インタビュー第3回は、『福沢諭吉の『学問のすゝめ』』の話に舞い戻ります。福沢の著作について語るとき、一般的にはほとんど問われない「文体」の話から。一見、マイナーな話題から、硬直した何かを打ち破る重要なヒントが浮かび上がります。(聞き手・構成:浅羽通明 写真:plus編集部)
8、橋本治は、福澤諭吉を知って言文一致で文語を覆す闘いをまた一歩進める
——— そういうファンタジー物語としての歴史を下地として豊かに持ちながら、学校図書館にあるちゃんとしちゃった本とかマニアックな歴史とかには染まらずに来た橋本治という稀有な知性が、いま福澤の『学問のすすめ』を読んだ……。
橋本 やっぱり福澤諭吉のあり方をもうここらで出していかないと、話がまとまらないしなっていうのがあります。
一番大きいのは、福澤というわかりやすく書こうとする人がいたっていうことです。私は『言文一致体の誕生』とか書いてましたから、言文一致成立の前には、わかりやすく書こうとする人がいたということが大事。少なくともそのあとになると、人にわかりやすく書こうとするという態度が、なくなりますからね。自分が思ってることを書く所信表明だけで。
———ほんと所信表明ですね。あるいは仲間へのみ向けて僕たち仲間だよねと確認するための挨拶だけになる。
言文一致についての橋本先生のその問題意識は、『蓮と刀』(1982)から一貫してらっしゃる。あの本の第一章のIII 、「本書の文体について」で、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)と二葉亭四迷(ふたばていしめい)の先輩後輩力関係のなかで、二葉亭の裡にあった江戸のしゃべり言葉を(幼児語のごとく)抑圧してしまうかたちで、言文一致体が成立した。それは二人の二十代の青年が、従来の大人の約束事である漢文や文語体ではすくいとれない「内的欲求」をのせるためのものだった。
しかしそれから百年、いつしか今度はその言文一致体もまた“文語”と成り果ててしまった。おじさん仲間のお約束、それに従わない者、彼らからすれば上品じゃない幼児語を混ぜて用いて新しい「内的欲求」を現そうとする者を抑圧する若き日の橋本治みたいな才能を抑圧する体制となってしまった。
先生が評論系の文章を読めなかったのは、「文語体」の最たるものだったからではないか。
誰もが「人にわかりやすく書こう」ではなくて、おじさんたちの仲間内を支える符牒、それを使わなければ仲間に入れてもらえない書き方=言文一致体で書くようになってしまった。
そして言文一致体がかく「成り果てた」1970年代末、とうとう橋本治が現れて、坪内逍遥や二葉亭四迷が「円朝の落語」の文体を叩き台としたように、「女子コォコォセェの文体」「少女マンガの表現」を踏まえて「桃尻娘(ももじりむすめ)」を書かれたわけですね。その理論的説明が「本書の文体について」だったと理解しております……。あの項が敬語文体という別流を試みて、言文一致主流からはぶられちゃった山田美妙の晩年の不遇で締められていたのを読んだときは、背筋が寒くなりました。「仲間内から閉め出されっとこわいんだ」。あたかもVHSに駆逐されたβですよね。
橋本 言文一致についてはね、長い話になるんです。
『枕草子』の現代語訳やったとき、私はあそこまで日本語を崩すつもりはなかったんですよ。適当にやろうと思ってたんだけど、適当じゃ意味が取れないというか文章にならないんですよね。だから、助詞、助動詞の類まできちんと訳して、とりあえず最初の目論見としては、訳文だけで読めるものを作りたかったんですよ。で、向こうも文章としてちゃんとしてるんだから、それなりにやっていくと、普通の日本語じゃ手に負えなかったんですよ。だから、どんどんどんどんしゃべり言葉に近づいてきちゃったんですよね。で、そうなったら、「これって昔の口語体じゃない?」というふうに思ってしまって、「じゃ、それがここにあって、その後どうなるんだろう」ってふうになると、あまりにも膨大な話だから、わかんなくて。
で、『平家物語』書いてるときに、慈円(じえん)の『愚管抄(ぐかんしょう)』を読んでて、なぜ私がこれを仮名で書いたかって慈円自らが言ってて、そこでもはやほとんど二葉亭四迷の「余が言文一致体の由来」みたいなものだから、じゃ、言文一致体じゃない文章ってなんだっていうと、それは漢文のことだよなって。
明治になって、それまでの日本語が文語体といわれるようになってしまっただけの話であって、それだってもともと言文一致体であったはずなんだけれども、文章語として定着していくにしたがって文章語的なあり方になってしまっただけだと。
で、江戸の戯作みたいなものになって、しゃべり言葉というものが入り込んできて、文章語というのは丁寧語が基本なんですけど、しゃべり言葉は丁寧語があるかないかまた別なんですよね。そういう混在したものが日本語で、言文一致体の文章を作るっていう段階で、正しい日本語とか美しい日本語の文章っていうときになると、そのことによって文章語じゃないしゃべり言葉の部分を排除しようとしちゃう。それはつまんない話じゃないかというだけなんですけどね。ただ、これだけのことでも、あんまり呑み込んでもらえないんですよね(笑)。
——— しかし、福澤諭吉はそれをちゃんと問題意識として持っていたのだと……。
橋本 ……と思います。
——— 今度のご著書(『福沢諭吉の『学問のすゝめ』』)の「はじめに」を読みますと、『学問のすすめ』と取り組まれたのは、二十年を隔てて二度依頼があったからという受け身の理由からのようですが、どうしようもなく必然的な邂逅だったようですね。橋本治と福澤諭吉は。
いま、ご自分と言文一致問題との関わりを、『枕草子』現代語訳のはじめまで遡られましたが、『桃尻語訳枕草子』「訳者のあとがき」によれば、1980年頃、それを考えてらして、「漢文が常識だった時代に、かな文字で書かれた文章」である「平安女流文学の置かれている意図は、現代の少女マンガと同じものだと思いました」となって、「だから、これは現代の女の子言葉で訳せる」と思ったんですよね。橋本治の歴史的マンガ論『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』刊行時期と重なります。その現代の女の子言葉を駆使した「桃尻娘」での作家デビューは。1977年です。そして、『蓮と刀』で坪内逍遥と二葉亭四迷を論じられたのは、その後の1982年。
すでに文語と成り果てているおじさんたちの仲間内の言葉へ、口語をわかりやすく書こうとして桃尻語をはじめ幾多の口語をぶつけてきた現代の言文一致運動は、先生の橋本治ワークをその始原以来、貫いてますでしょう? 『桃尻語訳枕草子』刊行当時、こうした壮大な視野がまるきり見えていない佐藤亜紀という作家が、「この程度のセンス」などと先生をくさして己の底の浅さをさらしていましたが。
そんな橋本先生のあり方はそのまま、慈円にも福澤諭吉にも重なってゆきます。
福澤でも、『福翁自伝』は、言文一致体ですよね。
橋本 そうです。でもあれはずっとあとでしょう?
——— 死ぬ間際ですね。
橋本 明治の三十年代終わりから書き手の人たちの大体にとって、言文一致体が当たり前になってくるんですね。
——— 『福翁自伝』はもう少し早いです。明治三十一年。だからなのか、言文一致体そのものではない。言文一致とおしゃべり言葉と丁寧語が交錯した面白い文体ですね。
橋本 でもそれこそが実は日本語の普通のかたちだと思うんですよね。話し言葉だけだと、読んで分かりにくい。
しかし福澤諭吉といっても、みんな内容ばっかりを問題にしてるだけで。文体がどうこうっていう千年の時間がかかった長い変遷なんかやんないじゃないですか。
——— たしかに。今回の本ではそこが読みどころの一つですね。
『学問のすすめ』がひらがなで書かれたという誰もが見過ごす一点にどれだけおおきな意義があるのかを橋本先生はしっかり押さえた。
カタカナよりはまず日常ですぐ役立つひらがなを教えろと、福澤は「小学教育の事 二」(『福澤諭吉教育論集』岩波文庫所収)で説いていたのを思い出しました。ただ初版でひらがなを用いた『学問のすすめ』も再版では『学問ノススメ』となりますけど。
『福翁自伝』の自在に混淆した文章も魅力的ですが、『世界国尽』では、地理学つまり世界の風土道案内のはずなのに、アメリカの項目で独立戦争の話へ脱線しちゃう。すると突如、文体が七五調となりますよね。「数万の敵は海を越え、新手引替へせめ来る、猛虎飛龍(もうこひりょう)の勢(いきおい)に、おそれ弛(たゆ)まぬ鉄石の、こころに誓ふ国のため、失ふ命得る自由、正理屈して生きんより国に報いる死を取らん」とか、二葉亭四迷のお手本が円朝の落語ならこちらは講談、歌入り観音経などの口承文芸を自家籠中としてます。
橋本 私の中では、江戸と明治の変わり目というものをとってもダイナミックに書いてある本だから、やっとそのミッシングリンクが一つ見つかったなという感じもするんですよね。私は自分が好きなところしかやらない人だから、近代もずーっとほったらかしにしてて、江戸時代は大体わかるけど、だった。それが、言文一致とかやって近代も明治二十年ぐらいからだったらわかるになって(笑)。手つかずで残っていた一桁台をやったら、そこに福沢諭吉がいたんだなって。
内容的には、政治とちゃんと向き合えなければいけないよねという本なんですけどね、『学問のすすめ』つーのは。
9、橋本治は、遊びゲーム化した現代へ、遊びをルールを創作した頃を突きつける
——— その政治とちゃんと向き合えというのも、自由民権運動のように議会を開けとか憲法を作れとかそのために暴動を起こせとかいうレベルではなくて、政治とはそもそも何なのか、何のために私たちは政治をするのか、政府を持つのかという最初の最初から確認してゆこうというものだった。
福澤が『学問のすすめ』で英国流の社会契約論を説くのも、現行政府をありもしない契約により正当化する体制擁護的意図からでもなく、だから議会を開けと自由民権的主張を導くためでもなくて、政府という概念すら固まっていない明治ヒトケタの状況のなかで、そういう「譬え話」を持ち出して、自由民権なんかよりはるかに「本質的で、大胆にもアナーキー」な最初の最初まで読者を連れてくるためだった……。
最終回の(三)で、『学問のすすめ』のこの肝要を取り出して下さってるあたりもまた、今度のご本の読みどころですよね。
思えば橋本先生は、『蓮と刀』の序章というべき「ソドムのスーパーマーケット」(1979『秘本世界生玉子』所収)で既に、「一体人は何のために社会を作るのでしょう?」というところまで遡行したうえで、国家を、君主制を議会制を語り、そこから性と教育を論じられました。
ここでもやはり橋本治と福澤諭吉はかぶってみえます。
いま政治と向かい合うにしても、最初の最初まで遡って考えない人が多いように思えます。
「立憲主義」とかいった「文語体」を疑わずその先へ突っ込まない。
さきほどおっしゃられた、物語のファンタジーの下地なしで、完訳本という「文語」をお勉強してしまって、自分で考えないのと通じるような……。
橋本 ファンタジー物語のなかへ入りこむっていうのは結局、遊びの中から人生のキーになるようなものを捕まえるっていうことなんだけれど、現在はすでに物語がゲーム化されてしまってますからね。こうやって呪文をゲットしてどうこうって今のファンタジーではなるけど、現実には呪文なんかそこらへんに転がっているものではないしさ。遊びがそういうルールがあらかじめ決まっているスポーツゲームになってしまって、みんなそのルールのなかで生きるという風になっちゃったから、ルールの外側のことがよくわかんない。だから却って平気という一種の鎖国状態になっている。
——— 先生は『チャンバラ時代劇講座』で、昭和三十年頃の原っぱでのちゃんばらごっこが、そのときそのときの仲間うちで、つかっていい武器とか、女の子はお姫様役か剣術使えるお姫様もありかとか、ルールを創造しながら遊んでいた姿を活写していましたね。
『勉強ができなくても恥ずかしくない』でもビー玉のルールとか説明されてらっしゃった。
ああいう失われた昔の遊びをていねいに説明されるとかもうなさらないのですか。
橋本 しないね。ビー玉は、知らない人のためにどこで売っていたのかというところから書きましたけど、そういうの思い出すのすごくしんどいんですよ。「水雷艦長」という遊びがあって、すごく好きだったんだけど、どんなルールだったか考えると全然わかんない。三割くらいしか掘り出せません。
水兵と艦長と水雷に分かれて遊ぶんだけど、水雷は動けない。水兵が両手に抱えて敵へぶつける(笑)。
——— 特攻隊みたいですね。人間魚雷回天とか(笑)。鉄の棺桶ロケット「桜花」……。
橋本 そうそう(笑)。断片は出てくるんだけど、根本的なルールはどういうのだったんだろうとなるともうわかんないですね。
それはやはり、ルールを創作しながら遊んでいるから、そのときそのときで。だから思い出せないんですよ。
いまは子供がそういう遊びをしなくなったでしょう?
サッカーとか野球とかルールが決まってる中で遊ぶから。
——— 既製品だけとなった。
橋本 そうそう。ルールを順守することだけはうまくなったかもしれないけど、「そうじゃないよ」つって、自分たちで遊びながらルールを創ってゆくことはしなくなったんだろうな。これはすごく大きい問題のような気がする。
——— インドアの物語もアウトドアの遊びもみんな、既成品すなわち「文語」となってしまったのですね。
橋本 私はさっきもいった数学で、わかんなくなっても、元に戻ってはじめからずーっとやっていけば答えはわかるだろうってことがわかった。だから公式忘れちゃうと、その公式を導くための一つ前の公式へ遡ってずーっとやって、予備校の模試の答案用紙が埋まって「裏へ」って続けて裏一面書いたら時間切れ。返却されたら「これは〇〇という公式を使えばもっと簡単にできます」って。それ覚えてたらやってるよ(笑)。
——— 文語や言文一致を知らないから、それ以前のしゃべり言葉そのまま筆記したみたいな(笑)。勝小吉の自伝みたいですね(笑)。
(第4回に続く。11月11日公開予定です)
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