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新資料発掘 “私たちの憲法”

憲法が公布されて、今月3日で70年となりました。安倍総理大臣は憲法改正の発議に向けて政局に左右されずに議論が進むことに期待を示していますが、およそ60年前にも憲法をめぐって議論が高まったことがあります。1957年、政府が「憲法調査会」で議論をスタート。その翌年に、当時の日本を代表する知識人たちが「憲法問題研究会」を設立し、民間の立場から論壇をリードしたのです。この民間の研究会の議論を記録した貴重な資料が、新たに見つかりました。議論のキーワードは、「わたしたち、国民」でした。(社会部・土井健太郎記者/斉藤隆行記者)

“国民とともに” 結集した知性

東京大学の地下にある史料室。ここに、40年にわたり眠り続けた資料が保管されていました。「憲法問題研究会」の議論の記録です。1958年に発足した憲法問題研究会には、日本を代表する法学者や政治学者などおよそ50人が参加し、戦後の論壇で活躍した丸山眞男やノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹も名前を連ねていました。この研究会の議論の記録が最近になって複数見つかり、これまでほとんど知られていなかったやりとりの詳細が明らかになってきました。

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資料を残した1人が、東京大学名誉教授の我妻栄です。民法が専門で、日本を代表する法学者です。東京大学に残された170ページに上る我妻のメモには、研究会の在り方についてこんな記述がありました。
「国民を啓もうし、国民から啓もうされ、国民とともに研究する」。

改憲目指した岸元首相

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我妻たちが民間の研究会を立ち上げたのは、当時、政府主導で憲法改正の議論が巻き起こっていたからでした。研究会ができる1年前、当時の岸信介総理大臣が政府に設置された「憲法調査会」で議論をスタートさせていたのです。

当時、政府の憲法調査会で資料作りなどを担っていた早稲田大学の小林昭三名誉教授は、調査会の狙いについて、「戦後の占領期につくられた憲法なのだから、改正しなければいけない。改正論者の中心になって、憲法の調査をしよう。独立したのだから、独立にふさわしい憲法をつくろうと考えた」と話しています。
岸自身も政府の憲法調査会について、のちにこう語っています。
「憲法調査会で、日本国憲法は改正すべしという権威ある結論を出させたかった」。

一方、我妻は次のように考えていました。民間の研究会の目的について、当時の記録には「政府の憲法調査会とは違った考えのあることを国民の前に示すために、研究する必要があると考えたことが、研究会をつくった理由である」と記されています。憲法の論議は「国民とともに」という考えを重視していたのです。

“国民の手で憲法を” 知識人の主張

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憲法問題研究会のメンバーは月に1度、勉強会を開き、18年にわたって議論を重ねました。
我妻たちが残した記録を見ると、そのテーマは、「天皇制」「自衛隊」「家族制度」など多岐にわたります。また、「日米安保条約の改定」や、アメリカ軍基地に立ち入った学生などが有罪判決を受けた「砂川事件」など、当時の時事問題についても積極的に取り上げています。そして、憲法改正をめぐっては、護憲、改憲の主張が飛び交っていました。1962年3月10日の記録です。

中国文学の研究者、竹内好は、国民が憲法に向き合うためには改憲が必要だと主張していました。
「憲法改正の問題は国民形成のためには絶好のチャンスだ。国民の中からわき出るエネルギーをもっと育てるべきではないか。今の憲法をこわすべきではないか」。

これに対して歴史学者の家永三郎は、憲法をまもっていくことで、国民のものになると反論します。
「憲法の成立のプロセスを振り返れば与えられた憲法だったかもしれないが、今度それが奪われようとするときに国民の力でまもり抜けば、そのとき本当に国民自身のものとなるのではないか」。

考え方の違いを超えて熱い議論が交わされました。

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その議論の成果を憲法問題研究会は国民と共有することに力を注ぎます。5月3日の憲法記念日に、毎年、講演会を開催。入りきらないほどの聴衆が詰めかけたこともあったといいます。
講演会の中で我妻は、「憲法を研究するということは学者だけの専売ではない。国民全体がやらなければならないことだ。問題点を自分で考えて、自分の思想で判断して、そのうえで賛否の手を挙げることである」と述べ、国民に議論への参加を訴えました。

首相と法学者 たもとを分かった旧友

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民間の立場で憲法を議論した我妻と、政府主導で改憲を目指した岸。実は2人は旧制一高、そして東京帝国大学の同級生でした。我妻の出身地、山形県米沢市にある記念館には、2人が一緒に収まった写真が数多くあります。我妻が岸について語った肉声のテープも残されていました。

「岸君とは非常に親しくて、しょっちゅう海岸なんかに一緒に行って勉強していました。彼は役人になって、私は大学の先生に残って、そこから2人の歩く道が、そこで違ってきたわけです」

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テープからは我妻の岸への親しみが感じられます。2人は学生時代、日本の最高学府で首席を争っていたといいます。記念館の上村勘二館長は、2人の関係について「ライバルであり、親友だったと思います」と話していました。

大学卒業後、異なる道を歩んだ2人の同級生は、40年後に再び接点を持つことになります。総理大臣となっていた岸が、政府の憲法調査会の委員に就任してほしいと我妻に頼んだのです。しかし、我妻は旧友の誘いを断ります。政府の調査会では、自分が思うような議論はできないと考えたのです。その時の思いの一端が記念館に残された我妻の日記に記されていました。

「せっかくの申し出に対して、申し訳ないが、お引き受けしても学者としての所信に従って行動しえないと思いますので、お断りします。あしからず。我妻栄 岸総理へ」

“決めるのは国民” 碩学(せきがく)が残した言葉

我妻が旧友の誘いを断って設立した憲法問題研究会。議論の記録を読み込むと、我妻たちが憲法の基本原理である「国民主権」にこだわっていたことがわかりました。

「国民が憲法を定めるということをもっと強調すべきではないか」(中国文学研究者・竹内好)

「国会すなわち国民ではなく、国民が上なのだから」(政治学者・辻清明)

「我々の場合に、守るものは何か。守るのが民主主義だという点が大切なのだ」(経済学者・大内兵衛)

さらに、実は政府の憲法調査会の委員も、民間で憲法の議論が盛んに行われることは大切だと考えていたことも見えてきました。

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後の総理大臣で当時、委員だった中曽根康弘氏は、憲法調査会での議論の中で、こう発言しています。
「憲法問題研究会のような、ああいうものはどんどん出てきたほうがいいと私は思います。この問題を国民が検討するチャンスを作ったほうがいいと思うのであります」。

憲法公布70年 “私たち” が考える

我妻は1973年に亡くなるまで、15年にわたって中心メンバーとして憲法問題研究会の活動を支えました。そして、次のことばを残しました。

「戦後10年を経た現在、憲法の再検討がすでに政府によって実行されつつある。それなのになお、国民の関心がうすいとは、誠に残念なことである。いうまでもなく、憲法を改正するかしないか、するならどんな具合に改正するかを決定するものは国民である」。

我妻の資料を分析した、上智大学の高見勝利名誉教授は、「国民がどのように憲法と関わっていけばいいのかを真剣に考える上で、彼らから学ぶべきことは大きい」と話しています。

戦争の爪痕が色濃く残る時代。政治も、民間もそれぞれの立場で憲法とは何か、どうあるべきかという問いに、真剣に向き合い議論を重ねていたことが今回の取材を通して具体的に見えてきました。今月10日には国会で、憲法に関する議論が再開されます。憲法は私たちの社会を形づくる基礎となるものです。我妻たちが残した言葉の意味を今こそ深くかみしめながら、この70年に憲法が果たしてきた役割を見つめ直し、“私たち”の憲法について考えていきたいと、改めて強く感じています。

土井健太郎
社会部
土井健太郎記者
斉藤隆行
社会部
斉藤隆行記者