天皇陛下の叔父で歴史学者の三笠宮崇仁(たかひと)さまがきのう、逝去された。
自由に真理を求める学究の姿と飾らず気さくなお人柄は、戦後の「開かれた皇室」を印象づけ、国民に親しまれた。その姿勢は戦争への深い反省に裏打ちされていた。
三笠宮さまは昭和天皇の末弟にあたる。その100歳のご生涯は時代の大きな変動と重なる。
皇族男子が武官に任じられる旧制度で軍務に就き、戦争中、陸軍参謀として中国・南京の派遣軍総司令部に赴任した。そこで知らされた日本軍の残虐行為に強い衝撃を受ける。
著書「古代オリエント史と私」(1984年)には「これらのショックこそ私をして古代オリエント史に向かわせた第一原因なのですから、どうしてもそれを避けて通りすぎることはできません」とある。
そして、戦地に行く前を振り返り「今もなお良心の呵責(かしゃく)にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです」とも記す。
戦後、東京大学の研究生として学究の世界に入った。過去に失望して信じられなくなり、新しいものを探求し、抱いていた疑問を歴史研究で解明したい思いがあったという。研究テーマは時代をさかのぼって古代オリエント史に至った。
培われた歴史学者としての視点で、戦後の50年代から顕著になった「紀元節復活」の動きも「歴史学的、考古学的裏づけがない」と批判、反発も受けた。
その頃編者となった書「日本のあけぼの--建国と紀元をめぐって」(59年)の「はじめに」には「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵(ののし)られた世の中を、私は経験してきた」と、過去からの戒めと憂慮がにじむ。
皇族として伝統や公務を大切にしながら、行動も幅広かった。現地調査や研究のかたわら、東京女子大学などで講師として教壇に立ち、電車やバスで通勤、学生食堂でうどんをすすりながら学生らと語らった。
テレビやラジオを通じても古代オリエント史の魅力を伝えた。レクリエーションとしてのダンスの普及に寄与し、俳句もよく詠まれた。
今、天皇陛下が「おことば」として生前退位(譲位)の意向を示唆され、象徴天皇や皇室のあり方について論議が高まろうとしている。
三笠宮さまは戦後間もない頃、天皇が終身その位にあらねばならぬのは、奴隷的拘束を禁じた新憲法に反しはしないか、などの疑問を呈されたこともある。
今はどのようなお考えであったか、うかがうすべはないが、熟慮と自由な論議の広がりこそ望まれるところだろう。