前回のおさらい
こんばんは、秋吉妙香です。
今週も三国志末期を語る時間がやって参りました。
このシリーズでは孔明没後の三国志を語っていますが、
前回はちょっと時間をさかのぼって、
曹丕(そうひ)と彼の弟の曹植(そうしょく)について書きました。
魏は経済力・軍事力ともに三国の中ではトップでしたが、
皇族同士のつながりが薄いという欠点があったんですよ。
そして第二代皇帝・曹叡(そうえい)の時代から、
統一王朝になるはずの魏に少しずつ翳りが見えてきます。
・曹叡(205?-239年)
孔明没後の三国に異変が
諸葛孔明は宿敵の司馬懿(しばい)と対峙中に、
五丈原で54歳の生涯を終えました。
・諸葛孔明(181-234年)
当時の蜀は劉備の息子の劉禅(りゅうぜん)が治めていましたが、
『先主の遺志を継いで中原を回復する』という願いを、
孔明は叶えることができなかったのです。
・司馬懿(179-251年)
しかし孔明の策は、彼の死後もなお生きていたんですよ。
軍をまとめて帰ろうとした蜀軍を、司馬懿はただちに追撃するんですが、
蜀軍は孔明の遺言に基づいて反撃の構えを示したため、
仲達は孔明がまだ死んでおらず、
「何か策略があるのだろう」と勘違いして退却してしまいました。
有名な『死せる孔明生ける仲達を走らす』の故事です。
仲達というのは司馬懿の字(あざな)ですが、
当時の中国社会では、他人が気軽に本名を呼ぶことをタブーとしていました。
そこで字を用いたといわれています。
孔明の場合は【諸葛が姓、亮が名、字が孔明】で、
司馬懿の場合は【司馬が姓、懿が名、字が仲達】です。
(このブログではわかりやすく人名を説明するため、
名や字は筆者独自の書き方でお伝えしています)
司馬懿はのちに晋(しん)を誕生させるキッカケを作る人ですが、
最初はあまり野心を見せずに魏に使えていました。
魏延と楊儀の対立
さて、孔明没後の蜀ですが、軍が撤退した直後に内紛が起きて、
将軍の魏延(ぎえん)が楊儀(ようぎ)によって殺されてしまいます。
・魏延(?-234年)
・楊儀(?-235年)
魏延は孔明が寿命を延ばすお祈りをしていたのを邪魔した武将で、
やや独断専行型の性格をしていました。
楊儀は孔明の部下で事務方としての才があった人なんですが、
北伐(魏への侵攻作戦)をめぐって対立をしていたんです。
同じ陣営で反りが会わない人がいるとたいへんですよね。
結局、この2人の関係はこじれてしまい、魏延は楊儀によって暗殺されました。
楊儀は孔明の側近として活躍していたので、
彼の死後は蜀の重要なポストにつけると思っていました。
ところが孔明の後継者となったのは蒋琬(しょうえん)で、
楊儀には閑職しか与えられなかったんですよ。
・蒋琬(?-246年)
楊儀は黙っていればいいのに、仕事への不満を言ってしまったため、
せっかく貰った官位を剥奪されて、一般庶民に格下げされてしまいました。
おそらくは皇帝である劉禅の心証を害したんだと思います。
楊儀はこれを恥じて自殺してしまったのですが、
蜀はこうして有能な人材を2人も失ってしまったのです。
司馬懿、曹叡に重用される
蜀が弱体化してく一方で、魏では司馬懿が着々と力をつけていました。
彼は曹丕の代から重用されていて、
魏の様々な役職についていたんですよ。
そして文官のトップだった陳羣(ちんぐん)らと並んで、
曹丕の友人に等しい存在だったと言われています。
・陳羣(?-236年)
曹丕が亡くなる際には、皇族の曹真(そうしん)や曹休(そうきゅう)と共に、
曹叡の補佐を託されるほどの信頼を得ていました。
・曹真(?-231年)
・曹休(?-228年)
曹叡は母の甄氏(しんし)が死を賜ったことで、
長いこと宮廷から遠ざけられていました。
そのため、臣下たちとはほとんど面識がなかったんです。
父の崩御によって即位したものの、
先代からの重臣である司馬懿に頼るしかない状況でした。
三国ではなく四国だった?
そんななか。
公孫淵(こうそんえん)という武将が、魏に反旗を翻しました。
彼は勝手に「燕王(えんおう)」を名乗って、独立を宣言したんですよ。
・公孫淵(?-238年)
ちなみに「燕」というのは、
現在の中国河北省北部や北京を中心とする土地だったようです。
朝鮮半島付近にも勢力が及んでいたといいます。
公孫淵は春秋戦国時代に七雄として覇を競った、
いにしえの国の名にあやかったんですよ。
しかし、彼の側近や配下は独立に反対で、
魏に離反することの不利を説きました。
狭量な公孫淵は激怒して彼らを処断してしまいました。
このことを知った曹叡は、軍のトップの司馬懿に討伐を命じます。
慌てた公孫淵は呉の孫権に援軍を頼みますが、
以前に呉の使者を斬ってしまったことがあったため、
孫権は申し出を断りました。
・孫権(182-252年)
そこで周辺異民族との連携を図るんですが、
これもことごとく失敗してしまい、大軍で攻めた司馬懿に捕らえられて、
哀れな最期を迎えてしまったんですよ。
これによって司馬懿の名声はさらに上がりました。
曹叡が暗君に変貌
諸葛孔明も亡くなり、国内の反乱も終結したためか、
曹叡は政治に対する情熱を失ってしまい、
豪奢な宮殿を造営して国費を使ったり、
後宮に千人の女性を迎え入れて酒色に耽るようになったんです。
彼はある美貌の女性をたいそう気に入り、彼女を皇妃にしようと考えて、
かつて熱愛していた毛皇后に死を命じてしまいます。
・毛皇后(?-237年)
皮肉にもそれは、父の曹丕とまったく同じ行いでした。
その2年後に病に倒れた曹叡は、
司馬懿に国の行く末を託して静かに崩御しました。
まだ34歳という若さだったんですよ。
曹叡の実子はみな夭折していたので、
彼は後継者問題という深刻な火種も残してしまい、
最強であるはずの魏の基盤は大きく揺らいで行きました。
倭国と魏の関係
まさかの衰運に向かいつつある魏ですが、
わが国(倭)とは比較的良好な関係を築いていました。
倭といえば邪馬台国ですよね。
女王・卑弥呼を知らない人はいないと思います。
・卑弥呼(175?-248年?)
倭は漢王朝の時代から朝貢の使者を大陸に送っていましたが、
先述した公孫淵の乱によって、交流するルートが断たれていたんです。
しかし、司馬懿が公孫淵を討伐したことによって再開できました。
当時の倭の人々は、彼に対して好印象を持ったかも知れませんね。
また、遠い島国から献上品を持ってきた卑弥呼の使者を、
曹叡は丁重にもてなして下賜品を与えました。
それが三角縁神獣鏡ではないかと言われています。
さらに卑弥呼の使者が、
司馬懿に会ったという伝聞もあるんですよ。
曹叡は邪馬台国を治める卑弥呼を「親魏倭王」に任じて、
その証である金印を与えました。
このことは有名な「魏志倭人伝」に記録されており、
魏が晋に代わってからも、二国間の外交は行われていたようです。
卑弥呼の使者が魏を訪れたのは景初2(238)年12月という説と、
景初3(239)年という2つの説がありますが、
前者であれば皇帝は曹叡で間違いなく、
後者の場合は第三代皇帝の曹芳(そうほう)になります。
妙香のまとめ
国が滅びるときというのは、本当に些細なことがキッカケとなりますが、
蜀では孔明死後の内紛が良くなかったですし、
魏では曹叡が暗君になってしまったのが残念ですね。
蜀はこののち、さらに事態が悪化して行くんですが、
魏でも司馬一族の台頭がますます加速し、
彼の息子の司馬師(しばし)と司馬昭(しばしょう)も暗躍するんです。
歴史というのは、有能な人物を眠らせておかないんですよね。
必要がなくなった勢力などは無常にも淘汰され、
次代の新たな芽をしっかりと蓄えています。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回は司馬懿のライバル・曹爽(そうそう)と、
孔明の後継者たちについてお話したいと思います。