以下では、私が日々、どのように研究行為を実践しているか、そのありのままの姿を、一部公開いたします。具体的に言えば「テキストをどう読んでいるか」、それが主なテーマです。
というのも、私たち思想系の研究者というのは、それ以外に作業がないからです。その点で、実物を見分したり、実験を繰り返したり、フィールドワークをおこなったり、統計処理をおこなったり、そういった様々な「研究の実践」というのも、私は是非うかがってみたいのですが、ある意味で、私どもの研究の実践は、最もシンプルな部類に属すると思いますから、それらとの「違い」を際立たせる格好の素材となるかもしれません。
前置きはともかく、本題に入りましょうか。
まず、専門研究のために私が読むのは、言語の種類を問わず、
に大別できます。でも、実際には1〜3の区別は曖昧で、結局のところ、読み方自体にはほとんど影響しませんから、以下ではあまり気にしないでおきます(ただ、そうなるのは私が現代の哲学を研究している、という理由もあると思います。古代の哲学であれば、1〜3の区別は明確でしょうし、しかも、2を読むために割かれる時間が、かなりのものになると思います。他方、私は2はほとんど読まないです)。
むしろ、読み方に影響するのは、その文で述べられている「内容の密度」です。密度が濃いとしっかり読み、薄いと流して読む。... 当たり前ですけどね。
さて、「読み方の実践」の具体像は、ともあれ、次の画像を見ていただければよいでしょう。
これは、リクールという哲学者の論文を、私が読んだ後の形跡です。実際の紙はA4版で、紙の余白の割合などは、ほとんどそのままです。これを見てお分かりのとおり、私はとにかく、直接、読んでいるその当のテキストに、ぐちゃぐちゃと書きこんでいきます。なので、ノートを取ったりとか、パソコンに何かを打ち込んだりとか、カードを作ったりとか、そういった作業は一切しません。ある意味で、非常にシンプルというか、原始的な「読みの実践」だと思います。
読む際に必要なのは、(1)当のテキスト、(2)外国語の辞書、(3)シャープペンシルと消しゴム、(4)蛍光ペン2色(青と黄色)と普通のペン(青と赤)、この4つです。それと、平らなところも必要ですが、それは、机でも床でもちゃぶ台でも何でも構いません。
さて、こうして読むため、できる限りテキストはコピーを取って読みます。わざわざ所有している本までコピーを取るのは無駄にも思えますが、しかし、その本を今後、数年数十年と使うわけですから、あまり汚すわけにもいきません。また、将来も同じ読み方をする保証はどこにもありません。というわけで、コピーなのです。
でも、厚い本になると、金額的にも時間的にもコピーは大変なので、本に直接書きこむことも多々あります(が、その場合、ペンの使用は極力避けます)、少なくとも「精読が必要と思われたものはコピー」が基本です。
ただ、一口に「コピー」といっても、私の読み方の場合、最も重要なのが「余白」です。特に、両サイドの余白をどれだけ作れるか、そこに、そのテキストの読解が成功する鍵があります。私は、周囲でもコピーにうるさい人間として知られていますが、その背景には、こうしたテキストの読み方、ひいては、研究の(そして思考の)進め方にまで及ぶ理由があるのです。
両サイドの余白は、コピー機の特殊機能「余白作成」をフルに活用して作ります(同様に、センター消去機能で、中央の綴じ込み線も消す)。逆にいえば、そうした機能のないコピー機は、決して使いません。
... が、日本語の文献は基本的に見開きB5やA4になるよう製本されているので、コピーはラクなのですが、問題は洋書です。洋書を使われる方はご存知の通り、洋書は何故か、大きさがまちまちで、しかも基本的に縦長です(そのため、普通にコピーすると、どうしても左右が余るか、下が切れる)。それをできる限り「読みやすい」かつ「余白の広い」コピーにすべく、コピー機の前で本の大きさに見合う倍率を目算する毎日です。
繰り返しますが、それは「余白がない方が綺麗」という単なる美意識の問題ではなく(もちろん、それもなくはないですが)、私の「テキストの読解」作業の根源に関わる問題なのです。
考古学研究者にして情報科学にも精通している岡安光彦さんが、ご自分の web site 考古学情報広場の中で、「考古学最強の情報機器、乾式複写機を考える」と題して、考古学研究における「コピー機」の意義について大変明快に述べられていました。
膨大な報告書を漁り、遺物・遺構の図版をコピーする必要のある考古学において、コピー機はまさに、研究作業の一部として「組み込まれている」とさえ言えるでしょうが、私がそれを読みとても面白く感じたのは、私と岡安さんとでは、コピー機の捉え方が全く異なるという点でした。言うまでもなく、その差とは、それぞれの学問の、そして、個々人の「研究の実践」の違いに由来するものです。私にとってのコピー機とは、突き詰めれば「余白を作るための機械」なのです。
ですが、いくら書きこむ必要があるからとはいえ、それだけなら、コピーにではなく、別の紙(=ノートなど)に書きこめばよいのではないか、という疑問も浮かぶでしょう。その方が、コピー代もかかわずに済みますし。
私がノートを取らず、余白を必要とする理由は、ノートでは、私にとって何よりも重要である本文のコンポジション(=構成)と自分の書きこみとが切り離されてしまうからです。ノートに自分の言葉でまとめてしまうと、「読み手によって構成され抽象化された論理展開」という側面が際立ってしまい、著者自身の思考の歩み(その「リズム」や「テンポ」)から外れてしまいかねません。
このことを、もう少し、詳しく説明しておきます。
音楽のリズムにとって、ドとミの「間」が長いか短いかが決定的であるのと同様、ある重要な文と文の間が長いか短いか、その違いは、私にとって決して無視できるものではありません。一方で、ある一つのことを述べるために、行きつ戻りつ話しを進める思想家がいます(フッサールなどはその典型です)。他方で、これでもかというくらいに言葉を切り詰め、一文進めば思考も一歩進む、といった思想家もいます(ウィトゲンシュタインがまさにそうでしょう)。
私は、そうした違い、即ち、文体の違いは、同時に思考のリズムの違いであり、さらには、語ろうとしている事柄の違いにさえ由来すると思っています。
例えば、沢山の具体例や比喩を交え、それによってはじめて輪郭が浮かび上がってくる文章について(ジャンケレヴィッチなどその最たる例)、その要点だけを抽出した場合、ともすれば、一言で要点がまとめられてしまうかもしれません。確かに、それは「要約」としては優れた要約と言えるかもしれませんが、「思考の経験」の肝心な要素をことごとく削ぎ落としてしまい、その人が何故そのようなリズムで思考したのか、その理由が全く見えなくなってしまいかねません。端的に言えば、私にとって、文体は思考と切り離せないのです。
こうした事情から、本文のコンポジションを大事にしたいので、あくまでコピーにこだわり、ノートはとらないのです。
さて、それでは、そうした理念(?)のもと、コピーによって確保できた余白を、一体どう活用するか。私のテキストへの具体的な書きこみ方について、いささか解説調になってしまいますが、詳しく説明していきます(上の既出画像や下の画像と見比べながら読むとよいでしょう)。
まず、ペンの違いについて。蛍光ペンは、当然ながら、本文をハイライトするためにしか使いません。他方、細いペンは、アンダーラインをひく、文章全体を四角に囲む、余白に書きこみをする、といった3通りに使います。シャーペンは、その3通りに加えて、文章両端だけを一重線ないし二重線で囲む、本文単語上に辞書で調べた意味を書きこむ、という5通りに使います。ちなみに、かつては0.3mmの細い色ペンを使っていたのですが、最近は0.4mmを使っています(0.5mmでは、太すぎて書きこみに支障をきたす)。
本文へのマークの仕方の違いですが、短い文(ないし語句)にはアンダーライン(通常は直線、決定的に批判を要する箇所には波線)を、長い文章(複数もあり)には、
のいずれかを施します。だいたいその順番に重要度を分類しているのですが、ハイライトと四角く囲むの順位は曖昧です(俗に「気分」とも言う)。
色の違いですが、これには、それなりに意味があります。
その色分けは、余白欄への書き込みにも適用しています。余白欄は、長い文章をハイライトしたり囲んだりした場合、そこに記されている要点を自分なりにまとめ、整理するために使っています。
なので、余白欄のうち、青と赤の箇所を読み、かつ、青を重点的にピックアップしていけば、その著者の論点を大体その場で要約することができ、赤を重点的にピックアップしていけば、事柄自体に即した議論や私の見解を辿ることができる、というわけです。それは何より、読んでから時間が経ったあと、自分で文章を執筆する際、私自身にとって重要な道標となってくれます。
さて、こうした私の「読みの実践」においては、読み進める過程と、書き込みによって考えをまとめる過程とが一体となっています。ノートなどをとらないことが、何よりもその背景にあります。その過程は、読む経験であると同時に思考の経験であり、顕著なまでに「単線性」に彩られたものだといえるでしょう(私の頑ななまでの「システム論嫌悪」は、その辺りに原因があるのではないかと思っています)。
その単線性は、「テキストはページが進むごとに徐々に論理を展開していくに違いない」という、ある種の信頼によって成り立っている、いささか危うい概念であることも否めませんが、ともあれ、私は日々そうやってテキストを読み、研究を / 思考をおこなっているのです。
この読み方が変わることがあるのかどうかは分かりませんが、目下のところ、コピーの山が場所を取るという物質的悩みと、コピー代が馬鹿にならないという経済的悩みを除けば、それなりに上手く機能していますので、当分はこのままの読みの実践を続けることになるでしょう。