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 東京都内の女性(36)は2011年2月、妊娠31週目に受けた検診で、胎児の脳室が通常よりも大きくなっていることがわかりました。妊娠中に寄生虫のトキソプラズマに感染し、胎盤を通じておなかの子どもにうつったと考えられました。体や知能に障害が出る恐れがありました。「自分のせいで」と女性は毎日泣き続けましたが、出産までに「ありがとう、と言って迎えよう」と気を取り直しました。生まれた長女は現在5歳。右の手足にまひがあるものの、小走りができるようになり、ひらがなも読めるようにもなりました。

 

■胎盤通じ赤ちゃんに

 結婚から3年目のことだった。

 不妊治療を試みた後、念願の子どもを自然妊娠した東京都の女性(36)は2011年1月、病院で妊婦健診を受けていた。

 妊娠31週目。これまで「まったく問題ない」と言われていたのに、この日は、赤ちゃんの状態を調べる超音波検査の時間が長く感じた。医師はずっと無言で、難しい表情をしていた。

 終わると、医師から「赤ちゃんの頭の脳室という部分が、大きくなっています」と告げられた。1週間後の再検査でも、結果は同じだった。「このまま行ってください」と、日大板橋病院(東京都板橋区)への紹介状を手渡された。

 タクシーで行き先を伝えたとたん、不安で涙があふれた。乗車中、おなかの子がおなかをけってきた。「こんなに元気なのに。この子は本当に病気なの」

 病院の産婦人科を訪ねると、また超音波検査が始まった。外来の医師のほか、2人の医師がモニター画面を見つめながら小声で話していた。1人の胸の名札には「教授」の文字が見えた。

 「こんなに偉い人が診るなんて。それほど重大なんだ」

 検査の後、医師から「同じ時期の赤ちゃんと比べて、脳室が4倍くらい大きくなっています。脳に出血した跡がいくつもあります」と言われた。

 赤ちゃんの容体急変に備えて、出産まで入院することになった。血液を調べると、寄生虫の一種のトキソプラズマに対する抗体の量が多く、妊娠中に感染した可能性が高いことがわかった。

 トキソプラズマは哺乳動物や鳥類に寄生する。人には、猫のふんや、加熱が不十分な肉からの感染が知られている。健康な人は感染しても問題は起きないが、過去に感染した経験のない妊婦が感染すると、胎盤を通じて赤ちゃんに感染して脳や目などに障害が出る恐れがある。

 医療機関に勤めていた女性は、「トキソプラズマ症」という病名を知っていたが、「猫を飼う人がなりやすい病気」と思っていた。自身は猫を飼っていなかった。スマートフォンで検索すると「食べ物からも感染し、母子感染する」と書かれていた。

 

 

■長女抱き「ありがとうね」

 妊娠中に寄生虫のトキソプラズマに感染した東京都の女性(36)は2011年2月、日大板橋病院に入院した。おなかの子どもは、脳室と呼ばれる部分が通常と比べて4倍も大きく、脳に炎症の跡が見つかった。胎盤を通じて感染した可能性が高く、先天性トキソプラズマ症の疑いがあった。

 毎朝、おなかに装置を付けて、赤ちゃんの心拍を計った。助産師から「大丈夫。今日も赤ちゃんは元気ですよ」と声をかけられると、ほっとした。

 昼間は同じ病室の妊婦たちとのおしゃべりで気が紛れたが、夜になると「どうして妊娠中に、感染なんかしたんだろう」と自分を責めた。布団をかぶって声を殺して泣いた。

 「自分のせいで、子どもを病気にさせたことが苦しかった」

 3月下旬に帝王切開で出産することになった。夫(37)と2人で、産婦人科や新生児集中治療室(NICU)の医師らの説明を聞いた。生まれてくる子は発育が遅い可能性があり、首や腰がすわらなかったり、話せなかったりする恐れがあると告げられた。

 「最悪のことも、考えておいてください」とも言われた。女性が「最悪とは?」と尋ねると、「たとえ生まれてきても、長くは生きられないことです」。

 女性は夫に「子どもを病気にさせてしまってごめんなさい」と謝った。夫は「2人でこの子を大切に育てていこう」と応じた。

 ある夜、出産日が近づいても泣き続けている自分に腹が立った。

 「私は子どもを産む日まで泣いているのか」

 胸に問いかけた。子どもに「ごめんね」と言うのは、存在を否定することになってしまう。「ありがとう、と言って迎えよう。子どもの治療について、しっかり考えよう」。そう決意し、泣くのをやめた。

 数日後、出産日の朝を迎えた。

 「今日は、ありがとうの日だ」

 生まれてきたのは2969グラムの女の子だった。手術台の上で、大きな泣き声をあげる長女を抱っこした。小さなこぶしに人さし指を入れると、ぎゅっと握ってきた。

 「ちゃんと生きている。ありがとう、ありがとうね」

 思わず口にしていた。

 

 

■思い当たることが…

 妊娠中、トキソプラズマに感染した東京都の女性(36)は2011年3月、日大板橋病院で長女を出産した。長女は脳室が大きく、おなかの中で先天性トキソプラズマ症になった可能性が高かった。すぐに新生児集中治療室(NICU)に入った。

 2969グラムで生まれた長女は、NICUの中でひときわ大きく見えた。点滴などの管がたくさん付けられた姿に「やっぱり病気なんだ」と思い知らされた。

 長女の血液を採取し、母体から譲り受けることのないIgMという抗体を調べた。トキソプラズマに対するこの抗体の値が高く、感染が裏付けられた。

 ほかにも、目に炎症が起きる網脈絡膜炎(もうみゃくらくまくえん)があることがわかった。ただ、炎症は視力に影響が出ない部分だった。

 主治医となった小児科の田口洋祐(たぐちようすけ)さん(39)は、先天性トキソプラズマ症を診るのは初めてだった。「周りにも診療経験がある医師はおらず、本や論文を当たりながらの治療だった」

 治療に使う薬は、患者数が少ないことなどから日本では承認されていなかった。田口さんは女性の出産に向けて、熱帯病や寄生虫症に関する厚生労働省の研究班に頼んで、研究用に保管している薬を提供してもらっていた。生まれた翌日から長女に使った。

 薬は患者が自費でスイスから個人輸入する必要があった。田口さんから説明された女性は「この病気は、日本の医療制度から漏れているんだ」と驚いた。

 感染の原因を知りたくて、4月に長女が退院すると、すぐに三井記念病院(東京都千代田区)を受診した。産婦人科部長の小島俊行(こじまとしゆき)さん(64)=現在は吉田産科婦人科医院(埼玉県入間市)=はこの病気に詳しいことで知られていた。

 問診票には、ペットの飼育歴や食習慣についての質問があった。検査の結果、女性は出産までの約4カ月の間に感染した可能性が高かった。小島さんから「妊娠後、生肉を食べませんでしたか」と聞かれ、顔が青ざめた。

 帰宅して日記をめくると、妊娠を祝って知人と焼き肉店へ行っていた。当時は禁止されていなかったレバ刺しやユッケを口にしたことを思い出した。

 

 

■リハビリ、ゆっくり前へ

 2011年3月に生まれた長女が先天性トキソプラズマ症だった東京都の女性(36)は、妊娠中に焼き肉店でユッケや生レバーを食べていた。検査の結果では、その時に感染した可能性があった。

 出産直後、日大板橋病院小児科の主治医の田口洋祐さん(39)から「いずれ体や知能に障害が出ると思うので、リハビリに備えましょう」と伝えられた。

 生後3カ月になったころ、紹介された心身障害児総合医療療育センター(東京都板橋区)を訪ねた。理学療法士らが、横になっている長女の動きを約40分間、ビデオで撮影しながら観察した。

 「頭がいつも左に向いています。右の手足もしっかり使うようにしましょう」。そう指摘され、週1回通うことになった。

 リハビリテーション室長の芝田利生(しばたとしお)さん(59)の助言を受け、自宅でも毎日、長女に右手の指をしゃぶらせ、体の柔軟性を高めるストレッチをさせた。

 長女が1歳になるまで飲む抗菌薬は、日本では未承認で個人輸入していた。入手にかかる費用は計数十万円に上り、女性は理不尽さを感じていた。さらに、トキソプラズマに感染する危険性や予防法が、いちばん必要な妊婦に十分知らされていないことは問題だ、と思うようになった。

 12年6月、同じ患者の子どもを持つ母親らと一緒に、患者会「トーチの会」を立ち上げた。トキソプラズマ症と症状が似ている先天性サイトメガロウイルス感染症の患者も加わった。

 ウェブサイトには体験談や母子感染の情報を掲載。内容は医師に監修してもらっている。女性は講演会に招かれると、「病気の予防法を知ることこそが、我が子を守るワクチンです」と訴えている。

 現在、長女は5歳になった。保育園の年長で、来春、小学校に入る。右手の握力はほとんどない。右の手足にまひがあるが、小走りができるようになった。入浴中、壁にはった五十音表を見ながら「ひよこのひ」「ほたるのほ」と、たどたどしくても、ひらがなが読めるようにもなった。

 「ゆっくりかもしれないけれど、確実に前へ進んでいる」

 その歩みが、家族の大きな喜びだ。

 

 

■トキソプラズマ症:情報編 生肉・猫のふんに注意を

 トキソプラズマは寄生虫の一種で、哺乳類や鳥類の筋肉、脳などにいる。猫が感染すると一時期ふんに混じって排出され、ふんから土や砂の中にばらまかれる。人への感染は、トキソプラズマがいる肉を十分に加熱しないで食べたり、猫のふんの処理や土いじりをした時に口などから入ったりして起きる。

 国立感染症研究所寄生動物部第1室の永宗喜三郎(ながむねきさぶろう)室長(49)によると、日本人の約1割、欧州や南米では約半数の人に感染歴があるという。健康な人が感染しても、風邪のような症状が出たり、首のリンパ節が腫れたりすることがあるものの、症状が軽くて感染に気付かないことがほとんどとされる。

 連載で紹介した東京都の女性(36)のように、感染歴がなくて抗体を持っていない場合、妊娠中に感染すると胎盤を通じて胎児にうつる恐れがある。抗体を持つ妊婦は地域によりばらつきがあり、4~15%という調査結果もある。

 母子感染に詳しい吉田産科婦人科医院(埼玉県入間市)の小島俊行・母子感染研究センター長(64)は「自費になるが、妊娠初期に検査で抗体の有無を確認しておくといい」と話す。妊娠中の感染がわかった場合、早い段階で薬による治療を始めれば、母子感染の危険を減らせるという。

 胎児に感染する確率は、妊娠末期になるほど高くなり、胎児に感染した場合に症状が重くなるのは妊娠初期ほど高いとされる。胎児に感染すると、死産や流産につながるほか、生まれた子どもに視覚障害や知能の発達の遅れ、手足のまひなどが出ることがある。ただ、小島さんは「胎児が感染しても9割は症状が出ず、先天性トキソプラズマ症と診断されるのは約1割」と説明する。

 妊娠中に感染しないためには、まず加熱が不十分な肉を食べないことだ。肉の中心部の色が変わるまで熱を加えれば、トキソプラズマは死滅する。ガーデニングなどをする際も手袋をして、終わったら必ず手を洗う。飼い猫のふんの処理は、ほかの人にしてもらうようにする。

 予防法は、患者会「トーチの会」のサイト(http://toxo-cmv.org/別ウインドウで開きます)にある注意事項11カ条が参考になる。

 

 ■ご意見・体験は、氏名と連絡先を明記のうえ、iryo-k@asahi.comメールするへお寄せください。

 

<アピタル:患者を生きる・感染症>

http://www.asahi.com/apital/special/ikiru/(宮島祐美)