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この空の青に

作者:清水さゆる
驚くべきことに、これが「なろう」デビュー作。
とても素晴らしい二次創作動画があるのですが、その方の絵に心底惚れ込んで、夢中で書いた作品です。
物語の存在する絵というのがあります。一枚の絵で、物語が立ち上がってくるような絵です。
もしその動画に出合わなければ、間違いなく「クロユリ」はこの世に存在しませんでした。
そう。何を隠そう「クロユリ」の源流。全てはその動画から始まったと言っても過言ではありません。
とくにフリードリヒ2世の逸話をベースにしたストーリーは、「この空の青に」が母体になっています。
序、微風

 空は青く、円く。
 遠く高いところを鳥が舞っていた。たった一羽で同じ軌道を何度も巡る。美しかったが、寂しい姿だった。その影を地上から追う二つの瞳。血と同じ赤色の双眸が不思議そうにじっと見つめている。
 子どもだった。
 厳つい鎧で武装する騎士たちの中で、その容姿は異質だった。加えて珍しい銀色の毛髪をしているものだから、余計に彼は浮いていた。
 ギルベルト・バイルシュミット。
 彼は【国】であるから、人の輪の中に入ると一種独特な気配を放って妙に目立つのだ。尤も、ギルベルトに限って言えば、彼がいついかなるときでも目立つ理由は他にあるだろう。ギルベルトは【国】なら多かれ少なかれ皆が持っている支配願望を隠そうともしない、よく言えば自分に率直な【国】だった。
「どうした、呆けた顔をして」
 背中から声を掛けられてギルベルトは振り返った。
「なあ、ヘルマン」
 ギルベルトはよく日に焼けた笑顔を見上げた。ヘルマン・フォン・ザルツァ。代四代騎士修道会総長で、ギルベルトの現上司である。
「あの鳥は何だ?」
 ギルベルトは太陽を背に旋回を続けている鳥を指差した。ヘルマンは兜を僅かに上げて上空を仰ぎ、それから生まれて間もない幼い【国】に微笑んだ。
「ありゃあ、鷲だな」
 赤い瞳が驚いたように丸く見開かれる。
「わかるのか? すげぇな」
 ヘルマンは、見た目は人間の子どもと変わらないギルベルトを軽々と抱き上げて言った。
「羽を見るんだよ。翼と尾で見分けるんだ」
「あいつは何をしているんだ?」
 ギルベルトはどこまでも真っ直ぐに訪ねてくる。ヘルマンはこの【国】の、こういう素直さが気に入っていた。ドイツ騎士ならではの忠誠心と純真。それ故の無謀。聖地を守るために生まれてきたのだから、この【国】は恐れを知らない戦士でなければならない。
「獲物を探しているんだよ。ああやって高いところから地上を見下ろして、獲物を見つけると降りてきて鉤爪で捕まえるんだ」
「何で一羽なんだ? 他の鳥は群れるぞ」
 ふ、とヘルマンは笑った。馬鹿にされたと思ったのだろう、ギルベルトはむくれた。この形で矜持だけは一人前なのだ。
「笑うなよ!」
「悪かった。馬鹿にしたわけではない。鷲は群れない鳥だからな」
「何故?」
「強いから、だろうな。鷲は他の鳥や獣を取って喰う生き物だ。縄張りを持ち、仲間も寄せ付けない。孤高の鳥なんだよ」
 そうか、とギルベルトは上空を見上げた。
 風が静かに抜けていく。鉄と血の匂いが混ざっていた。
「……そろそろ行こうか」
 ヘルマンは静かに言った。
 ふと、赤い瞳と目が合った。嘘も誤魔化しも聞かない真っ直ぐな視線に射抜かれて、刹那、ヘルマンは言葉を失った。
「行くあてはあるのか?」
「……ある」
 わかっているのに、思わず嘘を付いてしまった。小さいながらに聡いギルベルトのことだから、自分の置かれた状況を理解できないはずがない。対クマン人防衛としてハンガリーに招聘されたはいいが、都合よく使い捨てられるだけのような気がしてならなかった。
「おろせ!」
 傲慢に言い放つと、ギルベルトは半ば腕を振り解くようにして地面に降り立つと何も言わずに歩き出した。
「どこへ行く?」
 ヘルマンが慌てて呼び止めると、ギルベルトは肩越しに振り返った。
「どこへでも。こんなところでぼうっとしていたってどうにもならんだろ? 奪われたんなら奪い返す。取り返せないなら、別のとこから奪えばいいさ」
 そして不敵に笑った。血の色の目を三日月に歪める。背中に負う十字は、すでに誰かの血と煤で汚れていた。
「ギルベルト」
 ヘルマンは複雑な気持ちでその小さな騎士の姿をした【国】を見つめた。
「何だ?」
 笑顔のまま微かに首を傾げる。純粋で、無知で、だからこそ恐れない。しかし、それがこの【国】の本性なのだろうかと、ふと、不安になってしまった。
「大丈夫だ。必ず俺がお前を本物の【国】にしてやるから。約束する」
 ギルベルトは目を瞬いて、それから妙に大人びた複雑な笑顔を作った。気がついたときにはギルベルトはこういう笑い方しかしなくなっていた。欲望には素直なくせに、喜びだけは素直に表せない。それはきっと、彼は彼なりに自分の願望は何者かの犠牲と背中合わせであることを承知しているからかもしれない。
 彼が【国】になるということ。それは、どこかの誰かが滅びるということだった。
「おう。それじゃあ、俺様も約束するぜ。世界最強の【国】になってやるよ」
 雲ひとつない、よく晴れた日のことだった。
   *
 こうして土地を失った若い【国】は、故郷の空に別れを告げて流浪の身となった。
 小さな背中は安住の地を求めて彷徨い、1211年、ハンガリー領プルツェンラントを所領として付与される。
「よしわかった!」
 不遜な笑みで言うとギルベルトは早速、剣を抜いた。
「あいつらを追っ払えばいいんだな?」
 そして電光石火の早業でクマン人を撃退し、「俺様最強!」とのたまって哄笑する。
「褒めろ! 讃えろ! 跪けー!」
 この頃からだろうか。
 ただ無心に上空の鳥を仰いでいたギルベルトの血の色の目に不穏な影が差しだしだのは。高らかに笑いながら、その目はいつも飢えを訴えていた。誇らしげに胸を張る一方で、いつも瞳の奥は物欲しげに揺れている。プルツェンラントをクマン人から防衛する役目を担ったことで、聖地の守護者から異教徒に対する尖兵としての性格を帯び始めたのかもしれない。
 ある日、いつもは煩いほど存在感を振りまく彼が珍しく塞ぎこんでいた。どうしたのかと訊ねてみたが、ただぽつんと
「あいつ、女だった……」
 と呟いて、ふらふらとどこかへ行ってしまった。
 さすがのギルベルトも喧嘩の日々に疲れたのだろうかと心配になって、元気付けようとプルツェンラントを彼に与えると言ったのが拙かった。
 激怒したハンガリー王によって追放され、再び放浪の生活に戻ることとなったのだった。
 1226年、今度はポーランドに招聘されケーニヒスベルクに留まることを許される。プルツェンラントの一件で懲りたヘルマンは、今度は神聖ローマ帝国と交渉し、「クルムラントとプロイセンラントの領邦主権者」としての法的地位を得る。
 ギルベルトにとって、聖地を追われて以降、ようやく得た念願の本拠地だった。
 自分たちの場所があるということ。それだけでこんなに安心する。
「待たせたな、ギルベルト。お前の土地だ」
「……あ、ああ」
「嬉しいか?」
「こ、こんなの当然だな! 何せ俺様、最強の【国】になるんだからな!」
 ヘルマンは、少し力を入れたらそのまま潰れてしまいそうなほどまだまだ小さいギルベルトの頭に手を乗せた。
「俺の夢はな、ギルベルト」
 最近、やけに冴え始めた赤い瞳がこちらを向いた。
「騎士を戴く国だ」
 そして無防備なその身体を高く掲げる。白くて小さな、強い【国】。
「お前は俺の希望だ」
 近頃はすっかり横柄な笑みが板に付いてきた顔が変な形で固まった。赤い目が戸惑うように揺れて、見る間に顔が赤くなっていく。本当に、喜び方を知らない不器用な奴だとヘルマンは笑った。出合った頃と変わらない、素朴な笑顔だった。
 1239年、初春。
 ヘルマン・フォン・ザルツァは国の礎を築いて逝ってしまった。
 ギルベルトはこの時、人と【国】では時の流れが異なるのだと当たり前のことを知った。
「ずるいぞ、ヘルマン。俺はまだ約束を果たしていないのに、一方的に反古にするな」
 だから、このまま消えてしまうわけにはいかなかった。
 強くならなければ。
 誰よりも強く、大きく、一刻も早く。
 ギルベルトは強く剣の柄を握り締める。赤い瞳に征服の焔が灯っていた。
 この後、ドイツ騎士団は他の騎士団を吸収して先住民による三度の反抗を鎮圧する。この征服戦争は改宗に応じない先住民を容赦なく殺戮するという凄惨なものとなり、十四世紀まで続くのである。
「今日も俺様絶好調! 小鳥のようにカッコイイぜ!」
「相変わらず暴れているようだな」
 ある日のこと、異教徒の制圧から帰ってきたギルベルトを呼び止める声があった。ゲルマンの血を濃く引く金髪に碧眼。振り返った先には小さな【国】が複雑な顔で立っていた。
「よう。元気だったか?」
 そう言って手を振ると、相手は微かに笑った。
「大きく、なったな」
 見上げる青い瞳が物憂げに揺れて、ギルベルトの胸は僅かに波立った。自分が生まれる遥か昔から存在していたこの【国】だが、ふと気が付けば自分のほうが大きくなってしまっていた。この【国】があったからこそ今のギルベルトがある。だからこそ、こうして見上げられると落ち着かない。
「アンタに土地を貰ったおかげさ。これでも感謝してるんだぜ?」
 ギルベルトはそう言うと、今や見下ろすこととなった古き貴き【国】に跪いた。生まれ付き矜持の高い彼が自ら跪くのは、上司を除けばこの【国】以外にないのかもしれない。
「受けた恩は忘れない。俺様は騎士だからな」
「忠誠、か。あまり無茶をするなよ」
「無茶をしなきゃ【国】にはなれねぇ」
 青い瞳が否定するように歪む。
「それだけでは【国】として脆い」
 意外な言葉にギルベルトは目を丸くした。
「でかくなるだけじゃだめなのか?」
「強くなくてはならない」
「なら問題ねぇ」
 へへ、と小さく笑ってギルベルトは言った。
「どこと喧嘩したって負ける気はしねぇ。俺様、あれからずっと闘ってきたからよ」
 何か言いたげに眉間に皺を寄せて、その【国】は諦めたように溜息をついた。
「お前のそういうところが時々不安になる」
「そうか? ま、心配いらねぇって」
 自分を守ることを知らない、と言っていた気がする。高笑いしていたのであまり聞いていなかった。第一、ギルベルトには守るということが具体的に何を指しているのかよくわかっていなかった。例えば誰かを守るというのなら、その人に仇なす者を殺せばいい。攻撃されたくないなら、責めればよいのだ。
 ヘルマンの死後も順調に勝ち進み、確実に戦歴を重ねていったギルベルト。
 恐怖支配を続けてきたドイツ騎士団だが、1410年、タンネンベルクの戦いでポーランド・リトアニア連合軍の策に嵌りマリエンブルクに敗走、マルボルク城周辺を包囲され、籠城を余儀なくされる。不敗と謳われたドイツ騎士団はついに壊滅寸前まで追い込まれた。
「こ、こういう時こそ神頼みだ! 全軍祈れ! もと『聖母マリア病院修道会』だし、何とかなるって! 起これ奇跡の大逆転!」
 と、涙目になって頭を抱えて震えているうちに季節は秋になり、兵の大部分を農民が構成していたポーランド・リトアニア連合軍は撤退していった。
「え? 帰った!?」
 帰っていく連合軍を上司と見送りながらギルベルトは内心胸を撫で下ろす。
「ははっ! 俺様って運命の女神様にも愛されているんだな!」
 いつもの調子でふんぞり返って大口叩いているうちに、ふと、ギルベルトの脳裏に今更ながらに疑問が過ぎった。
「なあ、何であいつら帰ったんだ? ありがたいけど」
 逆の立場なら、ギルベルトは数に物を言わせて敵軍を壊滅させていた。また侵略してこないとも限らない。潰せるうちに潰しておくのが定石だろう。
「収穫に響くからだろう。我が軍もよく持ちこたえたものよ」
「はぁ? 収穫って……戦より畑を優先させたのか?」
 理解に苦しむギルベルトに、その時の上司は何も言わなかった。
 この時、ギルベルトの胸に小さな石ころのような感覚が落ちてきた。それは奥のほうに溜まっている諸々の記憶と共鳴して、未消化のまま長いこと胸の中に残っていた。
 あの【国】は大きいだけでは脆いと言う。【国】が永らえるには強くなくてはならないと。
 リトアニアと組んだポーランドは、自分をここまで追い詰めた。喉元に迫った刃の感触は決して忘れはしない。例えば、今の自分にあれと同じことができただろうか。そんなことを考えて、ギルベルトは自嘲した。「今日の友達明日の敵」というやつだ。冗談じゃない。
 秋の収穫のために撤退するなど、ギルベルトには考えられないことだった。だからこそ、不思議な気分になった。
 守るということ。
 帰るところがあるということ。
 ひょっとしたら自分には永遠にわからないことなのかもしれない。
 以降、ギルベルトは【国】として着実に成長していった。それが少しずつ毒で蝕むようにしてあの【国】を弱らせ、後に機能不全に陥る引き金となっていたことを今の彼が知る由もない。
 そして時は流れて1701年。
 ケーニヒスベルクの郊外でギルベルトは一人、天を仰いだ。
 薄青の空。風は冷たく乾いていたが、よく晴れていた。遥か上空を鳥が大きな円を描いて舞っている。流線型の翼角に、五指のように一本一本が離れた風切羽。扇型の尾。嘴の影はやたら鋭い。太陽を背に負い、我が物のように空に君臨する。
「ありゃあ鷲だろ? なあ、ヘルマン」
 ギルベルトはにやりと笑って剣を地面に突き立てる。
「約束、果たしにきたぜ」
 1701年1月18日。
「俺はまだまだ強くなるぜ。それがアンタとの約束だからな」
 微かにそよぐ風にはすでに鉄と血の匂いが混ざっていた。
 緋色の双眸はただ遥か蒼穹を見つめる。大きく広げた黒い翼に、今、新しい風が絡もうとしていた。

間隙 ①

 あのギルベルトが珍しく神妙な顔で黙っていた。もう結構な時間、彼は彫刻のように静かに座ったままで、普段が普段なだけに、その様子はローデリヒを余計に不安にさせた。
「貴方が静かだと不気味ですね。悪いものでも食べましたか?」
 いつもならすぐさま知性のない罵詈雑言が返ってくるところだが、何の反応もなくてローデリヒはいよいよ以って本格的に心配する。
「口直しに焼き菓子でもどうですか?」
 やはり、反応がなかった。
 傍若無人で乱暴な物言いで周囲を振り回すものだから、つい、それがこの【国】の本質だと誤解してしまう。こうして時折垣間見える純真さが、そのまま彼の脆さだった。
「今ご用意いたしますから、そのままお待ちください」
 そう言って半ば逃げるようにしてキッチンへ向った。
 ヴェストファーレン条約締結の後、しばらく経ってからのことだった。
 やがて焼きあがった菓子を持って戻ってみると、さっきと全く同じ姿勢のままギルベルトは大人しくしていた。
「……息、してますか?」
 思わずそう訊ねると、ようやくぎこちない動きで振り向いた。
「あの爆発音でどうやったらこんな女の飾りみたいな細かい物ができるんだか」
「お黙りなさい。お気に召さないのなら下げますが?」
 ようやく口を開いたと思ったらこの様だ。それでいい、とローデリヒは溜息混じりに思った。こうでなければ落ち着かない。
「……本当に消えたのか?」
「確かなことは言えませんが」
 信じがたい気持ちはローデリヒも同じだった。ギルベルトは血溜まりのような虚ろな赤い瞳を側めて再び窓の外へ視線を移す。おそらく無意識だったのだろう、空いていた左手が答えを問うように襟元の鉄十字に触れていた。
 このとき、彼が何を思っていたのかローデリヒに知る由もない。ただ、少しだけ、ほんの少しだけ、血の紅の裏側で別の光が揺れているように思えた。
「彼にも夢があったでしょうに。会いたい者も、いたはずです」
 ローデリヒは脳裏にかの少年の姿を思い浮かべながら瞳を伏せた。世界の決め事はいつでも冷淡だ。人に寿命があるように、自分たちにも限界がある。
「貴方も自重することです。横暴がすぎると身を滅ぼしますよ。ハプスブルクの双頭の鷲の下、あまり身勝手をせずに今後も――」
 不意に、ギルベルトを取り巻く空気が変わった。それまで虚ろだった瞳が攻撃的な赤に変わって、ローデリヒは困惑する。
「俺様に指図するな」
 今にも噛み付かれそうな目付きで睨まれて、ローデリヒは言葉を呑んだ。
「お前の物になった覚えはねぇぞ。俺様が跪いたのはあいつであってお前じゃない」
「何をそんなに怒っているのですか?」
 ローデリヒは呆れて溜息混じりに宥めた。
「そんなふうには思っていませんよ」
「どうだか」
 急に不穏な気配を滲ませたギルベルトが、何か言いかけて口を開いたその時だ。
「ローデリヒさん、お庭の百合が綺麗だったので摘んできたのですが、花瓶が――」
 ノックもなしに扉が開いて、春の日差しのような笑顔でエリザが乱入した。そしてギルベルトを見るなり、明るかった笑顔が一転、激しい怒りに歪む。性根の真っ直ぐで大らかな彼女が怒った顔を始めて見た気がする。
「お前っ!」
 言うなりエリザは持っていた花の束をギルベルトの顔面に叩き付けた。
「何でここに! ローデリヒさんに何を!?」
 どこに隠し持っていたのか、エリザはフライパンを振りかざすと有無を言わさずギルベルトに向って振り下ろした。
「何をするんですか! 落ち着きなさい!」
 初めて見る彼女の凶暴な一面に困惑しながらもローデリヒはその両腕を抱え込んでギルベルトから引き離す。
 突然の襲撃に百戦錬磨のギルベルトも顔を引き攣らせて固まっていた。
「な、何だよ!? 恨まれるような覚えしかねぇが突然襲われる覚えはねぇぞ!」
「黙れ! プルツェンラントを忘れたとは言わせない! それだけじゃない! お前、あの時どうして黙っていた! 絶対、許さない!」
 我を忘れて怒り狂うエリザを抑えながらギルベルトを見やると、怪訝そうに首を傾げていた。が、何か思い当たる節があったのか
「お前、まさか……!」
 と叫んで、血相を変えた。それから聞こえるか聞こえないかのぎりぎりの小声で「やっぱり女だったか」と呟いたかと思うと、身を翻して怯えるように間合いを引き離した。
「ロ、ローデリヒ!」
 無理矢理口の端を吊り上げてギルベルトは笑って言った。
「世話になったな! そいえば上司に呼ばれていたような気がするから、帰るわ!」
「……わかりました。お気をつけて」
 事情がまったく見えてこないが、とりあえず彼が元の横柄な自分を取り戻したことに安心する。そそくさと出て行く彼の背中を見送って苦笑した。
 後でエリザから事情を聞きだして、噴出さずにはいられなかった。
 どこまでも報われない彼に、幸あらんことを。
一、
上昇

「んー、いいねぇ」
 ギルベルトは洗練された街並みを見下ろして満足げに唸っていた。あの野っぱら同然だったベルリンがこうも変わるとは……。
「ま、俺様の実力を以ってすれば当然だな」
 鼻息も荒く尊大に背を反ったときだった。
「よう、田舎者!」
 唐突に背後から首に腕を巻かれて舌を噛みそうになる。絞める腕に容赦が感じられない。
「相変わらず偉そうだねぇ。お兄さん、ちょっとムカっとするぞ」
「フランシス! 放せ!」
 ぐいぐい腕で首を絞められて、ギルベルトは割と本気で暴れた。
「その辺にしときー。あんまやりすぎると、本当に死ぬでー」
 言葉だけなら思いやりを感じるのだが、アントーニョはニヤニヤ笑いながら黙ってみているだけで実際に止めに入る気は欠片もなさそうだった。自力で抜け出すと、ギルベルトは十分に間合いを取る。この二人はたまに洒落にならないから、安心できない。
「そう逃げるなって。久しぶりに様子見にきてやったってのに、つれないねぇ」
 フランシスは実に鮮やかに笑っていた。こいつがこういう顔をするときはろくな目にあわない。
「それにしても、えらい洒落た街になったもんやなぁ」
 アントーニョは辺りを見渡して感嘆の溜息を付いた。それに気を良くしたギルベルトは「だろう?」と腕を組んで踏ん反り返る。
「もっと褒めろ。讃えろ。俺様を誰だと思ってやがる?」
「もとマリアちゃん」
 うぐ、と息を呑んでギルベルトは横柄な笑顔をぎこちなく強張らせた。
「それを言うなよ。もう昔の話だろ」
「それにしてもまあ、見違えるほど綺麗になったもんだ」
 珍しくフランシスが素直な賞賛の言葉を口にした……と思った矢先、その手が腰に触れた。妙な動きをする前に手首を捉えて捻りあげておく。
「懲りんやっちゃなぁ」
 アントーニョは呆れたような、それでいて大らかな笑顔で言った。
「この間もローデリヒに同じことしてしこたま怒られたばかりやないか」
「あの腐れ坊ちゃんがどうかしたって?」
 フランシスを放してギルベルトは顔を顰めた。
「この前会ったらお前が柄にもなく塞いでるって言うとったから、心配してたんやで?」
 余計なお世話だ、と言ってみたものの、実際、ギルベルトは確かに気落ちしていたのだ。
 他でもない、あの【国】の一件だ。
 顔に出てしまったのだろう。さっきの変態行為が嘘のようにフランシスまでもが真顔で言った。
「お前のせいじゃないさ」
「わかっている」
――わかっている、はず。
 あの時まで、ギルベルトは自分が大きくなることしか考えていなかった。
【国】として十分成長していたローデリヒと、ここ最近、急速に大きくなった自分。
 自分たちが無意識のうちに、あの【国】を蝕んでいたのかもしれない。
 奪うことしか知らなかったギルベルトにとって、それは逆に衝撃的な末路だった。
 滅ぼされるかもしれないという危機意識は常に抱いていたが、消失するとは思ってもみなかったのだ。
 全ての存在には終わりがある。永遠などない。考えれば、当たり前のことだった。
 いつか滅ぶ。人も、【国】も。
 消えていくその瞬間に、自分は何を残せるだろうか。不意にそんな考えが胸を過ぎった。
 上司の手によって文化都市として整備されたベルリン市街を眺めながら、ギルベルトは複雑な気分になる。土地を奪われるのはもう御免だし、せっかく綺麗になったこの場所が自分以外の誰かのものになるのは我慢ならなかった。
「しっかし、ちょっと見ない間に大きくなっちゃってまぁ」
 不意にフランシスは言った。
「昔は小鳥のように可愛かったのに……。いつの間にこんなに生意気になったのかねぇ。ん?」
 いきなり頭を掴んでわしゃわしゃと髪をかき混ぜる。
「フランシス、そらちゃうで。こいつは昔っからふてぶてしかったわ」
「うるせぇ、触るな! 絡むならあの眼鏡に絡めばいいだろ?」
「ローデリヒねぇ」
 フランシスはまんざらでもなさそうに言った。
「悪くはないんだよねぇ。特に顔と仕草は俺好みなんだけどねぇ……」
「ははは。前々から仲悪いもんなぁ」
 のんびりと笑う二人に対して、ふと、ギルベルトの野心が疼いた。
「なあ」
 ずっと前からあの取り澄ました横顔に一発叩き込んでみたいと思っていたのだ。
「もしも、だ。俺様があの貴族野郎に喧嘩を売るとしたら、お前ら乗るか?」
 アントーニョもフランシスも一瞬真顔に戻って息を詰めたが、すぐにまた締りなく笑ってギルベルトの背中をばしばし叩いた。
「あーもう、冗談よして。お兄さん、一瞬良からぬ妄想しちゃったじゃない」
「そうそう。あんま無茶しない方がええでー。お前、すぐと調子乗るから。ほら、タンネンベルクの時だって――」
「ああっ! それは言うな! あ……あれはその、何ていうか、たまの失敗がないと違う俺様が見れないだろ! だからわざと負けてやったんだ!」
「マリア様ぁって泣きべそかいて頭抱えてたっていうのにぃ?」
「黙れぇ!」
 心地よい風が、どこからか花の香りを運んでくる。そんな穏やかな日のことだった。
   *
 大選帝侯の後を継いだフリードリヒ1世は、ハプスブルク家より王の称号を許され、開拓地であったベルリンを「シュプレー河のアテネ」と言わしめ、王国としての土台を作り上げた。時はフリード・ヴィルヘルム1世の統治。後に「兵隊王」と仇名されたこの王は、質実剛健な性格で軍事力の強化に努めていた。前の上司は派手好きの浪費家だったので、極端な節約家っぷりにギルベルトは最初の頃こそ閉口していたたが、今ではまんざら悪い気もしなかった。
 久々に宮殿へ赴くと、異様な気配が満ちていた。嵐の後のような、喪中のような、そんな空気の陰湿さだ。憲兵を捕まえて事情を訊いて、ギルベルトは納得した。
 フリッツが逃げたらしい。当然ながら発覚して逃亡の手引きをした近衛隊少尉が、つい先日処刑されたのだという。
 ギルベルトはしばらくの間その場を行ったり来たりして自分がどうするべきかを考えていたが、結局何も思いつかなかったのでそのまま踵を返した。
 この手の問題はギルベルトの最も苦手とするところだ。
 闇雲に外を歩き回っていると、すすり泣く声と丸まった小さな背中が目に飛び込んでギルベルトはあからさまに嫌な顔をして立ち止まった。
 よりもよって、この状況で一番避けたい相手に出会ってしまった。
 無視してもよかったが、遭遇してしまった以上は逃げるわけにもいかないだろう。じりじりと間合いを詰めて、その目の前まで近付いてもフリッツは気付いていないのか顔を埋めたまま動かない。こんなに鈍くて戦場で生き残れるか不安になる。
「お、おい」
 声を掛けた途端、フリッツはウサギのように飛び跳ねた。大仰な仕草にギルベルトまで咄嗟に身を引く。泣き腫らした目が怯えながらじっと見つめていた。
(しまった……)
 声を掛けたはいいものの、この後どうすればいいのかギルベルトにはわからない。取り敢えず怖がらせないように笑顔を作ってみるが、逆に泣かれてしまった。
 こっちが泣くたくなる。
 ふと、足元で銀色が反射した。
 フルートだった。
 そっと拾い上げると、フリッツが動いた。
「か、返して」
 よく見ればフリッツの膝は震えていた。しかし、逃げなかった。涙に濡れていてもその視線は強い。ギルベルトは近い将来、跪くことになるその少年を、今は完全に見下ろしてフルートを差し出した。
「ほらよ。大事な物なら手放すな」
 人も、物も、気を抜いたら誰かに奪われる。
 フリッツは驚いたように目を丸く見開いて、それから頬を赤くした。
「あ、ありがとう」
「吹けるのか?」
 興味本位で訊ねると、フリッツは愛おしそうに銀色の線を撫でた。
「少しだけ……」
「へぇ。じゃあ、吹いてみろよ。聞いてやるからよ」
 フリッツは困ったように眉を落としたが、ギルベルトは譲らなかった。半分脅すようにして無理矢理フルートを構えさせる。フリッツはしばらく泣き出しそうな目をして様子を窺うように何度も視線を上下させていたが、ふと、息を吸って背筋を伸ばした。
 視線が定まる。遠く、ここではないどこかを見つめていた。
 その目を見て、ギルベルトは思った。
 似ている。あの騎士に。
 天空を旋回する黒い翼を指差した、あの騎士も同じ目をしていた。
 最初の音が風に乗る。
 それはギルベルトが始めて知る「美しいもの」だった。
 気が付けば、すっかりこの少年の奏でる音に心酔していた。
 人を縛るのは恐怖だけだと思っていた。心を繋ぎとめるのは強さだけだから、支配するには押さえつけるしかない。そう思っていた。他のやり方を知らない。
 やがてフリッツがフルートを下しても、ギルベルトはしばらくの間その場から動かなかった。フリッツは物憂げに視線を落として、ぽつりと呟く。
「カッテは死んだ。僕のせいで」
 ギルベルトはようやく我に返ってフリッツを見る。処刑された少尉のことだろう。
「恨まれたか?」
 フリッツは静かに首を横に振った。
「いっそ、恨んでくれればよかった」
「何か言われたのか?」
「カッテは、『あなたのために喜んで死にます』と……」
 再び喉を鳴らして泣き出したフリッツに、ギルベルトは本当にどうしていいのかわからずに困り果てた。まるで自分が泣かしたような気分だ。
「あー、その、何だ? 泣くなよ」
 小さなその頭に手を乗せる。かつてヘルマンがそうしてくれたように。
「俯くな。顔を上げて前を見ろ」
 フリッツはぎこちなく顔を上げて、問うように見つめてくる。
「強くなろうぜ。一緒に」
 奪われないために。
 守るために。
 守ることがどういうことなのか、何となく、わかった気がする。
 そして同時に悟ってしまった。
 自分には処刑されたフリッツの部下と同じことはできない。
 何故なら今のギルベルトには守りたいものがないからだ。思えばずっと、奪うことしかしてこなかった。
 自分は間違っているのかもしれない。生まれて初めて、そう思った。
 やがて季節は巡り、1740年。
 フリードリヒ2世、即位。
「あの泣き虫が立派になったもんだ」
 ギルベルトは笑って言った。
 宮殿の片隅で一人震えていた少年は、厭世的で、それでいて油断のならい鋭利な眼差しをした男に成長した。今、王冠を戴いて静かに微笑む。
 ギルベルトは満足げに頷いて、彼の足元に跪く。
 その手を取り、そっと唇を寄せた。
「ギルベルト」
 フリッツは歌うように言う。
「覚えているか? お前は以前、私に『強くなろう』と言ったな」
「ああ、言った」
「そう……あの時お前は『強くなれ』ではなく、『強くなろう』と言ったのだ」
 フリッツが淡く笑う気配がした。頭上から降り注ぐ言葉の全てが、心地よかった。
「お前は私がいかに弱いか知っている。それでも、私とともに来てくれるか?」
「いいだろう」
「お前を強くしてやる。だからお前も、私を強くしてくれ」
「心得た」
「正直に言うと、私はお前が怖かった。お前の赤い瞳に見据えられると身の竦むような思いだった。実は、今でも少し怖い。だが、弱い自分に負けないためにも、私はお前という運命から逃げるのをやめたのだ」
 ギルベルトは瞳を伏せて微笑む。
「世界に思い知らせてやろう。俺様もお前も、籠の鳥ではないということを」
 蒼穹へと舞い上がる黒翼。
 広げた翼を、風はどこまでも高く、高く、運んでいった。
 その風がいつか消えることも、昇れば昇るほど落ちることも知らずに、ただひたすらに天空を目指す。
 今は、そう。知らずともよいことだから。


二、 乱気流

「どうした?」
 不意にギルベルトが馬の首を巡らせて見晴らしの利く方へと無言で向っていったので、フリッツはその背中に声をかけたのだが、返事がなかった。
 こうして時折獣のように直感的に振舞うことがあること、そしてそういう時は大抵、この【国】が潜在的に持っている支配願望の琴線に何かが触れたことを意味するのだということを、フリッツは最近になって理解した。
 ギルベルトは黙ってそこから一望できる街並みを見下ろすと、馬から降りた。
 赤い瞳が藪から獲物を狙う猫のように緊張している。
「……気に入ったか?」
「俺様好みの場所だな」
 フリッツは静かに微笑んだ。
 さすがと言うべきか、条件のよい場所を本能的に知っている。
「シュレージェンだ。欲しいのか?」
 ギルベルトは黙っていたが、瞳は素直に肯定の色を示した。
 1740年12月16日。
 フランス、スペイン、バイエルンと同盟し、神聖ローマ皇帝カール6世の喪に乗じてオーストリアの不意をつきシュレージェンに侵攻。これに対してオーストリアを支援したのはフランスと対立するイギリスとオランダであった。
「ざまぁみろ」
 黒鷲を戴く軍旗が翻る。
「ハプスブルクの冠じゃ弾は防げないぜ、ローデリヒ」
「この、お馬鹿さんが! 自分が何をしたのかわかっているのですか?」
 ギルベルトは、眼鏡の奥で怒りに揺れる瞳に、ただ笑ってやった。
「わかっているさ。お前を蹴落として、俺様が成り上がる」
「ギルベルト……!」
「貴様は落ちろ。俺様が昇りつめる足がかりになりな!」
 1741年4月10日、モルヴィッツでオーストリア軍と交戦、勝利したのをきっかけに、世界は少し、変わったようだ。
 高らかに鳴いて上昇しはじめた鷲を、皆が一斉に振り仰ぐ。
 野戦司令部を訊ねてくる各国の外交使節たちを尻目に、ギルベルトは砂塵舞い、血風吹きすさぶ戦場を見つめていた。
 掲げた漆黒の軍旗は、まるで黒い翼のようだった。
 領地を強奪されて黙っているはずがない。ハプスブルクの双頭の鷲は、今なお連邦の頂点に君臨していた。ぎりぎりの鍔迫り合いを繰り返す戦況。フリッツは数々の戦闘で軍事的才能を発揮する。
 ギルベルトは不敵に笑った。
「お坊ちゃんにしちゃあ、頑張ってるほうじゃねぇの?」
 そして1748年、アーヘン条約によってシュレージェンの領有が承認される。
 成り上がりの鷲が双頭の大鷲に楯突いて負かしたという事実は、危うげに保たれていた勢力の天秤を揺さぶった。
「どうだよ! 無理矢理シュレージェンを取られる気分はよ!」
 ギルベルトの哄笑は、いつまでも響いていた。
 高く、遠く。
 強く、大きく。
 しかし、飛翔するほどその鷲は孤独になっていった。
 シュレージェンを手に入れて浮かれていたのも束の間、その日、ギルベルトはいつになく暗い表情で同じ場所を行ったり来たりしていた。
 落ち着かないのはいつものことだし、普段の高圧的な態度が全て虚勢なだということも承知していたが、矜持の高い彼が露骨に不安がるのは珍しかった。
 マリア・テレジアの外交革命によりペチコート同盟成立。
 ハプスブルク家当主マリア・テレジアはフランス国王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人に接近、長年の敵対関係を解消し、北のロシア女帝エリザヴェータと結び、シュレージェン奪還のための戦闘準備に入る。
 まさに孤立無援。英国の財政支援が唯一の恃みだった。
「女って、おっかねぇ……」
 本人曰く、武者震いが止まらないギルベルトにフリッツは朗らかに笑った。
「お前は数々の危機を乗り越え、経験を積んできた」
「お、おう! そうだよな!」
 拳を握り締めて自らを鼓舞するギルベルトの背中に、フリッツは言った。
「行けるところまで行こう、ギルベルト」
 血の色の瞳が振り向く。
「なあ、フリッツ」
「何だ?」
「フルート、聞かせてくれ」
 フリッツは苦笑しながらもケースに手を伸ばした。幼い頃は怖くて仕方なかった瞳も、今ではすっかり慣れてしまって愛おしいとさえ感じる。こんなふうに率直にせがまれて、フリッツは上手く断る術を持たなかった。
「曲は何がいい?」
「何でもいい」
 そう言うとギルベルトは長椅子に寝そべった。
 己の欲望に忠実で、美しいものを愛する。荒々しくもしなやかなこの【国】に、フリッツはいつの間にか心を寄せていたのかもしれない。この世の一切に、愛着などないはずなのに。
 某日午後。不穏な空気の漂う中、ギルベルトはかの海賊紳士と会っていた。
「こっちもこっちで手一杯なんだ」
 アーサーは悪びれもせず言った。逆の立場なら、ギルベルトも同じことを言っただろう。気に入らないのは、最初から様子見を決め込んで美味しいところを狙っているその態度だった。
「別件でヤツといがみ合っている最中だ。財政支援はしよう。だけど、一緒に戦ってやる余裕はないんだ。悪いな」
 ギルベルトは、軽佻浮薄なようで敵にまわると一番厄介な悪友の顔を思い浮かべた。
「だめもとさ」
 ギルベルトはすっかり冷めてしまった紅茶を口に含んだ。アーサーの淹れる紅茶だけは美味い、とフランシスが言っていたのを思い出す。その言葉に対してギルベルトは「お前の家の食い物だけは認めてやる」と言っておいた。
 舌一杯に広がるえぐみ。アーサーが茶葉の量と蒸時間を意図的に間違えたのでなければ、自分の味覚に問題があるということだろう。あるいは別の何か、もっと精神的な……。
「同胞の好で言ってやる」
 珍しいことに、アーサーが真剣な眼差しで言った。
「やめておけ。シュレージェンに拘るな」
「冗談。俺様は手に入れた物を自ら手放すほど無欲じゃないぜ」
 それに、始めてしまったからには終わらせなければならない。今更なかったことにはならないのだ。
「わかっているのか? 世界を敵にまわして勝てるとでも?」
「できないと思ったら、やらないさ」
 アーサーの特徴的な眉が複雑に歪んだ。
「無茶だ」
「俺様は昔から無茶しかしてこなかったぜ?」
 ギルベルトはただ口の端を吊り上げた。アーサーは小さく溜息をついて椅子に体重を預ける。
「一人だぞ?」
「楽しすぎるぜ」
 ギルベルトは残りの紅茶を飲み干して、そのとき思いついた言葉を呟いた。
「守れないのならもろとも冥府へ、か」
「何だって?」
 アーサーが怪訝そうに眉を寄せる。
「フリッツが言ってたんだよ。こっちの腹はとうに決まっている」
「ギルベルト。先に言っておくが、俺たちもいつまで援けてやれるかわからない」
「承知した」
 やるしかない。
 勝って、世界を捻じ伏せる。
「紅茶は?」
 空になったカップに視線を落としてアーサーが尋ねた。
「結構だ」
 ギルベルトはそれだけ言って席を立つ。列強を全て敵に回した今の自分を、アーサーがどう思っているのかは考えないことにした。
「……どうせ止めても聞かないだろうが、忠告だけはしておいてやろう。イヴァンがアンタのことを面白いと言っていた」
「は?」
 ギルベルトは見た目だけは純朴な、大柄な【国】の顔を思い浮かべる。
「何を考えているかは知らないが、気をつけることだ」
 ギルベルトは不吉な忠告を一笑に付して言った。アーサーは肩を竦める。
「ま、アンタの悪運の強さだけは認めてやる。幸運を祈っているよ」
「心にもない応援、ありがとうよ」
 高く昇ってみて初めて知る恐怖。
 上空は地上よりも遥かに不安定で、縋るものは何一つなかった。
 連合軍8000万対400万。圧倒的な人口格差だ。
 1756年8月29日。
 オーストリアの開戦意図を察知し、先制攻撃。
 高く舞い上がった鷲の翼を、風は冷たく強く弄ぶ。
 賢しい鷲は乱れる風の中で軌道を保つ。それでも、苦しかった。
 続く戦いで確実に兵力を削がれていく中、1759年、クーネルスドルフの戦いでオーストリア・ロシア連合軍に敗北。騎兵隊の突撃失敗を機に形成は逆転し、フリードリヒ2世自らも銃弾に晒される。
 銃声。
 迷わず広げた黒翼が、大きく傾いだ瞬間だった。
「フリッツ!」
 血相をかえて駆け寄るギルベルトに、「掠っただけだ」とフリッツは笑ってみせた。
 血しぶきを浴びて銀の髪さえ赤く染めたギルベルトはいつにも増して強烈な印象だった。
「もういい加減、理解したでしょう? さっさと私の大事なところをお返しなさい」
 馬上から見下ろす怜悧な瞳。この戦場においてなお、品格と知性を失わない。
「わかってねぇのは手前ぇだ、ローデリヒ」
 ギルベルトはフリッツを背に庇ってその【国】を睨んだ。
「このままでは本気で滅びますよ」
「望むところだ」
「ギルベルト、目を覚ましてください。無謀と勇敢は異なるのですよ」
 ギルベルトは奥歯を軋むほど噛み締める。いつもそうだった。こいつはこうしてお高くとまって見下す。
「ハプスブルクの偽善者面には反吐が出る! うんざりなんだよ!」
 あてもなく彷徨い歩いた日々。
 所詮は狗でしかなくて、そんな存在の軽さにも耐えてきた。
 ギルベルトは無意識のうちに襟元の鉄十字に触れる。
 それは誇りだった。一欠けらの魂。
「もう、流浪の騎士じゃない」
 騎士を戴く国。ようやく触れた夢。
 希望。
 儚すぎる約束のために。
「ギルベルト、貴方は……」
「俺様は一人でも闘うぜ。諦めの悪さはアンタもよく承知しているだろう?」
「この、お馬鹿さんが。周り中敵だらけにして生き残れるとでも?」
「やってやるさ。俺様は滅びても屈しない。お前らが跪け」
「一人になってはいけません、ギルベルト。まだ間に合います」
「煩い! 貴様のその説教が癪に障るんだ!」
「ギルベルト!」
「ローデリヒ、覚えておけ。俺様はてっぺんまで登り詰める。今は退いてやるが、邪魔する気なら叩き潰す」
「……どうやら貴方とはいずれ、決着をつけなければならないようですね」
 ギルベルトは大胆にも背中を向けると、落馬したフリッツの肩を支えて立ち上がらせる。そのまま去って行こうとする無防備な背中を、ローデリヒは黙って見送った。
 無防備のベルリン。
 もはや誰もが孤高の黒鷲の命運は尽きたと思っていた。
「タンネンベルクを思い出すぜ」
 銃弾が飛び交い、敵も味方も倒れ伏す中でフルッツの肩を支えながらギルベルトがぽつりと呟いた。
「お前にとっては苦い経験だったな。あの時はどうやって切り抜けた?」
「あの頃は俺様も小さかったからな。籠城して、頭抱えて祈っていた」
 フリッツは力なく笑った。
「それで何とかなるだろうと本気で信じていたんだよ。俺様もガキだったなぁ」
「それなら、私も祈るかな」
 ギルベルトは苦笑した。
 あの頃は本当に何も知らなかった。消えることの意味さえ、知らなかった。
 そう言えば以前、お前はすぐに調子に乗るから、とアントーニョに言われた。失敗というより、これは自分の性だと思っている。
「秋になって帰っていく敵兵の姿を見て柄にもなく考えたんだ。俺様は強いけど、それだけなのかもしれない。【国】として重大な何かが欠けているのかもな」
 そんなことはない、とフリッツは言ってくれた。
 消えることを恐ろしいと思わない。それこそが、欠陥なのかもしれない。
「私がお前を滅ぼすのかもしれないね」
 フリッツの言葉に、ギルベルトは溜息をついた。この上司の悪い癖だ。すぐに諦め顔をして自分を悪者にしたがる。
「未練はねぇぜ、フリッツ。アンタのおかげで楽しめた」
 後悔はない。何一つとして、思い残すことなどない。
 ただ、そのことが逆に切なかった。
 自分を惜しむ気持ちが一欠けらもが何もないということが、虚しく思えた。
 空の彼方を、たった一羽で飛翔する大きな鳥の影が揺れていた。
 しかし、運命は彼らに味方した。
 騎兵大尉率いる精鋭200名の突撃でフリードリヒ2世は救出される。僥倖は続く。ベルリン総攻撃のための協定が結ばれたが、オーストリア軍がこれに違反し、ロシア軍は冬営に引き返したのだった。
「マリア様に感謝、だな!」
 ギルベルトはまだまだ不敵に笑って、座り込んだ兵士たちの頭の上で漆黒の軍旗を振りまわす。
「フリッツがいる限り負ける気がしねぇぜ! お前ぇらもそう思うよな? そう思え!」
 疲労した翼でなおも高く飛ぼうと羽ばたき続ける黒鷲に、空はどこまでも広かった。
 しかし、1760年に入っても依然、戦況は苦しいままだった。一方、苦況は相手も同じで、フランスは植民地でイギリスに完敗、スペインに応援を求めるも、逆にイギリスによってハバナやマニラを占領されて戦況を悪化させるだけであった。
 そして1761年、10月。イギリスからの支援が打ち切られ、いよいよもって戦況は不利に傾いてきた。
 負ける。
 負けたら、消える?
 ギルベルトは固唾を呑んだ。
 売った喧嘩だ、ツケは払わなければならない。しかし、自ら負けを認めるのは癪だった。まだまだ戦える。戦いたいと思えるうちは、負けていない。そう思っていた。
 ところが、フリッツはそうは思わなかったようだ。
 いつの間にか戦うことに夢中になって、ギルベルトは彼の「弱さ」を忘れていたのかもしれない。続く争いに、終わりの見えない苦境。磨り減っていないはずがなかった。
「ギルベルト」
 不意に呼ばれて振り返ると、やけに静かな表情でフリッツが言った。一瞬、ここが戦場で、次の瞬間には彼の身体を銃弾が貫通してもおかしくない状況だということも忘れて、ギルベルトは思わずその微笑に目を奪われる。
「私はもう、疲れた」
「……フリッツ?」
 やけに決然とした瞳に見つめられて、ギルベルトの胸に不安が過ぎった。
「お前とともに歩めて、私は幸せだった」
 フリッツが手に持つ物の意味を知らないギルベルトではない。
 服毒、という言葉が脳裏を掠める。
「……フリッツ、よせ」
「ありがとう、ギルベルト。お前のおかげで、私はいい夢が見られたのだ」
 言葉が出てこなかった。
 人は死ぬ。いつだって、先に逝ってしまう。
 だけど、何回経験しても慣れるものではなかった。
 あの日、幼いフリッツが奏でた音色が耳の奥に蘇る。
 それは孤独だった二つ魂の共鳴。
 ともに。そう誓った。
 一緒に強くなるのではなかったのか?
 一人でいくな。一人にするな。
 一人は、嫌だ。
 できることなら一緒に――
 そんな言葉が喉まで出かかった、その時。
 運命はふとした拍子に思いがけぬ方へと転がる。
 風は気紛れだ。
 大きく傾いで失墜する寸前の翼を、今一度、強く支えて昇らせる。
 1762年1月。ロシア女帝エリザヴェータの訃報が戦場に響き渡る。
 後継のピョートル3世は戦争を中止。ロシアの離反によって戦局は打開され、講和条約によりシュレージェンの領有が確定する。
 再び強く高く舞い上がった黒鷲に、もはや誰も追いつくことはかなわない。
 蒼穹を統べる王の鳥は、たった一羽で昇っていった。
 ギルベルトは赤い瞳を静かに伏せる。
 そして血と埃と硝煙の染み付いた漆黒の軍旗を下した。
 長く苦しい戦いは終わった。
 やっと掴み取った夢。強国の地位。
 しかし、それ以降、フリードリヒ2世が戦争に関与することはなくなった。
 そして1786年8月17日。
 フリッツはギルベルトの見守る中、ゆっくりと瞼を閉じるとそのまま永遠に開くことはなかった。
 それから数日、ギルベルトは姿を暗ましていたから誰も彼が泣く様を見た者はいない。
 そしてある日ふらりと練兵場に現れたかと思うと、何事もなかったかのように若い兵士たちに特訓と称して犬のように絡んで笑っていた。
 その背中に、かつての細さは残っていない。
 立派に成長した【国】は、今日も血の色の瞳を少年のように輝かせ、ふてぶてしい笑みをたたえて闊歩する。

間隙②

 時はわずかに遡り、1763年2月。
 七年戦争終戦条約締結のときのことだ。
 ローデリヒの負け面をとくと拝んでやろうと勇み足で上司についてきたギルベルトだったが、そこにいたのはいつも変わらない、取り澄ましたお坊ちゃんだった。ただ、おっとりとした偽善者の右頬には湿布が貼られていて、見事なまでに紫色に腫れ上がっていた。加えて松葉杖を抱えていたから、相等疲弊していたに違いない。ざまあみろ、と言ってやりたいところなのだが、こっちもこっちで頭に包帯を巻いて左腕を三角巾で首から吊っていた。
 シュレージェンはぶんどった。だから、勝ちという認識でいいだろう。
 ローデリヒが眼鏡の奥から恨めしげに睨んだので、ギルベルトは嗤ってやった。
 そのまま一言も交わさぬまま、ギルベルトは一人、その場を去った。喧嘩に負けた貴族様を嗤いにきただけだから、もう用はない。堅苦しいのは苦手で、同じ場所に三十秒以上立っていると欠伸が出る。
 ふらふらと廊下を歩いていると、ギルベルトは妙な気配に足を止めた。振り返ると、田舎っぽくて純朴そうな人相の大柄の青年が、一人、ぽつんと立っていた。
「やあ」
 気さくに微笑んで手を振るその青年は、朴訥とした容姿とは裏腹に何とも言えない威圧感を纏っている。この大掛かりな喧嘩に参加した【国】の一人である彼がここにいても不思議はないのだが、何故だかその姿を見た刹那、背筋に冷たい感覚が走った。
「イヴァン……」
「シュレージェン領有、おめでとう」
 それこそ誕生日でも祝うようにイヴァンは言って、堂々と間合いに入ってきた。
「あの時、何故撤退した?」
 ギルベルトが言うと、イヴァンは朗らかな笑みを深くした。
「たいした理由じゃないよ。上司が代わったんだ。今の僕の上司は、君の上司のことをかなり尊敬しているようだから」
 何がそんなに嬉しいのか、イヴァンは笑顔を崩さない。これがフランシスやアーサーならすぐに愛想笑いだと判断できるのだが、イヴァンに至っては本当に裏がなさそうだから判断に困る。
「彼女が急死したおかげで君は命拾いしたわけだ」
 笑顔のままイヴァンは言う。胸の奥に氷の塊が落ちてきたような気分だった。
「……何が言いたい?」
 イヴァンは心外そうに目を瞬いて、宥めるように言う。
「嫌だなぁ。そんなに睨まないでよ。気に障ったのなら、謝るよ」
 ギルベルトは答えなかった。昔から何を考えているかわからない【国】だが、何を考えていてもおかしくない【国】でもある。例えば、そう……わざと助けた、とか。
「ブランデンブルクの時だってそうだ」
「あれは約束を守ってくれなかったから」
 イヴァンの言葉をどこまで信じていいのかわからない。ギルベルトが黙っていると、イヴァンはおっとりと言った。
「それにしても、君の悪運の強さは本物だねぇ」
「褒め言葉ととっておくぜ」
 ふふ、とイヴァンは純真に笑う。
「君はやっぱり面白い」
 一瞬、初心な瞳に妙な光が浮んだように思う。それとも、大きな喧嘩の直後で神経が尖っているか……。
「君が消えてしまわなくてよかった」
 イヴァンの言葉には毒も策略も含まれていなくて、余計に困惑する。
「君って本当、すぐに調子に乗って無茶をするから」
 アントーニョと同じ言葉で厭味もないはずなのに、底冷えするような響きだった。
「今後は自重することにするぜ」
 そう切り替えしてイヴァンの横をすり抜ける。
「お大事に」
 空恐ろしいほど景色が鮮明な、よく晴れた午後のことだった。

   *

この頃からだったと思う。思わせぶりな夢を繰り返し見るようになった。
ギルベルトは一人、空を仰ぐ。晴天。雲はなく、青色がどこまでも続く空。
その青に黒い点が見えた。点は染みになり、次第に輪郭を持って円を描く。
やがて翼の形なのだとわかるようになって、ようやくそれが何なのか理解する。
鷲だ。
緩やかに円を描きながら上空を舞っている。
ふと、安定していた軌道が揺らいだ。降りてくる。真っ直ぐに、自分に向って。
だけど太陽が眩しくてギルベルトは手を翳して目を側める。
その手に触れる温度。子どもの手だった。
影が深くてよく見えない。
翼? いや、大きく広がる黒い外套のようにも見える。手を取られ、硬質な何かを握らされる。よく見知った形に、息が止まりそうになる。
――アンタ、消えたんじゃ……
瞳の青と空の青が重なる。
――ああ。でも、また会えてよかった。言いたいことがあるんだ。
再会の嬉しさと、喪失の切なさとが鬩ぎ合う。そして、どちらが事実なのかを思い出した途端に意識は急速に覚醒していくのだ。
寝覚めの悪さにギルベルトは舌打ちする。
銀の髪を掻き毟って、やり場のない苛立ちに唸りを上げると、完全に目が覚めてしまう前にもう一度寝直すのだった。

   *

「ほらほら! カワイイだろう? 俺の弟だ!」
 その日、ギルベルトは世にも奇妙な光景を目にして絶句していた。あのアーサーが眉毛を八の字にして締りなく笑っている。その腕に幼い【国】を抱いていた。
「抱かせてやってもいいぞ? ただし、10秒以内な!」
 ギルベルトは頬を引き攣らせながら無理矢理笑って丁重に辞退する。悪い夢でも見ているような気分だった。
「……おい、フランシス」
 さっきから一言も発さずに陰湿な気を放つ悪友の袖を引っ張って小声で尋ねる。
「ありゃ何だ?」
「見ての通りだ」
 あまり長い付き合いではないのだが、酒癖が悪いのはフランシスからよく聞かされていた。正直、素面でこんなに浮かれ騒ぐアーサーに思考がついていかれない。
「うう……何か、気持ち悪いぜ」
 ギルベルトは頬ずりするアーサーを遠巻きに眺めながら呟いた。
「お前にしちゃマシな感覚だな」
 フランシスの機嫌はすこぶる悪くて、とばっちりで巻き込まれる前にギルベルトはとっとと退散することにした。
 なるほど、こっちがローデリヒと喧嘩している傍らでフランシスとアーサーはあいつを取り合っていたわけか。
(兄弟ねぇ……)
 ギルベルトは額を押さえた。あのアーサーの姿を思い出して軽い眩暈さえ覚える。
 あの変な夢といい、最近調子の狂うことばかりだった。
(俺様も疲れてんのかな?)
 ただ大きくなることだけを考えていた頃は、疲れなど感じなかった。いつまででも闘えると思っていたし、負ける気もしなかったのだ。
 大きいだけでは脆い。強くなくては。
 遥か昔にあの【国】に言われた言葉を思い出して苦笑する。
 あんな夢を見るから、感傷に浸りたくなるのだ。
三、
 追風

 一人で何でもできると思っていた。
 一人で何でもやらなければならなかった。
 なぜなら、ふと辺りを見渡すと誰もいなくなっていたから。
 浅い呼吸を繰り返していた。胸の奥が疼く。鈍くて深い、独特の感覚。
 視界が揺れて、ついに立っていられなくなり、ギルベルトは軍旗に凭れかかるようにして膝をつく。こんな醜態をさらすのは久しぶりだった。歪に口の端を吊り上げる。旗はギルベルトを支えることはなく、ともに地面へと倒れ伏した。
 黒鷲が揺らめいて頭に落ちてくる。
 時は1800年代初頭。士気上がるナポレオン軍に各国が次々と膝を折る中、孤高の黒鷲とて例外ではなかった。
 屈辱の敗退に、ギルベルトは自身の半分を失った。
 フリッツの没後、知らぬ間にどこかの糸が緩んでいたのかもしれない。
 油断した。そういうことだろう。
 顔に被さった軍旗を捲る手があった。
「しっかりしなさい。このお馬鹿さんが」
「大丈夫?」
「ローデリヒ……に、イヴァン?」
 今、最も会いたくない組み合わせだ。
「ってことは、ここは地獄か」
「減らず口を叩く余裕はあるようですね」
 ローデリヒは不機嫌なときでさえ上品に眉を顰めた。イヴァンに至ってはいつもと変わらず朗らかに笑って見下ろしてくる。
「ほら、何をぼうっとしているのですか?」
 ローデリヒの手が伸びてきた。ギルベルトは最初、弱体化したところへ追い討ちを掛けにきたのだと思った。シュレージェンを忘れたわけではあるまい。イヴァンと組んで止めを刺しにきたのだろうと考えた。ところが、曖昧な距離を保ったままローデリヒの手が止まっていた。
「何のつもりだ?」
 訊ねると、ローデリヒは怪訝そうに首を傾げた。それから呆れたように溜息をつく。
「貴方、そんな風だから友達ができないのですよ」
「は?」
 イヴァンがクスクスと後ろで笑っていた。
 ギルベルトはなおも状況を理解できずにローデリヒの寝癖の先を見つめていた。
「まだわからない?」
 イヴァンが純真な目で言った。
 同盟、という言葉が脳裏を掠める。
「……おいおい、本気かよ?」
「背に腹は変えられませんので。私は貴方と違って寛大なのです」
「笑わせるぜ」
 ギルベルトは苦く笑うと差し出された手を取った。
 赤い瞳が再び焔を取り戻す。
 まだ立てる。立って、戦える。
 漆黒の翼にはまだ羽ばたく力が残っていた。
 1815年。ワーテルローの戦いでナポレオンを破り再び大国の地位に返り咲く。
 それからしばらくの間は、ギルベルトも余計な野心は抱かずに上司と適度な距離を保ちながら穏やかに暮らしていた。上司と反りが合わないのは問題だが、気が合いすぎてもそれはそれで問題だということも先の七年戦争でよく学んでいた。
(俺様も【国】として落ち着いてきたってことかねぇ)
 ギルベルトは工業化が進んで様変わりした街並をぷらぷら散歩しながら、ぼんやりとそんなことを思った。
 穏やかな時間に満足する一方で、胸の奥に隙間風の吹き込むような虚ろさも覚える。
 飢えた獣のように土地を求めて彷徨っていた頃にはなかった感覚だ。いつだって夢中で駆け抜けてきた。ふと立ち止まってみて、あまりの静かさに足が竦む。振り返ったら足跡さえ残っていないようで、急に不安になる。
 何を残したのか。
 何を得て、何を失い、どこへ向おうとしているのか。
 唐突にそんなことを考えた。

   *

「全部お前らのせいだ! ばかぁ!」
 その日、フランシスのところへ夕飯をたかりに行くとアーサーが来ていた。この二人は仲が悪いくせにしょっちゅう一緒にいるように思う。いつだったか、それを指摘すると二人揃って「俺の行く先にお前がいるんだ!」と目じりを吊り上げていた。
 そのうちアントーニョまでふらりと現れて、悪乗りして三人がかりでアーサーを潰して、その結果がこれである。
 アーサーはフランシスにさんざん絡んだ挙句、腰にしがみついて泣き始めてしまった。
「あーもう、はいはい。お兄さんの胸で気が済むまで泣きなさい」
「ばかばかばかぁっ! あの恩知らずめ……俺がどんな思いで……ばかあぁ!」
 フランシスはにやにや笑いながら短い金髪を撫でていたが、ふと振り向くと不穏な影の指す笑顔でぼそっと呟く。
「ギルベルト。後でケツ貸せ」
「俺のせいかよ!?」
 助けを求めて振り向くと、アントーニョは大らかに笑って手を振った。
「せや。全部お前が悪い」
「何でだよ!?」
 アントーニョは緑色の瞳を泣き伏すアーサーに移して苦笑する。
「ロヴィーノのことを思うとなぁ。身につまされるわ」
「そんなもんか?」
 ギルベルトは肩を竦めた。
 独立戦争から結構な時間が経過している。アルフレッドはすでに新大陸で立派に【国】として成長していた。
「まあ、そのうちお前もわかるって」
「わかりたくもねぇよ」
 アントーニョはただ笑っていた。心なしか、以前に比べてその瞳の緑に深みが増したように思う。ギルベルトは静かにフランシスが用意したワイングラスを傾けた。たまにはビール以外の酒で酔うのも悪くない。
 翌朝。
 二日酔い気味のふらふらする頭で家路を辿る途中で、ギルベルトはふと、妙な気配に足を止めた。動き出す人々の気配に混じって、明らかに異質な存在とすれ違う。
 太陽のような金の髪。青色の、懐かしい瞳。
 振り返る。行き交う人の群に呑まれて視界から消えてしまう前に、ギルベルトは前後を忘れて夢中でその腕を捕らえた。
 時間が止まったかのような、久遠の一瞬。繰り返し夢に見る青と同じ色がそこにあった。今、目の前に存在する。あの【国】が、ここにいる?
 相手は目を丸く見開いて、それから不意に警戒の色を滲ませた。
「何ですか?」
 冷たくよそよそしい態度に、ギルベルトはようやく喉の奥から言葉を搾り出す。たくさん言わなければならないことがあるはずなのに、何一つまともな言葉にできない。
「アンタ……消えたんじゃ……」
 それだけ言うのがやっとだった。
 ふと、相手は理性的な瞳を苦悶に歪ませた。もう二度と放すまいと、無意識のうちに腕を掴む手に力が入ってしまった。
「あ……すまん」
 慌てて手を放すと、その少年は軽く身を引いた。
 強い拒絶を示す青。そこに映る自分は、見たこともない顔で固まっていた。
「あの」
 少年は探るような目付きで見上げる。
「どちら様ですか?」
 その言葉は、刹那に浮んだ考えを決定的にした。
「……覚えてないのか? 何も?」
 少年は訝しそうに首を傾げるだけだ。
「どこかで、お会いしましたか?」
 ギルベルトは押し黙る。よく見れば、顔も声も纏う雰囲気も、少しずつ、ギルベルトの知るあの【国】とは違っているようだった。似て非なるもの、ということだろうか?
 そう。冷静に考えればわかることだ。あれからどれだけの時が経ったと思っている?
「ああ……ええっと、悪かった。人違いだ」
 本当に、どうかしている。
 ギルベルトが苦く笑うと、それまで頑なな拒絶を示していた瞳が微かに揺らいだ。
「失礼ですが、貴方はその……」
 ギルベルトは片方の眉をぴんと跳ね上げて、それから自分の腰くらいしかない小さな相手のためにその場に屈んで視線を合わせた。
「お前、どこから来た?」
 相手は困ったように身じろぐ。
 いつ目覚めたのかわからない。しかし、己がどういう存在なのかだけは誰に教えられるでもなく知っている。【国】とは概ね、そういうものだ。
 ギルベルトはできる限り驚かせないようにそっと小さな【国】の頭に手を乗せて笑った。
「よう。同胞」
 青い目が複雑に揺れて、照れるように頬に朱が差した。
「よろしくな」
 平気なふりをした。胸の内を誰にも知られたくなかった。

 某日。乱暴に門扉を叩く音にローデリヒは眉を顰めた。
 彼が何の断りもなく突然やってくるのはいつものことだった。
「よう! 遊びにきてやったぜ! ……って、エリザ!? 待て! ちょっと待て!」
「どの面さげて戻ってきた!? 帰れ!」
 扉の向こうの喧騒に溜息が漏れて出る。
「よくも私とローデリヒさんの大事なところを! 覚悟!」
「おい、ローデ! 開けろ! ……うわ! 頼むから開けてくれ!」
「しね!」
 ローデリヒは響き渡る断末魔に、ようやく重い腰を上げた。
 彼が唐突にここへやってきては、彼女のフライパンの洗礼を受けるのもいつものことだった。
「それで?」
 門前で伸びている古馴染みの【国】を見下ろしてローデリヒは言った。
「どのようなご用件で?」
 ギルベルトはしぶとくも一命を取り留めたようで、低く唸って身体を起こした。
「どうせまた因縁つけてローデリヒさんにあんなことやそんなことを……」
 再びフライパンを振りかざすエリザ。ギルベルトは咄嗟に頭を抱える。
「待てって! 人の話を聞け! 今日はまともな用があって来た!」
 ローデリヒはエリザを制して本日二度目の溜息をつく。
「何です? 貴方の言うまともな用とやらを窺いましょう」
 ギルベルトは肩で息をしながら背後を振り返る。
「おい、もうこっち来て大丈夫だぞ」
 ギルベルトの視線の先を追っていくと、庭木の陰に隠れるようにして子どもが立っていた。子どもには似合わない、硬い顰め面をしてギルベルトをじっと見つめている。
「見かけない【国】ですね。一体どうしたのですか?」
「ああ、拾った」
「まったく、貴方という人はどこまでお馬鹿なのですか」
 ローデリヒが三度目の溜息をつく。
「いったいどこの【国】を捕まえてきたのですか? さっさと然るべきところに返しなさい。何を考えているのですか? 突然連絡もなしにやってきたかと思えば……」
 ふとギルベルトに視線を戻せば、存外、真剣な赤い眼差しにぶつかった。
「なあ、ローデリヒ」
「何です?」
「お前はあいつを見て何とも思わないのか?」
 ギルベルトはぶっきらぼうに背後を指差す。何が言いたいのかわからずにローデリヒが首を傾げていると、ギルベルトは「ならいい」と呟いて立ち上がった。
 衣服を整えて似合わない笑顔で手招きする。
 小さな【国】は警戒心たっぷりにこちらへやってくる。
 ギルベルトは自分が心許されていないのがわからないのか、無理矢理にその細い肩を抱き寄せて豪放に笑う。
「ちゃんと面倒見てるって。それより、こいつに何か食わせてやってくれ」
「貴方、本当に何しにきたのですか?」
「飯たかりにきたんだよ。お前も腹減っているよな?」
 まだお互いに名前も知らないその【国】は、大いに困惑した顔で「いえ……」と控えめに断った。
「……減っているよなぁ?」
 事実上脅して強引に頷かせると、ギルベルトはその少年を、フライパンを装備したままのエリザに向き直らせた。
「つーわけで、頼むわ」
「はあ?」
 ギルベルトは行動こそ馬鹿馬鹿しかったが、血の色は「話がある」と訴えていた。ここ最近ではすっかり見なくなった、騎士団時代からの鷲の目だ。
「私からもお願いします」
「ローデリヒさん……」
「貴女なら安心できますから。彼に預けておくと、色々と不安なことですし」
「ですよね!」
「どういう意味だよ?」
 エリザは持ち前の明るい笑顔に戻って少年の肩を優しく寄せると、慣れた様子で家の中へと誘導していった。
「……どうしてあいつは俺様とお前で態度が違うんだろうか?」
 心底理解に苦しむといった様子でギルベルトは首を傾げる。
「ご自分の胸にお聞きなさい」
 思わず零れる、四度目の溜息。
「では、改めてご用件をお伺いいたしましょうか?」
「ん? ああ」
 ギルベルトはどこでもない、どこか遠くを見つめていた。その様子にいつぞやの抜け殻のような姿が被って、ローデリヒは眉を顰めた。
「貴方、あの子をどうするつもりですか?」
 ふと胸の奥を過ぎった不安の影。かつてのように敵意も露わに唸りを上げるかと思いきや、ギルベルトは静か笑って言った。
「貰い受ける」
「馬鹿言わないでください。貴方に盟主が務まるとでも?」
 ギルベルトは皮肉げに口の端を吊り上げた。
「そっちこそ。大所帯繰り回せるほど貧乏なれしてねぇだろうが。民族多くて上手くいくとでも思っているのかよ」
「身の程を弁えなさい。あまりハプスブルク家の威光を舐めないことです」
「ほう? それならまた喧嘩するか? 受けて立つぜ?」
 ローデリヒは苛立ち紛れに溜息をつく。これで五度目だ。
「子どもじゃあるまいし、自重なさい。このお馬鹿さんが」
「お前が自重しろよ。俺様だって一応これでも控えているんだぜ? あいつがけ寄越せば他はいらねぇよ。手ぇ出すなって言っているんだ」
 ローデリヒはつくづく非論理的な意見に困り果てる。
「本当に、貴方はここに何をしにきたのですか?」
「だから、飯をたかりに来たんだよ」
 ギルベルトは凶悪な笑みを浮かべる。
「そういうわけだから、お前んとこのホルシュタイン、貰うぜ」
「……冗談のつもりですか?」
「本気だ」
 六度目の溜息。
「了承するはずがないでしょう、このお馬鹿さん」
 本当に、彼の考えることは何一つとして理解できない。
「あまり調子に乗らないで下さい」
「やるか?」
「いい加減になさい。あまりわがままがすぎるといつかのように孤立させますよ」
「やってみな」

 1866年6月15日、宣戦布告。共同管理下にあったホルシュタインのオーストリア管理地域を占領。
「ギルベルト。恩を仇で返すとは見下げたものです」
「これだから育ちのいいお坊ちゃんは……。アンタ、人が良すぎるぜ」
「貴方はやり方が乱暴すぎるのです。七年戦争から何も進歩が見られませんね」
「同じ轍は踏まねぇさ。うちには優秀なヤツがいっぱいいるんだよ。それに、お前のとこの旧式ヘボ軍隊なんて、俺様の敵じゃねぇ!」

1866年8月23日、プラハ条約終結。

 ギルベルトは硬い目をした小さな【国】を抱き上げて穏やかに微笑む。
「俺様がこんなふうに笑うなんて、貴重なんだぞ?」
 高く掲げた青い瞳は、困ったような、恥らうような、奇妙な色に揺れていた。この形で矜持は一人前なのだ。悪くない、とギルベルトはさらに笑みを深くする。
「こんな気分になるのはフリッツ親父のフルートを聞いて以来かねぇ」
 抱き寄せて頬を寄せると少しだけ迷惑そうに眉を寄せたが、拒絶はされなかった。
 そのまま肩に乗せて、ベルリンの街並を見せてやる。
「ほら、よく見ておけ。これからここがお前の家だ」
「……うん」
「お前、今日からヴェストな」
「え!?」
「嫌か?」
「そういうわけじゃ……」
 ギルベルトは融通の効かなさそうな真面目な「弟」に笑った。
「ヴェスト、お前は俺様の希望だ」
 この時、彼が何を考えていたのか誰も知らない。本人でさえ、自分自身の直感を自覚していなかったのかもしれない。

 青い、青い空。
 高く舞い上がった鷲の影が、太陽の中に入って不意に消えてしまった。
四、
無風

「おい、ヴェスト」
 緋色の瞳がやけに威圧的に自分を見下ろしていた。自分が何か失敗をしたのか記憶を辿ってみたが、思い当たることはなかった。この強大な【国】の「弟」となってまだ日は浅いが、自分の「兄」がひどく気紛れで常識を逸脱していることはわかってきた。ついでに滅法喧嘩に強くて、それゆえ一度頭が切り替わると普段の体たらくが嘘のように直裁苛烈な一面を見せる。簡単に言えば怒ると怖い性質だった。
 その兄が腕組みして眉を顰めて自分を睥睨している。固唾を呑んで次の言葉を待っていると、まったく予想だにしない言葉が飛び出した。
「お兄様って呼んでみろ」
「……は?」
「いいから」
 眉間の皺が濃くなる。一体何を考えているのかさっぱりだ。
「……お……お兄……様」
 兄の片眉がぴくりと跳ねる。
 口に出してみると思っていた以上に恥ずかしい響きだった。
「よし。それじゃあ次は『兄貴』だ」
「何がしたいんだ?」
「口答えするな。呼んでみろ」
 不穏な気配を放って命令されては、逆らえない。
「……兄貴」
 眉間の皺が深くなる。だけど心なしか頬が赤いような……。
「ふむ」
 何に納得したのか、組んでいた腕を解いて腰に当てて肯く。
「やっぱり『兄さん』でいいか」
 そして何事もなかったかのように踵を返す。
「それだけ!?」
 思わずそう叫ぶと当然のように首を縦に振る。兄は、そういう人だった。
 何を考えているのかわからないのは、自分が未熟で、相手を推し量れる器量がないからだと思っていた。ところが、他の【国】の反応を見るに、どうやら兄は根本的に非常識なところがあるようだった。

「何ですって?」
 ある日、ふと気になって兄のことをよく知っていそうなローデリヒに訊ねてみると、思っていた以上に激しい反応が返ってきた。
「彼は貴方のことをそう呼ぶのですか?」
 ローデリヒはしばし絶句しているようだった。
「やはり変……なのだろうか?」
「変というより、他に例を聞きませんね。彼が貴方を西(ヴェスト)と呼ぶのは、率直に申し上げて予想外でした」
 ローデリヒは品のよい眉を微かに寄せる。
「彼のことですから、盟主になったところでまたすぐに調子に乗って何かしでかすものかと思っていましたが、存外上手くやっているようで安心しました」
 厭味ではないようだ。見た目通り、おっとりした性格なのかもしれない。帰り際、彼は独り言のように呟いた。
「あのギルベルトがいいお兄さんですか。時代は変わるものですね」
 弟として、どう反応すればよいのかわからなかった。
 最初は、あの赤い瞳が嫌いだった。
 あの目に見つめられると落ち着かない。心の奥まで見透かされてしまいそうで、自分を偽れないことが堪らなく怖かった。自分のことをヴェスト――半身と呼んで、どこへでも連れ歩く。強引な性格なのは第一印象からしてよく承知していたから、時々ただの支配願望なのではないか心配になる。
 しかし、それもすぐに杞憂に終わった。

1871年、ベルサイユ宮殿にて。

「んー……」
 兄は何が気に入らないのか、顎に手を当てて難しい顔をしていた。
「もうちょっと右か?」
 ただでさえ重くてバランスの悪い王冠をずらして、さらに渋い顔をした。いったいどれくらいこうして大人しく兄の気が済むのを待っているのだろうか。
「いや……前、かな?」
 落ちるから、と言おうとした矢先、もともと危うい均衡で乗っていた冠が景気よく転がり落ちた。慌てて受け止めたから、畏れ多くも国家の至宝を床に落とす大失態は避けられたものの、代わりに自分が床に転がって顔を引き攣らせる兄の姿はひどく滑稽だった。
「……兄さん、頼むから落ち着いて」
「俺様は十分平常心だ。お前こそ、緊張して硬くなっているんじゃねぇの?」
 そう言って額を指で弾かれる。それから前髪を全部後ろへ撫で付けられて、それを抑えるようにして再び冠を載せられた。
「よし。これだな!」
 満足気に肯いて腕を組むその顔は、本当に、子どものように素直に笑っていた。
 そんなに嬉しそうに振舞うから、つい本質的な矛盾を忘れてしまいそうになる。
「どうした? 浮かない顔をして」
「……本当に、これでよかったのか?」
 何度も訊ねて、何度も同じ答えが返ってきた。今度もまた、同じ答えだった。
「構うこたぁねぇよ。小さいことは気にするな」
 そして不器用に笑うのだ。
「俺の今の上司が、そのままお前の上司になるだけだ。余計な心配する必要はねぇ。あの髭爺もそうしろって言ってたことだしよ」
 だけど、それはつまり、併合ということではないのだろうか?
 本人はすっかりお祭り気分でいるようだが、この後、兄の存在はどうなる?
「俺のことは気にするな」
 そう言うと兄は、いつになく真摯な眼差しを向けた。それから不意に目の前に屈む。
 いや、違う。
 跪いたのだ。
「兄さん? 何を――」
「黙れ」
 有無を言わさぬ強い口調とは裏腹に、その姿は戸惑うほど恭順を表す。
「少し、黙っていろ」
 今度は撫でるように優しく囁くと、手を取り、唇を寄せる。ぎょっとした。と、同時に、それまで全く知らなかった兄の一面に頭が熱くなる。
「いいんだ。これで、いい」
 赤い瞳が夕景のように揺れていた。
「俺様はお前のためにここにいる。お前をずっと、待っていたんだ」
「兄さん……」
「たとえ世界の全てを敵に回しても、俺様だけはお前に味方してやる。だから、前だけみていろ。俯くな。立ち止まるな。いいな?」
 言葉が出てこなくなってしまった。
「そんな顔すんなって」
 すぐにもとの豪放な笑顔に戻ると、兄はそっと頬に触れた。
「俺様を誰だと思っていやがる? お前のお兄様だぞ? わかったか! 以上だ!」
「ja!」
「よぉし。いい返事だ」
 大きな手に、大きな言葉に、大きな背中。
 永遠にこの兄には追いつけないかもしれないと思った。
 それから数日してのこと。
「どうした! 音を上げるには早いぞ、ヴェスト!」
 さすがと言うべきか、兵の訓練となると人が変わったように厳しい一面を見せる。屋外訓練中の一般兵に混ざって肩で息をしながら、元気に指揮を執る兄を見上げた。自分では結構鍛えているつもりだったが、兄に言わせれば温いという。こういう姿を見ると数々の戦を勝ち抜いてきた歴戦の軍国だということを思い出す。逆に言えば、普段はそういう過去の経歴が嘘のようにふらふらしているということなのだが……。
 切り替えが早いというのは少し甘い表現だ。譲っても気紛れ、包み隠さず言えばわがままな兄だった。
 這いつくばって見上げた目に、汗が入った。だからかもしれない。一瞬、太陽を背負うその姿が妙に白っぽくみえた。
 それは思考の根幹に釣り針のように引っかかったが、すぐに兄の怒号が飛んできて忘れざるを得なかった。
 だけど時間が経ってもその時覚えた奇妙な感覚は忘れられなくて、夜、昼間の威勢が嘘のように長椅子にだらしなく投げ出された背中に声を掛けた。
「兄さん」
「何だ?」
 声をかけてみてから気がつく。あの違和感をどう言葉にしていいのかわからなかった。咄嗟に思いついた言葉が、これがまた悪かった。
「……白くなったか?」
「はぁ?」
 素っ頓狂な声を上げて身じろぐ気配がする。承知している。馬鹿なことを言った。
「俺様はもともと白いんだが?」
「いや……すまない。何と言うか、色が抜けたと言うか……」
「そうか?」
 振り返るとうつ伏せから仰向けに変わっていて、ちょうどビール瓶を呷っているところだった。
 上下する喉も瓶の首に絡む指も、確かに色白だ。だけど昼間に一瞬だけ感じた異様な「白さ」は、それとはまた違うものだったのだ。
「気のせい、か」
「気のせいだな」
 いつもと変わらない調子に、刹那に過ぎった不安は細く棚引いて消えていった。
 静かな夜だった。

   *

 最初は意味がわからなかった。一泊遅れて、意味を理解してしまった。
 ぞっと腹の底に氷の塊が落ちてきたような気分だった。
 しかし、最初から承知していたことだ。ヴェストの影響が強くなるほど、自分の【国】としての意識は薄れていく。そしていつの日かあの【国】のように……。
 ギルベルトはそのまま長椅子で眠れぬ夜を過ごしていた。開けた窓から吹き込む緩やかな風がカーテンを揺らして、不規則に月明かりが差し込む。壁一枚隔てて、すぐそこでヴェストが眠っている。その気配を肌に感じて静かに目を閉じた。
 持てる全てを捧げた、最愛の弟。だけど教えてやれるのは喧嘩の方法くらいで、それでも知っていれば近い将来身を助けるだろうから片っ端から授けた。それくらいしかできない自分が、少し情けない。
 いつからだろうか。自分には決定的に何かが欠けていると知ったのは。
 例のあの夢を見始めた頃か? それとも、ローデリヒの高い鼻を挫いてやったあたりか……。いや、もっと前から漠然と自覚していた。
(ああ、そうか。最初からか)
 はっきりと自覚してしまうのが怖かったから、言葉にしなかっただけだ。本当はずっと怯えていた。自分の持つ支配願望の強さや攻撃性の根源にある、不安。流浪していた間に刻み込まれた消失への恐怖。なくしたくない約束。
 大きいだけでは脆い。強くなくては。
 今ならその言葉の意味がわかる気がする。
(地に足つかないって意味か。よくわかってるぜ)
 自分にはヴェスト――半身が必要だった。
 だから、今の形があるのか?
 それはいつまで維持される?
 太陽の昇る昼間に、月明かりは必要ない。
 いつまで?
 いつまでこうしていられる?
 どれだけ自問してみたところで答えはここにはないのだ。
(さっさと終わっちまえ)
 真昼の月は空の青さに溶けてしまう。
 こんな時間は長く続かない。続けてはいけない。
 きっと、その瞬間は近い。
 首から下げた鉄十字が淡く月の光を弾いている。
 傷だらけだ。自分も、コイツも。何にでも限界がある。
 ふと、隣の部屋で動く気配がした。音を立てないよう十分注意してドアが開かれる。
「兄さん、起きているか?」
 返事をしないでいると、溜息が聞こえた。
「まったく、だらしないんだから」
 そういうお前は詰めが甘いんだ、とギルベルトは狸寝入りをしたまま思った。呼吸法で寝ているか意識があるか判断できないようでは、まだまだ。この未熟者め。
 何かを引き摺る音が聞こえた後、身体にふわりと重みがかかった。
「せめて毛布くらい自分でかけてくれ」
 そう呟いてヴェストは自分の部屋へと戻っていった。
 前言撤回。お前はできた弟だ。
 自然と頬が緩む。
 もう少し。あと少しだけ。
 許される限り、側にいさせてほしい。
 一人ではないのだと思いたい。
 ここ最近、ヴェストは急に背が伸びた。手足が大きいから、近い将来、背も追い越されてしまうことだろう。構わない。一刻も早く、強く大きく成長してほしい。
 永遠なんて、ないのだから。

  *

「一体何だって言うんだ?」
 ある朝、兄の気紛れがまた発動した。突然出かけると言い出したのだ。
「天気もいいし、付き合えよ」
 強引なのはいつものことだったが、態度の端々に有無を言わさぬ強固な意志がちらついて、結局断りきれなった。仕方なく、非建設的にひたすら歩き回るその背中についていく。
「ここは……」
「おお、覚えてたか」
 統一後、抱き上げられてその肩の上から見下ろしたベルリンの景色。慣れない高さがまだ怖くて、でも、嬉しかった。
「また肩車してやろうか?」
 悪戯っぽく笑う兄は、あの頃より幾分、表情豊かになったように思う。その分、【国】としての自覚に欠けてきた。昔はそうでもなかったのに、今では業務のほとんどを自分が代行してすっかり影が薄くなってきた。
「脱臼するぞ」
 本当にいい天気だった。風もほとんどなくて、空が嘘みたいに青い。ここだけ時代の流れから隔絶されたように穏やかだった。
 時は1900年代初頭。
「……空気が荒れているな」
 ふと、兄が呟く。
「大きな喧嘩の前ってのは概ねこんなもんだ。お前も準備しておけよ」
「ああ、わかった」
「ちゃんと鍛えておけよ? 心技体、何事もバランスだ。友達は選べ。孤立は避けろ。上司とは適度な距離を保て。近すぎても厄介だ。あと、俺様を頼るな。どこで何をしていようと、俺様を探しに来るなよ。お前は自分の役目を果たせ」
 それから唐突に振り向くと、顔を顰めて詰め寄られる。
「挑むからには勝てよ。世界を取ってこい」
「無茶を言うな」
「何故だ?」
 兄は心底理解できないといった様子で口をへの字に結ぶ。常識的に考えて、というのは言うだけ無駄なことだった。
「……ヴェスト、でかくなったな」
 不機嫌そうに眉間に皺が寄る。常に見上げてきた赤い瞳が、今は下にあった。
「俺様を見おろすとは、いい度胸だ」
 また無茶苦茶なことを。困り果てて黙っていると、今度はにやりと笑った。
「もっとでかくなれ。てっぺん目指せ。俺様の代わりにな」
 そう言うとやおら襟を掴まれて屈まされる。そして、耳元で囁いた。
「やっぱ今のは忘れろ。無茶はするな。以上だ」
「え?」
 胸を小突かれ、今度は鼓膜が揺れるような大声で啖呵を切る。
「というより、俺様と同じことなんて誰にもできねぇがな!」
「兄さん……」
 一秒単位で意見がころころと反転する。そういう責任のない言動は余計なトラブルのもとだから今のうちに改めてもらおう。溜息をついて、説教しようと口を開きかけたときだ。
「受け取れ」
 目の前に金属的な何かがぶら下がった。手に取って見て、息を呑む。
「くれてやる」
 兄は横柄に笑っていたが、受け取っていいものか判断に迷った。この鉄十字は自分が生まれる遥か以前より兄とともにあったのだ。傷の数だけ修羅場があって、落としきれない錆とともに、これには時間と思いが閉じ込められているはず。
「そいつはな、俺様の誇りだ」
 赤い目は深く、遠くを見つめる。
「最初から持っていたわけじゃない。貰い物だ。いや、借り物かな?」
 だからいつか返そうと思っていた。兄はそう言って背を向けた。
「だけど、それなら尚の事俺がもらうわけには……」
「いや、受け取れ。命令だ」
「……」
 いつだって何を考えているのかわからないが、敢えて問いただそうとは思わない。言葉を交わさずともわかりあえる。少なくとも、自分はそう思っている。
「わかった。受け取ろう」
「大事にしろよ」
 振り向いた兄はいつも通り笑っていた。だけど、重苦しい鉄十字を失った胸元がやけに白くて寒そうだったので、翌日、同じ型のものを贈っておいた。やはりこの人にはこれがないと落ち着かない。
 二人で同じシルシを分かち合う、西(ヴェスト)(オスト)
 二人でいることを、疑問に思ったことなどなかった。

 風が止んだ。
 進路も支えも、自ら羽ばたく力さえ失った黒い翼。
 散っていく羽を掻き集めるには、ここはあまりに高すぎる。
 落ちる、落ちる。
 いっそこのまま、この空の青に溶けて消えてしまえばいいのに。

五、突風

 奪うことと奪われることは同じだと思っていた。そこにあるのは結果だけ。
 だから怖いとは思わなかった。
 それはきっと、失う物さえ持たなかったからなのだと、今頃になってようやくわかった。
 後悔はいつだって取り返しがつかなくなってからするものだ。
 1945年。
 灯りも点けない家の中で、緊張だけが伝わってくる。
 立ち上がるのが面倒だから座っている。だけど弟はそうではないようだ。
 立ち上がることもできないほど疲弊している。
 背中合わせに座る自分たちに、夜風はお節介なくらいに優しかった。
 世界の決め事はいつだって、誰に対しても冷淡だ。
 あの【国】が消えたように。
 世界が決めたことには【国】は逆らえない。そういうものだ。
 背中に密着する体温。
 失うと思うと、自称武者震いが止まらなくなるから考えないことにした。
「おい、ヴェスト」
 ずっと考えていた。なぜ消えなかったのか。
 とうの昔に【国】としての自我など失っていたのに。
「立て」
 顔を強張らせる弟を無理矢理引き起こして向き直らせる。
「お前の持っているモン、半分寄越せ」
「兄さん?」
「つべこべ言うな。負けは負けだ」
 そう。これは代償。これまで奪ってきた自分への当然のツケ。
「半分引き受けるから、お前はお前で立て直せ。いいな?」
「兄さん!」
 青い瞳が否定の色を示した。言いたいことはわかる。今の自分に【国】としての余力があるのかは甚だ疑問だ。
「無駄に二人いるんだから、こういう時こそ俺様を使え」
「兄さん……だけど……」
「他の奴らだってそれで文句はないだろう。もともと俺様は東側だったわけだしよ」
「……」
「返事は?」
 無言。短めの前髪が影を落として表情は読めない。
 溜息が出た。それが一番無難な方法なのだから、さっさと割り切ってしまえばいいものを、余計なことを考えるから辛くなるのだ。
「俺様は寝る。朝まで起こすなよ」
 そう言ってさっさと自分の部屋に引き上げる。そんな自分が、嫌になる。
 たとえば、本田のように慰めの言葉を掛ければよかったのだろうか。フェリシアーノのように寄り添えばよかったのだろうか。
(ああ、もう、くそったれ)
 これでいい。これが自分のやり方だから。

   *

 翌朝、嫌な予感がして、急速に目が覚めた。
 身体を起こすと、肩に掛かっていたものが床に落ちた。見慣れた形の制服の上着。自分の物ではなくて、兄の……
 ひやりと背筋を悪寒が走った。
「兄さん!」
 刹那に過ぎった恐怖に、我を忘れてノックもせずに隣の部屋のドアを開ける。
 返事はない。姿もない。そこに確かにいたはずなのに、気配さえ残っていない。
 す、と顔から血の気が引いていった。
 着のみ着のまま家を飛び出す。
(……兄さん!)
 走る。一歩進むごとに地面が崩れていくような、そんな心細さ。
「兄さん!」
 やがて見え始めた背中を呼び止めて、咄嗟に立ち止まった。頭の後ろで組まれた両手と、街灯の光を反射するライフルの先端に息が止まりそうになる。武装兵に囲まれた背中は、瀕死の獣のようだった。
 イヴァンは驚いたように目を瞬いて、それからにっこりと笑った。
 ――笑ったのだ。
 純粋に、積もりたての雪のように、柔らかく。
 言葉は交わさなかったようだ。ただ許可を求めるように視線が上がって、イヴァンが大らかに肯いた後、いつものように横柄に腰に手を当てて兄は振り向いた。
「この、馬鹿野郎」
 顰め面をしてつかつかとこっちにやってくる。あまりにもいつも通りすぎて、ますます現実が受け入れられなくなりそうだった。
「何しにきた?」
「何って……」
 訊かれてはじめて自分の行動の無意味さを自覚した。
「見送りか? そんなヒマないはずだ。お前はお前の役目を果たせと言ったはずだ」
 全くもってその通りで、自分でも何をしにきたのかわからない。追いかけてどうにかなる問題ではない。だけど……
「だけど、これでいいわけない」
「だったらもっとマシな代替案を出すんだな。ま、俺様よりお前が賢かった場合の話だがな」
 残念ながら他にいい方法は思いつかない。だけど、これが「いい方法」だとも思わない。
「わかったらとっとと帰れ。連中と上手くやれよ」
 冷たく言い放つと、そのまま背を向けられた。朝靄に揺れる視界。そのままぼやけて消えてしまいそうなほど白い姿に、急に頭の芯が沸騰したように熱くなった。
「これでいい? そんなわけない!」
 思わず声を荒げて去っていこうとする腕を掴む。かつて同じ場所で、このベルリンで兄が自分を捕まえたように。
「わがままも大概にしろ!」
「何だと?」
「いつだって一人で決めて、俺は従うだけだ! 大事なことを勝手に決めるな!」
「お前は大事な問題に限って飛ばすだろうが。それに、これからはお前の好きなようにすればいい。もう俺様に構うな。一人で何とかしろよ、愚弟が」
 あまりの言いように、カッと頭に血が上った。
「この、馬鹿兄貴!」
 両手で肩を掴んで、常識不足のその額に頭突きをかましてやった。
「いってぇな! 何しやがる!」
 襟を取られる。足が浮いて、そのまま背負い投げられた。情けなくも仰向けに地面に叩きつけられる。無様なものだ。見下ろす赤い瞳はどこまでも硬かった。それが口惜しかった。こっちはこんなに苦しいのに、壊れてしまいそうなほどなのに、向こうは何ともない顔で行ってしまう。お前なんてどうでもいいと言わんばかりに、一欠けらの情緒もなく去っていこうとする足を蹴った。
「ふざけるな! 兄さんがよくても、俺はよくない!」
「ふざけているのはどっちだ、このど阿呆!」
 互いに胸倉を掴み、髪を引っ張り、殴り殴られ、犬のように転がる。第三者の目があることもすっかり忘れてこんなふうに取っ組み合いの喧嘩をするなんて、ガキの頃以来だ。
 そう。昔はよく喧嘩した。
 だって、本当にこのバカ兄はわがままで非常識なのだ。
 それでいて最後にはこう言うのだ。これでいい、と。ほら、今回だって……
「これでいいんだよ、馬鹿」
 喉を抑えられ、膝で地面に押さえ込まれる。
 何回喧嘩したって勝ったことなどない。体格で勝るようになった今だって勝てる気がしなかった。なぜなら、こいつは兄だから。
 今在る自分の全ては、この兄が在ったからこそ。
 だから、かなうわけない。
「いいんだ」
 宝石のように冷たく硬かった赤い瞳が、不意に揺らいだ。
「俺の望みは今も昔もお前だけだ。わかったか? わかったら、俺様のことなんて一刻も早く忘れちまえ。お前はお前だ。もう、俺様の半身(ヴェスト)じゃない」
「兄さん……?」
 押さえつける力が抜けた。
「俺を誰だと思っていやがる? お前のお兄様だぞ?」
「……それは……」
「お前を守ると誓ったのにな。守りきれなくて、すまなかった」
 風に攫われるようにして遠ざかる背中。
「兄さん!」
「じゃあな」
 いつだって自由(わがまま)で――
 そのまま本当に一度も振り返らずに行ってしまった。
 あの背中に追いつきたいと、今日ほど願ったことはない。

   *

「よかったの? あんな別れで」
 完全に声も届かないくらい離れた頃、それまで黙っていたイヴァンが顔を覗き込んだ。
「あいつは聞き分けがいいから問題ない」
「そうは見えなかったけど……」
 それに、とイヴァンは無邪気に笑った。
「今生の別れになるっていうのに、君たちったら取っ組み合いの喧嘩を始めるなんて」
 わかっていたつもりだったが、改めて言われると思っていた以上に「別れ」という響きが重く圧し掛かった。
「それにしても、君の悪運の強さと野生の勘は本物だねぇ」
 イヴァンはしみじみと言う。
「何が言いたい?」
「今にわかるよ」
 首を傾げると、前を行くイヴァンが急に立ち止まってこちらを振り返った。
「そうそう、忘れていた」
 するりとイヴァンの手が首元に伸びてきた。
「これは預かっておくよ」
 首の付け根辺りで金具を外す音が聞こえた。咄嗟に振り払おうと上げかけた手を、すんでのところで止めた。今の自分の立場では許されないことだからだ。
 イヴァンは笑みを深くする。
 ――ああ、今思い出した。
 この目。この顔。この、独特の威圧感。ローデリヒの負け面を拝んだ直後に何故かふらりと現れた、あの時も今と同じ顔で笑っていた。思えばあの頃からずっと、イヴァンは狙い定めていたのかもしれない。
 離れていく微かな重み。
 失った? いいや、何も失ってなどいない。
 ちゃんと残してきた。
「……怒った?」
 イヴァンは体格に似合わず気の小さそうな声で訊ねた。
「怒ってどうなる?」
 何とも思わないと言えば嘘になるが、憎らしくは思わない。
「ふうん」
 イヴァンは珍獣でも見るような目でさらに顔を覗き込む。
「君、昔と今とじゃ雰囲気が違うね」
「そうか?」
「うん。前はもっと、何ていうかな、ギラギラしていたよ」
「今はどうなんだ?」
 興味本位で訊いてみた。訊いた後で、死ぬほど後悔した。
「儚くなった」
「……そうか」
 これ以上――
 もう、これ以上の時間は切ないだけだから……。
 消えてしまう? 消えてしまえ。
 はやく忘れてしまえ。
「君は雪みたいに白いから、きっと寒いところの方がもつんじゃないかな?」
 皮肉のつもりなのだろうか? その割には純朴すぎる例えだ。昔からイヴァンは何を考えているのかわからない。だけどイヴァンのことだから本気でそう思っていても不思議はないのだ。
「そうかもな」

 風が吹きつける。
 最後の一片を攫っていく。
 空は青く、円く。

 1947年2月25日 解体宣言。

間隙③

「なぁ、ヘルマン」
 高く青く、雲ひとつない空を鳥が舞っている。たった一羽で、同じ軌道を何度も巡る。とても不安定だと思った。
「あの鳥は何だ?」
「ありゃあ鷲だな」
「一羽で寂しくないのか?」
 その騎士はよく日に焼けた顔をこちらに向けた。逆光でよく見えない。眩しくて目を側めると、次の瞬間には違うシルエットに変わっていた。
「鷲は王の鳥だ。空に君臨するのは一羽でいい」
 言葉とは裏腹に、声にはどこか諦めが滲んでいた。
「フリッツ、それは違うと思うぞ」
 高く、高く舞い上がった孤高の黒鷲。力強く、振り返りもせずに昇っていく。
「誰だって、一人は寂しいもんさ。いつか疲れる。俺様もお前も」
 ほら、とギルベルトは天空を指差した。
 軌道が揺らいで、遥か上空で失墜する鷲の影。落ちる。
 ――ああ、受け止めなければ。
 両手を差し出す。落ちてきた翼をちゃんと受け止めた……はずだった。
 触れた瞬間にあるはずの重さは消えて、黒い翼は揺れる裾に変わる。指先にちょっとだけひっかかった、子どもの手。金色の髪が目の前を掠めた。
「これをお前にやる」
 青い、青い瞳。あの空と同じ色。
「なくすなよ」
 それはとても硬質な誇りのシルシ。
 頼りない重みが手の中にある。切ないほど軽い。
「アンタがいたから、俺様は【国】になれたんだ」
 泣き出したい気分でその手を握ると、幼い姿のままのその【国】は微かに笑った。
 その笑顔がだんだん照れくさそうに俯いて、見る間に大人の体格に変わる。
「兄さん……その、よかったら……これ……」
 空の色と同じ青が、気まずそうにそっぽを向いた。
 生真面目で厳つい上に、あまり笑わない。おまけに人前に出るときはいつも前髪を上げているからやたらとごつい印象だが、こうして前髪を下してラフな格好をしていると急に幼く見える。
 幼く見えて当然だ。こいつは弟だ。
 不器用で真っ直ぐな、大事な弟。
 手の中に残る、確かな重みと形。
「おう、ありがとな」

――ヴェスト
 景色が白く霞んで遠のいていく。それとも、霞んでいるのは自分のほうだろうか?
 そう。
 この空の青に、救われたんだ。

   *

「あの、お馬鹿さんが」
 ローデリヒは眼鏡の蔓を上げて溜息をついた。解体宣言から40年が経過している。ギルベルトの消息は依然、不明のままだ。
 ふと心配になって、エリザとともにルートヴィッヒを訪ねることにしたのだ。
「でも、思ったよりも大丈夫そうですね」
 帰り道、エリザは言った。
「貴女はそう思いますか?」
 大丈夫なように見えるから、逆に心配なのだ。もっと言えば、何事もなかったかのように平静に振舞っているのは、彼の中でまだ整理がついていないからこそ。
 そういうところは、似ていない。
 ギルベルトは良くも悪くも自分に忠実だった。
「私には彼が自分を殺して普通に振舞っているようにも見えますね」
「強がっているってことですか?」
 すぐに虚勢を張る。そんなところはそっくりだ。
 ローデリヒは一枚だけ壁に飾られた写真を思い出す。揃いの制服に、同じ鉄十字。片方は横柄な笑みを浮かべて尊大に椅子に座り、片方は理性的な目で無表情にこちらを見つめる。仲の良い兄弟の姿がそこに写し取られていた。
 1980年代後半。
 あの兄弟が隔たれて久しい。
「解体宣言に、壁の存在。正直、心配です」
「ローデリヒさんは優しすぎるんです」
 エリザはぷう、と頬を膨らませた。
「あいつに関わるとろくなことがないですよ」
「もう昔の話です。それに、今回の訪問だってアポイントを取ってくれたのは貴女ですよ」
「それはそうですけど……」
「本当に彼が消えてしまったのなら、私はきっと後悔します。それは貴女も同じだと思うのですが、違いますか?」
 エリザは黙っていた。
 あの日以降、ギルベルトの消息が途絶えたという。まして現在の世界の状況を考えると、ルートヴィッヒが直接に彼と連絡を取ることは難しい。
 消えてしまったのか。それとも、どこかで笑っているのか。それさえもわからぬまま時間だけが堆積していく。
「あの、ローデリヒさん」
 エリザは真剣な眼差しでふと、立ち止まった。
「私、東側に行ってみようと思います」
「何ですって?」
 ぎょっとした。よりにもよって、彼女からそんな提案が出されるとは思ってもみなかったのだ。
「だめ、ですか?」
 提案の内容は剛毅なくせに、そう言ってちょっと俯く彼女はとても可憐だ。
「だめとは言いませんが、賛成はできません」
「大丈夫です! 私、これでも結構タフですから!」
「それは承知していますが」
 強固な意思に支えられた視線にぶつかる。これはたとえここで無理に説得したところで、エリザは行ってしまうだろう。
 それに、彼女にしかギルベルトは探し出せないかもしれない。
(そういえば、彼は『もとマリア』でしたね)
 ローデリヒは溜息をついた。あの性格だからつい忘れてしまいがちだが、ギルベルトの中には非常に真面目で愛情深い一面も存在しているのだ。重すぎる忠誠心はしばしば自覚のないまま自己犠牲の形で現れる。
 仮にまだギルベルトが存在していたとしても、向こうが接触を拒む可能性は否めない。
(……全く、頑固なところは兄弟そっくりですね)
 ローデリヒは苦笑する。
「そうですね。貴女が適任なのでしょう。お願いできますか?」
「任せてください!」
 この明るい笑顔が、最大にして唯一の切り札だった。
(お馬鹿さんが……)
このまま思い出だけを一方的に押し付けて消えてしまうなんていかにも彼らしい身勝手だ。(もういい大人なんですから、わがままは許しませんよ)
 待っている人がいるということを忘れている。
 なぜなら彼は、一人の時間が長かったから。
 終わらせない。終わらせたくない。

六、 嵐

――お前、今日からヴェストな。
そう言って慣れない笑顔を向けてくれた。嬉しくて、繋いだ手を握ると軽く握り返してくれた。だけど、もう一度見上げたときの兄の表情は暗かった。
――お前はお前だ。もう、俺様の半身(ヴェスト)じゃない。
それだけ言って手を振り解くと、何も言わずに背を向ける。
待ってくれ。そんなの、納得できるわけない。
追いかけようとしても、水の中を走るように手足が重い。
行くな。俺を置いて、一人で行くな。
消えていく。どんなに手を伸ばしても届かない。
行かないで……

――兄さん

 明け方。汗で額に張り付いた前髪をかき上げる。もう何度同じ夢に魘されたことだろう。
 あれから何年経ったと思っている?
 胸の鉄十字に触れると、生き物のように仄かな熱を持っていた。
――どこで何をしていようと、俺様を探しに来るなよ。お前は自分の役目を果たせ。
 そう言われたのは確か大戦前だった。今にして思うに、兄はあの頃から己の運命を悟っていたのかもしれない。否、もっと前、おそらくベルサイユ宮殿での戴冠式のあの日には、すでに、いずれ自分が消え行く存在なのだとわかっていたのだ。
 跪き、手の甲に口付ける兄の姿は今でも鮮明に思い出せる。
 後悔はいつだって取り返しがつかなくなってからするものだ。
 元気でいるのか。どこかで笑っているのならそれでいい。
 消えてしまったなんて、信じない。
 寝直す気にもなれなくて起き上がる。喉が渇いていた。水を求めてリビングのドアを開き、そして目にした光景に思わず息を止めた。
 兄がいつものように長椅子の背に腕を回してふんぞり返っていた。
 組んでいた足を解いて、ゆっくりと振り返る。
「おう、どうした? 悪い夢でも見たか?」
「……兄さん」
 咄嗟に否定できない自分が情けない。淡い夢でかまわない。この一瞬を望んでしまった。
 全部、忘れてしまいたかった。
「ああ、嫌な夢を見たんだ」
 そう。夢。全部夢。別たれた時間は全て悪い夢でも見ていたのだ。
「眠れないのか? ったく、お前はいつまで経っても甘ったれだな」
「……ああ」
「小さい頃みたいに一緒に寝てやろうか?」
 そう茶化して意地悪な笑みを浮かべる。
「それは遠慮するよ。隣、いいか?」
「ああ」
 日の出前の、一日で一番暗い時間。滲みだした朝の気配に怯えていた。膝に置いた手が震えだす。拳を握って誤魔化そうとしたけれども、情けないほど指に力が入らなかった。
「どうした?」
 顔を覗き込まれて、思わず視線をそらした。
「そんなにひどい夢だったか?」
「ああ、ひどい」
 手を振り解いて、一度も振り返らずに行ってしまう。そして、そのまま消えて、永遠に失われる。そんな夢だ。
 そう言ったら、兄は馬鹿にするように鼻で笑った。
「そんなことするもんか。俺様を誰だと思っていやがる? お前のお兄様だぞ?」
「ああ、その通りだな」
 なのに、震えが止まらない。胸が塞がって、窒息しそうだ。
「すまなかった」
 何も察することができなかった。あんなに近くにいたのに、わからなかった。
 二人でいることが当たり前だった。
 当たり前すぎて、終わりがあることさえわからなかった。
「……すまなかった」
 言葉とともに、堪えていた気持ちが零れて頬を伝っていった。
 それを機に、一気に淡い夢と現実とが分断される。再び顔を上げたときには、兄の姿はどこにもなかった。
 夜明けは刻一刻と迫ってくる。
 やけに煩く感じた。
 時計の秒針。冷蔵庫の稼動音。飼い犬が身じろぐ気配。
(兄さん……)
 何故なんだ?
 震えが止まらなかった。涙も止まらなかった。
 首に下げた鉄十字の微かな重みに縋りつく。
 これを受け取り、代わりに同じ型のものを贈った。同じ重さを分かち合いたかった。
――おう、ありがとな。
 そう言って不器用に笑う。
 いつだって、そうやって笑っていた。
 無理に笑わなくてもいいのに。辛いのなら泣いてもいいのに。
 いや、やっぱり笑っていてほしい。歪でもいいから、心の底から自分の隣で笑っていて欲しい。それを望むのは、そんなに欲深いことだろうか?
 強くなりたい。もう何も失わないで済むために。
――無茶はするな。以上だ。
 そう聞こえた気がした。
「ja」
 届くはずもない返事が、虚しく部屋に残響した。

   *

 最初は幻なのだと思った。足を止めて、いるはずのない相手の姿に見入る。
「久しぶりね」
 にこりともせずにハニーブロンドを風に靡かせる。花の飾りが微かに揺れていた。
「エリザ?」
 ギルベルトがジーンズのポケットに手を突っ込んだまま無表情のその顔を凝視していると、いきなり間合いを詰められて思わず一歩退いてしまった。昔から何となく苦手なのだ。プルツェンラントしかり、シュレージェンしかり、何かとエリザに強く出られると退かざるを得ないのだ。というのも、遠い過去に自分がしでかした愚行のせいなのだが。
 エリザは何も言わずに下からじっと見上げてくる。明らかに目線が下なのにやけに威圧的で、つい、目を逸らしてしまった。
「何でお前がここにいるんだよ?」
「理由を知りたい?」
 エリザは微かに目を側めた。たったそれだけで目が離せなくなる。こんなにも物騒な表情なのに惹きつけられる。
「腹の虫が収まらないから一発殴りに来たの」
 マジで帰れ、と思った。ところが。
「でも、貴方の今の顔見たらそんな気も失せたわ」
 エリザはそう言って溜息をついた。
「言いたいことは山ほどあるけど、今日だけは殴らないわ」
 そう言って横をすり抜けて歩き出す。言いたいことがあるのはこっちも同じだが、反抗するとまたフライパンが飛んできそうだから大人しく高飛車に揺れる後ろ髪を追った。
 延々と続く灰色の壁。有刺鉄線に絡め取られる空も灰色だった。
「どうしてここにいるってわかった?」
「女の勘よ」
「話があるんじゃないのかよ?」
「そっちこそ、言うべきことがあるんじゃない?」
 溜息が出た。と、急にエリザが振り返ったので息を詰める。
「な、何だよ?」
「こんなところで何してたの?」
「散歩だよ」
「こんな殺伐としたところに、散歩?」
 エリザは両手を腰に当てて、仁王立ちしている。探るようにじっと見つめられ、それから僅かに眉を落とした。
「本当、昔の威勢が嘘みたい。もっと業突く張りで強引な奴だったわ」
 笑うことしかできなかった。
 エリザは風で乱れた髪を撫でつけた。
「この前、弟さんに会ったの」
 びくりと胸の奥が震える。
「そうか。元気だったか?」
「できた弟さんね。貴方と違って真面目にやっていたわよ」
「当然だ」
「でも、無理をしているみたい。あまり表情に出にくいタイプなのね。すぐに強がるところは貴方にそっくりだって、ローデリヒさんが言っていたわ」
「……そうか」
「ねぇ」
 初めてかもしれない。エリザが自分の前でこんなに女の一面を押し出すのは。
「このままでいいわけ、ないじゃない」
「いいんだよ、これで」
「貴方が良くても、彼はそう思っていないはずよ」
「忘れちまえばいいさ」
「忘れられるわけないじゃない。わからないの? 彼は今だって貴方のことを待っているのよ? 解体宣言のあとだって、壁ができたあとだって、貴方のことを忘れたことなんか一度もないはず。昔はあんなに無茶苦茶やって引っ掻き回したくせに、どうして今は何もやろうとしないのよ!?」
「忘れちまえよ!」
 声を荒げて、はっと我に返る。
 自分でも驚いた。こんなに感情的になるなんて、どうかしている。
 顔を強張らせるエリザ。
「悪い……その、怒鳴るつもりはなかった」
「……平気」
 何をやっているのか。
 本当に、こんなところで自分は何をしているのか。
「貴方はどうなの? 本当にこれで満足しているの?」
「ああ」
「嘘。あんなに強欲だった貴方が、こんな程度で満足しているわけない」
 それにしても、ひどい言われようだ。尤も、それだけのことをしてきたのだが。
「貴方が本当に望んできたことは何だったの? これが答えなの?」
 本当の望みは――
 望んでいたのは、きっと……
 重苦しい沈黙の後、エリザは踵を返してぽつりと呟いた。
「わかったわ。貴方にその気がないなら、私がやる」
「何だって?」
「あんな顔をするから……」
 心なしか、エリザの声は震えているようだった。
「横柄で厚顔不遜な貴方じゃなきゃ、殴れないじゃない」
 エリザは背中を向けたままだ。
「これでいいわけない。ローデリヒさんだって、きっとそう言ってくれるはず。私たちだけじゃない。アントーニョも、あのフランシスでさえ、アーサーやアルフレッドだって、これでいいなんて誰も思っていない。きっとイヴァンだって、わかってくれるわ。……私も、貴方がこのまま消えてしまっていいとは思わない」
 エリザは一息にそう言うと、そのまま足早に去ってしまった。
 追おうとは思わなかった。
 風が吹いてきた。有刺鉄線が打ち合って、頭の上で硬く軽い音を立てている。
――この壁は君と彼を隔てているんだ。良くも悪くも、ね。
 いつだったか、イヴァンが言っていた。
 戴冠式以降、【国】としての自我が薄れていったのは何となく自覚していた。それでも消えずに残っていた理由は、ヴェストの中の自分の影響が強いからだと、そう思っていた。だから解体宣言を受けてヴェストが完全に自分の影響を脱すれば名実ともに滅亡するものだと考えていたのに、何故……。
――こうして分断されているから君は輪郭を保っていられるんじゃないかな。
 イヴァンは大輪のヒマワリを大事そうに花瓶に挿して言った。
――この壁は君を閉じ込めていると同時に、守ってもいるんだ。皮肉だね。
 壁がなくなった後にどうなるかはわからないと言う。
――だから、ここにいなよ。ずっと、僕の側にいて。
 その時、イヴァンは珍しく笑っていなかった。
――行かないで。
 行かないで。行かないで。行かないで。
 振り払えなかった。別れ際のヴェストの顔が被ってしまって。
(ああ、畜生)
 天を仰ぐ。手の甲で目を抑えた。
 どいつもこいつも好き勝手に自分の主張を押し付ける。こっちの気も知らないで。
(らしくねぇな。待っているだけなんて)

 初夏。汎ヨーロッパ・ピクニックの三ヵ月ほど前のことだった。

   *

1989年、民主化運動の一環としてハンガリーがオーストリアとの国境を開放。
8月19日、オーストリア共和国ブルゲンラント州に食い込むハンガリー領ショプロンにて。西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民約1000人が一斉にハンガリー・オーストリア国境を越え亡命。
「やってくれるぜ」
テレビから聞こえるノイズ混じりの音を拾いながら、尊大にテーブルの上に足を乗せて笑っていた。その瞳の赤に、忘れかけていた焔を灯す。
「女っておっかねぇ」
 いつかも言った言葉を今一度繰り返す。今度は自信過剰に口の端を吊り上げて。
 肩越しに振り返ると、ちょうど親と手を放して転んでしまった子どもを抱き上げる警備兵の姿が映っていた。
 ふと、記憶の深いところに沈んでいた光景が脳裏に蘇る。
――お前は俺の希望だ。
 そう言ってまだ小さかった自分を抱き上げた騎士がいた。
――お前は俺様の希望だ。
 そう言ってまだ小さかったあいつを抱き上げた自分を思い出す。
 本当に望んでいたのは、とても単純なことだった。

 そして、11月9日。
 それは突然に始まった。

「行くの?」
 イヴァンはその日も朗らかに笑っていた。
「ああ」
「自分の行動の意味が、わかっているの?」
 瞳に不穏な光を滲ませてイヴァンが間合いを詰める。ギルベルトは紫がかったその瞳を見上げた。少しだけ、わかった気がする。イヴァンがこの瞳に何を映してきたのか。
「どうでもよくなっちゃった?」
「そういうわけじゃねぇよ」
 苦笑する。イヴァンは時々、ひどく純粋な一面を見せる。
「俺様は自暴自棄になれるほど無欲じゃないんでね」
「なら何故?」
 イヴァンはあくまでも威圧的に見下ろしてくる。
「もうこの世界には君を形作るためのものは何一つとして存在しないんだよ? 君はとうに滅びたんだ。今、君と彼とが同時に存在できるのは二つに隔たれているからなんだって、以前言ったはずなんだけど?」
「悪いな。理屈の通じない頭なんだよ」
「……君はまだ僕のものだ。勝手はさせないよ」
 イヴァンの瞳の紫が氷の青さを帯びるとき、彼に逆らえる者がどれほどいるだろうか。昔から、この【国】は純粋さと、それゆえの残酷さが表裏一体を成しているのだ。
「なあ、イヴァン」
 ギルベルトはリビングに置かれた花瓶に目をやる。
 大輪の黄色い花。ときに太陽に喩えられる真夏の花がバランスよく飾られていた。
「正直、アンタがヒマワリを花瓶に飾るなんて、意外だった」
 初めてだ。イヴァンが息を呑んで表情をなくすのを見るのは。
「そのうち、ヒマワリがアンタにとって特別なんだってわかった」
 なくしたくない夢のカタチ。
「アンタが毎年夏になるとヒマワリを飾るのを否定することは誰にもできねぇ。そうだろう? だから、もう止めるな」
 イヴァンは真顔のままじっと見つめる。それから、静かに、とても静かに瞳を伏せた。
「わかった。君がそれを強く望むのなら」
 そう言うと、イヴァンはポケットの中から何かを取り出す。
「これを君に返さなくちゃね」
「何を……」
 不意に両腕が首に絡む。最初は何だかわからなかった。首の後ろで金具が留まる音がして、忘れていた重みが襟元に加わる。
(あ……)
 イヴァンはもとの朗らかな笑顔に戻って肯く。
「やっぱり、君にはこれが必要だろうから」
 懐かしい重みと感触。思わず左手で握り締める。
「君はやっぱり面白いね」
 イヴァンは笑っていた。なのに、紫色の瞳から一粒溢れ出して頬を伝って落ちていった。
 一瞬、言葉を呑む。だけど、もう迷わない。
「悪運の強さと往生際の悪さには一家言持ちだぜ」
 そう言って笑ってやった。
「じゃあな」

 停滞していた空気が動き出す。
 吹き抜ける一筋の風。
 それは数多の思いを伴って、やがて嵐となって堆積していた時間を崩していく。

 壁周辺に集まる人の群。
 その先頭で横柄な笑みを浮かべる者がいた。
 雨。
 最初は泣き濡れるように細かった雨筋が、今は篠突く豪雨となっていた。
 雨粒を弾く銀の髪が異様だった。
 赤い瞳を滾らせて、軍旗の代わりに鶴嘴を担ぐ。
 そこに黒鷲の姿はもうなくとも、誇りは胸に。

 今、風を起こせ。

終、 この空の青に

 11月9日、同じくベルリン市内にて。
(何が無茶はするな、だ)
 いつだって自分が一番無茶をするくせに。
(兄さんは言うこと為すこと全部非常識だ)
 そんな兄でも、たった一人の大切な兄なのだ。
 臨時速報のアナウンスも聞き終わらないうちに車のキーを取り上げて、外套に手を伸ばす。飼い犬が自分も連れて行けと擦り寄ってくるのを軽く諌めて家を飛び出すと、叩きつけるような豪雨だった。おまけに風が強い。ガレージに行くまでの間にすでに濡れていた。そこでようやく傘を持ってくるべきだったことに気がついたが、そんなことはどうでもよかった。そういえば、鍵を掛けたかどうかも覚えていない。構うものか。
 嵐の中、慎重にハンドルを切る。気を抜くとどんどん加速してコントロールを失いそうだ。そんなことを思った矢先、風で巻き上げられた新聞がフロントにへばりつく。
 視界を塞ぐ最大フォントの見出しと号外の文字。
 今、まさにその写真の場所へと向っているのだ。
 反射的にブレーキを踏み抜いてハンドルを切ってしまう。コントロールを失った車体はあっさり流されて街路樹にぶつかって止まった。
 はっと我に返る。衝突の衝撃でようやく頭に上っていた血が下がった。
 奇跡的に通行人はなく、怪我もない。ワイパーが今頃になって濡れた新聞を絡め取っていった。一瞬、とんでもない金額の出費が脳内で算出されたが今は構っている場合じゃない。
 車から降りると、一段と雨足が激しくなっていた。
 後ろへ撫で付けた前髪を容赦なく解いて額へと流す。
 床に落としたケーキのように崩れたボンネットに見切りをつけて、目的地へと向って走り出す。
 会いたい気持ちに理由など必要ない。
 漠然と、常にその存在を感じていた。
 だからかもしれない。
 壁の向こうに必ずいるのだと信じていた。
 かつてのように先陣を切って哄笑しているものだと、そう思っていた。
 この壁が崩れた日には、瓦礫の向こうで笑っていてくれるものだと信じて疑わなかった。
 それなのに。
 再会を喜ぶ人。解放を謳う人。自由を讃える人。
 しかし、そこに求めていた姿はなかった。すれ違う人の群。探しても、探しても、見つからない。どんなに声を張り上げて呼んでも返事がない。
 西(ヴェスト)(オスト)
 二人だということを疑問に思ったことなどなくて。
――お前はお前だ。もう、俺様の半身(ヴェスト)じゃない。
 それは、そういう意味だったのか?
 責任を取れという意味だと思っていた。【国】としての義務を果たせと、そう言われたのだと。だけど、もしも、そこに別の意味があったのなら……
 例えば、ひどく遠回りでひねくれた別れの言葉だったのなら……
 実に兄らしいではないか。
 温い雨。
 後から後から止め処なく。
 そういえば洗濯物も干したままだった。
 せっかく乾きかけたのにこれではまたびしょ濡れだ。
 絞っても、絞っても、止まらない。
(兄さん……)
 嘘だ。
 絶対に信じない。
 こんなに降りしきる雨の音さえ、やたら遠くに感じた。
 肌に触れる微かな重みと金属の感触だけは失うまいと、鉄十字を握り締めて天を仰ぐ。

   *

「帰ってない? そんな……」
 そんなはずはない、と言い掛けてローデリヒは言葉を呑んだ。
 突然玄関先に現れたルートヴィッヒは、ひどく憔悴していた。
 壁の崩壊から二日が経っている。とっくに再会を果たしていると思ったのに、何と言うことだろう。
 もしかしたら、壁に隔たれていたことによって自分たちは二つに分れていたのかもしれない、とルートヴィッヒは言っていた。
 ルートヴィッヒが【国】として成長していく一方で、ギルベルトの【国】としての影響は希薄になっていった。本当はそれ以前から彼の【国】としての意識はほとんど消えてしまっていて、それが大戦以降、西と東に分かれたことで辛うじて保たれていた。解体宣言を受けてなお存在し続けたのは彼が西と対を成す東であったからであり、隔てるものがなくなった今度こそ……
 少なくとも、ルートヴィッヒはそう考えているようで、それで居ても立ってもいられなくなってここへ来たのだと言う。
 エリザを見やると、顔を強張らせて黙っていた。
 最後にギルベルトに会ったのは彼女であって、同時に、壁が崩れる前の彼の様子を知るのもエリザだけだった。エリザがギルベルトに会ったことをルートヴィッヒは知らない。知らせないで欲しいと言われた。
――知ったらどっちにとっても辛くなると思います。
 それほどまでに彼の状態は良くなかったのだとエリザは言っていた。そんな状態だと知ったらルートヴィッヒは何をするかわからないし、ギルベルトもそんな状態の自分を知られたくないだろうから、直接会ったことは伏せてくれと頼まれた。
――それでも、私はこのままでいいなんて思わないんです。
 若葉色の瞳を潤ませてエリザが言っていたのを思い出す。
 ギルベルトの土壇場での粘りと悪運の強さは嫌というほど知っている。だから壁の崩壊を機に持ち直して、何事もなかったように図々しく復帰するのだろうと思っていた。
 だからお坊ちゃんは詰めが甘いんだよ。
 そう言って底意地の悪い笑みを浮かべるギルベルトの顔が浮んだ。
「……あの、お馬鹿さんが」
 思わずそう呟くと、テーブルを挟んで向かいに座るルートヴィッヒが微かに顔を上げた。
「来るとしたら、ここだと思ったんだがな」
 そう言って額を抑える姿に、ローデリヒはエリザと顔を見合わせた。
「きっと彼のことですから、今頃一人で気ままにベルリン市街を散策していますよ」
 エリザが不意に立ち上がると、無理矢理笑って言った。
「お茶、冷めちゃいましたね。淹れなおして来ますから、ちょっと待っててください」
 そう言って席を立ってキッチンに向うエリザの後ろ姿に、ふと、過去の記憶が重なった。
 あの【国】が消えたらしいと知って蒼白になって駆けつけたギルベルトも、こうして虚ろな目をして黙っていた。その時彼が自分自身を責めていたのだとわかったのは随分経ってからのことで、あの時はただ、遠征の疲れが溜まっているのだとしか思わなかった。
「アントーニョやフランシスには尋ねてみたのですか? 彼らは気が合うようですからもしかしたら居候しているかもしれません」
 とは言っても、彼がルートヴィッヒを差し置いて他の者に会いに行く理由などないはず。案の定、ルートヴィッヒは緩く首を横に振った。
 ローデリヒは溜息をつく。彼らは寄り集まっては周囲に迷惑のかかるような悪だくみしかしない三馬鹿だけれども、人の気持ちを蔑ろにするような連中ではない。
「とにかく、あのギルベルトのことです。こんなことで儚く消えてくれるようなら我々も苦労はしなかったでしょう。彼の悪運の強さ本物ですよ」
 わかっている。こんな言葉は気休めだ。
 それでも、無意味ではないはずだから。
「だから、信じましょう」
「……ああ」
 ルートヴィッヒが帰った後、ローデリヒはお茶を淹れ替えに行ったままずっとキッチンから戻らないエリザを迎えに行った。
 微かに震えている肩をそっと抱く。
「大丈夫です。彼のことですから、きっとすぐに戻ってきて好き放題に暴れ始めますよ」
「私……何も知らずに……」
「貴女はむしろあの兄弟を救いました。少なくとも、ギルベルトは自ら選び、行動しました。例えどんな結果になったとしても、我々は受け入れるしかありません」
「でも!」
「それに」
 七年戦争時代のギルベルトの高笑いを思い出して、ローデリヒは苦笑する。
「彼はそんなに謙虚ではありませんよ」
 そう。信じるしかないのだ。

   *

 ピン、と張った布の裏側から針を刺して、また戻す。布地に空いた二つの穴の間を糸が渡る。緩すぎてもだめ。締めすぎてもだめ。微妙な力加減と距離を保ちながら同じモチーフを繰り返す。【国】同士の関係とよく似ていると思った。
「ギルベルトが行方不明らしい。聞いたか?」
 アーサーは刺繍針の先端から目を上げずに言った。
「聞いているよ」
 答えると、フランシスは長椅子に両足を投げ出した。
「昨日、ルートヴィッヒから電話があった」
「うちにもあったでぇ」
 フランシスが理由もなくアーサーのところへやってくるのはいつものことで、アントーニョとフランシスがつるんでいるのもいつものことだった。だが、この三人が一緒にいるのはあまり見かけない光景だ。
「まったく、兄貴が弟に心配かけとったらあかんやろ。面目丸つぶれや」
 アーサーは着々と刺繍を進めながら言った。
「ギルベルトも大概だけど、ルートヴィッヒはもっとだな」
 フランシスが背もたれ越しに振り返る。
「何が?」
「ブラコン」
 妙な間が空いたので不審に思って顔を上げると、フランシスがにやにや笑っていた。
「何だよ?」
「うらやましいんだ?」
「ばっ……そんなんじゃねぇよ! ばか!」
「せやなぁ。お前んとこのはアレだもんなぁ」
「お前ら帰れ! 大体、うちに何しに来たんだよ?」
「決まってんだろ? お前の刺繍の邪魔しに来たんだよ」
 これ以上こいつらの相手をしていても自分が疲れるだけなので無視して刺繍に集中する。
「あーあ。うちのロヴィーノもあんくらい可愛げがあったらええのに」
 アーサーは思わず顔を上げる。
「……お前、あのムキムキを『可愛い』にカウントするのか?」
「微妙に食いつくところ間違っとるで」
 それきり、会話が途絶えてしまった。何となく空気が重いのは雨だからだろう。きっと。
 針を刺す。糸が渡る。単純な線の積み重ねが絵になっていく。
「なあ、訊いていいか?」
 ぷつりと布地に先端だけ刺さった半端な状態で針が止まった。
「何でギルベルトはルートヴィッヒにあんなに執着するんだ?」
「執着?」
「異様に感じるのは俺だけか? 何か理由があるのか?」
 視線を上げると、アントーニョとフランシスが顔を見合わせている瞬間だった。
「さてねぇ……お兄さんには何とも。ただ、あいつは『もとマリア』ちゃんだからねぇ」
「マリア?」
「せや。『イェルサレムのドイツ人の聖母マリア病院修道会』。聖地の守護者ってヤツや。もう本人でさえ忘れてそうやけどな」
 理解できなくて首を傾げると、フランシスが小さく笑った。
「守りたかったんじゃないのかな」
「守る?」
「ああ、先に言っておくけどな、自分と比べんなよ。お前はお前だからな、元ヤン」
「うるさい馬鹿!」
 行かないで。そう言って縋りつく腕を振り解くようにして置き去りにしてしまった記憶。あっという間に成長して、今度は繋いだ手を振り解かれてしまった。
「わかってるよ、そのくらい」
 それでも、気持ちまでは簡単に切り離せない。
 アーサーは半端に刺さっていた針を引き抜く。
「……消えたと思うか?」
 フランシスは肩を竦める。
「さあ?」
「心配じゃないのか?」
「心配っちゃ心配やけど、俺らには如何ともし難いことやねん。それにな」
 アントーニョは曇りなく笑って片目を瞑って見せた。
「冷たいようやけんど、これはあの兄弟が解決せなあかん問題や」
「そーそー」
「いいのかよ? このままじゃ寝覚めが悪いっていうか……いや、別に俺は心配しているわけじゃなくてルートヴィッヒに恨まれたら面倒だと思って、だから言ってるんだからな!」
「はいはい」
 フランシスとアントーニョが口を揃えて言う。ふと、フランシスが振り返った。
「大丈夫。お兄さんたち、結構長い付き合いだもの」
「必ず戻ってくるって、信じとるで」

   *

 景色がぼやけるほどの雨。
 会いたい気持ちに嘘はない。
 入り乱れる人波の向こうから走ってくる姿が見えた気がした。
 びしょ濡れのコートのポケットに手を突っ込んで顎を突き出す。
 どうだよ? やってやったぜ?
 言ってやりたかったが、間に合いそうにない。
 ますます激しくなる雨の音。
 感覚は頼りない。
 ああ、でも。
 忘れられてなくて、よかった。
 お前がいてくれて、よかった。
 音が消えていく。
 雨に滲んで全てが白くぼやけていく。
 風が吹きつける。
 とても軽い。
 落ちていく? いや、昇っていく。
 このままどこまでも高く、高く、そして、あの空に溶けてゆく。
 そう思っていたのに。
 不意に重さが加わった。
 首から下げたままの鉄十字が異様に重くて上手く昇れない。
 イヴァンがこんなものを今更寄越すから。
 重い。ひたすら重い。
――なくすなよ。
 青い目が不機嫌に見つめる。小さな子どもの手でそれに触れた。
 いや、違う。この細長い指はあの眼鏡の指だ。育ちの良さが染み付いているというか、こんなときでさえ優雅に微笑む。腹立たしいかぎりだ。
 その目に緑が差した。蜜色の髪が鼻先を掠める。
 エリザもいつもこうして微笑んでいれば少しは女扱いしてやったのに。
 幻ならここで止まってくれ、と本気で願う。
 残念ながら、女神の微笑はすぐに変態的な歪んだ笑みに変わった。
 フランシスの馬鹿野郎。夢くらい見させろ。そう言いたいのが伝わったのか、アントーニョの苦笑が見えた気がした。ついでに、むくれ面の眉毛も。
 重い。
 フリッツ親父まで、そんな顔で笑うな。切ないから。
 重い。
 ヘルマンまで……
――お前は俺の希望だ。
 おもい。
 思い。
――お前は俺様の希望だ。
 青い、青い瞳。あの日の空と同じ色。
――ヴェスト……
 触れる程度だった手が、今度はしっかり鉄十字を握り締める。
 その手にそっと、触れてみた。

   *

 晴天。
 青く、円く。あの日の嵐が磨いていったのか、抜けるような綺麗な空。こんな雲ひとつない青空にさえ文句を付けたくなる。そんな気分だ。
(何故なんだ)
 何度も問い返してきたのに、今でも答えがみつからない。あの日からずっと西――ヴェストと呼んできたはずだ。それは、東があって始めて成立する名前のはずだ。
(俺がヴェストなら兄さんはオストだ。馬鹿)
 そんなに簡単に受け入れられるものか。
 消えたなんて、認めない。
 世界が認めても、自分だけは最後まで認めない。
 自宅のソファーでひたすら時計の秒針が進む音を数えていた。壁に一枚だけ飾られた写真に目がいってしまう。セピア色は淡く優しく。琥珀の中の虫のように幸せな時間を閉じ込める。
――何だ、全然笑ってないじゃないか。
 出来上がった写真を見て不満そうに眉を寄せていた。そういう兄は、笑ってこそいたものの、どう見ても腹に一物ありそうな凶悪な笑みだった。
――お前は笑わないから怖いって言われるんだよ。ちょっと笑ってみろ。
 渋々と頬の筋肉を緊張させて笑顔の形を作ると、ふいと視線を逸らされた。
――あー、その、まぁ、無理を言って悪かった。今のままのお前で十分だ。
 そう言ってそっぽを向く兄の口の端が、笑いを堪えるようにふるふると痙攣していた。二度とコイツと写真なんて撮るものかと誓った。
 口を開けば人の神経を逆撫でるようなことばかり言う。
 不真面目で、非常識で、放っておくと洗濯もしない。そのくせ、四匹いる犬の面倒はよく見ていた。
 そんな兄だから、大切なのだ。
 ここは思い出が多すぎて、辛い。
 一人ではだめだ。
 二人でなければ。
 襟元の鉄十字を握り締める。
 重い、重い、絆の証。
 西(ヴェスト)(オスト)。二人で一つのシルシを分かち合う、兄弟。
(だから、戻ってきてくれ。兄さん)

   *

 重さのせいで、またここへ戻ってきてしまった。
 苦く笑う。
 胸の鉄十字が仄かな温度を持っている。
(結局、最後はお前が俺様を繋いだんだ)
 いい度胸じゃないか。この自分を捕らえるなんて。
 ずっと……
 ずっと昔に出した宛て先不明の手紙が戻ってきたような気分だ。
 それこそ、聖地を去ったあの日に出したような、古い手紙だ。
 不意に、丸まっていた背中が跳ねた。
(やっと気付いたか)
 ぎこちなく振り返ると、見たこともない顔をしていた。
「よお、ヴェスト」
 ずっと望んでいたことは、とても単純なことだった。
「ただいま」
 ゆっくり、とてもゆっくり笑顔に変わっていく。まるで始めて笑うかのようだ。
 青い瞳はあの空と同じ色をしていた。
「おかえり、兄さん」
 いつかこの空の青に、帰りたかった。

「でな、その時お前が笑ったんだよ。だからお前の運命の相手は俺様だ!」
「……」
 いきなり連絡もなしにやってくると、挨拶もろくにせずにエリザの手を取り歯の浮くようなことを臆面もなくまくし立てたかと思うと、そう言って真剣な眼差しを向ける。まぁ、それでこそのギルベルトなのだが。
 ローデリヒは深く、深く、溜息をついた。
(このお馬鹿さんが)
 何故学習しないのだろうか。エリザが高くフライパンを振り翳す。
 清々しいまでの打撲音。
 ひどく憤慨した様子で足早に去っていったエリザを十分に見送ってから、ローデリヒは床に倒れた憐れな旧友を見下ろした。
「懐かしい響きですね。ご無事で何よりです」
「……なぁ、ローデ。俺様は何か間違ったことを言ったか?」
「ご自分の胸にお聞きなさい」
 ローデリヒは呆れながらも後頭部を抑えるギルベルトに手を貸してやる。エリザの気持ちも十分わかるし、ギルベルトの気持ちもわからないでもない。
「全く。貴方はどうしてもっと素直に自分を語らないのですか? あるいは、少しは『謙虚』の意味を考えてみるとよいでしょう。照れ隠しも場合によっては相手の気持ちを踏み躙ってしまうものですよ」
「うるせぇよ。二百年前からその説教が癪に障るんだよ」
 相変わらずの様子に苦笑する。
「ところで、ギルベルト」
「何だよ?」
「お友達がいらしていますよ」
「は?」
 と、その瞬間、タイミングを見計らっていたかのように隣の部屋のドアが開いた。いや、実際待っていたのだろう。アントーニョとフランシスの二人が、それはもう、黒い笑みを浮かべて肩を組んで立っていた。
 一拍遅れて事態を把握する。
「いつからだ!? いつからそこにいた!?」
 二人は顔を見合わせると、腹の立つくらい朗らかに笑った。
「いつからやったかなぁ?」
「さあ? 『お前の運命の相手は俺様だ!』あたりだったか?」
「それとも夢の逢瀬あたりやったか? それにしても、あんな猪みたいな口説き文句、始めて聞いたわ」
「だめだよぉ、女性を口説くときにはもっと言葉と雰囲気を選ばなきゃ。千年前のナンパだってもっとマシだったって」
 顔に朱が昇るのを止められなかった。
「最初からか! お前ら悪趣味だぞ!」
「だってねぇ?」
 フランシスは悪びれもせずに同意を求めてアントーニョを振り返る。
「せや。いきなりやってきたかと思うたら突然あんな豪快な告白を始めるから出るに出られんかったっちゅうか、なぁ?」
「絶対わざとだろ! ……最悪だ」
 椅子に座って頭を抱え込んだギルベルトの肩に、追い討ちをかけるようにフランシスが腕を回す。
「うん。でもまぁ、勢いだけはあってよかったんじゃないのかな? 勢いは大事よ?」
「完全に空回っとったけどなー」
「お前らいい加減にしろ! 少しは心配しろよな! 一瞬、マジで消えかけたんだぞ?」
「お前に限ってそれはないね」
「むしろ、いいお灸になったんとちゃう? ちっとは反省しいや」
「何で俺様が反省するんだよ?」
 ローデリヒは犬のようにじゃれあう三人を遠巻きに見守っていた。壁崩壊後の空白の二日間、アントーニョはヴァルガス兄弟を通して、フランシスはアーサーを通して、ずいぶん不器用にギルベルトの安否を尋ねていた。そのことを教えてやってもよいが、募る恨みもあるので知らぬ顔をしていようと思う。
 どこまでも報われない彼に幸あらんことを。

   *

 1990年10月3日。

 ルートヴィッヒは黙って空を仰いだ。
 いい天気だ。雲が緩やかに流れて、木漏れ日が斑に落ちてくる。色付いた葉が乾いた音を立てて道に舞う。
 惜しむらくは、安定した気候とは裏腹にひどく機嫌が悪いことだった。
「……おい、ヴェスト」
 隣で引き攣った笑顔を浮かべる兄を軽く無視する。
「俺様はさっきからここにいるわけだが?」
「待ち合わせに37分も遅刻して謝罪もないようないい加減な身内を持った覚えはない」
 ぴしゃりと撥ね付ける。
「う……悪かったって」
「言い訳があるなら聞いてやる」
「ないな」
 きっぱり自信満々に言い切る兄に背を向けて歩き出す。
「わ、悪かったってば! もうしねぇから!」
 本当に、あれから少しはマシになるかと思ったら逆に悪化しているような気がする。
 溜息をついて後ろを振り返ると、赤い瞳と目が合った。
 ほんの少しだけ、青みが増して紫に近くなったように思う。髪も白銀というよりは淡い金色を帯びるようになった。壁が崩れて戻ってきた直後はぞっとするほど肌も白くて、瞳もやけに赤が強かった。
「何だよ? まだ文句があるのか?」
「文句なら山ほどあるが、聞くか?」
「……いいです」
 不服そうにパーカーのポケットに手を突っ込んで隣を歩く兄に、どこか安心している自分がいる。昔はその背中を追いかけるので精一杯だった。ある時、兄が後ろにいることに気が付いた。それからはどんな無謀をしても常に後ろには兄がいるものだと思い込んでいた。だからあの日、不意に背中に感じていた体温が消えてしまった時には死ぬほど後悔した。今でも時々不安になる。こうして隣にいないと、ふとした瞬間に消えてしまいそうで。
「なあ、ヴェスト。どこへ向っているんだ?」
「時間を守らない相手に行く先を教える義務はない」
「まだ怒っているのかよ? いい加減しつこいぞ」
 しつこいだろうか? いや、これくらいでいい。本当にこいつは兄のくせにいい加減で奔放で非常識なのだ。そして、そんな兄を自分はどこまでも許してしまうのだから。

「ああ、ここか」
 眼下に広がるベルリンの街並。この場所で最初に「ヴェスト」と呼ばれてからどれくらいの時間が過ぎたのだろう。あの頃とは街の様子も随分変わったけれども、ここから見上げる空は変わらない。
「懐かしいな」
 そう言って微かに目を細める。その瞳は遠く永い時を映していた。自分の知らない面影に戸惑う。この距離感は出合った当初に感じた、違う【国】に対する遠慮に似ていた。
 たくさん言いたいことがあったはずだ。隔たれていた時間を一刻も早く埋めたかった。
 だけど、言葉は無意味だと気付いてしまった。
 何も話さなくていい。
 誰も離さなくていい。
 同じ鉄十字を胸に、ここからまた歩き出そう。
 二人で同じシルシを分かち合う、西(ヴェスト)(オスト)
 二人でいることに、最初から疑問などなくて。
「写真、撮るか」
「え?」
 唐突に、何の前触れもなく兄が言った。こうして気紛れを起こすのはいつものことだし、一見適当に思える行動にも何かしらの理由があるのだということもわかってきた。ただ、その思考過程が複雑なくせに瞬間的だから、突拍子もなく感じるのだ。ついでに、常識が欠けているから次に何を言い出すか予想しにくい。
「何でまた急に写真なんて……」
「五十年くらい前に撮っただろう?」
 壁に飾ったままのあの写真のことだろう。一体どういう経緯で今頃になって思い出したのか、その思考をトレースしているうちに答えを言ってくれた。
「あの写真屋な、まだ営業しているんだぜ。今は三代目だそうだ。店舗は先の大戦で全焼したらしいが、庭先に埋めた機材が無事だったから、そこから再興したんだってよ」
 傷付きながら、失いながら、それでもまた立ち上がって歩いていく人々がいる。
「探したのか?」
「まあな。俺様の知能と行動力を以ってすればこんなの朝飯前だな」
「仕事をサボってか?」
「あー……それはだな……」
 溜息が出る。
「兄さん、頼むからしっかりしてくれ」
「優秀な弟が何とかしてくれるから心配ねぇよ」
「この、馬鹿兄貴」
「なんだと!?」
 怒って振り返ったその間抜け面に言ってやった。
「兄さんだって【国】なんだ。俺一人じゃない。二人で一つなんだと、何故わからない?」
 一瞬、赤い瞳が大きく見開かれ、それからいつのもように不器用に笑った。
「おお、悪かった。忘れるところだったぜ」
 秋空に柔らかい風。本当にいい日和だ。
「写真はいいけどな、兄さん」
「何だ?」
「こんな格好を残す気か?」
 何が問題だ、と言わんばかりに首を傾げられては理由を説明するだけ無駄なことだった。自分はラフなセーター、兄に至ってはパーカーだ。
「いいじゃねぇか」
「よくない」
 兄は不満そうに唇を尖らせる。
「お前は形式にこだわりすぎなんだよ。いいんだよ、これで。50年前は軍服だったろ? だから、今度は平服でいいじゃねぇか」
「ああ、そういうことか」
「わかったか? なら、もう文句はないな?」
 文句はある。リビングに勝手に物を増やすな。大事なことは相談しろ。仕事はサボるな。掃除を手伝え。ローデリヒにあまり絡むな。ソファーで寝るな。無駄な買い物をしてくるな。友好関係を考え直せ。国際会議にはちゃんと出席しろ。本田には謙虚さを、フェリシアーノには素直さえを学べ。それから少しは常識的に振舞え。まだまだあるが、結局返事は決まっているのだ。
「ja」
「よぉし。それでこそ俺様の弟だ」
 そう言って笑う。それでいい。
 高く、円く。
 どこまでも青い空。

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