厳選日本酒3蔵元巡り 料理と土地を味わう 芝浦工業大学特任教授 古川修
旅の楽しみの一つは、土地のおいしい料理を食べ、それに土地の日本酒を合わせること。さらにその地酒を醸している酒蔵を訪問できれば、楽しみは倍増する。日本酒の蔵元は、その土地の名家が古くに創業していることが多い。それゆえ、酒蔵にはその土地の文化と歴史が刻まれていて、その背景をもとに酒造りを続けてきている。そうした酒蔵に立ち寄って、蔵人に酒造りの苦労話などを聞けば、酒への理解が格段に進む。自動車工学の研究の傍ら、日本酒蔵元巡りを続ける古川修氏に、こだわりの酒を造り続ける3つの蔵元を紹介してもらった。
◆ ◆ ◆
■優しくて軟らかい酒質生み出す静岡酵母――「開運」(土井酒造場・静岡県掛川市)
東京から東海道新幹線「こだま」に乗れば、2時間かからず掛川に到着する。「のぞみ」なら名古屋についている時間だが、たまに「こだま」に乗ると、慌ただしい日常を忘れてのんびりとした旅に出たことを実感できる。掛川駅で降り、地下道を通って駅の北側に出て振り返ると、新幹線の停車する駅では全国唯一の木造駅舎が三角屋根の美しい姿を見せている。
掛川に来ると必ず寄るのが老舗うなぎ店の「新泉」。うなぎがおいしいのはもちろんだが、これから訪ねる土井酒造場会長の土井清幌さんの行きつけの店であり、土井酒造場の名酒「開運」がおいてある。さっそくうな重を注文し、「開運」を合わせる。ここのうなぎはしっかりと身が締まっていて、あめ色に香ばしく焼かれている。少し辛めのタレが「開運」の優しい味わいとよく調和する。
土井酒造場へは、掛川駅からタクシーを利用する。南に走り、すぐに市街地を抜け、茶畑が散在するのどかな田舎道を進んで、20分かからずに到着する。門の前でタクシーを降りると、杜氏(とうじ)の波瀬正吉さんが存命中、門の外で洗濯物を自ら干している姿を見かけた思い出がよみがえってきた。杜氏は酒造技術部門の長であり、蔵人たちは杜氏の指示に従って酒造りの作業を行う。波瀬さんは卓越した能登流酒造りの技量を持っていて、能登杜氏四天王の1人と称された。そんな波瀬さんが自ら洗濯物を干している姿を見て、親しみを覚えたものだ。
私も以前、別の酒蔵に9日間ほど蔵人の一員として入って、酒造りを体験したことがある。その蔵にも波瀬さんのような名杜氏がいて、彼も重い空タンクを自ら運んだり、仕事場の掃除をしたり、まさに率先垂範で蔵人たちをリードしていた。名杜氏と呼ばれる人たちは、ビジネスの世界のリーダーにも通じるように、ただ部下に指示するだけではなく、自ら行動することに感心した。
今回は会長の土井さんが門で待っていてくれた。土井さんとは社長時代からの長い付き合いで、訪問するたびに洗米器や浸漬装置、排水処理装置などの新たな酒造設備が導入されているのに目を見張った。そして酒造りについて熱く語る土井さんの話に聞き入ったものだ。
さっそく、利き酒によばれる。ひやおろし純米酒、大吟醸波瀬正吉、純米大吟醸など、いずれも「開運」らしい優しさと深いうまみのバランスが心地よい。そして嫌みな味や香りは一切せず、酒が喉を通る邪魔をするものはない。
「開運」には「波瀬正吉」という銘柄がある。「波瀬正吉」は土井酒造場の最新設備を使いつつ、伝統の酒造りの腕を発揮して酒質の向上に尽力した、今は亡き杜氏の波瀬さんの名前を冠したもの。土井さんとコンビを組んでしっかりとうまみの乗っている「開運」のつくりと味を確立してきた。
「開運」の特徴である芳醇な味わいと雑味もクセも全く感じられない透明感には、理由がある。芳醇(ほうじゅん)な味を出そうとすると雑味も出てくるので、たいていの酒蔵ではそれをろ過で取り除こうとする。大がかりなろ過としては活性炭を使用して、嫌な味と香りを活性炭に吸着させる。この作業を「炭入れ」と呼ぶが、嫌な香りや味がなくなる代わりに、うまみもなくなってしまうのだ。また、炭の香りである「炭臭」が酒に移ったりもするので、良心的な酒蔵は「炭入れ」を最小限に抑えて、それ以前のつくりの過程で嫌な香りと味が出ないようにする。土井酒造場では炭は用いず、最新設備を活用して、杜氏が酒造りの腕を振るう。原料のコメを厳選し、前処理の精米、洗米、浸漬、蒸し米過程や、こうじ造り、もと造りをきちっと行うことで、嫌な香味を一切出さない酒質に仕上げているのだ。
静岡県には静岡酵母という県独自の酵母があり、県内の酒造りで広く用いられている。静岡酵母を使うと適度な香味のバランスのもとで、優しくて軟らかい酒質に仕上がるというのだ。静岡酵母が生まれたのは1978年。開運大吟醸の仕込みの際にできたもろみから、静岡県工業技術センターの河村伝兵衛さんが抽出した。当時の土井酒造場の両雄、波瀬さんと土井さんの頭文字をとってHD-1と命名されている。この2人のタッグは、今は土井さんの息子で現社長の土井弥一さんと現在の杜氏、榛葉農(しんばみのり)さんに受け継がれている。
試飲が終わり、土井さんに会食に誘われて訪問した先が、昼と同じうなぎ店「新泉」。昼を別の店でとればよかったかと一瞬後悔したが、杞憂(きゆう)であった。夜はうなぎ以外の日本料理が出てきて、最後にうなぎでしめる。刺し身や焼き魚などと、土井さんが持ち込んだ「開運」の熟成酒がとてもよく合った。そして、その日2度目となるうなぎも、おいしくいただけたのは言うまでもない。土井さんとの会話も盛り上がり、香りを抑えて味わいを深くし、かつ嫌な香味を感じさせない日本酒が理想、という意見で一致した。
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