読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

スポンサーリンク

メンヘラ.JPに今後起こるであろう苛烈な嫉妬競争について

メンヘラは自我が拡張しているために感情的になる

 精神病を抱えた者の多くは、「私なんてダメ……」と口にしつつも実際問題、健常者と変わらない程度に自分大好きである。
 自我が拡張するというのは、情動に支配されるということであり、それは承認欲求に支配されることとイコール。
 病的に、やむにやまれずに、致し方なしに、苦痛の伴うわがままな想いを浮上させてしまう。
 それは自我の崩壊にストップを掛けるための防衛機制であり、本人が意図せずとも半ば自動的に浮き上がる悲劇の産物である。
 
 というのも人は自分が不甲斐ない状態にいると思うと、なにをするにも後ろめたくなってしまい、本来持っているはずの欲望を封じ込め、「私は無欲な人間だから。普通が最大の望み。本当に本当に」などと本格的に抑圧を実行するようになってしまう。それも無意識に。
 ややもするとフロイトがいうように、抑圧されたものはいつか必ず浮上する。以前よりも莫大な規模で。
 精神病者というのは病的な理由によって、たとえどんなに暖かい場所にいても冷たさを感じるように、世間に迫害されている気分に陥りやすい。
 これは病的症状であるがゆえに自然的なことであり、どうにも抗えない。
 お前には無理だ、お前には何も出来やしない、お前は高望みするな
 そうした命令調の暗く淀む言葉の流れが、激流のように脳髄を侵略し、結果として正真正銘の本音を抑圧せざるを得なくなる。
 
 健常者であれ、餓死がありえるような限界を超えた空腹に耐え抜いた先に、金銀財宝の如きご馳走が並んでいたら、品格や品性などかなぐり捨ててがむしゃらに食らいつくものだ。
 抑圧されたものが解放されたとき、人は飢えた獣に似る。
 これはメンヘラがどうのこうのではなく、人類全体に起こる反応である。
 飾らず表現するなら、己の意図に反して耐えなくてはならない状況にいると、人は必ず嫉妬深くなる。
 静止した時間の中にある妬み嫉みの含有量は、人体を朽ちさせるほどに尋常でなく多い。
 ああしたい、こうしたい、という夢があるのに、何一つ叶わない絶望感。
 そうした止まったような時の中で過ごすと、人は発狂するほどに負の感情を巨大化させる。
 メンヘラが嫉妬に狂うのは、悲劇の病状なのだ。
 しかしその事実を認識したくないからこそ、そうした嫉妬感情すら抑圧するようになる。
 であるからメンヘラは、その事実を掘り出されるような話を聞いた際などに、憎しみが沸き上がってしまう。
 メンヘラが最も傷つきやすいことは、心の奥底に封じ込めたはずの確固とした事実を、前準備もなしにやにわに引っ張り出される事態に遭遇したときだ。
 ただの暴言には耐えられても、事実には耐え難い痛みを感じるのがメンヘラである。
 ジョハリの窓ではないが、自分が相手に伝えていないはずの事実をなぜか突きつけられてしまったときに、アイスピックで刺されたような鋭い痛みを感じるのだ。
 重いメンヘラだったりすると働けないことによって自分について考える機会が増える。それによって自我が拡大してゆく。
 動物は本能の範囲内でしか争わないが、人間は自我があるからこそ、憎しみなどの感情が枠から飛び出るほど膨らみ、愚かな攻撃をいつまでも続けてしまうと言われている。
 メンヘラはとても攻撃的であったりする。その攻撃性が、自分に向く場合もある。
 メンヘラの死にたい発言は、この自我をどうにしかしたい願望なのだ。
 巨大になった自我の暴走を自分自身ですら止められなくなって、もう全てが嫌になる。
 これが死にたい発言だ。
 自我が大きくなり過ぎると、まるで自分が自分でなく思えるくらいに、自動的に様々な考えが浮上しては消え、浮上しては消えを繰り返す、混乱状態に陥りやすくなる。
 だからリストカットという行為は、痛みや鮮血を自分がきちんとそれらを認識することによって、自分が自分であることを再確認し、ひとまず納得するために行うことなのだ。
 自我の暴走を止めようとするのが死にたい発言であり、自我を己のコントロール下に置くことが出来ていると確認しようとするのが自傷行為
 精神病という迷宮に魂だけは迷い込んでいるものの、肉体が置かれたゴールの場所だけは把握しているという感覚を得るという目的があると思われる。
 健常者もまたしかり。
 
 以上のことから考えると、メンヘラをいきなり常駐ライターとして本採用したりはせず、小規模に働かせるようなリハビリ的なことから始めるようにして、「あなたは世間で認められる立派なライターですよ」といった状況にはすぐ持って行かないようにするのも一つの手だ。
 これをやってしまうと、抑圧されていた欲望が暴発して、躁転直後に起きる大量買いのようになんらかのトラブルが起きてしまうリスクが跳ね上がる。
 たぶん言葉の節々に自慢を感じさせるような喋り方をしたり、急に業界通かのようにアドバイスを始めたりしてしまい、そのライター自身が様々な場所で反感を買って、最終的に周囲からの視線が厳しくなり、きっと悩み苦しむ羽目になる。
 そして、「私は頑張ったのに! なんで認めてくれないの! こんな世界!」と敵愾心が燃え上がる。
 最初は緩やかで詩的ともいえるような憎悪であっても、徐々に己を制御出来なくなり、はらわたが爛れるような憎しみで世界が濁って見え始め、今まで以上の悲痛な叫びを心で上げながら、一人殻に閉じこもる未来が到来してしまう。
 であるから、対メンヘラと仕事をする際には、なだらかな坂をスローペースで二人三脚するようなものが理想なのだ。
 僕が働くコンサル会社に相談に来てくれるクライアントにも、そうした提案をしている。
 メンヘラが取る行動は、ある程度似通っているから、きっと今書いた失敗を地で行くような人が現れる。
 
 ライターという呼び名を改めて、もっと読者であるメンヘラたちが書き手との距離を近くに感じられるようにするのもありではないかと思う。会いに行けるメンヘラのように。リハビラーなど。
 もしくは名前はライターのままだが門戸を広くして、読者も努力すればいつしかメンヘラjpのライターになれるんだという夢を持たせ、小規模であれ叶いやすい環境を整えるか。
 でもどちらにしても嫉妬競争は免れないため、メンヘラjpの規模が急拡大していけば、高確率で誹謗中傷のスレッドが匿名掲示板に立つだろう。
 それも単なる読み手ではなく、寄稿などをしてアピールし、いつしかライターとして拾ってもらいたいと夢見ているが、叶う気配のない人々が書き込み始める。
 憎悪は近いものに向きやすい。
 分かりやすい同族嫌悪が生じる。
 なんであんな私より文章の下手な奴がライターで、私がいつまでも寄稿ばかりなの? あんな奴、遊んでるだけじゃん。疾病利得の権化。運営者とそういう関係なんじゃない?
 こんな程度でなしに、メンヘラの五臓六腑を締め上げるような罵詈雑言が、事実を伴った形で書き込まれることが予測される。
 近き者が嫉妬によって見せる攻撃は、常に死神じみている。
 弱っている時であれば軽く死ねるレベルの事柄が書き込まれるかもしれない。
 今のうちにそうしたところからの攻撃によって受けるライターたちの、心身のケアをどうするかも考えておく必要がありそうだ。
 もしかすると、ケアを必要とするくらい叩かれているメンヘラが、他方では悪口を流しまくっているかもしれない。
 見えない敵との争いが激化する。
 敵が分かれば対処は考えられるけれど、目に見えない、つまり危機的状態においては我慢する他ないという辛さがある。
 それに耐えられるだけの、レジリエンス能力なども養成するか。
 
 無事ライターにたちに生活費を支払えるくらい大きくなるのは素敵なことだが、そこまでの規模になると大変な目に会う機会が、一般企業の比でないぐらいに増加するだろう。
 メンヘラを主とした企業が少ないのは、営利追求の側面からすると割りに合わないというだけでなく、社会貢献的な意味でもとても難しい事態に遭遇する率がとてつもなく高いからなのかもしれない。
 僕が働く会社のクライアントにもメンヘラ問題で苦しんでいる経営者が多々いるけれど、そういう人たちはたった一人のメンヘラをどうするかで頭を悩ましている。
 これが複数になったらどうなるのか。
 個人的にはメンヘラjpの表よりも、裏の部分が将来的にどうなって行くかが気になる。
 そこらへんの危機的な記録を事細かにまとめておけば、それを欲しがる経営者もたくさんいるだろうし、書籍にしたらそこそこ売れる気がする。
 メンヘラを勇気付けるという使命で始めているのだろうし、そういうことであれば企業の存続は必須だから、そうした小銭稼ぎの計画も立てて行くのが大切になってくるだろう。
 病んでいると自分の気持ちをうまく消化出来ないために、どうしても陰口を叩くメンヘラが出てくる。自分なんてダメだ、人生なんてどうでも良いと考える人は、えげつない暴言も吐くだろう。
 一部ではあるにしても、メンヘラが時にそうした野蛮な行いをしてしまうのも事実だ。
 たくさんのメンヘラを雇うってのは、グリズリーとライオンとヒグマを一般家庭で飼い育てる並みに大変なことである。
 健常者であっても自分にとって最高の世界が、突然にぱぁっと目の前に広がれば天狗になってしまうものであり、情動に支配されたメンヘラ、それも長い間、自分の気持ちを抑圧して来た者は、圧力のある高慢な天狗と化してしまう可能性が高い。
 メンヘラといえど人間であるため、愚かな部分は確かに存在する。
 そうした大衆にタブー視されているようなところにもしっかり踏み込んで対応しないと、後で激痛に苛まれることになりそうだ。
 
 規模が拡大して金回りが良くなっても、自活出来るほどまで給料を出すような真似はせず、あくまでも雀の涙程度の協力費というものを出す程度にして、いわばNPO法人みたいな感覚で運営するのが長い目で見ると安心なのではないか。
 ひとたびメンヘラjpで生活出来る専属ライターなんてのを作ってしまえば、その労働者に生活が掛かっている以上、待った無しの運営が必要となる。
 その辺のバランス取りをしながら、メンヘラライターの人生まで預かるといった高度なことは、非常に難易度が高い。
 きっと運営者は良い人であるし、儲かればすぐに還元しようという発想になるだろうが、そこで雑にお金をばらまいてしまうと、嫉妬競争に火を付けることにもなる、ということを念頭に入れておく必要がありそう。
 あくまでも緩く、基本的に仕事は単発で、後出し値決め成果報酬型。
 記事の有用度から判断して、後付で原稿料を決定して支払い、あまり交渉の機会は設けない方が、対メンヘラとの仕事の場合は良いと思われる。
 今後ライターが増えれば、公平性を期するのがバランス取りの上で大変重要になってくるため、運営側で力強く価格設定と報酬提示をしてしまう方が後腐れない。
 メンヘラを取りまとめる社員を雇えるほど事業拡大するなら話は別だが、そうでもないのに一人一人とじっくり交渉して、それから支払いなんていうのはトラブルの種を撒き散らすことになり、運営者の精神疲弊の原因となって、結果的に大事なものを見失うなんてこともありえそうだ。
 これが長期的にメンヘラのためになるサイト作りに必要なことなんじゃないかな、と思った次第。
 メンヘラがメンヘラという性質そのものを生活費に変えられる仕事が、メンヘラの心に長きに渡って良いものか悪いものかは、今の時点では分からない。
 健康的なのはこのサイトをリハビリ施設のようにして巣立っていく仕組みにするのが良いのではないか、と。
 たとえば半年とか一年とか、そうすることによってライターになりたいメンヘラの夢もより多く叶えてあげられる。
 メンヘラたちと働くというのは、名も知らぬ異世界に飛ばされて冒険するのに似ている。
 未来予測が掴みにくい、未知の道を歩むということだ。
 よっぽど良心的な人でないと、勤まらない。
 その点だけでも、メンヘラ.JPは賞賛に値する。
 
✳︎断言口調で書いているが、僕は精神科医でもないので鵜呑みにしないように。全てデタラメだと捉えるくらいでちょうど良い。

f:id:buzama-www_pipipipipi:20160927171325p:plain

メンヘラについての雑記

 傷ついた経験のある人たちが問題発言をしても、それをスルーしないと冷酷な人だと思われやすい社会になっている。
 被害者が悪いことをやっている際は叩くのも大切だ。それがタブーになっているのは最悪。
 メンヘラ原理主義な人が結構いて、メンヘラだからこうなるのは当然と考えて思考停止してよりおかしくなってる人が多々いる。
 メンヘラに関わらず、人は追い込まれると仮想敵を作り出し、そいつを倒しさえすれば安住の地へ行けると考え始める。
 メンヘラは、より良い世界を築くために発信しているといいながら、それを読んだ人を不快にさせるような怒りの記事を書くことがあるけれど、これも完全に仮想敵との争いである。
 善意の人の発言を曲解して悪人に見立て、その悪人を妄想の中で巨人化して、奴を倒せ! と自分や仲間たちを煽ってしまう。
 ほとんどのメンヘラが持つ危険な考えとして、「私はメンヘラだから、メンヘラのことが健常者よりも良く分かるし、メンヘラを元気付けたり、より良い道へ進ませられる」というものがある。
 しかし、そもそもが精神病というのは心の病気であり、それはつまり情動に支配されてしまいがちということだ。
 であるから健常者よりも、病気のせいで不運なことに理性的に物事を考えにくく、頑張って思考したり文章をしたためたりしたところで、偏りが酷かったり、単なる感情的な自己主張で終わってしまう。
 自信喪失しながらも自信満々というアンビバレンツに苦しみながら、自分のメンヘラ論は正しいと考えてしまう人がたくさんいるのだ。
 努力信仰のようなもので、耐え抜いた私の論は通用するという自己欺瞞である。
 本当に大事なのは、より多くのメンヘラ(健常者や予備軍も含め)を救うことだ。
 わざわざ心に負担の掛かりやすい発信などという行為をしている、ごく一部のメンヘラを一般的なものだと考えてはならない。
 優しさで世界は回らない。情で世界が一変するなら、なんの制度も不要になる。
 そして正解は存在しない。
 たとえばメンヘラをこき下ろす記事があったとして、それは道徳的には悪だが、もしかしたらそれを読んだいくらかのメンヘラたちが、「軽妙洒脱で笑っちゃった。皮肉が効いてて面白い。内容は最低だけどなんか明るい気持ちになった! いつも似たようなメンヘラエールばっかり読んでると、逆に、わたしやっぱりうつ病だもんね……って再認識させられて嫌になっちゃうもん。薬も飲み過ぎれば毒以上」というパターンも無きにしも非ずである。
 正しいか正しくないじゃなくて、多様性が必要なんだよね。
 だからその点で、メンヘラjpはすごく良いと思う。
 きちんと制度的なことも書かれていたり、面白ネタのようなものもあったり、数字入りの説明もあったりする。
 しかもここに来る読者はきっと、ライターの誰々を好きになるよりも前に、このサイト自体のファンになる可能性が高いと思われるから、満遍なく読んで、多様な情報をキャッチするだろう。
 そのため、こうしたサイト内を循環すること自体が、思考を柔軟にして、白黒思考から逃れるための簡単なトレーニングになる。
 正論が不正解になることもあれば、冷酷な言葉が誰かを笑わせ救うこともある。
 だから、私は正しいことをやっているという強過ぎる考えを持っている人は、過激原理主義並みに危険な世界に足を踏み入れるリスクを背負ったも同じ。
 良いものも悪いものも飲み込むのが人生であって、嫌いなものを排他、不都合なものを排他では、お先真っ暗だ。
「綺麗事じゃ世界は変わらない」と伝えると、それを信じられないメンヘラは、「綺麗事じゃ変わらない世界を強引に変えてやる、私だけはやってやる!」と勢い込んだりするが、そういう言葉遊びや精神論で救われなかった自分自身を振り返って、それじゃあ足りないということをしかと受け止めるべきだろう。
 もちろんそうしたメンヘラの情動に動かされただけの言葉も、少なかれ誰かを元気づけるのは間違いない。しかしそれは、絶対的に良いものではないし、はっきし断言してしまえば、健常者が思いつきで書いたメンヘラ応援記事と大差ない効果しか生み出していないことが大半だろう。
 結局は人の言葉だけでは変わらない。
 自分で思考して答えを導き出すまでは、何も変わらない。
 だからここら辺の対策のためにもメンヘラjpは素晴らしくて、他人の垂れ流した文章をただ読んでへぇへぇ頷くだけでなく、参加することで溜飲を下げ、社会参加の意義を少なかれ感じるようになりやすいサイトになっている。
 であるから、メンヘラであることを公言してブログをやっている人たちを単発で良いから、運営者側から声を掛けてあげて、何か書かせ、編集からなにから、小さくでも面倒を見てあげると、救われる人が次々に現れる気がする。
 人に仕事を頼まれ、それに答えて、そして運営者本人に感謝の言葉をもらう。
 これってかなり強力に、心に効く薬だと思われる。
 
 メンヘラが書く応援分の危険性
 病んでいる人が病んでいた過去を振り返って対策を伝えるような冷静な記事であれば人を救いやすいかもしれないが、病んでいる人が怒りに震えて書いたような憎しみのある記事は病んでいる人を殺してしまう可能性もあるのではないか。
 病んでいる人の病んでいる文章って、それを見た人が心底不快になる確立が高い。
 それゆえに病んでいる人の心を察するよりも前に、敵意が沸いたりしてしまう。
 病んでいる人が叩かれやすい構造を作っているのは、病んでいる人の感情的な活動なのである。
 因果応報。自業自得。人を呪わば穴二つ。
 しかし病状ゆえに仕方なく、単純にメンヘラが悪いとはいえず、常にメンヘラ本人がお互い様という精神を忘れないことが、自分の人生を生きやすくする上で必須だと思われる。
 
 メンヘラ系の記事ってアクセスを稼ぎやすい
 しかも藁にも縋る思いでサイトに来る人が多いから、そこで紹介されているものを深い考えもなしに買ってしまうことが多々ある。
 僕も以前、遺書というワードでグーグル検索2位を獲得したら、とてつもなくアクセス数が高まった。実際に人生に疲れて6万文字ぐらいを費やして、全てを終了する必要があると思うに至る経緯などを書いた記事だった。DMを公開していたからメールもばんばん来たし、AdSense収入などもぐっと増加した。
 本来は、国が規制を掛けるなりして、死にたいに関連するワードの検索順位は、行政がやっているサイトだったり、濃い知識と経験を持ち合わせた精神科医などが運営するサイトを優先して表示させられるようにした方が良いと思う。
「わたしもこういう辛い思いしたんだから、あなたも大丈夫!」といった論調の記事をメンヘラが書いて、それが検索上位に乗っかったとしたら、それで救われる人って予想以上に少ないと思うんだよね。
 むしろ、同族嫌悪だったり、この人はこれによってお金を稼いでるのかという嫉妬だったり、そんなこといわれてもわたしには無理という自己否定を引き起こしてしまったりと、散々な目に遭わせてしまうことだらけだろう。
 今の風潮として、苦しんだメンヘラは大勢のメンヘラの元へ大手を振って詰め寄っても良いし、優しい顔でメンヘラ体験談を語りまくって、挙げ句の果てには無責任に応援することは、疑いようのない救世主的行動みたいになっている。
 なんていうか精神病というものをメンヘラでない者が語るのはタブー視されている感じがあるよね。
 これっておかしいと思う。
 精神病以外であれば、健常者が癌を予防するための方法だったり、糖尿病にならないために強い言葉で暴飲暴食などする人に激したり、と自由に語っているわけだ。
 けれど、精神病についてなにか一言でも話そうものなら、とてつもない非難を受けたりする。
 それだけでなく、「私たちの苦しみが分からないんですか!?」「好き勝手言わないでください!!」「皆さん見てください、健常者が不真面目な記事を書いています。善行のつもりだとしても一切役に立ちませんよ。不快です」などと現状の不幸をゴリ押ししてくるがために、健常者は得体の知れない恐怖を感じて引き下がることしか出来なくなってしまう。
 まるでメンヘラ問題はメンヘラ達の所有物だから奪わないでください、と言わんばかりである。
 で、僕が思うのはメンヘラ一人一人が泣き叫んでいる声にいちいち耳を傾けるよりも、社会全体の鬱度を低下させて、ネットに居るような一部のメンヘラでなく、満遍なくみんなが今よりも豊かになれるような施策を打っていかなきゃならないということ。
 そもそもメンヘラ問題ってのは命が関わる重大な問題であるにも関わらず、多くのメンヘラたちは、統計分析をするようなこともなく、単なる経験談という曖昧模糊としたものを武器にして、メンヘラを勇気づけようとしているけれど、それって傍迷惑な善意という面もあるのではないか。
 少し前にもネガティブワードの検索上位をお金のことしか考えていない企業が独占していたことで叩かれていた訳だが、きちんと体系的に知識をまとめ上げてきた精神科医やそれに通ずる存在でもない人間がぺちゃくちゃと、「わたしはこんな辛い思いをしました。だからあなたは大丈夫」などといった種類の自己主張をしているだけの記事が上位に掲載されるのも、同じくらいに社会害になってしまうリスクがあるような気がする。
 抜本的にメンヘラ、健常者問わず一般市民の集合的思想を変化させて行かないと、声の大きなメンヘラだけが得をして、その裏で絶望的な日常を送るメンヘラが絶え間なく産み出されてしまうんじゃないかと思う。
 メンヘラのことを思って頑張って記事を書くメンヘラブロガーがいたって良いんだけれど、その人はここ一ヶ月で、一体どんな本を読んで、一体どんな分析をして、一体どんな方法論を伝えることで、メンヘラたちの人生を豊かにしようとしているのだろうか?
 それらの質問に即座に答えられないのであれば、それは自己中心的なお遊びと思われてもしょうがないし、そうした不明確な信念の元に記事を量産したって、ただただネット上の無責任濃度を高めて、メンヘラたちを右往左往の混乱地獄に落とし込むだけに終わってしまうこともあるだろう。
 誰かを助けたいという善意は素晴らしい。それだけでも賞賛に値する。
 しかし、そうした善意の放出を小さな箱庭の中で実行するのなら、好き放題やってもらっても構わないのだが、少しずつ規模が拡大し、影響力が増えていくような環境下でやるのはどうなのだろうと思ってしまう。
「そんなことまで考えていられないよ」と反論したくなるだろうか。
 そんなことまで考えない、ということは自分の発想のレベルで十分と考えているということであり、そうした偏った一部のメンヘラが大きな声で訴えることだけで、人々の向きが変わるようなことはあってはならないよね。
 企業によるだろうけれど部下を持つようになれば、メンタルヘルスマネジメントを学んだりして、心の健康を保つための知識を仕入れ、この目で病んでいく人を観察したり、そこから復活する人を見届けながら働くわけだ。
 だから健常者の中にも、下手なメンヘラよりずっと有益な発信を出来るものがごまんといる。
 メンヘラの思い出みたいな記事に効果があるとしても、それは長期的な持続は望めない鎮痛剤のようなものでしかない。
 多種多様なメンヘラがいるのに、そうした人々がネットでネガティブ用語を検索した際に出て来るのが、どれもこれも自分たちと似たようなメンヘラが書いたブログばかりだったら、おかしくなるんじゃないか。
 やっぱり多様性だよ、必要なのは。
 
 メンヘラがネット発信ををすると、発信者も読者も思考停止して、よりおかしくなる危険性がある。
 思考停止ワードを書いてしまうからだ。
 無理はしないように、運動なんてしなくて良い、休むのが一番。
 こういう言葉があるせいで、本来は筋トレや食事によって良くなるはずのメンヘラ予備軍が、本格的なメンヘラになってしまうかもしれない。
 水も人も低きに流れるものであり、得てして病状と怠惰を一緒くたにして、なにもしなくて良い、楽しようと考えるものだ。
 無論、本格的に病んでいる人はそれ自体が病状であるからなんら責められる必要のない悲劇的な思考だが、そうした人々が何もしなくて良いという自分たちだけに通用する物事を語ることによって、治りかけの人々まで深刻な状況に落としてしまいかねない。
 
 とどのつまり何がいいたいかっていうと、全ての文章は誰かにとって役立ち、誰かに取って非常に迷惑ってことだ。
 その辺のコントロールははっきりいって利かないし、読んで声を出さないままの読者がどう思ったかは分かりようもない。
 であるから、多様性が必要なのだ。
 その点でもやはり、メンヘラ.JPって良質。一人でやっているメンヘラ支援サイトだと、どうしても偏ってしまうけど、こういう複数ライター交差型だと精神病者の心的状況に合わせた記事を選択して読めるから、適切なメッセージを与えやすい。
 純粋メンヘラであろうとファッションメンヘラであろうと、人生に悩んでいるという点では同じなのだから、そういう人が自分にあった記事を見つけて、これからの人生が豊かになるのであれば万々歳というものだ。
 コンテンツも豊富であるし、こうしたサイトがネガティブワードの検索上位を独占すると、いまだ支えを見つけられていない精神病者が少なかれ救われそうである。
 メンヘラ系キラーワード独占を早期にやって欲しいところ。
 ブログをやっているメンヘラだけでなく、ブログをやっていない声の小さなメンヘラにも焦点を当てるともっと良さそう。
 規模が大きくなればブログを読むという認識などなしに、やむにやまれてネガティブワードで検索したらメンヘラ.JPに辿り着いた人もごっそり増えて行くことが考えられるから、ブログをやっているメンヘラといった似たり寄ったりの人たち以外から得られる情報も仕入れて加工して掲載することが必要な気がした。
 あとライターは長期契約せずに流動的にした方が、記事の品質劣化を防げそう。
 なぜなら、どうしても守りに入ったり、もっと稼ぎたいとかになってしまって、誰かのために書くのではなく自分の地位の底上げのために、ほぼ全ての労力を注ぐ人が出て来ることが考えられるから。
 統計分析なども含んだ記事であれば、徹底的に育て上げたライターが意味を持って来るだろうが、心という掴み所のないものへアプローチするようなものを書くのであれば、ベテランだからとか文章技術が優れているからとか、そういう部分よりも大切にすべきことが他にあるだろうし、ライターを囲い込んで育て上げるよりも、無限に沸くほど存在する書きたがりのメンヘラを大回転させて行くのが良いのではないか、と思う。
 メンヘラはメンヘラの考えを知りたい想いよりも、自分の考えをみんなに知って欲しい想いの方が強烈である。
 そこに更に、少額でも認めてくれたという意味のお金と、運営者からの感謝の言葉があれば、一気に心が洗われる。
 だけど、専属ライターを雇って書かせて報酬を支払う流れが常態化してしまうと、次第に慣れてしまって依存してしまう可能性がある。しかも、自分の鬱屈した想いを発散して報酬を得られるという、他では滅多にない恵まれ過ぎた環境に、だ。
 たぶん辞めた後に、酷い禁断症状に苛まれるんじゃないかと思う。
 もちろんメンヘラ.JPを踏み台にして次なるステージへと足を踏み出せたメンヘラは問題ないだろうけれど、大概はそう上手くいかない。
 それに自分を全面的に出して語れる仕事なんて、新人には普通回って来ない。
 であるから、メンヘラライター志望家とは専属のようにべったりな関係より、ちょっと距離があるくらいの付き合いが長い目で見ると、運営のためにもメンヘラのためにも良いのではないかと思った。
 確証はないけど、自分の辛さを好きな表現で書き殴ってお金まで貰える仕事なんて、メンヘラ.JPくらいにしかないんじゃないか。
 ほとんどそれって売れた後の芸能人みたいなものであるし、よっぽど幸運に恵まれていないと、そういう承認欲求満たされ祭りみたいな仕事はずっと続けられない。
 まぁメンヘラ.JPがとてつもなく巨大になって行って、そうした願いを叶えてあげられるくらいの企業になるのであれば、それもありなのかもしれないが。
 メンヘラの中からスターが生まれたりするのだろうか。

 

分析心理学・自我と無意識 ─まんがで読破─

分析心理学・自我と無意識 ─まんがで読破─

 

 

 

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

 

 

 

灰色少女の声 -「メンヘラ少女」イラストブック-

灰色少女の声 -「メンヘラ少女」イラストブック-

 

 

スポンサーリンク