1月1日 謹賀新年!
新年、おめでとうございます。
この日記をつけて、5ヶ月近くになる。「NY日記」は、1年1ヶ月近く続いたが、「東京日記」は、いつまで続くのだろうか。それは、ともかく、2011年は、どのような年になるだろうか。
昨年は、夏に帰国後、身辺整理や、アメリカ生活から日本の生活への気持ちの切り替えに、半年近くかかった。
やはり、1年を超えるアメリカ生活と言う「未知との遭遇」のインパクトは強く、アメリカでの日々は、今でも脳裏に焼き付いている。私自身、人生観を変える経験であった。
アメリカで得た一番のことは、「時間を大切にすること」である。それから、「他人の目を気にしない」である。
人生は、長いようで短いのである。他人の目を気にしていたり、時間を無駄にしていては、人生は、あっと言う間に終わってしまうだろう。
1年以上、大学から離れていたため、今年は、大学関係の仕事も増えそうである。いずれにしても、悔いのない2011年にしたいものである。
写真は、御殿場付近で撮影。
1月2日 羽田空港で、初日の出を見た!
昨日は、生まれて初めて、初日の出を見た。前日の31日(金)の夕方、スキーから帰ったので、元旦は、ゆっくりと過ごすはずであった。
ところが、朝の4時過ぎに、妻が、「これから、羽田空港で初日の出を見よう」と言う。しかたがないので、私は、首都高速道路を、羽田空港まで走ることにした。
5時に家を出て、羽田空港へは、6時少し前に到着した。途中、東京タワーや、レインボーブリッジがきれいだった。
羽田空港の第二ターミナル5階の観望デッキは、すでに、初日の出を見る人であふれていた。
しばらくすると、東の空が明るくなり、朝焼けがきれいだった。朝の飛行場は、何とも言えず、ロマンチックである。
元旦の朝だけの富士山周遊フライトと思われる飛行機も出発した。
この日は、晴れている上に、寒くなく、絶好の初日の出日和であった。今年は、きっと、良いことが待っているだろう。
写真は、羽田空港で撮影。
1月3日 読書三昧 その111
今日は、的場昭弘著「超訳『資本論』」(祥伝社)を読んだ。
筆者は、神奈川大学経済学部教授である。
本書は、マルクスの「資本論」を説明する形で、いかにして、資本家が労働者から、富の搾取を合法的に行っているかを述べている。
まず、商品の価値は、以下の式で表わされる。「商品価値=不変資本(C)+可変資本(V)+剰余価値(M)」。
不変資本は、価値を変化させない(Constant)のでC、可変資本は、価値を付加し、増殖させる(Variable)のでVで表わされる。
マルクスは、労働者の賃金に相当する可変資本部分は、労働者の再生産に必要な費用(必要労働)であるとする。それにかかる時間は、「必要労働時間」である。
また、新しい価値を付加する部分(剰余労働)に支出される時間を「剰余労働時間」とする。さらに、搾取率(=剰余価値率)を、M/V(=剰余労働/必要労働)とする。
ここで、資本家が、剰余労働時間を増やすことによって、搾取するのが、「絶対的剰余価値」である。
一方、機械化を進め、生産性を上げることによって、労働者の再生産に必要な時間を減らし、M/Vの値を上げるのが、「相対的剰余価値」である。
要するに、資本家が機械化を進め、労働時間を短縮するのは、労働者のためではなく、必要労働を減らすことによって、剰余価値率を高めるためである。
私自身は、マルクス主義者ではないので、問題は、そんなに単純ではないと思う。そもそも、日本では、資本家と労働者という分け方に、違和感を覚える。
しかし、老人と若者を比較した場合、マルクスの言った意味とは別の意味で、若者は搾取されているように感じる。
写真は、自宅で撮影。
1月4日 読書三昧 その111
今日は、若林久美著「包括利益の実証研究」(中央経済社)を読んだ。
筆者は、元東京国際大学助教授、現在甲南学園大学教授である。
本書は、現在、日本でも導入が検討されている「国際会計基準」であるIFRSが採用している「包括利益」という指標が、現在、使われている「純利益」と比較して、優れた指標であるかどうかを、日本のデータに基づいて実証研究したものである。
IFRSでは、投資家に対する情報提供を目的としてその体系が作られている。その場合、「経営者の利益調整行動」によって影響を受ける「純利益」よりも、「透明性に優れた」指標である「包括利益」の方が、指標として優れていると考えられている。
本書では、「包括利益」を、「純資産に有価証券の時価評価差額金、為替換算調整勘定または再評価剰余金を足したもの」と定義し、「純資産」と「包括利益」のいずれかが、株式のボラティリティや、株式のリターンを説明するかを検討した。
その結果、驚くべきことに、2002年〜2006年までの間に終了した会計年度について連結財務諸表のデータが入手可能であった1,743社の分析では、「包括利益」に対する「純利益」の優位が確認された。
さらに興味深い点は、「包括利益については、同様の利益調整行動を発見することはできなかった。」というものであった。
その理由は、筆者によれば、「経営者の利益調整行動が、新たな情報を投資家にもたらす」というものである。しかし、IFRSでは、むしろ、「利益調整行動に影響されないこと」が、包括利益の優位性の源泉であると考えている。
この問題は、ファイナンスの観点からも、興味深いテーマである。
写真は、山中湖で撮影。
1月5日 私の読書法
最近、「東京日記」を毎日読んでいると言う大学院生から、「先生は、どうして、毎日1冊の本が読めるのですか?」と聞かれた。実は、私は、毎日1冊ではなくて、1日に2、3冊ぐらいの本を読んでいる。今日は、その方法を紹介しよう。
実は、私が1冊の本の読書にかかる時間は、約15分である。
これは、自慢で言っているのではなくて、本当である。よく、妻からは、「それだったら、本屋で立ち読みすればいいじゃない」と言われるが、それは駄目である。当然、本屋でも立ち読みはしているし、本屋で2、3冊の本は読んだ上で、どうしても手元に置いておきたい本や、本屋で読む気になれない本を買っているのである。
さて、私の読書法を紹介しよう。第一に、私の読書法は、いわゆる「速読法」ではない。よくある、「眼球を運動させて、1ページを10秒で読む」ような方法ではない。
第二に、私の読書法は、「フォト・リーディング」でもない。きちんと字を読んでいる。決して、「文字を絵のように」読んでいる訳ではない。
第三に、私の読書法は、「積読」でも、「乱読」でもない。買った本は、たいていその日のうちに読むし、テーマを決めずに、ランダムに読んでいる訳でもない。
それでは、どうすれば、本を早く読めるのだろうか。
第一に、テーマを決めて読んでいる。自分に興味のない本は、一切読まない。不思議なことに、私の興味のある分野は、政治、経済、歴史、科学、文学と決まっている。しかし、それは、意識しないうちに、結果的にそうなっただけの話である。
第二に、「筆者が何を言いたいか」に常に注意している。1冊の本で筆者が言いたいことは、通常は、1つである。それは、タイトルや、サブタイトル、本の帯や、裏表紙、筆者の経歴を読めば、だいたい分かる。筆者がいいたいことが分かれば、極端な話、それ以上、文字を追う必要はない。
第三に、本には、鉛筆やラインマーカー、サインペンでぎっしりと書き込みをしている。とくに、キーワードや、何度も繰り返されるテーマは、わざと派手に線を引いている。
第四に、専門書の場合は、図表や注に注意している。編集者は、コストの関係から、図表を載せると嫌がる場合が多い。それにもかかわらず、掲載された図表には、「筆者の思い」が含まれている。
第五に、筆者の気持ちになって読んでいる。私自身、何冊も本を書いているので、「この辺はページを増やすために書いているな」とか、「この辺は、さすがに手を抜いているな」などという「筆者の」気持ちが読めることがある。
第六に、とにかく、読書の習慣をつけることである。毎日読んでいると、それが習慣になって、読まないと気がすまなくなる。しかし、一方で、毎日読むと、それが苦痛になることがある。その場合は、思い切って読まなければよい。数日すれば、禁断症状が出て、無性に本を読みたくなるはずである。
第七に、読む時間帯に気をつける。私の場合は、毎週2回の出講日の通勤時間は、最高の読書時間である。30分あれば、最低2冊の本は読める。それを毎週続ければ、相当数の本が読める。
以上は、私の読書法の一端である。このテーマは、また別の機会に書くことにしよう。
写真は、山のホテルで撮影。
1月6日 読書三昧 その112
今日は、松谷明彦・藤原巌著「人口減少社会の設計」(中公新書)を読んだ。サブタイトルは、「幸福な未来への経済学」である。
筆者は、二人とも、政策大学院大学教授である。本書の著者の一人である松谷教授の著書(人口減少時代の大都市経済」(東洋経済))は、12月5日の日記でも紹介した。
本書は、2002年に初版が出ているが、今読んでも、古さを感じさせない本である。
筆者が言いたいことは、簡潔である。「日本は、2007年から、人口が減少する時代に突入する。人口が減少する時代は、これまでの人口が増加する時代とは全く異なる時代である。その場合、これまでの価値観を変えて、人口減少時代への対応を考えるべきである。」ということである。
「戦後の日本は高度経済成長を経て経済大国にまで発展したが、その最大の要因は、高い勤労意欲の確保と賃金の抑制といういわば相反する困難な命題を、終身雇用・年功賃金を基盤とする日本的経営が二つながら達成し得たところにあった。前節で、これまでの経済が人々を幸福にしなかった原因の一つとして賃金水準の低さを挙げたが、日本的経営と賃金の抑制とは、当初から密接不可分に結びついていた。欧米各国に比較して日本の賃金水準が低い原因については設備投資の大きさと技術水準の相対的な劣位に求められるが、その低賃金を実現するシステムとして機能したのが日本的経営だったのである、」(30ページ)
私なりに、筆者の主張を解釈すると、以下のようになる。
第一に、日本経済は、長い日々の労働時間、低い賃金、高い就業意欲を、終身雇用と年功賃金というアイデアで達成した。普通は、長い間、低賃金で働かされれば、文句の一つも言いたくなるが、長期雇用が保障される中で、人々は、文句も言わず、頑張ったのである。
第二、その結果、日本企業には、利益よりも売り上げを重視する体質が染み込んだが、それは、資本市場ではなく、銀行中心のシステムだからこそ、出来たのであった。
第三に、それは、人口が増え続けるという前提で成り立つシステムであった。そもそも、人口が増え続けなければ、言いかえれば、労働者であり、同時に消費者でもある労働人口が増え続けなければ、年功賃金など維持できないし、終身雇用の保障もできない。
しかし、筆者が言うように、これからは、人口減少社会に突入する。すでに、派遣労働者が増加し、会社のリストラも進展している。要するに、年功賃金と終身雇用は、崩壊したのである。
それでは、我々は、そうすれば、「人口減少社会」を乗り切れるのだろうか。筆者は、ヨーロッパの例を参考にするべきだと言う。
「人の社会の成長は決して生産物や公共投資額で決まるものではない。その街で悠々と過ごせる人的、時間的空間をつくることが重要だ。公共施設は街の中央に集めようではないか。(中略)日本で真っ先に整備されなければいけないのは、このような一般の人が自由に使えるような公共の施設である。」(202ページ)
このように、人口減少化社会では、我々の価値観を変えることが、必要なのである。
写真は、山のホテルで撮影。
1月7日 読書三昧 その113
今日は、西部邁著「核武装論」(講談社現代新書)を読んだ。
筆者は、東京大学教授を経て、現在は、評論活動をしている著名人である。
筆者の「小沢一郎は背広を着たゴロツキである」(飛鳥新社)は、11月29日の日記でも紹介した。
本書のタイトルは過激であるが、内容は、真面目な本である。要するに、「日本人は、『駄目な物は駄目』、『嫌いなものは、危険なものだから、見ないようにする』、などという幼稚な考えを捨てて、もっと、自分たちのことを真剣に考えるべきである」というものである。
私なりに筆者の考えを要約すれば、「アメリカの核の傘に守られながら、戦争反対、核兵器反対を唱えることは、ナンセンスである。一方で、真剣に国際社会の現実を認識し、防衛問題を議論しないのは、国家としては、失格である。」ということだろう。
「このことの必然の結果として、『核議論はするな』という“原則”を含めていえば、『非核四原則』が、この国においておおよそ確立されてしまいました。こうした安逸の境地には『幸せ』の形容がふさわしいのかもしれません。しかし、人類の経験則によれば、幸福の絶頂は不幸への没落の転換点になっているに違いありません。それも当然で、そんな幸せは、『核』について思考し行動すると言う現代人に課せられた『仕』事にまったく『合』っていないという意味で、『仕合わせ』からずいぶんと隔たっているのです。」(29ページ)
「当事者意識のない者は他者への関心も失います。(中略)戦後日本人の防衛意識もこの種の心理の落とし穴にはまっています。対米依存心があまりに強すぎたせいで、アメリカを『世界』と思いなし、で、国際社会におけるアメリカの位置も、中国その他の諸大国の位置も、戦後日本は測り損ねたのです。そしてついには(米中のものをはじめとする)世界でのすべての『核』についてノンシャランス(無関心、無感動)となってしまったのではないでしょうか。」(28ページ)
私は、異論はあると思うが、筆者の意見に賛成である。国を守るための議論は、いくらしてもしすぎることはないだろう。
写真は、山のホテルで撮影。
1月8日 読書三昧 その114
今日は、木佐芳男著「<戦争責任>とは何か」(中公新書)を読んだ。
筆者は、読売新聞ベルリン特派員を経て、現在は文筆家として独立されている。
本書で、筆者が問いかけていることは、以下のようなことである。
日本の場合、アジア諸国から、いまだに「戦争責任」が問われている。一方、同じ敗戦国でありながら、ドイツが周辺諸国からいまだに「戦争責任」を問われているという話は聞かない。その違いは、どこから出てきたのだろうか。
これに対する筆者の答えは、明確である。要するに、「ドイツは、すべての戦争責任をナチス=ドイツに被せ、ドイツ国民は被害者だったというストーリーを各国に思い込ませることに成功したが、日本の場合は、それに失敗した」からである。
そして、その理由もはっきりしている。ドイツの場合、ヒトラーは、ドイツの歴史と無関係にやってきた異邦人であったが、日本の場合は、天皇は、日本の歴史と切ってもきれないものだったからである。
「ここに、ドイツによる『過去の清算』のしかたがはっきりと示されている。ちがいは、ヒトラーとナチズムだけにかかわったものか、大統領ホイスの言葉にあるようにドイツの『伝統』にもとづいたものかどうかの一点につきる。ヒトラー以前からあった伝統は、どれだけ問題をはらんでいても、国民感情からかんたんには断てなかった。」(23ページ)
筆者は、ニュルンベルク裁判所では、A:平和に対する罪、B:通例の戦争犯罪、C:人道に対する罪のうち、ユダヤ人大虐殺に関して新設されたCの人道に対する罪に対して焦点が当てられたと主張する。
ちなみに、東京裁判では、Aの平和に対する罪で多くの戦争指導者が裁かれた。いわゆるA級戦犯である。
要するに、日本の場合は、Aは、戦争後に定められた規定であって、「事後法」である可能性が高く、後々まで「裁判の妥当性」を引きずることとなったのに対して、ドイツの場合は、明らかに違法性のあるCに焦点が当てられたことと、それが、ナチス=ドイツという外来性の高い手段によってなされたために、戦争責任が明確にでき、国民や周辺諸国からも受け入れられやすかったというのである。
筆者は、ドイツの指導者にとっては、「戦争は『ドイツ人によって』ではなく、『ドイツの名において』行われたのだ」、と言うのが通例だという。また、国民も、そう信じているらしい。しかし、それは、明らかに嘘である。
しかし、その「嘘」は、レーベンスリュ―ゲ(生きるための嘘、自己欺瞞の心理作用)であって、「あまりほめられたものではないが、仕方のないことと」として受け入れられているらしい。
いずれにしても、ドイツと日本の国民性や、戦争に対する認識の違いが根底にあるようである。
写真は、芦ノ湖で撮影。
1月9日 読書三昧 その115
今日は、山崎元・水瀬ケンイチ著「ほったらかし投資術」(朝日新書)を読んだ。
筆者は、気鋭のエコノミスト(山崎氏)と有名なブロガー(水瀬氏)である。
山崎氏とは、私が以前勤務していた信託銀行で、いっしょのフロア(隣の部)で仕事をしたことがある。
「皆の前で論破・罵倒して低能な上司を泣かせる」ことで有名な社員であった。外資系をはじめとして10数社を渡り歩き、現在は、経済評論家として活躍されている。
本書は、アクティブ・ファンド(ファンド・マネジャーが個別に銘柄を選択する運用)に対するインデックス運用(ファンド・マネジャーには選択権がなく、市場にあるすべての銘柄を、指数の構成に合わせて購入する運用)の優位性を説いた本である。
インデックス運用が優位な理由は、明確である。第一に、手数料が安いこと、第二に、過去の実績でも、平均的に、アクティブ運用に勝っていること、第三に、CAPMという理論からも、優位性が証明される、からである。
一方で、アクティブ運用がなくならない理由は、第一に、自分は投資の天才だと思う人がいること、第二に、証券会社が、手数料の高いアクティブ運用を推奨すること、第三に、投資をギャンブルだと考えれば、「負けない」投資手法であるインデックス運用には、ギャンブル特有のスリルがないから、である。
私自身は、株式投資をやらないので、どちらが良いということはできないが、個人投資家が投資を行うのであれば、断然、インデックス運用である。
しかし、何度もやって来る証券会社の営業マンから「素晴らしい投資手法」があると言われると、ついつい、「本当か」と思ってしまうのは、自分の心の弱さのせいなのかもしれない。
写真は、芦ノ湖のサロン・ド・デロザージュで撮影。
1月10日 読書三昧 その116
今日は、吉原真理著「アメリカの大学院で成功する方法」(中公新書)を読んだ。
筆者は、東京大学の大学の教養学部を卒業後、アメリカのブラウン大学で博士号を取得、現在は、ハワイ大学アメリカ研究学部助教授である。
本書には、アメリカの大学院に入学し、そこで研究を行い、アメリカの大学に就職するためのノウハウが満載されている。
私自身、昨年まで、1年以上、アメリカの大学に行っていたが、本書で書かれていることは、100%真実である。
「『コース・ワーク』の時間中、教師や学生が何を話しているか全く分からなくても心配するな」とか、「自分が発言する場合、どんな点に注意すれば良いか」とか、「就職先を見つけるためにはどうすればよいか」とか、「指導教授はどのように決めればよいか」、など、「どのようにすれば、アメリカのアカデミックな社会で生き残っていけるか」、に関するノウハウが満載されている。
自分の経験で言うと、とにかく、アメリカは競争社会である。上は大統領から下はホームレスまで、社会のあらゆる所に競争原理が働いている。
それが、アメリカのダイナミズムの原点だとは分かっていても、いざ、暮らしてみると、その「すごさ」には驚かされる。
アメリカ人が個人主義なのは、それが良いと思ってやっている訳ではなくて、そうしないと、人から抜かされてしまうからである。
しかし、その代わり、「他人の目」を気にすることなく、自由を謳歌できるし、最終的には、「自分の満足度」との競争なので、いくらか気が楽ではある。しかも、個々のアメリカ人は、上に行けばいくほど、人間的にも優れた人が多い。
いずれにしても、「ぬるま湯体質」の日本とは、大違いなのである。
写真は、芦ノ湖で撮影。
1月11日 読書三昧 その117
今日は、森本忠夫著「マクロ経営学から見た太平洋戦争」(PHP新書)を読んだ。
本書は、太平洋戦争で日本が負けた敗因を、マクロ経済学的視点から分析している。
筆者の問題意識は、「1941年のGDP比で13倍ある国との戦争に勝てる見込みがないのは、戦争指導者にも分かっていたはずである。それにも係わらず、なぜ、無謀な戦争を始めたのだろうか」、というところにある。
下にあるのは、本書に基づいて、私が作成した図である。1940年の日本のGNPを100%として、日米の軍事費の比の推移を表している。1940年には1.7倍であった比率は、1944年には、16.4倍に達している。
上記の理由に関して、筆者は、こう述べている。「1941年9月6日、開戦の決まった御前会議において、永野軍令部総長が統帥部を代表して行ったといわれる挨拶には、この勝算なき戦に賽を投じた日本の戦争推進者の、選択のない道への暴走と、その不幸な運命がすでに示唆されていた。『戦わざれば亡国と政府は判断された。戦うもまた亡国であるかも知れぬ。戦わざる亡国は魂まで失った真の亡国であり、最後の一兵まで戦うことによってのみ死中に活路を見出し得るであろう。戦ってよし勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ遺れば我等児孫は再三三起するであろう。戦争と決定された場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである。そうして最後まで戦い抜くであろう』」。
筆者は、このような意思決定パターンを、「特殊に日本的意思決定のパターン」であり、「飛躍」であり、「狂気の沙汰」であるとする。
確かにその通りである。そして、そこに、「その場の空気」や「情緒に流されやすい」日本人の思考パターンが見られるのは事実である。いったい、どうすれば、我々は、このような思考パターンから抜け出せるのだろうか。
写真は、山のホテルで撮影。
1月12日 読書三昧 その118
今日は、ペリー・メーリング著「金融工学者 フィッシャー・ブラック」(日経BP社)を読んだ。
本書は、フィッシャー・ブラックの生涯を金融史が専攻のコロンビア大学教授が記したものである。
フィッシャー・ブラックは、デリバティブの理論モデルで有名なブラック=ショールズ・モデルを考案した学者の一人である。
フィッシャー・ブラックは、1995年に亡くなったが、彼が考案したブラック=ショールズ・モデルは、1997年にノーベル経済学賞の受賞対象になった。当然、彼が生きていれば、ノーベル賞を受賞していたはずである。
仮に、1973年に、彼がデリバティブの理論式を発表していなければ、その後の金融界は、大きく変わっていただろう。デリバティブは今ほど普及することはなかったし、LTCMや、多くのヘッジ・ファンドが誕生することはなかっただろう。また、デリバティブ取引が命取りとなって倒産する会社もなかっただろうし、リーマン・ショックも起きなかったはずである。
ブラック=ショールズ・モデルは、複雑な形をしているが、このモデルが重要なのは、式が複雑だからではない。
実は、このモデルが革新的だったのは、デリバティブという派生証券の価格が、原資産(株や債券)の価格を予想しなくても、算出できることを証明したことにある。
実を言うと、すべてのデリバティブは、2つの原資産(株と債券)の合成で作ることができるのである。
ただし、それらを単純に組み合わせても、デリバティブは合成できない。ある特殊な方法(デルタ・ヘッジ)で両者を組み合わせれば、手品のように、デリバティブが合成されるのである。
今となっては、誰でも分かる理屈であるが、「デリバティブの価格式は作れない」と人類が2000年以上思い込んでいたのにもかかわらず、「デリバティブの価格式は作れる」と考えたことこそが、革新的であったのだ。
しかし、そこには、大きな落とし穴が待っていた。デリバティブの合成には、いくつかの条件が必要だったのである。
それを忘れて、「いつでもデリバティブは合成できる」と勘違いしたことが、金融危機の原因を作ったのである。
写真は、山のホテルで撮影。
1月13日 読書三昧 その119
昨日に引き続き、デリバティブの話である。多くの人々が勘違いしているのは、ブラック=ショールズ・モデルには、その導出に当たって、多くの仮定が置かれているということである。
例えば、ブラック=ショールズ・モデルの前提として、金利は一定で、証券取引は、手数料なし可能であることが仮定されている。株式は、無限に分割可能だし、証券のカラ売りも自由である。
さらに、一番重要な点は、市場には、常に流動性があって、マーケット・インパクトなしで、証券取引が可能でなければならない。
さらに、株式と債券の連続的な取引によって、保有するポートフォリオ(株と債券を組み合わせたポジション)の瞬間的な期待リターンが、金利と等しくなることが仮定される。
また、証券のボラティリティ(価格変動率)は、常に一定でなければならない。
要するに、非現実的な仮定のもとに導出されたのが、ブラック=ショールズ・モデルなのである。
私は、生前のフィッシャー・ブラックに、「あなたのモデルは、ボラティリティが一定という仮定のもとで解かれている。したがって、ボラティリティが一定となる短期間でしか使えないはすだから、長期間にわたって取引される転換社債に適用することは難しいのではないか?」と聞いたことがある。
彼の答えは、「長期間の間には、ボラティリティは、過去の平均値になるから、問題はない」、というものであった。
しかし、厳密に言えば、彼の答えは誤りである。事実、モデルの考案者の一人であったマイロン・ショールズが運用に携わったLTCMは、保有する債券のボラティリティが、かなりの間、平均値に戻らなかったために破綻した。
2007年のアメリカの有名投資銀行の破たんも、短期的な市場のボラティリティの上昇が、そのきっかけを作ったと考えることも可能であるかもしれない。
しかし、実を言うと、フィッシャー・ブラックの答えは、正しかったのである。LTCMも、あと半年でも持ちこたえることができれば、莫大な利益を生んでいたし、2008年に破綻した投資銀行も、自己資本が十分で、金融危機を乗り越えることができれば、いまでも、生き残っていたはずである。
いずれにしても、フィッシャー・ブラックの遺した遺産は、今でも、我々に大きな影響を与えているのである。
写真は、サロン・ド・テロザージュで撮影。
1月14日 読書三昧 その120
今日は、リチャード・ブックステーバー著「市場リスク 暴落は必然か」(日経BP社)を読んだ。
筆者は、モルガン・スタンレーでリス・マネジメント担当ディレクター、ソロモン・スミス・バーニーでリスク管理責任者を務め、現在は、フロントポイント・パートナーズというヘッジ・ファンドで、マーケット・ニュートラル型株式ファンドの運用をしている。
筆者の問題意識は、明確である。要するに、現在の社会においては、リスク(変動率)は、減少しているように見える。例えば、アメリカのGDPの前年比の変動率は、50年前の半分である。しかし、金融の世界だけは、むしろ、リスクが増加しているように見える。
最近の例で見ても、1987年のブラック=マンデー、1998年のLTCMの破綻、2007年のアメリカの有名投資銀行の破たんなど、金融危機は、繰り返されている。
そして、これらの金融危機の背後には、必ず、新しい金融商品の開発と進化が関係している。1987年のブラック=マンデーでは、デリバティブの合成ポジション(先物を使ったオプションの合成)であるポートフォリオ・インシュアランスが、直接のきっかけを作ったとされているし、1998年のLTCM危機は、ロシア国債の破綻が、直接の原因ではあったが、デリバティブを多用したレバレッジのかけ過ぎが、もともとの原因であったとされている。さらに、2007年の金融危機は、証券化商品と呼ばれるモーゲージ債の流動性欠如が引き金を引いた。
筆者は、「多すぎる情報」、「密結合と複雑性」が、問題の根底にあると主張する。そして、「システムにとって危険なのは、システムである。」と主張する。
「『どうすれば存在していることを知らないリスクをマネジメントできるのか』というパラドックスである。このパラドックスに対する答えはこうだ。『そのようなリスクは直接マネジメントできない』」(397ページ)
さらに、環境の変化に対しては粗視的反応しかしないゴキブリと、環境に高度に適応したが、自分を捕食する魚の放流と言う想定しないリスクによって絶滅したビクトリア湖のソチという魚を例にして、「リスク・マネジメントの強化」や、「規制の強化」に対して反対する。
「こうした一連の動きを見ると、ゴキブリの教訓がいっそう重みを増す。リスクに対する精密に調整されたアプローチ、つまり、個々の特定の世界では最適であるように見えるであろうアプローチは、長期的に考えれば、次善であることが明らかになるかもしれない。自然界は複雑で、根本的に予測不可能であることを考えれば、粗く、あまり複雑でないアプローチが、長期のリスク・マネジメント戦略としては最善の選択になるだろう。」(394ページ)
投資銀行でリスク管理を担当した実務家の主張だけに、その意見は傾聴に値する。
写真は、サロン・ド・テロザージュで撮影。
1月15日 読書三昧 その120
今日も、リチャード・ブックステーバー著「市場リスク 暴落は必然か」(日経BP社)の話である。
まず、「密結合」と「複雑性」が招く「流動性危機」に関して、こう述べている。
「金融市場の密結合をもたらしているのは、絶え間ない情報の流れと、即時の流動性供給に対する底なしの需要である。情報は取引を誘発し、取引は途切れることなく発注・執行される。密結合はレバレッジによってさらに強化されるが、レバレッジそのものが流動性から直接生み出される。」(246ページ)
「流動性がその所産であるデリバティブやレバレッジと結びついて、複雑性と密結合の相互作用が起こると、破滅の方程式が完結する。あらゆる不測の事態に備えることができず(システムの複雑性がもたらす影響)、かつ、プロセスを組み立て直す時間がなくて、問題が瞬時に伝播していく(密結合がもたらす影響)となれば、問題が発生すると、それが危機に発展していくことは避けられない。」(247ページ)
そして、「どうすれば流動性危機を防げるか」に関しては、以下のように述べる。
「こうした状況下では、投資決定の誤りや重大な市場環境の変化が触媒として作用する可能性はあるものの、損失がいったん臨界点を超えると、危機は自動的に増幅していく。危機は流動性需要を育んで成長し、そして、その流動性需要は、市場からではなく、LTCMの債権者や投資家の要求から発生する。」(165ページ)
筆者の主張は、要するに、「あらゆる金融証券がアービトラージ(裁定取引)によって結合し、レバレッジによって増幅されると、いつかは、必ず、臨界点を超えて、危機が現実化する。一方、金融界を起点として、あらゆる産業が複雑に絡んでいるため、どこで、どのような形の危機が生じるかは、あらかじめ予測不能である。」ということだろう。
しかも、筆者によれば、「当局による『規制』や『情報開示』は、状況を悪化させる」と言う。「規制」は、それ自体が問題を複雑化するし、情報開示は、それ自体が、流動性危機を生み出すからである。
筆者は、「ヘッジ・ファンドは、市場に流動性を提供するので、世間の批判にも関わらず、適正なビジネスを行っているのだ」と言う。
一方で、複雑化をなくすためには、密結合を止めて、郵便サービスや航空路線のハブ・アンド・スポーク・システムのように、ミスが伝播しないシステムにするべきだと言う。
しかし、その場合、市場の流動性は確保されず、市場は非効率になって、ヘッジ・ファンドだけが儲かるはずである。
結局、我々は、何かを得るためには、何かを失わなければならないトレード・オフの状況下にあるのだろうか。
写真は、サロン・ド・テロザージュで撮影。
2月16日 馬込文士村へ行った!
昨日は、馬込文士村へ行った。
京浜東北線の大森駅から徒歩20分ほどで、「大田文化の森」(http://www.ota-bunka.or.jp/)に到着する。そこから、臼田坂という坂を上ると、臼田坂上というバス停に到着する・
この当たり一帯には、明治、大正、昭和の文士の家(跡)が存在する。室生犀星(案内板)、萩原朔太郎(案内板)、川端康成(案内板)、石坂洋二郎(案内板)、宇野千代(案内板)、尾崎士郎(案内板)、北原白秋(解説板)、三島由紀夫(住居現存)といったところである。
大部分の住居跡は、すでになく、案内板があるだけである。私は、三島由紀夫の住居(現存)に行ってみた。
詳しい番地は分からなかったので、「この当たりに、三島由紀夫の家があると聞いたのですが」、と近くの肉屋で聞いたところ、肉屋のご主人らしき人が、「そこの交番の横を下って祠まで行き、祠の横の道を左に行けばありますよ」、と教えてくれた。交番の横を下ると、三島邸は、すぐ分かった。
この家は、三島由紀夫が印税を前借して建てた家である。何でも、ロココ調の作りだそうだ。建築時には、「付近の環境と全く調和していない」と散々批判されたそうである。
確かに、最近では洋風の家が珍しくないが、建築当時は、さぞ、目立った建物だと思われる。
しかし、建物自体は、住宅街の中にあって、外から中を見ることはできない作りになっている。
三島ファンの間では、ここに来ることを「巡礼」と呼ぶそうである。
私自身は、何ら感動を覚えることはなかった。しかし、その建物は、歴史の風雪にも耐えて、ひっそりと佇んでいた。
1月17日 読書三昧 その121
今日は、茂木健一郎著「生命と偶有性」(新潮社)を読んだ。
筆者は、有名な脳科学者である。
筆者は、「偶有性」について、こう述べている。
「それは、わたしたちの生が容易には予測できないものであるということである。もちろん、何もかも確かなものが一切ないということではない。私たち人間の脳は、環境と相互作用しながら、その中にある確かな『法則性』を必死になってつかもうとする。確実な物はある。その一方で、不確実さも残る。確実さと不確実さが入り混じった状態。これが『偶有性』である。」(まえがき 7ページ)
また、偶有性には、2つの意味があると言う。
「第一に、『規則的なこと』と『乱雑なこと』が混じり合っている状態。いわば、秩序とランダムさの『汽水線』。第二に、議論の対象となっている事物、とりわけ『私』が、『今、ここ』の状態とは全く異なる状態にもなり得たということを表象すること。偶有性の持つこれらの側面が、私たち生命の、そして意識の本質とかかわってくる。」(84ページ)
「偶有性」を、私なりに解釈して見る。
そもそも、我々が世界を認識するには、「私」がいなければならない。しかし、その「私」を意識しているのは、誰なのだろうか。
もちろん、それは、脳のメカニズムと関係するだろう。「意識」とは、脳科学的には、脳を流れる電気信号なのかもしれない。
しかし、「我々が世界を認識する」その瞬間に、主観的な認識と、「自然界」との間には、何らかのコミュニケーションが成立しているはずである。
また、私が認識する「自然界」と、他人が認識する「自然界」が、一致する保証はどこにもないが、なぜ、自分と他人との間に、コミュニケーションが成立するのだろうか。
筆者は、この問いに対して、「クオリア」という概念で説明を試みる。
「意識を特徴付けるものは、その中で感じられる『クオリア』と、それを把握する『私』という主観性の枠組み。現実と仮想を比較するような認識のダイナミクスにおいて、クオリアは重大な役割を担う。現実も仮想も、私たちがそれを意識の中で認識する限りにおいては、クオリアとなるのである。」(141ページ)
脳科学の最先端の研究でも、脳の認識メカニズムは解明されていないらしい。非常に興味深い話である。
写真は、山のホテルで撮影。
1月18日 フェアレディZ考
我が家に、フェアレディZが来てから、5ヶ月になる。
今日は、この車を買うことになったいきさつや、その後のことを書きたいと思う。
そもそも、私は、これまで、「フェアレディZ」とも、「オープンカー」とも、無縁の生活をしてきた。
ところが、ニューヨークから帰国後の今年の8月に、たまたま、自宅近くの中古車屋で見かけたオープンカーのあまりの「かっこよさ」に一目ぼれしたのが、私がこの車を買うことになる、そもそもの始まりである。
話が長くなるので、詳細は省くが、そもそも、何で私が、自宅近くの中古車屋に行ったのかは、全くの偶然なのである。しかし、いずれにしても、その「かっこよさ」は、私にとっては、「衝撃的なもの」であった。
そもそも、「車の屋根は動かないもの」と考える人間にとっては、「車の屋根が動く」ということ自体が驚きであった。
しかも、屋根が開くときの躍動感や、期待感は、実際に、それを見た人でなければ分からないと思う。少し大げさに言えば、「固定観念」や、「社会秩序」が根底から崩れるような痛快さがあるのである。
しかし、「車=贅沢品」と考える昭和生まれの者にとっては、「業務上、どうしても必要でもない車を買う」と言うのは、勇気のいる決断であった。
しかも、我が家には、すでに、ワゴン・タイプの車が1台あるのである。幸い、駐車スペースに関しては、来客用の駐車スペースが使えるので、問題はなかったのだが、車検費用や保険料、ローンの問題など、乗り越えなければならない、様々な問題があったのだ。
しかも、予想される最大の問題は、妻の反対であった。「家には、来年、大学受験を控えた高校3年生がいるのに、この人は、なんて馬鹿なことを言っているのだ!」と一蹴されるに決まっていたのである。
しかし、妻の反応は、意外にも、「面白そう!」であった。私の留学中に、4回もニューヨークに来た妻は、すっかり、アメリカ的な「人生をエンジョイする」生き方に染まっていたのである。
とは言っても、「オープンカー」はともかく、「フェアレディZ」は、日産が世界に誇るスポーツカーなのである。
「果たして、自分に乗りこなせるだろうか?」そんな不安は、車の試乗とともに、吹き飛んでしまった。何しろ、意外なことに、フェアレディZは、「妻でも楽に乗れるスポーツカー」だったのである。
詳細は省くが、すべての障害がクリアされ、最終的に、私は、この車の購入を決断した。その間、2日である。
その後、数週間を経て、車が納車された。その後のことは、この日記の読者はご存じだと思う。私と妻は、年甲斐もなく、毎週のように、ドライブを楽しむようになってしまったのだ。
一応、人には、「不況にあえぐ日本経済の復活に貢献するため」、とか、「他人の目を気にしないアメリカ人的な生き方を実践するため」とか、言い訳をしているが、この車を選んだ本当の理由は、「乗っていて楽しい」ことである。
もうひとつ、この車に乗っていると便利なことに、「高速道路や、どんな道でも、相手からよけてくれる」ことと、「のろのろ走っていても、決して、後ろからクラクションを鳴らして追いまくられない」点がある。
さらに、妻とドライブしても、「一応、『さま』になる」のも、この車の、そして、この車を買ったことの利点である。
いずれにしても、しばらくは、終末のドライブを楽しむことになりそうである。
写真は、大黒ふ頭PAで撮影。
1月19日 フェアレディZ考 その2
昨日に続いて、車の話である。
真冬にも係わらず、よく、車の屋根を開けたオープンカーが走っているのを見たことはないだろうか。
私自身も、「無理してオープンにして走っているが、実際は、寒くて仕方がないだろうな」などと考えていた。
しかし、実は、オープンカーの中は、「夏は涼しく、冬は暖かい」のである。その理由は簡単で、夏は、「屋根がないので、外気が入り、しかも、クーラーが効く」からであり、冬は、「屋根がないので、日光が入り、しかも、座席のヒーターが暖かい」からである。
そもそも、車の屋根をとってしまうと、「これが同じ車なのか」と思うほど、解放感があり、自然との一体感が感じられる。
また、心配した「風の吹き込み」は、「座席の後ろにある透明の板」で、完全に遮られるのである。
たった1枚の屋根があるかないかで、ほとんど、別の乗り物に乗っているかのようである。
しかも、変な話であるが、オープンで走っている時の、人の視線が、気持ちいいのである。自意識過剰かもしれないが、10人中、1人は、振り返って見ているような気がする。
さらに、オープンカーどうし、あるいは、フェアレディZ同士、道ですれ違う際には、互いに、意識していることが分かるのである。
ある時は、別のオープンカーに、ずっと、後ろを並走されたこともあるし、すれ違い様に、目で挨拶したこともある。こんなことは、これまでなかった経験である。
さらに、私は参加したことがないが、オープンカー同士、あるいは、フェアレディZのオーナー同士が集う集まりも、毎月、開かれているようである。
「車を通じて、世界が広がる」というのも、なかなかのものである。
写真は、自宅で撮影。
1月20日 読書三昧 その122
今日は、盛山和夫著「年金問題の正しい考え方」(中公新書)を読んだ。
年金問題については、これまでも、何冊かの本を読んだが、何度考えても、すっきりとした結論に至らない。話が複雑で、仮定が多いうえに、「要するにどうなのだ」と言いたくなるほど、結論がないのである。
しかし、筆者も述べているように、このことこそが、年金問題の本質だと思う。
「これまで長い間、年金制度のしくみについての議論と設計は、狭い範囲の官僚と専門の学者だけに任されてきた。年金のしくみは複雑な上に数学的で難しすぎる、と思われている。議論に参加できるのは専門知識を十分に有する、ごく限られた人たちだけでも仕方ないと思われてきたのである。
しかし、本当はここのところが、年金制度をおかしくしている最大の原因だと私は思っている。」(8ページ)
本書で、筆者は、さまざまな点を指摘している。
第一に、詳細は省くが、年金制度は、入った方が得な制度であるということ、第二に、問題の多かった1997年スキームと比較すると、2004年スキームは、比較的、良い制度であること、第三に、しかし、2004年スキームでも、「100年安心な年金」にはなっていないこと、である。
また、「未納」の問題は、本質的な問題ではなく、「年金の消費税化」や、「年金の一元化」などの方が、より本質的な問題だと指摘している。
特に、「年金の消費税化」は、一般の議論とは逆で、「年金の健全化や世代間の公平性を改める優れた制度ではない」としている。その理由は、老人が消費税を納めるためには、何らかの所得、すなわち、年金が必要で、その所得を稼ぐのは、他ならぬ現役世代であるからである。
また、「世代間の公平性」よりも、「同じ世代内の公平」、こそが重要であり、そのような観点からは、「年金の一元化」が望ましいとしている。
それにしても、この問題は、何度考えても、「すっきり」しない問題である。私は、結局のところ、「公平」とか、「公正」の概念が、人によって違うことが、原因だと考える。確かに、問題の本質は、「消えた年金」ではないのである。
写真は、葉山マリーナで撮影。
1月21日 読書三昧 その123
昨日に引き続き、盛山和夫著「年金問題の正しい考え方」(中公新書)の話である。
よく、「賦課方式が良いか、積立方式が良いか」という議論がなされる。筆者によれば、この問題の答えは、数学的に説明できると言う。
ここで、生産年齢人口が毎年βで増加し、生産年齢人口一人当たりの生産性の伸び率(名目値)がαであり、年金積立金の運用利子率が、γとする。
この時、αβ≧γ であれば、賦課方式が有利であり、逆の場合は、積立方式が有利である。
αβは、名目GDPの成長率に等しいが、名目GDPの成長率が運用利子率を下回れば、積立方式の方が、有利に見える。しかし、筆者は、この考え方に反対する。
「まず、GDPの伸び率と運用利子率についていえば、人口減少社会だからといって、必然的にγ>αβとなるとは限らない。例えば第一章でみたように、現在の民間の年金の利率は、名目GDP成長率を下回っている。(略)
第二に、世代間格差については、第二章でみたように、日本の年金で世代間格差が発生した原因は、1960年から1970年代の初めにかけてもともと持続不可能な支給水準を設定したことなのだ。」(245ページ)
上記の式は、サミュエルソンが証明した式であるという。この問題一つとっても、「年金問題」が、「難しい問題」であることは、確かである。
写真は、葉山マリーナで撮影。
1月22日 読書三昧 その124
昨日に引き続き、盛山和夫著「年金問題の正しい考え方」(中公新書)の話である。
筆者によれば、年金問題では、「公平さ」を維持することが重要である。
ここで、可処分所得をベースとした相対的年金水準をA、現役世代(20歳〜60歳)の一人当たり平均所得をw、年間保険料率をr、税率をs、成人人口比率をxとする。
この時、以下の式が成立する。
ここで、A=50%、s=20%として、保険料率(r)を求めると、x=3の場合は、r=11.4%であるが、x=2の場合は、r=16.0%である。
x=2の場合、現役世代の負担を軽くするために、相対的年金水準(A)は、引き下げられることになる。
ところが、1973年スキームでは、相対的年金水準は、62%とされたが、相対的年金水準は、高すぎるものであった。
「しかし、この水準はたちまちのうちに年金会計を崩壊させる。その理由は簡単な計算でわかる。このときの保険料率は7.6%であったが、7.6%の保険料率で62%の年金を高齢者に支給するためには、高齢者数に対する現役世代人口の数が62/7.6=8.16倍よりも多くなければならないのだ。この8.16倍という現役/高齢者比率は、当時において、合理的に予想された将来の人口構成からみると、非常識に高すぎる設定であった。」(123ページ)
また、1973年スキームでは、「高齢者の年金受給額を現役世代の平均賃金の上昇に合わせて上昇させていく仕組みである『賃金再評価制』」が組み込まれていた。
「このようにして、かりに合計特殊出生率が2.05程度に維持され、平均寿命も当時のままにとどまったとしても、賃金上昇の有無にかかわらず、1973年のスキームはけっして維持することのできないしくみだったのである。」(61ページ)
我々は、これまで、「日本の官僚は、世界一優秀だ」と信じてきた。しかし、本書を読めば、それが、嘘であったことがよく分かるのである。
写真は、葉山マリーナで撮影
1月23日 読書三昧 その125
今日は、竹中平蔵著「闘う経済学」(集英社インターナショナル)を読んだ。
筆者は、2001年から約6年間、政府で経済財政の仕事に携わった経済学者である。
筆者は、こう述べている。
「現実の経済学は、教科書に出てくる世界よりはるかに複雑である。またどんな政策も、民主主義の政治プロセスを経なければ決めることはできない。つまり、経済と政治は、不可分に結びついている。残念ながら日本では、学者は大学を離れず、政治家と官僚は政策を手放さないという構図のなかで、この隙間を埋める努力が十分になされてこなかった。」(はじめに 3ページ)
例えば、小泉内閣が行った「三位一体の改革」では、国から地方へのお金の移転を直そうとした。
「国から地方へのお金の移転の形としては、地方交付税と補助金という二つの形での移転があり、それをコントロールする中央官庁の役人たちが大きな権限を持っている。ここに受益と負担の不一致が明らかになってきたことで、国民の間で不満が高まっている。」(157ページ)
これを変えるには、補助金の削減、税源移譲、地方交付税の見直しを一気にやらなければならない。
ところが、補助金の削減には、官僚の指示の下、各省の大臣が反対し、税源移譲には、財務省が反対し、地方交付税の見直しには、地方が反対するという。
「結果的に、総理のトップダウンの力によって、三兆円の財源移譲が実現した。これは、日本の歴史上初めてのことであった。そして、それに見合う四兆円の補助金をカットした。その結果、以前に比べると、受益と負担が少しは一致するようになったのだ。」(160ページ)
いずれにしても、政治改革には、政治家のトップダウンの決断が、必要だと言う事であろう。
写真は、自宅で撮影。
1月24日 読書三昧 その126
今日も、竹中平蔵著「闘う経済学」(集英社インターナショナル)を読んだ。
本書では、財政赤字がなぜ、悪なのかと問いかける。答えは、2通りである。第一に、国債の大量発行は、金利上昇か、インフレを招く。第二に、国債の大量発行は、利払い費の増加を通じて、財政を硬直化させる。
ここで、今年の国債残高を、去年の国債残高を
、金利をr、プライマリーバランス(今年の財政赤字から利払い費を引いたもの)をPBとすると、以下の式が成立する。
・・・(1)
一方、今年のGDP()は、去年のGDP(
)に、成長率(g)を掛けたものなので、
・・・(2)
(1)式と(2)式から、
・・・(3)
(3)式で、PB=0と置くと、
・・・(4)
(4)式から、今年の国債残高・GDP比率が、去年の国債残高・GDP比率を下回る条件は、
したがって、、すなわち、成長率が、名目金利を上回れば、国債残高・GDP比率が発散する(無限大になる)ことはない。
要するに、プライマリーバランスを黒字化すれば、財政赤字を減らすことができる。そして、2001年1月26日に閣議決定された「骨太方針2001」では、そのことが明記された。
残念ながら、その後の政権交代で、財政健全化の道筋は、足踏み状態にある。政治家のリーダーシップが必要である。
写真は、銀座で撮影。
1月25日 読書三昧 その127
今日は、大和総研チーフエコノミスト原田泰著「日本はなぜ貧しい人が多いのか」(新潮選書)を読んだ。
本書では、「世の中で常識だと思われていることが、実は、そうではない」ということを説明している。
筆者は、例えば、以下の事柄は、「事実によっては支持されない」と言う。
・少年犯罪は増加している
・若者は刹那的で貯蓄しなくなっている
・若者の失業は自分探し志向の強い若者の問題である
・日教組の強いところは学力が低い
・グローバリゼーションが格差を生んでいる
・日本は平等な国である
・人口が減少したら日本は貧しくなる
・昔の人は高齢者の親の面倒をきちんと見ていた
・高齢化で医療費は増える
・中国のシステムが優れているから高成長ができる
・中国はすぐに日本に追いつく
・円は安すぎる
・経常収支黒字を溜め込めば損をする
・国際競争力は豊かな日本のために必須のものである
・2007年まで企業は経営効率化に成功したから利潤を上げていた
・90年代の停滞は日本が構造改革しなかったからである
・低金利が続いているのは日銀が低金利政策をしているからである
・銀行に資本注入をすれば経済は回復する
・第二次世界大戦がなければ大恐慌は終わらなかった
・国債の減額は何より大事である
・日本のエネルギー効率はダントツに高い
詳細は、省略するが、本書を読むと、「常識の落とし穴」が理解できるようになる。
写真は、渋谷で撮影。
1月26日 読書三昧 その128
今日は、ハイマン・ミンスキー著「金融不安定性の経済学」(多賀出版)を読んだ。
ミンスキーは、セントルイスのワシントン大学経済学部教授である。
彼は、ケインジアンの一人であり、金融市場の存在が、経済を不安定化するという学説を主張している。
彼は、金融構造を、ヘッジ金融、投機的金融、ポンツィ金融に分類する。
ヘッジ金融は、自己保有の証券のキャッシュ・フローが、支払額を上回る状態にある。
投機的金融は、自己保有の証券のキャッシュ・フローが、支払額を下回る状態にある。しかし、投機的金融のキャッシュ・フローでは、毎月の所得が、利子の支払額は上回る。
ポンツィ金融は、自己保有の証券のキャッシュ・フローが、支払額を下回る状態にある点では、投機的金融と同じだが、毎月の所得が、利子の支払額を下回る。ポンツィ金融は、金融の不安定要因となる。
「経済におけるヘッジ金融、投機的金融およびポンツィ金融の混合割合は、安定性の主要な決定要因である。資産ポジションのうち大きな部分が投機的金融およびポンツィ金融によって融資されることは、金融不安定性が発生するための必要条件である。問われるべき問題は、各経済主体が採用するそれぞれの金融方式の比重の変化を決定するものは何か、ということである。」(258ページ)
彼は、現在の金融システムの中では、利潤最大化を目指す金融機関の働きによって、ポンツィ金融が増加することは不可避であり、それは、中央銀行といえども、コントロールできないと主張する。
本書は、市場の不安定性が必然であることを証明する。本書が、リーマン・ショックのはるか前の1986年に書かれたことは、驚きである。
写真は、渋谷で撮影。
1月27日 読書三昧 その129
引き続き、ハイマン・ミンスキー著「金融不安定性の経済学」(多賀出版)の話である。
筆者は、信用創造の中核を金融機関が行う現在の制度の下では、市場が不安定になることは、必然だと言う。
「要するに、外部金融によって資金が調達される投資ブームが発生したとき、経済の脆弱性が顕著に高まるのである。金融的な諸条件は、投資ブームが資産ポジションの投機的な金融を増加させる環境へ経済を先導するであろうことを保証し、それはまた、恐慌が発生しやすい諸条件を用意する。すなわち、負債デフレーションが発生しうる金融構造と、負債デフレーションが開始されるきっかけとなる諸事件は、投資ブームの期間中にもたらされ発生する、金融的な諸関係の正常な帰結なのである。」(270ページ)
また、その成否を握るのが、金融機関であると言う。
「かくして、経済が循環的に安定するか否かは、金融構造が全般的に脆弱であるか頑強であるかにかかっているが、それが明らかになるのは、銀行家の貸付態度からである。銀行家が現金流入を志向する場合は、頑強な金融構造が維持される傾向が強い。しかし銀行家が担保価値および資産の期待価値に重きを置くときは、脆弱な金融構造があらわれることになる。」(291ページ)
ところが、肝心の銀行にその役割を期待することが困難なのである。
「資本主義的金融が行われる世界では、各主体によるそれ自らの利己心の追求によって経済が均衡に至ると言う事は全く当てはまらない。銀行家、レバレッジする投資家、そして投資財生産者の利己心は、経済をインフレーションのともなう拡張にも、また失業を生み出す縮小にも導きうるのである。」(312ページ)
本書を読むと、恐慌の発生が、偶然ではなくて、必然であることが分かる。
写真は、北軽井沢で撮影。
1月28日 読書三昧 その130
今日は、ベノア・B・マンデンブロー、リチャード・L・ハドソン著「禁断の市場」(東洋経済)を読んだ。マンデンブローは、イェール大学数学科に在籍している数学者である。
マンデンブローは、フラクタル幾何学で有名であるが、本書は、それを、株式市場に応用した論文がもとになっている。
通常、ファイナンスの世界では、株価の動きは、ランダム・ウォークすると仮定する。この仮定は、効率市場仮説と相性が良いので、誰もが、その妥当性を疑うことはなかった。
ところが、実際の市場価格は、この仮定とは程遠い動きをする。株価は予想よりも大きくジャンプするし、上がった株が上がり続けるといったケースも多い。
マンデンブローは、本書で、株式市場の動きと、川の大洪水、大旱魃の関係が、同じであることを主張する。
「(前略)私は、瞬間的にすべてがわかったような感覚におそわれました。ハーストの法則は、川の水位の最高値と最低値が標準偏差の3/4乗で広がるというものです。これは、綿花価格の変動の公式を変形したようなものではないかと思ったのです。大洪水はバブルのような価格上昇で、大旱魃は価格の暴落とみなせるかもしれないということです。」(242ページ)
株価の動きがフラクタルで説明できるというマンデンブローの説は、現在のところ、ファイナンス界の主流の考え方ではない。
しかし、サブプライム・ローン問題などが起こると、彼の説の妥当性を検討する動きが出てくることは、間違いがないであろう。
写真は、北軽井沢で撮影。
1月29日 読書三昧 その131
今日は、吉原真理著「アメリカの大学院で成功する方法」(中公新書)を再読した。
筆者は、ニューヨークに生まれ、現在、ハワイ大学アメリカ研究学部准教授である。
本書は、アメリカの大学院に留学することを考えている人向けに、アメリカの大学院で成功するためのノウハウを説明する本である。
ただし、筆者も言っているが、本書は、アメリカ留学を勧める本ではない。
「多くの人が留学を目指すようになった現在、そして帰国子女を含め英語を自由に操る日本人がたくさんいる現在、数年間アメリカに留学したからといっていい仕事にありつけるわけではない。研究職の場合も、いくらアイビーリーグなどの名門校に留学したからといって、博士号を取得していなければ今や就職は難しいし、逆に留学経験がなくても日本の大学できちんと博士号を取っていれば就職はできる。」(まえがき Dページ)
筆者は、かなり、辛口に、アメリカの大学院に留学し、無事に卒業し、その後、アメリカの大学に就職するためのノウハウを語っている。
例えば、@基礎的な勉強の技術が身についていない人、A英語力が足りない人、B柔軟性に欠ける人、C身体や神経が極度に繊細な人、は留学に向いていないとする。また、いかに、アメリカの大学院で日本人がやっていくことが大変であるかを説明する。
私自身の経験でも、アメリカの大学院は、日本の大学院とは比べ物にならないほど、ハードな世界である。
筆者も、「私は、特に一学期目は、あまりにもディスカッションの内容が理解できないので、自分は間違えてみんなと違う本を読んできたと思ったくらいだった」という。
アメリカ全体が、競争社会であるが、中でも、大学教員は、その最たるものであろう。
日本でも、若年失業者の問題が議論されているが、ぬるま湯につかっている多くの日本人にとって、アメリカの競争社会の姿は、想像できないであろう。
写真は、北軽井沢で撮影。
1月30日 読書三昧 その132
今日は、マイケル・サンデル著「これからの正義の話をしよう」(早川書房)を再読した。
本書を再読したのは、正月に、NHKで、ハーバード大学での彼の授業を放送していたからである。
本書で、彼は、「正義」とは何かを問いかけている。最終的な答えはないのだが、いくつかの「考えるヒント」が提示される。
私なりの解釈によれば、「考えるヒント」は、以下に類別される。第一は、「功利主義」である。「功利主義」は、すべての現象を、「快楽」と「苦痛」に別けて考える。そして、個人個人の「快楽」マイナス「苦痛」を集計し、社会全体で、その和が最大になるような政策こそが、人々を幸せにすると考える。
この思想のメリットは、特定の「道徳的な価値観」から独立していることである。一方、デメリットは、人間は、「快楽」や「苦痛」だけを基準としては、生きていないからである。
第二は、「自由主義」である。「自由主義」は、「人間は、自分自身の所有者であるから、他人から何ら干渉されるべきではない」と考える。
この考え方のメリットは、「自由な意思決定」という人間にとって最も大事な権利が、保証されることであろう。
一方で、この考え方のデメリットは、人間は、社会的な生き物であり、一人では生きられないということである。
ある人が、大金持ちになるのは、社会がそれを認めたからであり、彼自身の能力だけでそうなったのではない。また、遺伝的体質や、家庭環境などが、彼の努力をサポートする必要がある。また、「自由主義」は、社会的な格差を生む元凶となる。
第三は、「平等主義」である。これは、「格差原理」とも言われる。「平等」であることは、限りなく「正義」に近いと考えられる。
しかし、この考え方は、「平等」の定義が難しい、努力のインセンティブをなくしてしまう、というデメリットを持つ。
これ以外にも、カントの「定言命題」や、「その目的にもっともふさわしい人物が、そのものを所有する権利を持つ」というアリストテレスの考え方がある。
「これが正解」というものがないのが、この種の議論の欠点であるが、「考えるヒント」を得ることは、知的ゲームとしても、我々の生き方を考える上でも、重要である。
写真は、北軽井沢で撮影。
1月31日 読書三昧 その133
昨日に引き続き、マイケル・サンデル著「これからの正義の話をしよう」(早川書房)の話である。
現代の社会の根本的な問題は、分配の問題である。「自由に分配するべき」だと考えれば、自由主義者になるし、「平等に分配するべきだ」と考えれば、平等主義者になる。「社会全体の効用が高まるようにするべきだ」と考えれば、功利主義者になる。
「そのものの、本来の目的に最も合った人に分配するべきだ」と考えれば、アリストテレスの「目的主義」の考えになる。
しかし、自由に分配しようとすれば、その結果は、極端な不平等になる。平等に分配すれば、だれも努力しなくなる。社会全体の効用が高まるように分配するには、「効用」を定義する必要がある。目的主義的に分配するためには、「目的」は何かを議論しなければならない。
例えば、ビル・ゲイツの所得に課税することは、自由主義者から見れば、彼の財産権の侵害となるので、認められないし、平等主義者や功利主義者から見れば、当然のことになる。
サンデル自身は、社会に共通した、「共通善」といった概念を提唱しているようである。しかし、その場合、「共通善」とは何だろうか。
このように考えると、哲学の問題は、非常に複雑で、深淵である。
写真は、羽田で撮影。