小さいころ、「死」が無性にこわかった。
自分がいつの日か「無に帰る」なんて信じられなかった。
でも、年を取るにつれて死は現実味を帯びてきた。
親族で亡くなった人がいる。
自殺した知人だっている。
僕も、いつの日かそれに続くのだ。絶対に。
どうすれば、死の恐怖から逃れられるのだろうか。
エピクロス曰く
古代ギリシアにエピクロスという哲人がいた。快楽主義を説いた哲人だが、それについては深く扱わない。
彼は、死についてこう説明している。
「死はわたしたちに無関係である」、と。
理屈を簡単説明すると、要は「生きている間に死は存在しないし、死んだときにはもうそれを感じられないから」、だ。
感じられないものに、善も悪もない。快も不快もない。
だから、気にするな。ということなのだろう。
死の恐怖
しかし、そんなに簡単に割り切れるものだろうか。
確かに、真の意味で自身が「死の感覚」を味わうことはないのかもしれない。
が、他人の死を通して間接的に恐怖を味わってしまうことがある。
それに、いつの日か「自分が認知できないこと」が必ず起こるという事実が怖いのだ。
「死」を感じることがないというのは、「快でも不快でもない」という点において救いであるが、同時に、その実態のなさこそが最大の恐怖でもあるのだ。
人の手で
とはいえ、実態のないものに対して怯えているだけでは、恐怖から逃れることなどできないことも事実だ。
かといって、「宗教」や「死後の世界」を夢見る時代も終わった。すがる人はすがればいいが、僕にとっては救いにはならない。
エピクロスに戻るが、彼の主張のいいところは「死」すらもただの事実として受け止めているところだ。宗教や神など入る余地はない。
つまり、人の手で死の感覚と対峙できるということなのだ。
では、どうすればいいのだろう。
自分の手で死の恐怖から逃れる方法は、なんだろうか。
死の恐怖から逃れる方法
僕は、「死について考えないのは、どういうときだろうか」、と考えた。
例えば、ライブをしているとき。全身全霊で音楽と対峙しているから、死が顔を覗かせる暇などない。
または、忙しく仕事をしているとき。必死だから、死が顔を覗かせる暇などない。
要するに、「充実している瞬間」や「なにかに打ち込んでいる瞬間」は、死が頭から抜け落ちているということだ。
反対に、「退屈なとき」や「空虚な時間」に、死は顔を覗かせる。死は、恐怖は、空想のなかから生まれるからだ。
詰まるところ、人間にとっての1番の恐怖は、わたしたちが頭のなかで勝手につくった空想なのかもしれません。
まとめ
なにかを始めるまえから「失敗する」という空想におぼれ、なにも始められない人は、始めることにすら失敗してしまいます。
きっと、「死」についても似たようなものだ思うのです。
「いつか死ぬ」という空想におぼれ、いまを全力で生きられない人は、死の恐怖に負けてしまいます。
いまを全力で生きていない退屈な人生には、死が顔を覗かせる隙間があるからです。
しかし、いまを全力で生きている充実した人生には、死が顔を覗かせる隙間がない。
結局、「全力で生きていない人」は死の恐怖に負けるし、「全力で生きている人」は死の恐怖に勝てる(感じない)のだと思います。
死について考える暇があるのなら、なにかに夢中になってしまえ。
これが、自らの手で「死の恐怖」から逃れる現実的な術なのだと思います。
おわり。
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