第五十八話

 羅針盤の開発の歴史は古く、雅春の知識では中国で発明されたのは11世紀のことであったと言われている。
 しかしこの羅針盤は水を湛えたくぼみの中央に磁石を置くという簡易なもので、羅針盤が実用的なものとして荒天でも使用できる全天候型となったのは吊り下げ式が開発された15世紀になってからのことである。
 これにより悪天候のもとでも正確に方位を測ることが出来るようになったことで大航海時代は幕を開けた。
 現在サンファン王国がマルマラ海の海賊を排除しきれない理由のひとつは外洋航海能力の不足があげられる。
 バルドの提示した小型の羅針盤模型は、そうした問題が解決することを意味していた。

 「――――これを提供することがどういうことかわかっていますか?」

 バルドが年齢通りの人間でないことは十分すぎるほどわかっているはずのホセだが問わずにはいられなかった。
 この小さな装置は大陸に新たな時代を運びこむものだ。
 根っからの海の男であるホセにはそのことが痛いほどによくわかっていた。
 これまでは自殺志願者のような冒険家しか挑むことが出来なかった他大陸に、誰もが挑戦できるようになる。すなわち、現大陸の海洋国家が国家としての在り様を変革していかねばならないことになるのだ。
 この機会を得て変化を許容できない国家など海洋国家ではない。

 「マウリシア王国に海はありませんので……出来るだけ信頼のおける同盟国に所有してもらうのが望ましいのですよ。そして我が国の産物をサンファン王国に輸出してもらえるなら双方にとってこれほど良い関係もありますまい」

 現時点でマウリシア王国に海洋国家を侵略するという予定はない。
 であるならば同盟国の戦力強化は必須とも言える。
 さらにバルドにはセリーナと秘密裡にジェニー紡績機の開発を進めているという事情もあった。。
 ジェニー紡績機は複数のスプールがある糸車で、イングランドのジェーム・ハーグリーブスが発明したとされる。一人の職人が八個以上のスプールを扱えるために意図の製造時間が劇的に短縮した。17世紀にミュール紡績機に取って代わられるまで、紡績機の花形として活躍した。
 もともとジェームズが偶然紡錘が水平ではなく垂直に配置しても問題なく機能することを発見したアイデア商品なので技術的に後年のミュール紡績機ほど複雑なものではなく、雅春の概略的な知識でもなんとか再現が可能であると思われた。
 安価に糸の大量生産が出来るとなれば、それを消費する市場が必要となるのは当然の帰結である。
 そうした意味でもサンファン王国による海外市場の開拓はマウリシア王国にとっても国益に叶うものであるのだった。

 「――――それでは壊血病の予防法なんだが……」
 「それはサバラン商会が販売するとある食品を食べ続けてもらえれば、航海中に壊血病に罹らないことは保障しますよ。何故なのかまではお教えできませんがね」
 「やれやれ……まさか薬ではなく食べ物とはね」

 壊血病はビタミンCの欠乏により、体内の各器官から出血と伴いやがては死に至る病気である。
 長期間外洋を航海する船では保存の関係から新鮮な野菜や果物を摂取することが出来ず、燻製肉などの動物性タンパク質メインにならざるを得ないことから船乗りの間で死神のように忌み嫌われた病気である。
 もちろんこの大陸においても、食品の栄養成分などが解明されているわけではなく、壊血病な謎の奇病として長期間の航海の天敵であった。

 「これほどの発見が内陸国家であるマウリシア王国の人間にもたらされるとは思わなかったよ――――正直是が非でも欲しいところだが……私も軍の人間として組織の命令に従わないわけにはいかない。そこはどうするつもりなのかな?」

 お手上げだ、と言わんばかりに両手をあげて砕けた口調でホセはバルドに問いかけた。
 この少年ならばその程度のことを考えていないはずがなかったからだ。

 「閣下がフランコ殿下を支持した―――その事実があれば十分です。もちろん海軍ではなくホセ・リベリアーノ個人の見解で結構。おそらく決着までそう長い時間はかからないでしょう」
 「派閥もろくに持たない名ばかりの海軍相だがね、私は」
 「閣下は自分を過小評価しすぎです。確かに軍内部の権力闘争には力がないかもしれませんが、感情より理性を優先する知性派である閣下の判断は、現在軍務卿の暴走に不安を抱えている上層部にとても大きな影響を与えると思いますよ?」

 理性的でリスクの高い判断をしないバランスのとれた人物と判断されたからこそホセは派閥に属していないにもかかわらず海軍相に選ばれたのだ。
 その彼が第二王子を支持したとなれば、決して出世や買収のためではなく、第二王子についたほうが有利とホセが判断したと思われるのは確実であった。
 ホセの決断にはそれだけの有形無形の信頼が寄せられているということを、ホセ自身は自覚していないようだが。
 
 「最初から最後まで君には驚かされっぱなしだったな。実は私より年齢が上ということはないだろうね?」

 早熟な子供はいるものだが、バルドのそれはあまりにも常軌を逸している。
 まるで年上の好々爺に手のひらの上で転がされているような、そんな錯覚すら覚えるほどだ。
 もちろんそんなことはありえるはずもなく、ホセも皮肉と冗談で口にしたつもりであった。

 『あの世からいのる爺までついておるやさけ(あの世から帰ってきたお爺さんまでついているからなあ)』
 『現代チートに年齢は関係ないしねえ……』
 「―――――今、なんと?」
 「いえ、人は見かけによらないものだと申し上げたのですよ」


 そう言って噴出すように笑うバルドの顔は、やはり年相応の少年のものにしか見えなかった。

 (さて、外堀は埋まった。後は殿下の番ですよ)





 国王カルロス5世は期待をかけた長男の死後、すっかりふぬけてしまったというのがもっぱらの評判である。
 しかし彼はサンファン王国の歴史のなかでも名君に分類されるだけの実績をあげており、決して無能ではない識見を持ち合わせている。
 そんな彼をして虚脱させてしまうほどに愛した嫡子の死は巨大な衝撃であった。
 もちろん彼がフランコやペードロを愛していないというわけではない。
 問題なのはどちらを選択したところで深刻な不和が生じるのを避けようがないということだ。
 あと数年若ければカルロスは息子のために長年の功臣を粛清してでも国内の勢力関係を修正したかもしれないが、もはやそれをするだけの気力がカルロスにはなかった。

 「衰えた――――ものだな」

 わずかな間に痩せ衰えた皺だらけの手を見てカルロスは自嘲する。
 宮廷医師とカルロスの間でしか知られていないことだが、アブレーゴの死とは関係なしに、すでにカルロスの身体は病魔に蝕まれていたのである。
 急速な体重の減少と体力の衰え……それが意味するところはひとつしかない、癌であった。
 下手をすれば自分の命が一年と持たないであろうことを自覚しながらもカルロスが王太子を決断できないのにはわけがある。
 器量から言えばフランコのほうが上であることは間違いない。
 どこか他人事のような無関心さも、王太子となれば幾分なりと変わるであろう。
 ペードロは末っ子としていささか可愛がられすぎた。
 人が良すぎてすぐに人の言うことに流されてしまう傾向がある。
 有能で誠実な腹心がいれば問題は起きないかもしれないが、腹心の力量で国家が左右されてしまうのは決して望ましいものではない。
 それでもなお、本音の部分では出来ればペードロに王位を継がせたいとカルロスは考えていた。
 なぜなら――――――。

 ゴホリと湿った咳をして背筋を折ったカルロスのもとに、侍従の一人が気遣わしげに客の来訪を告げた。

 「フランコ殿下がお目通りを願っておられますがいかがなさいますか、陛下?」

 珍しいこともあるものだ、とカルロスは思う。
 成長してからはほとんど家族が集まる以外は個人的に話す機会もない息子だった。
 長男であるアブレーゴを立て、出過ぎず政治的な活動をしたことのない息子であったはずだが、ついにここにきて権力闘争に目覚めたということなのだろうか。

 「よかろう、通せ」
 「御意」

 はたしてフランコがどのように変わり何を求めるつもりなのか、その内容によってはカルロスの屈託した悩みは今日にも解決するかもしれなかった。
 たとえそれが良きにせよ悪しきにせよ、幸にせよ、不幸にせよ…………。



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