鬼はもとより、人ももとより
作者:清水さゆる
鬼灯様は強いもの。
きっと、大丈夫だよ。
◆
え、と誰もが息を飲んだ。
閻魔大王第一補佐官、地獄を統率するカリスマ、鬼神の鬼灯。
最凶もとい最強、鬼の中の鬼が、まさか。
「それがね、行方不明なんだよ。突然、連絡がつかなくなっちゃったんだ」
閻魔大王は太い眉毛を気弱に下げて、小さな白犬を見下ろした。
犬種は定かでない。いかにも和犬らしいころっとした体に、これでも神獣のはしくれ、紅白の「なんだかめでたい感じ」の紐を結んでいる。
人懐こい那智黒の瞳をぱちくりさせて、シロは首を傾げたまま動きを止めた。
どうやら、自らが心底敬愛してやまぬ「地獄のボス」と、窮地を意味する「行方不明」という単語が、頭の中で結びつかなかったらしい。
「あの人のことだから、何か算段があるのでは?」
冷静だが、誰かとは違って情を失わない声で言っのは、雉のルリオ。
「確かに」と、肯きかけた頭を微妙な角度で止めて、猿の柿助は「うーん」と腕を組んだ。
「でも、あの鬼灯様だろ? 無断でってのが、ちょっとひっかかるよな」
冷徹官吏の仕事ぶりは誰もが認めるところである。
ミスも無駄も隙もない。
夜より深い黒の単衣の背に染め抜かれた酸漿の意匠を、獄卒たちはいつだって畏怖と憧憬を抱いて見上げているのだ。
その、鬼神が。
「消息を絶ってから丸三日。さすがにワシも心配で……」
深々と、吐き出された溜息には、様々な思惑が交錯しているようだった。
鬼灯が、現世から戻らない。音沙汰もない。
さまよう亡者に引導を渡すべく、獄卒が現世に赴くことはままある。
人手が足らなければ要職の鬼神たちも出張させるし、鬼灯に至っては、亡者も今の世をろくに知らない者に裁かれたくはないだろうからと、妙な正論を掲げて足げく通う始末。
いつぞや現世に行く支度をする鬼灯をおとなった時のことを思い出して、シロははっと息を飲んだ。
「鬼灯様、もしかして人間に捕まっちゃったのかな!?」
鬼灯が言っていた。
うっかりしたら見世物小屋行きだ、と。
あまりに淡々と語るものだから、その重大さをわかっていなかった。
相手が脆弱な「生者」であるが故に、あの強すぎる鬼は無力にならざるを得ないのだ。
「どどど、どうしようっ」
すっかり腰の引けてしまったワンコの眉間を突いて、ルリオは言った。
「まだトラブルに巻き込まれたと決まったわけじゃない。大王様」
ルリオは閻魔大王を振り返り、尾羽をぴんと立てた。
その様子に、さすがは日本一有名な三人組、互いに顔を見合わせると心得たとばかりに同時に大きく頷く。
「もし差支えなければ、我々が様子を見てきてもよろしいでしょうか?」
自称チームのブレーン、柿助が代表して請願する。
相手が鬼灯故に、彼の部下である獄卒たちには頼めない事柄だった。
「頼まれてくれるかい?」
呵責においては天下無双、ヒトにとことん厳しい鬼灯だが、動物には弱冠甘いところがある。
「無論です。お任せください!」
誇らしげに胸をそらす桃太郎トリオに、閻魔大王は、ただひっそりと、「うむ」と肯いていた。
何か兆しがあったはず。
事件が起きると必ずヒトはそう考える。
そして決まってこう答えるのだ。
何もなかった。普通だった。いつも通り、変わった様子など微塵もなかった。
いつだって、誰にだって、きっかけはあるものなのに。
鬼灯の場合、それは、火車派遣の決裁の時だったかもしれない。
裁判なしで地獄逝きが決定した亡者のところへ火車を遣るにあたって、記録課から挙げられた生前の罪を紐解くのだが、その日、珍しく判子を捺す補佐官の手が、一瞬だけ止まったのだという。
「ちょっと驚いたよ。鬼灯様って、いつだって即断即決、即制裁じゃん?」
地獄のチップ&デールのドMの方、子鬼の唐瓜は、その時のことを思い出して訝しそうに眉根を寄せた。
「でも、一瞬だよ。だから、誤字でも見つけたのかなって思っただけで、別に何とも」
「その書類、見れないかな?」
「記録課でちゃんと申請すれば閲覧できると思うけど……あー……俺、あそこちょっと苦手でさぁ。なんつーか、狂気の沙汰?」
唐瓜は、苦く笑って首を横に振った。
「普通の火車派遣の手続きだったけどなぁ。ちなみに火車送りになった亡者の罪状は人殺し。で、何かあったの?」
なんでもない、と、シロは頭を振ると、そそくさと柱の影で待機していたルリオと柿助のもとへと駆け戻った。
「どうだった?」
訊ねる柿助に、シロは耳を垂れた。
「全然。手がかりにも足がかりにもならないカンジ。ルリオは?」
大王決裁のもと、鬼灯の私室に痕跡を探していたルリオも、力なく首を横に振った。
「鬼灯様が置手紙なんぞ残すと思うか?」
だよね、と、さらに耳を伏せる。
「柿助は?」
牛頭と馬頭、肉食系草食獣女子の門番二人を訪ねた柿助も、渋柿を噛んだような顔をしていた。
「鬼灯様は確かに現世に行ったみたいだよ。記録もあるし、監視カメラにもばっちり映っているし。でも、現世のどこに行ったかまではなぁ」
「出るときの記録があるなら、行先わからないかな?」
「書面上では、公務執行ってなっていたけど?」
「さまよっている亡者の回収?」
「現世での獄卒の公務って、それくらいしか思いつかないな。お迎えには専門職がいるんだろう?」
「鬼灯様、どこにいるのかなぁ」
「わからないなぁ」
ああそうだな、と言いかけたルリオは、かちりと嘴を閉ざして二匹を見比べた。
「おいおい、わからなくないだろうよ」
半ば呆れて阿呆と間抜けを交互に見る。
「鬼灯様は亡者回収だって許可証とったんだろう?」
シロと柿助がこっくり肯く。
「火車の送り先は殺人犯なんだろう?」
またしても、二匹はこっくり、肯いた。
「だったら、殺された被害者の魂魄はどうなっているんだ? 素直に成仏しているとは思えん。鬼灯様は多分、そいつを捕えに行ったんだろうよ。火車の派遣先なら記録課で調べればわかる」
「わあ、ルリオって賢いね!」
「鳥類が皆、三歩で忘れるわけじゃないからな」
でも、と、シロはくりくりの目を瞬いた。
「それって、別に鬼灯様が自ら行くようなことなの?」
「さあな」
ルリオは首の羽毛を膨らませて眼を閉じる。
「それこそ、本人に会って訊いてみたらどうだ?」
◆
額が割れるように痛い。
ともかく痛い。
骨を穿つような激しい痛みに、たまらず呻く。
その、自らの声に、はっと目を覚ました。
屋内。
板の間で「くの字」に倒れている己を自覚して、茫然、身を起こした。
さて、ここはどこだろう。
記憶の糸を辿ってみても、虚ろな無意識の向こうに垂れるばかりで出応えがない。
いやしばし待て。「どこ」以前に。
「……なぜ?」
口をついて出てきた疑問に答える者もなく、また、己の中にも答えはなかった。
要するに、記憶がない。
(困りましたね。いったい、いつからでしょう?)
鼓動とともに骨の奥を揺るがすような頭痛が続いている。
飲みすぎたか、それとも、頭を強か打ったか。
酔って階段から落ちた、とか。
見渡せば、フローリングの廊下に、二階へ続く階段。その奥にあるのは居間だろうか。
暗い廊下に、半開きのドアから細くて白い灯りが伸びていた。
どうやら家屋、それも、ごくごく一般的な現代日本の一戸建ての中で倒れていたらしい。
静かだった。
人の気配はない。
景色そのものに、全く憶えがない。
他人の家だろうかと考え、ふと、思い当たる。
ここがよそ様の家宅ならば、自分の家とは?
「これは、あまり芳しくない状況ですね」
誰にともなく呟いた言葉には、無論、返答はなかった。
記憶喪失。
それも、自分の名前さえ思い出せない。
何か身元を証明できる携行品はないかと胸元を探り、スーツの内ポケットから名刺を見つけた。
が、一枚しかないというのがひっかかる。
頂いた名刺かもしれないので、信憑性は低かった。
(加々知、ねぇ)
やはり、憶えのない響きであった。
他には電池の切れたケータイと、財布……かと期待して開いてみたところ、煙管が出てきた。
時代錯誤も甚だしい。
(金品を所持していない現状から分析するに、襲われて昏倒したのでしょうか)
頭痛も、額を鈍器で殴られたからかもしれない。
とにもかくにも、ここで座り込んでいたところで、事態が解決するわけではない。
加々知は脳を刻まれるような鈍痛に顔を顰めがら、ゆっくりと立ち上がった。
高い視界からもう一度辺りを見渡して、ぎょっと目を見張る。
家庭とか。
平和とか、団欒とか、家族とか。
そういうイメージとは真逆の光景に、言葉を失う。
廊下に、壁に、そこかしこに、何やら不穏な染みがこびりついている。
飛び散ったり、引きずった痕だったり、黒々と派手に散らばるこの染みは、一体何だろう。
加々知は張り付いた前髪をかきあげて、しばらく息をするのも忘れていた。
尋常ならぬ量の血痕が、あまり想像したくない事件を物語っている。
どう考えても殺人現場だ。
そして、そこで昏倒していた自分は、何者なのか。
その額には、ただ、玉汗が滲むだけだった。
[1]
◆
「ええ!?」
閻魔殿の廊下に、素っ頓狂な声が上がった。
「なんで俺だけ?」
シロはふかふかの眉間に皺を寄せる。
すっかり三匹一緒に現世に行くものと信じていたシロとしては、裏切られた気分である。
この期に及んでルリオと柿助が現世行きを拒否したのだ。
二匹が言うには、自分たちは目立つという。
「住宅街にいても違和感のない生き物っつたら、お前だけなんだよ」
柿助が口をへの字に曲げて振り返った。
ルリオの明察のおかげで、鬼灯の居所には見当がついた。
派遣記録があるから、件の火車が向かったのは、とある都心郊外の住宅街の一画と判明している。
都心というのが悪かった。
「俺なんか見つかったら、カメラ来ちゃうよ。夕時のニュースとかで『都内に凶暴野猿出没! 犠牲者多数』とか報道されちゃうでしょ?」
「あ、でも『不法飼育の悲劇。北限の猿を山へ帰そう!』とかの、感動系になるかもよ?」
「そういう問題じゃないから」
「えー。じゃあ、ルリオは? いざとなったら剥製のふりすればいいじゃない!」
地団太踏むシロに、ルリオは「気になることがある」とお茶を濁した。
「シロ、お前なら閑静な住宅街うろついてても、ただの迷い犬で済む。お前、鬼灯様大好きだろう?」
「行くのはやぶさかじゃないよ。でも、ちょっと不安」
「大丈夫だって。お前ならやれるよ」
「そうそう。賢く可愛い御犬様だろう? PV再生数もすごいことになっているし」
「ほら、俺たちなんてお前の背景にすぎないし」
「何か……そこはかとなく悪意を感じるんだけど?」
「ソンナコト、ナイヨ」
「本当に?」
「オレタチ、マブダチ」
うー、とシロは鼻声を上げたが、結局は一人で現世へと鼻を向けたのだった。
火車が向かったのは、ごくごくありふれた一戸建ての家だった。
が、しかし。
「うわ、何かいや!」
不穏な空気というか、惨劇の残り香というか、何やら暗澹たる雰囲気に気圧されて、シロはぐるぐる敷地の塀を廻り続けて、とうとう、途方に暮れて座り込んでしまった。
躊躇いなく亡者を噛み砕けるのは、そこが地獄だからだ。
現世の景色の中に地獄に似通った雰囲気を嗅ぎ取ると、どうしたって違和感を覚える。
ヒトはこの違和感を「不気味」と表する。
「って、あれ?」
シロは目の前のブロック塀を見上げて、盛大に首を傾げた。
「回り続けるのって、おかしくない?」
不審に思って腰を上げると、てこてこ、塀に沿って一つ目の角を曲がる。二つ、三つ、四つ……
「え、四!?」
振り返ると、今曲がったばかりの角が見えた。そして、行く先にももう一つ、直角の曲がり角がある。
騙し絵的な状況に、もともとアホな思考回路が、たちまち焼き切れてしまった。
「困ったなぁ。どこからどうやって入ればいいんだろう?」
灯りが点いているからには、誰かいるのだろう。
「すいませーん。鬼灯様いますかー?」
試に呼んでみる。
「鬼灯様ー、いたら返事してくださーい」
せめて中の様子が見えないかと、飛び跳ねてみる。
ちょっとだけ、頭半分くらいなら塀から覗けるのだが、それ以上は届かなかった。
「鬼灯様ー、鬼灯様ー、鬼灯様ー」
どれくらい、いるかもわからないのに呼び続けただろう。
びょんびょん調子よく跳ねながら叫んでいるうちに、さしものシロも疲れがでてきた。
「うー、やっぱり一人で来るんじゃなかった」
こんな時、ルリオなら飛行能力を活かして中を偵察しにいけるし、柿助ならば塀を登って侵入口を確保できる。
肉球にできることは限られているのだ。
気落ちして、ぺとん、とアスファルトに腹ばいに伏せた時だった。
「うるさいですね」
耳慣れた、冷徹な声がしたかと思うと、シャ、と小気味よくカーテンを引く音が聞こえた。
この声と匂いを、間違うはずもない。
「鬼灯様!」
シロは渾身、跳ねあがり、何とか塀を蹴って前脚を掛けることに成功した。
「鬼灯様! なんだ、やっぱりそこにいたんだね!」
「……」
「帽子はいいの? あ、擬態中か。角がないものね。でも、早くしないと効果がきれちゃうよ! 急いで地獄に戻ろうよ! 閻魔様も心配していたよ?」
「……」
「こっちに来るのに許可証がいったんだけれどもね、本当はそれも鬼灯様の判子がないと駄目なんだって。鬼灯様、判子ちょうだい。でないと俺、不法滞在になっちゃう。それに、机の上にたくさん書類溜まっていたよ。というか、雪崩れてた。あれ全部一人でやるの大変でしょう? 肉球判子でよければ、俺、手伝うよ!」
「……」
「……鬼灯様?」
「……」
「鬼灯様、怒っている? ひょっとして、俺、煩かった?」
なぜだろう。
見下ろす瞳が、いつもと違うように思えた。
間違いなく、それは鬼灯であるはずのに。
「鬼灯様、だよね?」
「あなた」
いつもよりも格段に柔らかく、そして、途方もなく遠い声だった。
「この家の犬ですか?」
え、と、思わず前脚の力が抜けて、滑り落ちそうになるのを、シロは必死に堪えて踏ん張った。
「お待ちなさい。今、開けてあげますから」
ホモサピエンスに擬態していたって、鬼灯は鬼だ。
地獄の住人だ。
だから、そんなことあるわけない。
シロの声が、届かないなんて。
「鬼灯様、俺の言葉、わからないの?」
「おや、この窓、どうやって開けるんでしょうね。鍵はっと……」
「鬼灯様? ねえ、返事してよ。俺のことわかんない?」
「ああ、そんな情けない鼻声上げないでください。私だって、あなたを中に入れて差し上げたいのですが、どうも、最近の鍵は不可解な構造でして」
「鬼灯様ぁ、そんなの、やだよ」
窓ガラス越しに、目が合った。
それは、シロの知らない瞳だった。
冷厳なる閻魔大王の補佐官でもなく、神代の頃からまします麗しき鬼でもなく、ただ、犬が好きそうな人間の目をしていて、それが余計に、その人間の男が「鬼神の鬼灯」だとシロに確信させた。
あの凶悪な三白眼に、時折宿る温もりをよく知っているからこそ。
ずるり、ついに、前脚が痺れてシロは落ちた。
「俺、やだよ」
それでもシロは待った。
結構な時間、あの塀からひょっこり一本角の鬼神が顔を覗かせて、呆れ顔で「何しているんです、帰りますよ」と言ってくれるのを期待しながら。
しかし、一向にその気配はなく、窓が開くことさえないまま、シロはぽつねんと座り込んでいた。
「どうしよう……」
耐えかねて、その場にうずくまって、自分の巻尾に鼻を突っ込んだ。
今、堪らなく柿助とルリオに会いたい。桃太郎に縋りついて、背中を撫でてほしかった。
「鬼灯様が……」
強くて、強くて、とっても強い、何にも誰にも絶対負けない、大好きなあの鬼が。
「人間になっちゃたよぉ」
◆
血みどろ殺人現場に記憶喪失の男が一人。
どう考えてもアブナイ。
加々知は首の裏に嫌な汗をかきながら、灯りに誘われるようにして、半開きの居間のドアを押し開けた。
「とにかく、外部に連絡をするべきです」
主に自分のために自分で指示を出して、何とか平常心を保つ努力をする。
「電話は……」
見当たらない。今時、固定電話を設置していない家も少なくないのだ。
見たところ、あまり物品は多くない。
よく片付いていて、写真の類は置いていないようだった。
(何か、この家と私を関連付ける情報があればと思ったのですが)
時間と日付を知ろうとして、カレンダーも時計もないことに気が付く。
そうなると、自ずと食卓の上にある花瓶へと目が向いた。
華奢な一輪挿しには、やけに赤々とした酸漿が生けてあった。
その鮮やかさに、つい、視線を奪われる。
酸漿の、緋色の向こう。
カウンターキッチンの、流し台には、さらに鮮やかな紅が散る。
あかい、あかい。
べっとりと。
ぎくりと身を強張らせた時。
かり
何かをひっかくような、小さな物音が鼓膜を擽った。
かり、かり
何の音かと、澄ました耳に……
「わん!」
甲高い犬の吠える声が響いた。
あおん、わおん、と辺り構わず吠えている。とても近い。
最初は無視を決め込んだのだが、一向に止まないので、次第に苛立ちが募ってきた。
煩い、と怒鳴ろうとカーテンを引いたところ。
びょん、と三角形の白い耳が、窓ガラス越しに塀から覗いたかと思うと、そのままガッツで前脚を支えにして頭を出した。
雪のように真っ白な和犬が、ご機嫌で「きゃうん!」と鳴いた。
加々知は、そのワンコの顔を見て、ぼんやりと「犬って笑うんだな」と思っていた。
見えないけれど、尻尾は大回転に違いない。
何故だか一生懸命にこちらに向かって吠え続ける。
妙に馴れ馴れしい様子を見るに、この家の飼い犬で、中に入りたがっているのかもしれない。
サモエドと紀州犬のミックスみたいな風貌の、愛嬌のある犬だった。
しかし、ほどなく白犬の耳が下がり、静かになり、陽気そうだった瞳に影がさした。
何だかとても悪いことをしたような気分になりかけた時だった。
「みゃあ」
どこかで猫が一声、鳴いた。
何とはなしに振り返ったが、姿はない。
今一度窓の外を見やれば、さっきのワンコの姿はなくて、加々知はそっとカーテンを引いた。
改めてシンクを振り返ってみたが、血の痕どころかゴミ一つない。
そして、一輪挿しの酸漿も、なくなっていた。
(自宅なのか、余所様の御宅なのか。問題はそこです)
いかんせん、何も思い出せないのである。
食器棚を観察しながら、全ての食器が二つずつあることを確認する。
手は触れない。下手に指紋をつけたら、後々面倒なことになりそうだ。
ふと、視界の端を影が過った。
床すれすれの低い位置を、黒い尻尾が掠めていった。
やはり、猫がいるらしい。
猫が喋れれば、前後関係も明らかになるかもしれないのに、などと夢想した時。
「みゃあ」
足首を、ふわりとした感触が撫でた。
いつからいたのか、黒猫が一匹、加々知の足に纏わりついてきたのだ。
「あまり驚かさないでくださいよ」
加々知は小さく安堵の息を吐き出して、人慣れしている黒猫を抱き上げる。
猫は不気味なほど静かに、加々知の腕に身を預けた。
嫌がらないところを見るに、自分の飼い猫なのかもしれない。とすると、ここはやはり、自宅だろうか。
全く馴染みのない家具を見渡しながら、加々知は壁に背を預けた。
腕の中の黒猫と目が合う。
じっとりと金色の瞳に見つめられているうちに、再び額が疼いてきた。
わりと洒落にならない激痛に顔を顰めていると、何やら鼻腔を甘い香りが掠めた。
かり、かり、かり
猫がドアを引掻いている。
開けてほしいのだろうと勝手に予想して、加々知はノブを捻った。
途端、甘い香りが一段と濃くなって鼻腔にしつこく纏わりつく。
熟れすぎた果実のような、饐えたような……。
甘美を通り越して不愉快な域に達している匂いに堪りかねて、加々知はドアを閉めた。
(動物はああいう匂いを嫌がるものですけれどもね)
そそくさと開けたドアの隙間へ身を滑り込ませたあの猫は、この匂いが平気なのだろうか。
思わず顔を背けた先で、加々知は壁に絵が飾られているのを見つけた。
見事な日本画だが、四千万円台の住宅の安っぽい白壁にはそぐわない。
(それにしても、何故こんなところに地獄絵を……)
劫火を逃げ惑う亡者たちを、獄卒たちが冷徹に責めたてている。
装飾として描かれた酸漿の枝の間に間に、怨嗟の焔が象徴的に渦を巻いていた。
(ああ、また、酸漿)
その中に実を抱いて、秋の頃には緋色に染まる。
亡者の持つ赤い提灯。
あまりに鮮やかで、その赤色に中てられたか。
今、一際激しく眉間から頭頂にかけて痛みが貫いた。
立っていられないほどの激痛に、加々知は呻いてその場に膝を折る。
(これは、まずいですね)
視界がどんどん暗くなっていく。必死に焦点を絞っても、景色は無情に遠のいていく。
やけに、炯々と光る金の双眸がじっと見下ろしている。
猫はただ、見ているだけだった。
(おや、さっきドアの向こうに入れたはずなのに)
かり、かり、かり、かり
ここではないどこかで、猫が一匹、必死に何かをこじ開けようとしている。
◆
ひとりで帰ってきたシロの様子に、ルリオも柿助もかける言葉を失った。
長く重たい沈黙の後、ルリオは漣に似た落ち着いた声で言った。
「桃太郎のところへ行くぞ」
「え、でも、閻魔大王に先に報告したほうが……」
すっかりしょけて、巻尾さえもしょんぽり股の間に垂れさがるシロに、ルリオは重ねて言った。
「すぐに行くぞ」
柿助も、珍しく神妙に頷いている。
「多分、閻魔大王はもう知っているよ」
「え」
気になっていたんだ、と、柿助は鼻に小皺を寄せた。
「だってさぁ、閻魔大王は浄玻璃鏡を持っているだろう? あれで鬼灯様の現状だってわかったはずだと思ってさ」
シロが現世をうろうろしている間、ルリオと柿助は件の火車送りになった亡者について調べていたと言う。
「その亡者、何をしたの?」
「死因は飛び降り自殺。『子殺し』だとよ」
◆
桃源郷にある漢方薬局「極楽満月」にはウサギたちがたくさんいる。
かわゆいウサギの群の中に、猿と雉と犬が混ざるとき、大抵、招かれざる客も一緒にやってくる。
地獄の閻魔大王が第一補佐官、鬼灯だ。
あの常闇の住人は真性嗜虐者なので大変にアブナイ。
もっとも、罪ある亡者を徹底的に呵責してこその地獄の官吏。
獄卒として彼以上に資質に富んだ鬼も珍しい。
珍しいついでに、あれはかなり、トクベツだったりもする。
大昔、黄泉と現世の境が曖昧だった神代の頃に、人の子に鬼火が入ってできた、非常に稀な混ざりモノだ。
「桃タロー君。僕はね、単純に博愛主義なんだよ」
「藪から棒に何です? それから、浮気性と博愛は別物ですよ」
「同じだよ。僕は等しく命を愛する」
「女性限定ですけどね」
「そりゃ仕方ないでしょ? アダムにイヴがいたように、対になる存在が必要だと思う。それなのに僕にはお相手がいないんだもの」
あーはいはいそーですね、と聞き流す愛弟子にニッコリ微笑みかけて、白澤は耳の飾りを指に絡めた。
「ところで桃タローくん。さっきブラザーズがきていたみたいだけれど?」
あからさまに、ぎくりと身を強張らせる桃太郎に、白澤は笑みをかき消した。
それから、眦を決して叫ぶ。
「いつもならこのタイミング!」
金棒が飛んでくることを見越して、白澤はさっと身を屈めた。
が、しかし。
「あれ?」
おそるおそる、カウンターから顔を覗かせる。
戸口も壁も窓も無事だった。
「は! 上か!?」
警戒して天井を見上げても、乾燥中の薬草の束が微かに風に揺れているだけだった。
兆しというのは必ず誰にでもあるものだ。
重要なのは、誰がいつ、それに気付けるか、ということかもしれない。
「……静かだね。嵐の前の静けさかな?」
白澤は、すでに用意のできている薬袋へと視線を落とした。
たとえ蛇蝎のごとく嫌悪しようが、お得意様はお得意様。閻魔庁からの注文の品である。
今日、引き取りにくる予定なのだが、日没を過ぎても現れない。
ちなみに、納期はとうに過ぎている。散々殴られて、何とか三日伸ばしてもらった経緯があるだけに、何か、怖い。
「おかしいな。絶対来ると思ったんだけど」
白澤はカウンターからのっそり身を乗り出して、未だ平和な戸口を見やる。
そして、黙々と薬を煎じる桃太郎へと視線を移した。
「桃タローくん、ちょっといいかな?」
「はい、何でしょう?」
敢えて視線を合わせようとしない、優しい愛弟子に、白澤はにっこり、ゆったり、目を細めた。
それから、前髪を上げて額の「目」を見せつけ、べ、と舌を出す。
「神獣の目はね、隠し事を見抜くんだ」
うぐ、と息を飲んで、桃太郎はバツの悪そうな顔で振り返った。
「そんなこともできるんですね」
「うそ。でも、今の反応で、君が僕に隠し事をしていることがわかったよ」
「……ずるいですよ」
ふふん、と白澤は自慢げに顎を逸らすと、およそ接客業らしからぬ横柄さでカウンターの上に胡坐をかいた。
「何? 僕には言えないこと?」
「ある意味その通りです。でも、その逆で、白澤様にしか相談できないことでもあるんです」
歯切れの悪くなる桃太郎に、白澤は「ははーん」と顎を撫でた。
「あの朴念仁が、どうかした?」
え、と桃太郎は息を飲み、しばし黙る。
が、観念したのか、肩の力を抜くと、神妙な面持ちでぽつぽつと話し始めた。
やがて、ブラザーズから知り得た情報を全て白状し終えると、桃太郎は白澤の様子を伺うように視線を上げた。
「どう、思われますか?」
「どうもこうも、面白い事になっているなぁと」
「白澤様……」
「うん? 何でそんな心配そうな顔するのさ?」
「心配しますよ、そりゃあ。白澤様と鬼灯様がしょっちゅう喧嘩しているのは知っていますが、俺にとっては、お二人とも大切な恩人なんです」
「桃タロー君は、いい子だねぇ」
「俺からもお願いします。どうかっ」
桃太郎の言葉を遮り、白澤はそっと目を伏せてウサギを一匹、膝の上に抱き上げた。
「だからね、僕は博愛主義者なんだよ。女の子への愛情表現が顕著で派手なのは、まあ、雄の性だね」
人も、獣も、草木も。鬼さえも。
この世の全てが愛しいのだ。
「にしても、あの猛毒ウワバミも中てられることがあるんだね。それとも、自家中毒の一種かな?」
「俺も、俄かには信じられなかったんですが、シロの奴が直接会ったみたいで……。アイツにしては珍しく凹んでいるのを見て、それで信じる気になったんです。今度ばかりは手の込んだ嫌がらせじゃないと思いますよ」
だろうね、と、白澤はウサギを下して苦笑する。
「きっと、気付いていないんだろうなぁ」
「何がです?」
「いや、ね。ただ、魂を導く灯も、自分自身の心は照らせないものなんだなぁ、と」
首を傾げる桃太郎に、白澤は飄々と手を振って見せた。
「ま、誰にでも心の闇はあるものさ。もっとも、あいつの場合はどこまでも真っ暗だろうけれどもね」
◆
真っ暗だ。
いつ、誰が消したのか、部屋の灯りが落ちていた。
加々知は頭を抑えて何とかかんとか身を起こす。
今度は、昏倒する直前までの記憶が、鈍い痛みとともにきっちり残っていた。
先ほどに比べれば幾分マシにはなっているものの、相変わらず前頭葉のあたりがゴリゴリ痛い。
割ったら何か出てきそうだ。
耳鳴りがする。
ひどく、喉が渇いている。
水を求めて流しへ向かい、蛇口を捻った。
掬おうとして差し出した手に、ずるん、と何かが絡みついて、加々知はぎょっと手を引っ込めた。
長い髪の毛が、指先を這って落ちていった。
気持ち悪い。
得も言われぬ不快感に、舌打ちを一つ。
栓を捻って止め、後退る。
胸郭の奥で、心臓が怯えるように激しく跳ねていた。
一歩、二歩。
三歩目で、背中が何かにぶつかり、退路を塞がれる。
振り返ると、冷蔵庫の扉がゆっくりと開いていくところだった。
冷気と、人工的な青白い光が暗闇に漏れる。
零れ出てきたのは、気体だけではなかった。
どろっとした、あかい、あかい、液体。
真っ白な空間には、瓶や保存用のビニール袋が整然と並んでいた。
並べ方に神経質さが滲み出ている。
意味深な配置に、背を悪寒が駆け降りていった。
赤黒い液体に、拳くらいの大きさの塊が浸かっている。
見間違いであってほしいと、願う。
そうでなければ。
加々知の認識が正しかったのなら、あれは、冷蔵庫の中にあっていいものではない。
今、己の肋骨の奥でどくどくと脈打っているように、誰かの胸の中にあるべきモノなのだ。
心臓だけでない。
本来なら、体内に格納されているべき臓器の数々。
廊下の赤い染み。
饐えた匂い。
腑分けされ、保存された……
そこまで考えて、加々知は半ば強制的に思考を断った。
考えたところで、意味がないからだ。
冷蔵庫の扉をしっかり閉めて、慎重にその場から離れる。
意味がないのだ。
真実を知ることに、意味はない。
そこに心臓があるのなら、本体は決して生きてはいないのだ。
誰かが殺して取り出したという、紛れもない事実が在るだけ。
死んでいるのなら、助けようもない。
救いようもない。
(ここから、でなければ)
加々知は自分で思っている以上にしっかりした足取りでその場を離れると、玄関へと向かった。
その時。
「みゃあ」
深い、深い、暗闇の奥で、猫が一匹、目を光らせていた。
猫は見ている。
じっと、見ているだけ。
静寂。
静かすぎて、耳鳴りがする。
思わず足を止めた時だった。
突然、ケータイの着信音が寂を裂いて鳴り響いた。
心臓を吐き出しそうなくらいびっくりしたのだが、一方で、加々知は妙に冷静に考えていた。
(たしか、電池が切れていたと思ったのですが)
固唾を飲んで、表示を確認する。
何にせよ、外部と連絡がつくのならそれが一番だ。
が、「白豚」という名で登録されている相手が、果たして頼りになるかどうか……。
ともあれ、今はこの着信に縋るしかない。
溺れる者は藁をも掴む、という言葉が脳裏を過った。
「はい、お待たせしました」
敢えて加々知は名乗らなかった。向うがこちらの名を呼んでくれる可能性に期待したのだ。
ところが。
『よぉ、お兄さん。何だか面白いことになっているよーで』
軽薄で、調子良さそうで、嫌味で、皮肉げで、暢気な声に、脊髄反射で電話を切ろうとしてしまい、一抹の理性がそれを押しとどめた。
『わっかりやすいねぇ。電話越しでも今キレかけたのが伝わったんだけど?』
けらけら笑うその声に、どうしでだか、極楽蜻蛉という単語が浮かんだ。
「失礼ですが、どちらさまでしょう?」
『さぁて。誰でしょう?』
思いっきり鉄パイプ的な何かで相手の後頭部を殴打するイメージが、やけに鮮明に浮かんだ。
きっとよほど険悪な関係の相手らしい。
しかし、その相手を今の加々知は思い出せない。
殺人現場で記憶をなくしてひとりきりという窮地で、頼れるのはこの着信だけだった。
「申し訳ございませんが、お電話が遠いようで御名前が聞き取れません。もう一度、名乗っていただいてよろしいですか?」
『おやまぁ。お前ってこんな時でも慇懃さを失わないんだね。感心したよ』
「失礼ですが、どちらさまでしょう?」
『こういう時はね、匿名のほうがいいんだよ』
さすがに加々知も堪忍袋の限界が近い。
「すみません、今ちょっと立て込んでおりまして。後ほどかけ直させていただきます」
『ああ、待って待って。きっと、二度目なんてないから、ちょっと待って』
「……いい加減にしてください」
『まぁまぁ。ちょっとくらいイジメさせてよ? 普段お前が僕にしてきた仕打ちに比べればこれくらい、ねぇ?』
「そうですか。どうやら、私は貴方とそれなりに長くお付き合いさせていただいているようですね」
『腐れ縁だね。千年単位の』
「笑うところですか?」
『お前の笑ったところなんて見たくないし、見たことない』
なぜだろう。こういう嫌味の応酬が妙に心地よい。
「冗談ついでに、私、今、記憶喪失なんです」
『そのようだね。おめでとう。笑ってやるよ』
「ありがとうございます。なので、私が誰だか、貴方に教えていただきたいのですが」
『お前は鬼だよ』
「そういうことではなくて」
『いやいや、言葉通り。お前は地獄の閻魔大王の第一補佐官で、拷問中毒で、真性のSで、朴念仁の変人で、金魚草を愛好している」
「はぁ……」
『ほら、信じてない』
「面白かったですよ、ぶっとんでいて」
『お前の今の状況のほうが面白いよ。ったく、マジでそのまま帰ってこなくていいのになぁ! でも、不条理なことにお前のような奴でも帰りを待って心配している者がいるんだよ。本当に納得しがたいことだけれどもね! ともかく、彼らがいる以上、僕はお前を放っておくわけにいかないんだ」
でも、と、電話の向こうの誰かは、急に落ち着いた声になって続けた。
『もしも、それがお前の深層にある本望ならば、僕は無理に君を攫っていくようなことはしないよ』
優しいようで、突き放しているようでもある。
そんな、声だった。
『カミサマの目はね、何でも見えるわけじゃない。近すぎて見失うこともあれば、数ある生命の一片にすぎないヒトの子の願いを見逃すこともある』
この世界を超越した、遥か高みから見下ろすような。
『僕の言っていることが、今の君にはわからないだろうね』
「ええ、さっぱりです。私はどうすればよいのでしょう?」
『素直に助けてって言えば、考えてやらんでもない』
「助けてください」
『……』
「何故黙るのです?」
『いや……まさかそうくるとは思っていなくて……。マジで重症っぽいねぇ』
「貴方ねぇ、さっきからなんです? こちとら真剣に救助を求めているのですよ?」
『えっと……うん。なんか、すっごい、不気味』
はあ、と鋭く溜息をついて、加々知はまだ疼いている額を抑えて瞳を伏せた。
「私が以前に貴方にどれほど恨みを買っていたかはわかりました。記憶が戻ったら礼でも謝罪でもいたしますから、今だけは、私を許していただけませんか?」
『え?』
「助けてください」
タスケテ。
ダレカ、タスケテ。
途端、鼓膜の奥、脳髄のさらに奥底が震えた。
激しい痛みを伴って、記憶の断片が押し寄せる。
「うっ……」
加々知は額を抑えて、壁に凭れた。
まるで、救済を求めて縋るという行為そのものを、体が拒否しているようだった。
『……お前が何もかも忘れていることを信じて言うけれど』
電話の彼方で、誰かがそっと微笑む気配がした。
『僕は許す。全部、許せる。森羅万象、あまねく命を許せる。人も獣も草木も、鬼も』
「……中学生のポエムみたいで、なかなか心に響きました」
『うっさい! お前がどんな顔して僕に縋りついたか見れないのが残念だよ!」
「縋りついてなどいません。状況から、最も合理的な解決方法だと判断したまでです」
『お・ま・え・はッ! どうして、そう、僕を苛立たせることばかり言うかな!』
「貴方が意地悪をするからです。逆の立場なら、貴方だって私に助けを求めるはずです」
『いや、それはちょっと、考えにくいんだけど……』
「貴方、私を何だと思っているのですか」
『鬼』
「失敬な。私はきっと、貴方を助けると思いますよ。それだけの力が自分にあるのならば」
なぜなら……
「これでも一応、人間ですからねぇ」
数瞬の沈黙の後。
『そう。それなら、いいんだ。ただ、なんだか……さびしいよ』
「何がよいものですか。取りあえず、警察を呼んでいただけると助かります」
『それはできない』
「何故です? そんなに私を虐げて面白いですか?」
『面白いけれど、それとは別に、僕らは人の世の営みに関わるべきじゃない。それに、もうそろそろ、パトカーがくると思うよ』
「また、わけのわからないことを」
『賭けようか?』
「はい?」
『現世の人間との縁ができる前に……警察が来る前に、お前が自力で解決できるか』
「私は探偵ではないので、事件を解決するのは不可能ですよ」
『お前が解決すべきは、自分自身のことだよ。解決できたのなら、お前が夕飯を奢れよ。できなければ、僕は今日のことは忘れる。結果が出るまで、僕は待つ。いいよ、僕は待てる。いくらでも待てる。気は長いほうなんだ。時間ばかりはたくさんある。金はないけどね。だから、ずっと待っていてやるから、まあ、精々、頑張んなよヒヨッ子。これが僕にできる、最大限の救済だ」
「待つだけですか? この役立たず」
『そうだね。僕ってそういう存在だからね。役に立たないけれど、天地開闢の頃からずっとずっと、在り続ける』
◆
「まったく、不毛な会話でした」
加々知は苛立ち紛れに乱暴に電話を切る。
(まあ、警察が来るのなら、下手に動かないほうがよいでしょう)
他にあてはないかとケータイを見やり、画面が落ちていることを知った。
電源を入れても反応がない。
たった一度だけ繋がった外部との連絡を、あんな馬鹿げたやり取りで終らせてしまったことが悔やまれるばかりである。
「にゃあ」
振り返ると、二階への階段の半ばに先ほどの黒猫がハコを組んでいた。
大人しい猫だけれども、何やら鬼気迫った様子だった。
「貴方みたいな猫が、きっと猫又になるのでしょうね」
加々知は猫へと腕を伸ばした。
が、自分から気を引いておいて、猫は、たたん、と階段を駆け上がる。
そういうことをされると、つい、追いかけたくなってしまう。
加々知は暗い階段を登っていった。
じっとりと湿気を孕んだ温い風が、顔を撫でた。
耳鳴りか、それとも空調の具合が悪いのか、ごうごうと風の唸るのに似た音が、耳の奥に渦巻いている。
猫は奥のほうで目を光らせる。
金色の二つの光が、ぎらぎらと何かを待っている。
行こうとした加々知の首の裏に、かさり、何かが触れた。
驚いて振り返ると、植物の葉が襟から落ちてきた。
一体どこから、と、見渡して、加々知は息を止めた。
赤。
一面の。
緋に、紅に、朱に、丹に。
赤く紅葉した酸漿の群が、どこまでも、どこまでも、ひたすらに続く。
さかさの夕景のような景色に、束の間、見惚れた。
群がる緋色の彼方に、一点、白が見えた。
遠い、遠いところから、声が聞こえる。
「忘れるな」
白無垢。
死装束に似た衣装に身を包み、子どもが注連縄に守られた櫓に正座している。
ひとりきり。
神さびて、そして、物悲しい光景だった。
こちらを直視する目は、墓石のごとく暗く淀む。
淀みすぎて、いっそ鋭い。
子どもの乾いた唇から、細い言の葉が零れ落ちた。
「けして、忘れるな」
途端、今まで凪いでいた加々知の胸の奥がざわめいた。
忘れるな。
誰も、助けてはくれなかったことを。
救われなくて、墜ちていったことを。
けして許してはならない。
赦してはならない。
「思い出せ」
なにゆえ、こんな身になり果てたのかを。
「ッ……!」
刹那、これまでで一番鋭く深い痛みが額を貫く。
加々知は咄嗟に額を抑えて、歯を食いしばった。
それに呼応するかのように、揺れる酸漿の向うで、白無垢の子どもが自分の額を抑えているのが見えた。
子どもは冷徹な無表情を崩さないまま、じっと加々知を見ていた。
「どうしてでしょう?」
子どもは静かに、しかし、けして揺るぎなく、責めるように睨んでいた。
「どんな理由ならば許されるのでしょう?」
加々知を見据えたまま、少しずつ、額を抑える手を退かしていく。
「知ったような口をきいても、貴方は何もわかっていなかった」
子どもは責める。
……誰を?
「死にゆくことの意味さえわからないまま、人身御供になり損なった貴方こそ、役立たずです」
許しませんよ、と、子どもが笑った。
「他の誰が許しても、貴方だけは許してはいけません。何故なら」
露わになったその額には……
「貴方は、輪廻の輪から外れて、鬼に墜ちたのだから」
角が一本、生えていた。
加々知は無意識に、しかし、確信的に、その子どものところへ駆け寄ろうとした。
行って、どうするつもりだったのか。
抱きしめてやるのか。逃がしてやるのか。
それで救済になるものか。
わかっていても、衝動は止められなかった。
必死に、ただただ、その小さな体をこちらへ引き寄せようとして、一歩踏み出した。
途端。
どん、と誰かにぶつかった。
顔を上げると、見知らぬ男が蒼白な顔で行き過ぎた。
彼は子どもの腕を掴んで、乱暴に引きずる。
ひどく、既視感がある。
自分は非情にも子どもを連れて行く側だったのか。
それとも、大人の不条理に引きずられる側だったのか。
あるいは、その両方。
【かしこみ、かしこみ】
手を摩り合わせる人々の姿。
【ゆるすまじ、ゆるすまじ】
永久に業火に焼かれ苦しめ。
けして罪をゆるさない。
そのために、存在する。
目の前を行き過ぎる時、子どもがふと、顔を上げて加々知を振り返った。
五つ、いや、七つくらいだろうか。
底なしに暗い双眸に自分の顔が映っているのを見つけて、加々知は息を詰めた。
その瞳は何もない。
祈りも願いも、ないのだろう。
救いはないことを、知っているから。
だから、助けてと、終ぞ声を上げることもなかった。
「恨みなどありません」
その子が本当にそう言ったのかどかは知らない。
加々知は無言で彼に問い返す。
本当に?
本当に、恨まずにいられるのか?
見上げたことだ。きっと天国にいけるだろう。
それが真実だとしたら。
でも、もし違うのならば。
欠片でも、生きようとしたのなら。
「私は、貴方に生きてほしかった」
生まれたからには生きようとする。それを、否定しないでほしい。
叫べばいい。
助けてと、声を上げたのならば、もしかしたら届いたかもしれないではないか。
瞬きするほどの短い時間だったはず。
だけど、加々知にとっては永遠だった。
幾星霜、怨み続けても、責め続けても、けして埋まらない一瞬。
生と死の狭間。
加々知は手を伸べた。
階段を引きずられて降りていく子どもの手を捕まえる。
ぐらり、ふらり、ぶれる重心。
落ちる、落ちる。
子どもは落ちる。
加々知も落ちる。
重なり、融けて、引きずられる。
ぐきり、と、首から嫌な音が聞こえた。
◆
桃源郷に、天地開闢の頃よりまします古き尊き、ひとはしらの神獣がいる。
白澤と呼ばれるその神獣は、森羅万象に通じ、人語を解し、あらゆる妖怪に精通すると言われている。
よき為政者の世に現れる瑞兆とされ、時折、気まぐれに人の世へと降りてくる。
そして、マヌケをしでかす阿呆である。
降りなきゃいいのに、と誰もが思う。
よせばいいのに、と誰もが言う。
それでも神獣は絡むのをやめない。
何故かと問うても、のらりくらりと返事を誤魔化す。
本当はわかっている。
さびしいからだ。
どんなに心を注いでも、ともに生きることは叶わない。
それがわかっているから、神獣は刹那の出会いと別れを繰り返す。
一つでも多くの命に出会い、一つでも多くを知ろうとする。
「面白い奴だったんだけどな」
一本角の鬼神の仏頂面が、何度も何度も、脳裏を過った。
「もうちょっとくらい、いてもよかったのに」
顔合わせれば罵詈雑言、いや、言葉より先に手が出ることのほうが多い。
いつだって先に手を出すのは向こうなのだ。
「腐れ縁だよ、ホント」
和せず、しかし、断たれることなく続いてきた。
だが、永年を生きる神獣は知っている。
いつか必ず、その関係に終わりがくることを。
「おめでとう」
犇くネオンサインを遥か眼下に睥睨する。
月影を翔けながら、白澤は「ふん」と鼻を鳴らした。
業の軛から解き放たれたのなら、それは喜ばしいことではないか。
もとより特殊な経緯で鬼になったのだ、産み直しによる転生だけが輪廻とも限らない。
「お前がそれを望むなら、それが正しいことなんだよ、きっと」
別れを悲しむ者もいるかもしれない。
しばらく不都合がでるかもしれない。
でも、それも刹那のことなのだ。
星移り、物変わり、ようやく彼が全うすべきだった人生が始まったのだ。
止まっていた時間が動き出したのならば、笑って輪廻の輪に送り出してやる。
(だけどやっぱり、さびしいよ)
神獣の流す星色の涙を、満月だけが知っている。
◆
額が割れるように痛い。
ともかく痛い。
骨を穿つような激しい痛みに、たまらず呻く。
その、自らの声に、はっと目を覚ました。
屋内。
板の間で「くの字」に倒れている己を自覚して、ゆるり、身を起こした。
「……なるほど」
額を抑える手が、眉間の上の辺りで止まった。
「私としたことが、情けない」
閻魔大王第一補佐官、鬼神の鬼灯ともあろう者が、まさか。
「まさか亡者の怨念に引きずられるとは」
新米獄卒の頃ならいざ知らず、一体何千年鬼をやっていると思っているのか。
これで現世に縁でもできようものなら、懲戒免職ものだ。
(警察が来る前に、用を済ませましょう)
加々知、もとい、鬼灯は、もとの冷然とした表情で廊下の血の痕を踏みつけて居間へと進む。
冷蔵庫の中に何があったとしても、それは生体の中にあるかこそ意味を持つ。
機能を失えば、タンパク質の塊にすぎない。
もっとも、大切に思っているはずの相手の腹を裂いて取り出すようなものでもないだろうが。
そんなに憎かったのか。
いや、その逆が、真相か。
「大切にしすぎですね」
丁寧に、慎重に、それ以上壊してしまわないように、一つ一つ、摘出された臓物の数々。
その執着に、愛情さえ覚える。
かつて江戸の時分に地獄に落ちてきた亡者の中に、凄腕の刺青師がいたのを、ふと思い出した。
その刺青師は恋仲の女の肌にしか施さず、そのかわり、彼女たちに神業のような見事な刺青を掘った。
彼は愛した。女の肌も、そこに彫った自らの「作品」も、そして、彼女たちの魂も。
だから、老いさらばえるその前に、女を絞め殺して皮を剥いだ。
それに、似ている。
きっと愛していたのだろう。
それが死んでしまって、何とかこの世界に存在を留め置こうと焦ったのかもしれない。
(ただの死体遺棄なら、腑分けした臓器を保存しようなどとは考えないでしょうねぇ)
生き返るとでも思ったのだろうか。
それとも、冷蔵庫に保存されていた事実を鑑みるに、食べようとしたのだろうか。
(……あまり、考えたくはないし、知りたくないですね)
どのみち、閻魔張には全て詳細に真実が記録されているのだ。
たとえ直接の死因が殺害でなくて事故だったとしても、そこへ至るまでの事実を一つ残らず、鬼灯は知っている。
どんな経緯があったのか、それは生者が知るべきこと。
獄卒は「理由」に意味を求めない。
罪という「結果」と、それに応じた呵責という「報復」があるだけだ。
強いて言うなら判決を下すための資料になるくらいか。
「私は悼みにきたわけではないのですすよ。それなのに、傍迷惑な」
饐えた匂いに鼻を摘まんで、鬼灯は洗面所へと続くドアを押し開けた。
かり、かり、かり、かり
浴室から、奇怪な音がする。
かり、かり、かりかりかりかり
人の気配を察したか、一生懸命、何かを引掻く音が絶え間なく鼓膜を揺さぶった。
一息に浴室のドアを引き開けると……
「みゃあああああ」
黒猫が一匹、金の目を円く見開いて鬼灯を見上げた。
ぐっしょりと濡れて、やせ細っている。
何日、物を食べていないのだろう。
あと少し発見が遅ければ、この猫は死んでいた。あるいは、生きようとしたのならば死肉を漁っていたかもしれない。
飢餓状態の猫をそっと抱き上げて、鬼灯は浴槽を覗いた。
風呂桶の中、子どもがひとり。
赤い液体に浸かって、あり得ない角度に首を曲げて、虚ろな目を天井に向けている。
鬼灯はその青ざめた顔をしばらく見つめていた。
「不思議な顔をしていますね」
自分が死んだことがわからないのか、それとも、死ぬことを望んでいたのか。
怒っているわけでもなく、歪んだまま固まる。
悲しそうな、でも、「ああやっぱりね」と安心するような、何とも言えない微妙な表情。
「恨みなど、ないのでしょうね」
浴槽の赤い水鏡に映る自分の影を見ているうちに、そんな言葉が口をついて出た。
その額には、鬼にしては少し華奢な一本角。眦には神格を意味する化粧。
「しかたないことだと、そう思っているのでしょう?」
鬼灯は、ぐりん、と首を傾けた。
死体は語らない。ゆうらん、ゆうらん、暴かれた腹の傷からはみ出した、皮下の脂肪組織と神経束が水面に揺れるばかりだ。
「お話は向こうで伺いましょうかね。死後何日くらいですか?」
応えはなかった。
「三日は経っていますかね。換気扇が回っているようですから、異臭に気付いてご近所さんが警察に連絡してくれている頃でしょう。ああ、ほら、噂をすれば」
遠くサイレンの音に聞き耳を立てながら、鬼灯はぶるぶる震えている猫の背を撫でる。
「この子は生きようとています」
震えながら、それでも黒猫は金の瞳を開いて世界を見つめる。
助けてくれと、声を上げた。
生きようして、足掻いたのだ。
その執念が、鬼灯の鬼火に共鳴して、何度も何度も、呼び止めたのだろう。
「貴方は、生きようとしましたか?」
浴槽の片隅で自分の亡骸を見守る幼い魂魄に、鬼灯は片方の手で猫を抱いたまま、もう片方の手を伸べた。
一つはまだ生きなければならない命のために。
一つはもう生きることをやめてしまった命のために。
「さて、いきましょうか」
次の生へと、向かうために。
◆
「う……うぇっ」
円らな那智黒の瞳に、見る間に涙が溜まったかと思うと、だばー、と堰を切ったように溢れ出した。
「ほおずきさまあぁぁぁっ!」
「こら、シロさん。勤務中ですよ」
胸に飛び込んできてオンオン声を上げて泣きじゃくる白い毛玉をひっぺがして、鬼灯は弱冠、眉間に皺を寄せた。
「たかだが三日ほど音信不通だっただけで、大げさな」
え、とシロは顔を上げて、敬愛する一本角の鬼神を見上げた。
「鬼灯様、もう大丈夫なの?」
「何がです?」
ますます眉間の皺を深くする鬼灯に、シロはまじまじ、その額の角を見つめた。
「さっきから何ですか。今世の現世に産まれた獣ならともかく、鬼退治までした貴方がたに、今更そのような奇異の目を向けられる理由を知りたいのですが?」
シロは右に傾けていた首を左に傾け直し、柿助は目を瞬いて頭の後ろを掻き、ルリオは尾羽を上下に揺すって、三者三様、黙ってしまった。
それから、困惑した様子で同時に目配せする。
「あのぉ……人間になって、俺たちのことがわからなくなっていたって、伺ったものですから」
柿助がおっかなびっくり、見上げてくるのを、鬼灯は淡々と見つめ返した。
「一体、どこからそんな噂を?」
「噂じゃないよ!」
「おい、シロ」
思わず後足で立ち上がった阿呆犬を、ルリオが翼を広げて抑える。
「だって、俺は見たもん! 鬼灯様、角がなくなっちゃって、俺の声も届かなくなっちゃって……」
はたとシロは口を噤んだ。
閻魔殿に勤務する他の獄卒たちの存在を、今更になって思い出したのだ。
閻魔大王第一補佐官の一大スキャンダルを、危うく大声で拡散するところだった。
いや、もうすでにしている。
どうにも言葉が出なくなってしまって、しゅん、と耳を下げた。
「根も葉もない噂です。粗忽も甚だしい」
「う……あの、ごめんなさい」
「謝ることでもありませんよ。私はその程度で失脚するほど柔ではありませんが、しかし、火のないところに煙は立たないですからねぇ。火元が判明したら、全力で鎮火しに行きます」
言外に箝口令を申し渡して、震え上がる三匹を睥睨すると、鬼灯はよく馴染んだ金棒を肩に担いだ。
「そもそも、何で私が現世にいることをご存知だったのでしょう? 公開されている行程表には、記載がないはずですが?」
「それは、閻魔大王が……ひゃ!」
閻魔の「え」のあたりで、すでに鬼灯が動いていた。
シロの耳の上を豪速の拳が掠め、朱塗りの柱に冗談みたいに食い込む。
「ああ、すみません。つい」
「ほ、鬼灯君……」
閻魔大王は巨漢に似合わぬ気弱な声を上げ、まあまあ、と両の掌を向けた。
「連絡が取れなくて、心配したんだよ? そんなに怒ることないじゃない?」
「私の不手際でご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした。ところで、閻魔大王」
ぎぎぎ、と音の聞こえそうなほど威圧的な角度で鬼灯が振り返る。
「私、ちゃんと三日間分、申請したはずなのですが?」
「あれ~、そうだったっけ? ちょっと待ってね。えーっと、あ、ホントだ」
「……」
「うっかり見落としてたよ……って、鬼灯君!? 何で金棒大きく振りかぶってんの!?」
いつもならそのままぶん殴られるところだが、何故だか今回だけはそのまま金棒が静かに肩の定位置に戻っていった。
「音信不通になったのは、亡者を逃がさないように結界を張ったためでしょう。音も含め、外界との接点を一切遮断しますから、もしかしたらシロさんに気付かなかったかもしれませんね。シロさんが塀の回りをぐるぐる回り続けたのもそのせいです。ほら、よく怪談話でもよくあるでしょう?」
「俺、幽霊じゃない」
「不喜処の獄卒が何をいいますか」
シロはじっと鬼灯を見上げる。
その横顔には、変わらない冷徹な無表情があるばかりで、何を考えているのかわからない。
が、考えていることはわからなくても、思っていることはわかるものだ。
シロは下がっていた尻尾を、くるんと巻き上げて言った。
「鬼灯様にも、尻尾があればいいのにね!」
そうすれば、その心ももっとちゃんと皆に伝わるのに。
怪訝な顔をする鬼神の後ろで、何やら意味深に肯く閻魔大王の穏やかな顔を見て、シロは尻尾を振って見せた。
嘘も方便と言うではないか。
先に三日間も出張するとわかっていたのなら、この仕事の鬼なら、先んじて業務が停滞しないよう手を打っているはず。
「ともあれ、鬼灯様が帰ってきてよかった! やっぱり地獄はこうでないとね!」
◆
桃源郷というからには桃の樹が多い。
が、桃ばかりというわけでもなく、百花繚乱、種々の花が季節を問わず咲いている。
もちろん、桜の樹もある。
一口に桜といっても、つける花の色形や枝振りは様々だ。
そのうちのひとつに、白澤はいた。
枝に寝そべり、杯を傾ける。
ほろ酔い、頬を染めて気分よく微睡んでいると、草を踏み分けて誰かがやってくるのが聞こえた。
日本人は桜の樹が好きだ。
おにぎりと桜に対して、絶対的な信用をおいている。
理由は知らない。きっと遺伝子に組み込まれているのだろう。
「見事な桜ですね」
冷然とした声が、淡紅の花の下から聞こえてくる。
白澤は見向きもしない。
「桃太郎さんに、こちらだと伺ったものですから。珍しいですね」
「僕もたまには物言わぬ花を相手に酔いたい気分になるんだよ」
白澤は杯に落ちてきた花弁一片を、吹いて遊ぶ。
「何の用? 注文の品なら桃タロー君に預けてあるけど?」
「現世で世話になったようなので」
「御礼参りか!?」
身の危険を感じて跳ね起き、そこが不安定な枝の上だということを思い出して、危うく落ちそうになる。
「正しい意味での御礼参りです」
「え……新手の嫌がらせのつもり? 気味悪いんだけど?」
「借りは作りたくありませんので」
ふうん、と白澤は枝の上で寝返り、俯せになる。
花の間から見える白皙の額には、一本角。
ついと、視線が上がり、目が合う。
今日は妙に大人しい。
静かにしていれば、鬼の中でも麗しいほうなのだ。
桜の花の色の淡さと、官衣の黒と緋の禍々しい色彩が、驚くほど調和する。
鬼には珍しい流れるような黒髪に、花びらが一つ落ちてきた。
ざわりと、背筋が震える。
儚い、と思いかけて、相手があの鬼灯であることを思い出した。
どうやら思っている以上に酔ったらしい。
「鬼に桜ねぇ」
「は?」
「僕、今かなりいい気分なんだ。邪魔されたくないから、さっさと失せな」
「恐ろしいことに、私自ら謝罪と礼を約束してしまいました」
「そんな昔のことは忘れたよ」
にぃ、と笑みを深める白澤。
宿敵の、暗澹たる眉間の皺がたいへん面白い。
鬼灯はさらに不機嫌に顔を顰めた。
「そういうわけには参りません」
「頑なだねぇ。この朴念仁」
飄々、笑って流して、白澤は手を伸ばすと、黒髪の後頭部についた桜の花びらを取り除いてやる。
「今日だけは、言い返しませんよ」
「土下座なり罵倒なり、何ら、僕から要求したほうが気が楽? じゃあ、絶対しない。あー楽しい。お前のこと、こうして見下すのちょー楽しい」
「楽しんでいただけて、何よりです」
いよいよ三白眼が据わってきた。眉間の皺に「覚えていろよ偶蹄類」と書いてある。
筋骨隆々な鬼どもとは方向性の異なる強面に、白澤は引きずりおろされることを懸念して、枝の奥へと腕を引っ込めた。
「でも、報復が怖いから、僕の質問に素直に答えたら、この件はなかったことにしてやるよ」
「何なりと」
どこまでも冷然と、堂々と、鬼神は唇と引き結んだまま微動だにしない。
「お前、何で帰ってきたの?」
僅かに、本当に少しだけ、凶悪な三白眼が揺らいだようだった。
「どこぞの神獣の御加護があったからでしょうか?」
「僕は何もしていない。お前が言ったんじゃないか、役立たずって」
「撤回しましょう。あの電話一本が、今思うに突破口でした」
白澤は束の間、黙る。
いかなる知識をもってしても、あの手の術は破りにくいのだ。
神代、天照大神が岩戸に籠ったように、「閉じ込める」術に比べると、「自ら閉じ籠もる」術は内側からしか崩しようがない。
この鬼神がうっかり落とした鬼火を、亡霊が拾って閉じ込めたのか。
それとも、無自覚の深層心理の発露か。
森羅万象に通じる神獣はただ黙する。
心ばかりは、わからないから。
「答えになってない。不合格」
「……では、これでどうでしょう? 貴方、『帰ってきた』と言いましたね?」
「言ったけど?」
「帰るということは、こちらに待つ者が存在するということです。あちらでは誰も『加々知』の帰りを待っていませんからね」
不意に、桜の枝の下から鬼灯がこちらを見上げた。
「意外です」
「え? 何が?」
珍しく毒気のない、きょとんした表情を向けられて、白澤は反って落ちつかない。
「訊かれるならば、現世に行った理由だと思っていましたので」
「そんなもの」
白澤はニタリ、笑みを深める。
「休暇だと思えばいいんじゃない? お前、仕事しすぎ」
「そっちが仕事をしなさすぎるんですよ、この極楽蜻蛉」
「朴念仁」
風。
桜嵐。さんざめく花の渦。
酸漿の意匠をあしらった煙管を燻らして、酸漿はそっと瞳を伏せた。
「ここの空気は清浄すぎて、居心地が悪いです」
「そりゃあ、お前、毒煙渦巻く地獄の住人だもの」
ええそうです、と、鬼灯は涼しい顔をして煙を吐き出した。
「地獄にかえります」
苦悶と悔恨の充満する、自ら育み、育まれた、居心地のよい場所へと回帰する。
「私は鬼ですから」
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