2016-11-08

40歳大学准教授

40歳になったのを記念に、「不惑からはほど遠いが、自分語りする。

幼稚園前後から自分記憶ははじまっている。

自分のことがよく分からなかった。

自分のことをバカだと思っていた。

世の中は分からないことだらけだった。

あとから聞かされたのだが、幼稚園にはじめていった時まったくしゃべらなくなったらしかった。

小学校にあがってからもかなり小便をもらしていた。

毎晩UFOがうちに来ているとなぜか思い込んでいた。

自分が男なのか女なのか分からなくなった。

恥ずかしさというものが何なのか分からなくなり、なぜかパンツをずり下ろして登下校していた。

身体の動かしかたが分からなかったため、ぎくしゃくとロボットのように身体を動かしていた。

自分のことをロボットだと思い込んでいた。

みんなが笑うから体育の時間がいやでたまらなかった。

幼稚園から小学校の低学年まで、泣いて帰らない日はなかった。

特殊学級があるのを知り、そこに自分がいないのはなぜかといぶかしんだ。

いつも泣いている自分を見て、親はいつも明日はいいことがあると言い聞かせていた。

あくる日になったらなったで明日はいいことがあると繰り返す親の言葉に、混乱はさらに加速した。

やはり自分バカなのだと思った。

自分のことを指さして笑う同級生教師を見て、確信は深まるばかりだった。

親友が一人できて、性格が明るくなった。

中学生になり、親から強制的に体育系の部活に入部させられた。

そこで熱心に部活をした結果、性格が明るくなり、いじめられることはなくなった。

キャプテンにはならなかったが、副キャプテンになった。

もう一人の親友ができて、さら性格が明るくなった。

高校3年生になるまで女子普通にしゃべれなかった。

いっちょまえに、幼稚園のころ、小学生のころと恋する気持ちはもっていた。

やさしい女の子が好きだった。

自分を受け入れてくれるかもしれないという可能性を感じることが、すなわち恋だった。

女子としゃべれるようになったきっかけは、高校3年生になった時に女子がどうでもよくなったからだった。

そのかわり勉強に恋した。

あるがままの自分でいるためには勉強すればよいのだという発想の転換があった。

後日、気が狂ったかと思ったと親から聞かされるくらい勉強し、偏差値40台から70台まで成績をあげた。

そしてそれなりの大学合格して、田舎から上京した。

大学生になり、本気で女の人を好きになった。

自分の追いかける人には従順で、自分を追いかける人には残酷な人だった。

その奔放さに、その人のありのままの姿を感じ、そのありのままさに恋していた。

まりにこっぴどくふられ続けたために人間不信になり、大学留年した。

この時、自分のこしらえた箱庭的宇宙へと逃げ込む才覚があれば、もっとすごい人間になれたのではないかと思う。

大学卒業後、そこそこの会社入社し、企画仕事にたずさわった。

特許をいくつか取るほどにはがんばった。

が、結局丸3年勤めたところで退職した。

あれからいろいろあったが、大学院に入り直して、修士課程博士過程と6年間を大学院生として過ごした。

この間に、嫁さんができた。

博士号を取得してからは、約10年間フリー仕事をした。

やがて大学から声をかけてもらい非常勤講師になった。

結婚式をした翌年に母が死んだ。

明日はいいことがあると言い続けてくれた母だった。

通夜の日に、専任講師面接があった。

面接から帰った夜、こっそり棺桶の隣で寝た。

母の前では子供になれるのだと自覚した。

大学専属となり、ようやく生活が安定した。

間もなく、准教授になった。

振り返ると、ありのままでいようとすることを原動力努力してきた。

それがいつも自分にとってはよい結果をもたらしてくれてきた。

社会にでるまでの間は親友自分を支えてくれた。

社会に出てからは、親友と嫁さんが自分を支えてくれた。

特に嫁さんは、言葉のあやではなく、まさに運命共同体としての支えでいてくれている。

社会に出る前後勉強することが、ありのままでいるための方法だった。

ありのままでいることはむずかしい。

からこそ努力必要で、努力必要からこそ、社会的評価がついてきてくれる。

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