるようなことは何もない、と堂々と招き入れて無実をアピールするところではないか。
「……我々は貴方のそのバランス感覚を高く評価しています。平民でありながら貴方が軍相に就任することに反対する人は少なかった。貴方の現実主義的な対応能力に一定の安心感があったことの証左です。いくら派閥の利害を優先する人間でも正当な評価を与えてくれる人間を嫌いにはなれませんのでね」
現在の海軍内には大きく分けて二つの派閥がある。
一つは海軍の戦力を向上させ、トリストヴィー公国との決戦を目論む艦隊派であり、もう一つが海賊の討伐を主として商船の航海の安全を図り、新たな航路の開拓に乗り出そうという保守派である。
本来の海軍の任務とは商船の護衛であることを考えれば保守派の主張が正しそうに思われるが、歴史的な敵国であり、内乱で勢力を減じたトリストヴィー海軍を撃滅しようとする艦隊派が現在では海軍の主流を占めつつあった。
しかし英雄ディエゴの死後カリスマ的な指導者を失った艦隊派はリーダーを欠き、若い指揮官が将来の海軍相としての経験を積むまでの繋ぎとして担ぎ出されたのが中立派のホセだったのである。
「繰り返しますがフランコ殿下は軍―――特に海軍を削減しようとは考えておりません。むしろ拡張するべきとすら考えておられます。これは殿下ばかりでなく我がマウリシア王国も同意するところであるとご承知いただきたい」
「殿下ばかりでなくマウリシア王国がサンファン王国海軍の発展を望む理由をお聞きしてよろしいか」
すでにしてホセの顔は先ほどまでのどこか他人事めいた傍観者の顔つきではなくなっていた。
彼は彼なりの勘と経験でバルドの言葉がサンファン王国海軍にもたらす影響について真剣に検討しなければならないことを悟ったのである。しかもマウリシア王国の意向まで持ち出してきた以上迂闊な対応は国家の損失に繋がりかねなかった。
サンファン王国は海軍力に優れた海洋国家であり、ホセ海軍相は中立派の出身で派閥の利害ではなく軍と国家の権益を正しく判断できる力量を持っている。
だからこそバルドは口説き落とすべき軍の高官に彼を選んだのだ。
ゴトリ、とバルドは懐から木製の細工を取りだしてホセの目の前においた。
「これからの海はもっと遠くまで、そして大量の船が行きかうようになっていくでしょう。その証として、我々は羅針盤と壊血病の予防法を提供する用意があります」
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