【米大統領選2016】本当のヒラリー・クリントンとは レンズの中の人生
- 2016年11月7日
11月8日の米大統領選で、仮にヒラリー・クリントン氏が当選すれば、初の女性米大統領となる。ファーストレディ、上院議員、そして国務長官として、米国政治の中枢で人生のかなりの部分を過ごしてきた人だ。
しかしこれほどの一挙手一投足を検分されてきた人にしては、自分は「本当」のヒラリー・クリントンを知っていると思う人は少ない。
多くのアメリカ人は、ただひたすら彼女は信用できないと言う。シカゴからホワイトハウスへ、そしていま再びホワイトハウスに戻ろうとしている人の、その足跡をたどる。(文中敬称略)
○ 1947年10月26日 シカゴ生まれ
シカゴ北部のエッジウォーター病院はもう閉鎖されている。地元の人たちにしてみれば、放置されたままで目障りな建物だ。しかし1947年10月の当時、病院は活気にあふれていた。
28歳のドロシー・ロダムは1942年に夫ヒューと結婚し、5年後のこの日に最初の子供、ヒラリーを出産した。両親に捨てられ辛い子供時代を過ごしたドロシーは、自分は同じ間違いをしないと心に決めていた。
母親についてクリントンは2007年に、「母親は結局、大学に行く機会がなかったけれども、母のおかげで、自分がこうと決めたことは何でもできるんだと確信するようになった」と話している。
ヒラリーの父ヒューは、第2次世界大戦中には海軍の保健体育指導員だった。断固たる保守派で、怒りやすく、子供たちには努力して成功するよう発破をかけ続けた。
そして娘ヒラリーには、男にできることは何でもできると教えた。
○ 1962年4月15日 マーティン・ルーサー・キングに会う
当時の米国で最も激しい毀誉褒貶(きよほうへん)にさらされていたひとりが、1962年4月にシカゴのオーケストラ・ホールで演説した。
公民権や米国の未来について語ったキング牧師は、演説の後、住民の大多数が白人で保守的なシカゴ郊外に暮らす、早熟な15歳少女と握手した。ヒラリー・クリントンはこの出会いが、自分にとてつもない影響を与えたと話している。
2014年にクリントンは、「正義のための戦いに参加しなさい、世界が自分の周りで変わっていくのに居眠りしていてはいけないと、この牧師が訴えかけてくる。それを私は身を乗り出して聞いていました」と振り返った。
そもそもこの集会に行くようクリントンを促したメソジスト教会のドン・ジョーンズ牧師も、クリントンに深い影響を与えた。一貫してメソジスト派のクリントンは、ジョーンズ牧師が2009年に死去するまで、親交を温め続け、追悼式では「行動する信仰という言葉の意味を教えてくれた」と牧師をしのんだ。
○ 1964年 ゴールドウォーター・ガール
今では民主党の大統領候補だが、高校時代のクリントンは「若い共和党員」のひとりで、1960年の大統領選予備選では、バリー・ゴールドウォーター候補の選挙活動に参加していた。
「ミスター保守」とあだなされたアリゾナ州選出の上院議員は1960年に、「保守の良心」という有名な文書を発表。これは後のレーガン大統領の政策目標の原型となり、現在の共和党の政治思想にも大きな影響を与えたとされる。
高校生でまだ選挙権のなかったヒラリーは後に自伝で、ゴールドウォーターの政治信条が掲げる「無骨な個人主義」に惹かれたと書いている。
「私は生まれついての民主党支持者だったわけではない」と書いたクリントンは、1996年に公共ラジオとのインタビューで「私は保守主義の中で育てられたので、私の政治信条は保守主義に根差している」と話した。
○ 1969年 ウェルズリー大学で反対側に
ヒラリーの政治信条は大学で変わった。
「頭は保守で心はリベラルというのは可能でしょうか?」 ヒラリーは当時、ドン・ジョーンズ牧師に尋ねたという。
女子大ウェルズリー大の卒業式で、卒業生代表として同級生や教師たちを前に答辞を述べたヒラリーは、主賓のエドワード・ブルック上院議員(共和党)が学生による政治的抗議運動を批判したことに、即興で情熱的に反論し、全国的に注目された。
イェール・ロースクールに入学すると、アーカンソー州出身の若いリベラル、ウィリアム・ジェファソン・クリントンと出会う。その頃のヒラリーはすでに、若いころの保守主義を離れ、民主党支持者となっていた。
ヒラリーが友達の母親にビルを紹介した際には、「あの子は何があっても手放しちゃだめよ。男の子と一緒にいてあなたが笑うの、初めて見たわ」と諭されたそうだ。
○ 1972年 マクガバン候補を応援
イェール大学でヒラリーとビルはたちまち、一心同体のような関係になった。コネチカット州ニューヘイブンにある大学の近くに、一緒に暮らす最初の家を借りたのと同時に、政治の世界の長い旅路を一緒に歩き出した。
この年の大統領選の民主党候補は、サウスダコタ州選出のジョージ・マクガバン上院議員だった。この時点ですでに7年も続き、大量の死傷者を出していたベトナム戦争について、議員は米軍の行動を公然と激しく批判していた。
ビルとヒラリーは学業の傍ら、マクガバンを応援すると決めた。選挙活動に参加するため2人はテキサス州の陣営本部に向かったものの、現職のニクソン大統領相手に勝てる見込みはほとんどなかった。
○ 1974年 ウォーターゲート――大統領を捜査
アーカンソーにいたヒラリーとビルのところにこの年の1月、古くからの知人が電話をかけてきた。2人のキャリアの出発点になるかもしれない、大きなチャンスだった。
民主党全国委員会の事務所に盗聴器をしかけようと侵入した男たちの逮捕を皮切りに、汚職の足跡をたどっていくと、最終的には大統領にまでたどりついた。マクガバンに圧勝したその2年後、リチャード・ニクソンは恥辱にまみれていた。
弾劾裁判に向けて疑惑を捜査する下院司法委員会は、特別検察官にジョン・ドアー弁護士を任命。公民権運動を支援し、ジョンソン政権の1964年公民権法の策定に参加したドアーは、旧知のビルとヒラリーに、ウォーターゲート事件の捜査に参加しないかと電話してきたのだ。
アーカンソー州知事選を目指していたビルは辞退したが、ヒラリーは応じた。弱冠26歳で、米国史上たった2度目の大統領弾劾裁判のため証拠を集める弁護士チームの一員となったのだ。
2003年の自伝「リビング・ヒストリー」でクリントンは、「私は26歳で、周りの人たちの顔ぶれと、自分たちに託された歴史的な責任の重さに圧倒されていた」と書いている。
○ 1975年10月11日 アーカンソーで結婚
ニクソン大統領が辞任した後、ヒラリーは自分は次にどうするべきか悩んでいた。ワシントンに残れば前途は有望だったが、ビルを愛していたし、ビルはアーカンソーにいた。
そこでヒラリーは、ビルが教鞭をとっていたアーカンソー大学で自分も法律を教えることにした(ビルは1974年の知事選に6000票差で敗れていた)。
この時点でヒラリーはすでに何度か、ビルのプロポーズを断っていたのだが、この時にあらためて聞かれてついに「イエス」と答えた。2人は1975年10月、自宅の応接間で式を挙げた。司式したメソジスト派のビック・ニクソン牧師は、ビルの知事選の選挙活動に参加してくれた人だった。
ヒラリーは前の晩に母親と選んで買ったドレスを着ていた。娘チェルシーは1980年に生まれた。
2014年の自伝「Hard Choices (難しい選択)」でクリントンは、「自分の心に従ってアーカンソーに行た。娘チェルシーの誕生で、その心は愛であふれかえった」と書いている。
○ 1978年 「アーカンソー州のファーストレディ」
夫ビルが、州司法長官から州知事となり、政治的野心を実現していく傍らで、ヒラリーはローズ法律事務所に職を得て、ただちにパートナーに昇格した。
地元出身ではなく、旧姓ロダムを使い続け、法廷弁護士としてのキャリアを持つヒラリーは、典型的な政治家の妻ではなく、それゆえに注目を集めた。
州知事の年収は上限3万5000ドルと定められていたため、稼ぎが多いのはヒラリーの方だった。
この間、クリントン夫妻は商品取引に投資して成功し、古くからの知人ジム・マクドゥーガルから不動産を購入した。
ビルは州知事として1980年に再選を阻まれたが、1982年にまた選ばれた。ヒラリーはこの間、「ヒラリー・ロダム・クリントン」と名乗るようになる。
自伝「リビング・ヒストリー」でヒラリーは、「自分の旧姓を残すことより、ビルがまた知事になる方が大事だと決心した」と書いている。
○ 1992年 「ひとつ買えばもれなく2つ」
アーカンソー州のクリントン政権で、ヒラリーは活発に活動した。任期終了を前に、ビルは大統領に出馬した。夫婦というだけでなく、政治的なパートナーでもある2人の関係は、マスコミの注目を浴びた。
ニューハンプシャー州の支援者集会でビルが「ひとつ買えばもれなく2つついてきますよ」と冗談を飛ばすと、マスコミはこの発言に飛びついた。中には、ヒラリーが「共同大統領」になろうとしている証拠だと主張する者もいた。
注目の度合いが増すにつれて、2人の関係はぎくしゃくした。ビルと州政府職員ジェニファー・フラワーズが12年にわたり不倫関係にあったという報道を受けて、夫妻は1992年1月、CBSテレビの報道番組「60ミニッツ」に出演。ビルは、12年間の不倫は否定しつつも、夫婦関係を傷つける問題行動はあったと認め、その横でヒラリーは、「私は(カントリー歌手)タミー・ワイネットが歌うみたいに、ただ自分の男を支え続ける可愛い女としてここにいるのではなくて、私はこの人を愛して尊敬しているから、そしてこの人と私たちが一緒に乗り越えてきたことを尊重するから、ここにこうして座っているんです」と主張した。
11月3日にジョージ・H・W・ブッシュ大統領(ジョージ・W・ブッシュ大統領の父)を破り、ビルは大統領に当選。そして、ヒラリーはファーストレディになった。
○ 1995年 女性と医療
回顧録でヒラリーは「ファーストレディになる訓練マニュアルなどない」と書いた。「自分自身の声を失うことなく」国に尽くすのだと、心に決めていた。
ビルはヒラリーが政権に参加することを希望し、医療改革をまかせた。米国では何百万もの人が、病気になると重い経済負担を背負わされていた。
しかしこの改革努力は、国を分断した。「社会保障政策のエベレストを上るようなもの」と呼んだ記者もいた。そしてそれをヒラリーが主導したことが批判を呼び、改革案は成立せずに失敗した。
ヒラリーはいまだに政権内で自分の目的を確かなものにできずにいたが、1995年に北京で開かれた国連の第4回世界女性会議に出席し、こう述べた。
「人権とは女性の権利で、女性の権利とは人権なんです」
この演説を機に、女性の権利推進はヒラリーの重要な政策課題となり、女性の権利は国際社会の主要テーマとして確立された。
○ 1996年 ホワイトウォーター
クリントン政権の1期目を通じて、アーカンソーのジム・マクドゥーガルとの不動産取引を問題視する指摘が相次いだ。1978年当時、州司法長官だったクリントン夫妻が、マクドゥーガル夫妻と共同でリゾート開発用の広大な敷地を購入し、「ホワイトウォーター開発社」を創設したことに端を発する。後にマクドゥーガルがヒラリーに資金提供したり、ローズ法律事務所に業務委託したことなどが、次々に問題視された。
ロバート・フィスク特別検察官による捜査では、不法行為の証拠は発覚しなかった。しかし後任のケネス・スター特別検察官は捜査を続けた。
1996年1月にヒラリーは、大陪審に証言するよう喚問を受けた。ファーストレディーが大陪審の前で証言するのは、これが初めてだった。
4時間におよぶ尋問の末、法廷の外に待ち構える報道陣の前に姿を現したヒラリーは、ドラゴン柄のコートを着ていた。あまりにこのコートが話題になったため、ホワイトハウスは、コートの柄に特に意味はないとコメントせざるを得ない始末だった。
○ 1998年 モニカ・ルインスキー
ケネス・スター特別検察官の捜査は、ヒラリーによる不法行為の証拠は見つけられなかった。しかしその過程で、確かな不倫の事実を見つけだし、ヒラリーと世界に衝撃を与えた。
1996年の大統領選でビルは得票率49%で再選された。しかし、モニカ・ルインスキーというホワイトハウスの若いインターンとの不倫関係が明るみに出たことで、大統領としての統治力も、ヒラリーとの夫婦関係も、大きく揺らぐことになった。
ビルは当初、不倫の事実を否定。ヒラリーもそれを信じ、右派の陰謀のせいだと非難した。
しかし8月の土曜日の朝、部屋を歩き回るビルが、ヒラリーを起こして、すべてを白状したのだ。
「どういうこと? 何を言ってるの? なんで私に嘘をついたの?」とヒラリーは叫んだという。
自伝「リビング・ヒストリー」でヒラリーはこう書いている。「ビルの支持率は、世間の間では高いままだった。しかし私の中では完全に底を打ってしまった」。
○ 1999年 「あえて挑戦する」
弾劾裁判に直面する夫をよそに、ヒラリーは未来を見据えていた。上院が決断する間、ヒラリーは自分は次にどうしたいのか考えていた。
ニューヨーク州選出のダニエル・モイニハン上院議員(民主党)が引退を表明したのを受けて、民主・共和両党から多くの有望な後継者の名前が挙がった。ヒラリーの名前もすぐに浮上したが、本人は揺れていた。
脚光を浴び続けてきただけに、ストレスはたまっていた。激しい選挙戦に身を投じるのは、生易しいことではなかった。
しかし、女性スポーツ選手に関するドキュメンタリー「Dare to Compete(あえて挑戦する)」のプロモーション・イベントに参加したヒラリーに、17歳の背の高い女子高生がささやいた。
「あえて挑戦するんですよ、ミセス・クリントン。あえて挑戦するんです」
このバスケットボール選手の言葉をきっかけに、自分は出馬を決めたのだと、ヒラリーは何度も語ってきた。
そしてファーストレディ経験者として初めて、公職に当選したのだ。
自伝「リビング・ヒストリー」でヒラリーはこうも書いている。「これまでで何より決断するのが大変だったのは、ビルとの結婚を続けるかどうかと、ニューヨークから上院に出馬するかどうかだった」。
○ 2001年9月11日 9/11
ヒラリーが上院議員となってまだ1年もたたない9月11日に、米同時多発テロが起きた。新人議員としてヒラリーは、全米の市民と衝撃や悲しみを分かち合った。
攻撃そのもので3000人近くが死亡し、6000人以上が負傷した。ヒラリーの尽力もあり、ニューヨークは連邦予算から210億ドルの援助資金を取り付けることができた。現場に急行した多くの警官、消防士、救命士たちが現場で死亡したり、連日の作業で吸い込んだ粉塵などの影響で深刻な疾病に侵されることになった。そうした人たちが十分な補償を得られるよう、ヒラリーは闘い続けた。
ヒラリー・クリントンは政府の仕組みや政策課題を熟知している、結果を出せると、多くの民主党関係者が彼女を高く評価するようになる。
○ 2008年 ガラスの天井にひび
2006年に楽勝で上院議員として再選されたクリントンは、あらためてホワイトハウスを視野に入れた。
2008年大統領選を目指して、早い段階で民主党の最有力候補となったクリントンは、カリスマ性にあふれる若い新人上院議員、バラク・オバマに対して激しく、時に相手を辛辣に罵倒しながら戦った。
1990年代に相次いだスキャンダルが全国レベルでの評判に影を落とし、4月の世論調査では61%がヒラリー・クリントンは信頼できない、もしくは正直ではないと答えた。
接戦ではあったが、希望と変化を呼びかけるオバマのメッセージが最終的には勝利した。
米国初の女性大統領を目指したクリントンは、負けを認めるしかなかった。
クリントンは6月7日の演説で敗北を認め、「あの一番上にある、一番固いガラスの天井を砕くことは、今回はかないませんでした。でも皆さんのおかげで、1800万ものひびを入れることができました」と支持者に感謝した。
○ 2009年 国務長官
指名獲得に敗れたヒラリーは、ただちにオバマ陣営の応援に精力的に参加した。オバマがついに共和党候補のジョン・マケインに勝つと、ヒラリーの電話が鳴った。オバマからだった……。
国務長官になってほしいというオバマに、ヒラリーはこの人がいい、あの人もいいと有望な候補の名前を次々と挙げて行ったが、最後には受け入れた。
「もし立場が逆だったら自分も、なんとしても彼を政権に入れたいと思ったはずなので」
国務長官は政府内でも特に重要なポストの一つで、女性の就任はたった3人目だった。
クリントンは国務長官として、実に112カ国を訪れ、150万キロ以上を移動してのけた。ファーストレディとしての経験を生かして、各国首脳と内外で力強い関係を築くことができた。
民主党重鎮のハリー・リード上院院内総務は政治ニュースサイト「ポリティコ」に、「オバマ政権2期目に実現した外交上の勝利は、そのほとんどすべてにクリントン国務長官の指紋がついている」と話した。
○ 2012年 「米国人4人が死亡」
民主党の同僚たちは国務長官としてのクリントンをさかんに称えるが、国務長官時代には対立もあった。
2012年9月11日、リビア・ベンガジの米国領事館が襲撃され、米国のリビア大使クリス・スティーブンズを含む米国人4人が殺害された。
共和党と保守系メディアは激怒し、オバマ政権の責任、中でも特にヒラリー・クリントン率いる国務省の責任を糾弾。国務省が領事館の安全に関する警告に、適切に対応しなかったと非難した。
非難が高まるなか、2013年2月にクリントンは辞任。しかし真相究明の調査は続き、2013年5月の下院監視・政府改革委員会の公聴会で、クリントンは「抗議行動のせいなのか、それともアメリカ人を殺してやろうと考えた男たちのせいなのか。その違いは現時点で大事なことですか?」と反論した。
さらに2015年にも下院特別委員会の公聴会で証言し、ベンガジ襲撃について自分は「責任を果たした」と答弁した。
○ 2015年 メール問題
ベンガジについてヒラリーの行動を調査しても、問題を示す証拠は出てこなかった。しかし調査継続のために、あらためて委員会が招集された。
その調査の中で、クリントンが国務長官時代に公務メールを私用サーバーで扱っていたことが発覚した。私用サーバーの使用は規則違反だと批判され、クリントンは何万通ものメールを証拠として提供することになった。
右派の論客たちは、クリントンの訴追を求めた。
連邦捜査局(FBI)は7月と11月の2度にわたり、メールの内容は訴追に相当しないと判断を示した。
コーミーFBI長官は7月5日、クリントン氏とスタッフは「極めて不注意」だったものの、起訴に相当する内容はなく、「まともな検察官」ならば立件しないと述べ、FBIとして司法省に訴追は適当ではないと勧告すると発表。10月末に新たに関連するかもしれないメールについて捜査すると発表したが、11月6日にあらためて、「クリントン長官について7月に発表した結論に変わりはない」と表明した。
しかし政敵たちは依然として、クリントンの逮捕を求めている。
○ 2016年 バーニーを破る
2015年4月にクリントンは、再びホワイトハウスを目指すと出馬を発表した。最も有名な候補として、今回も早い段階から有力視された。
しかし多くの民主党支持者、とりわけ若い有権者は、バーモント州選出のバーニー・サンダース上院議員を支持した。予想外なことに、サンダース議員は最後までクリントンを追い詰めたが、最終的には指名獲得に必要なだけの代議員を獲得できなかった。
7月にフィラデルフィアで開かれた民主党全国党大会でクリントンは、女性として初の主要政党の大統領候補になった。
これに先立ち夫のビルは、「僕にとって最高のチェンジ・メーカー(変化をもたらす人)だ」と演説。「物事が大変になっても、彼女は絶対に諦めない。ヒラリーは絶対にあなたたちを見捨てたりしない」と約束した。
○ 2016年11月8日 大統領選
ヒラリー・クリントンほどの経験値をもつ大統領候補は、ほかにほとんどいない。しかしそれでも有権者の多くは、ヒラリーが何のために戦ってきたのか、分からずにいる。
ドナルド・トランプでないことは確かだ。そして多くの有権者にとっては、それだけで十分、彼女に入れる理由になる。
その一方で、何があっても絶対にヒラリーには入れないという人もいる。
政策論争がほとんど脚光を浴びず、両候補のキャラクターや発言ばかりが注目されてきた選挙戦の末、米国民はどちらを選ぶのか。間もなく答えが出る。